祝祭
1
夜気の冷たさとは裏腹に、傷口では乾いた消毒液が容赦なく存在を主張していた。
ツンとした刺激が神経を逆撫でる。
「いい加減、何か話したらどうですか。ヴォルーツォさん」
エフィムは腕に巻かれた包帯を指先でなぞりながら、向かいの男を見据えた。
「いや、だからさぁ……。アイツは他人であって、僕は何も知らないんだって〜」
ヴォルーツォは両手両足を拘束されたまま肩を竦め、露骨に視線を逸らす。
エフィムは深く息を吐き、傍らのソファへ身を預けた。
「とにかく、あの人の名前を教えてください。そうすれば拘束を解きます」
「えーと、ウルトラ・変態・ナルシスト」
「……それが偽名ではない証拠はありますか」
「ないよ」
即答だった。
エフィムは無言でデスクの引き出しを開け、魔術犯罪者の資料を取り出す。
特徴の一致する人物を探していくが、該当する項目は見当たらない。
「他に情報はありませんか。例えば、あなたとの関係性とか」
「他人だよ。さっきも言った通り僕は何も知らないんだって」
「そうですか……」
エフィムは静かに立ち上がった。
「――もう少し強めに拷問しても、いいんですよね……?」
試すように手を伸ばした瞬間、ヴォルーツォの喉がごくりと鳴る。
「本当に知らないんだってば、エフィムくん。信じてよぉぉぉぉ……」
縋るような、怯えた声音だった。
だが、その言葉に意外にも異を唱えたのは、バライバだった。
「もうゲロっちまいなよ、ヴォルーツォ」
バライバは煙草の煙をふっと吐き出す。
白い煙は輪となって宙を漂った。
その時だった。
コンコン、と部屋の扉が叩かれる。
「会長、この間の件ですが」
ノックに続いて、アルキンドラネスの声が扉越しに響いた。
「――それじゃ、僕もう行くね!」
次の瞬間には拘束魔術が弾け飛んでいた。
ヴォルーツォはアルキンドラネスの脇をすり抜けると、そのまま全力疾走で廊下へ飛び出す。
「じゃあねぇぇぇぇぇ!」
「――あ、コラ!」
脱兎の如く逃げていく背中を見送りながら、バライバは深々と煙を吐いた。
「……元気だねぇ、あのバカ」
遠ざかる足音に耳を澄ませながら、バライバはどこか懐かしむように目を細めた。
だが、その表情も一瞬だった。
「エフィム坊ちゃん。聞きたいかい? お前さんが会ったっていう、もう一人のヴォルーツォの正体」
「え……」
思わず声が漏れる。
まさかバライバの方から口を開くとは思っていなかった。
「聞きたきゃ、この煙草を吸いな。ただし、一度だけね」
そう言って差し出された一本の煙草。
その仕草はあまりにも自然で、妙に様になっていた。
「……わたしに何を求めているんですか。バライバ理事長」
エフィムは警戒を隠さず問い返す。
しかし、バライバは肩を竦めただけだった。
「別にぃ? ただ知っておいてもらいたいってだけさね」
「――っ、わかりました」
意を決して手を伸ばす。その瞬間。
「感心しませんよ、理事長。子供相手に煙草とは」
アルキンドラネスが横から煙草をひったくった。
「……へえ」
バライバは愉快そうに目を細める。
そして新しい煙草を一本取り出し、口に咥えた。
「まぁいいや。教えてやろう」
紫煙を吐き出しながら、あっさりと言う。
「お前さんの言う"もう一人のヴォルーツォ"ってのは、弟だよ」
エフィムは拍子抜けした。
「……弟……。そうか、やっぱり兄弟だったんですね……」
妙に腑に落ちた。
顔立ちも髪型も、服の趣味までよく似ている。言われてみれば納得しかなかった。
「そ。弟。昔から素直じゃなくてねぇ。いつも偉そうな口ばっか叩いてる性格破綻者さ」
「……バライバ理事長は、何故そこまで――」
エフィムが問いかけるより早く、バライバが鼻で笑った。
「アタシの弟子だからねぇ、なんて」
アルキンドラネスが呆れたように肩を竦める。
「弟子など取ったことはありませんでしょう。相変わらず嘘ばかりですね」
「けっ。アルキンは頭が硬いねぇ。冗談の一つも分からないから出世できないんだよ」
「結構ですよ。私は会長の秘書が一番楽しいので」
淡々と返すアルキンドラネスに、バライバはつまらなそうに舌打ちした。
そのやり取りを見ていたエフィムが、頃合いを見計らって口を開く。
「バライバ理事長。ヴォルーツォさんの弟さんの名前を教えてください」
「アイツから聞いてなかったのかい?」
「ウルトラ・変態・ナルシストとしか……」
「あははははっ! そりゃ言い得て妙だねぇ!」
バライバは腹を抱えて笑った。
しばらく肩を震わせていたが、やがて笑いが収まると、不意に視線を宙へ向ける。
「アタシの口からは言えないかなぁ。なんたって、あの馬鹿は……」
「……あの馬鹿は?」
エフィムが思わず身を乗り出す。
だが、バライバはそこで言葉を切った。
そして悪戯っぽく笑う。
「アタシからは以上。続きは自分で調べな〜」
「えっ」
結局、その日のバライバは最後まで肝心なことを語らなかった。
2
「……アルキン。バライバ理事長のこと、どう思う?」
エフィムは廊下を歩きながら、冷えた肩をさすった。
「まだ何か隠しているでしょうね」
アルキンドラネスが即答した。
「やっぱり」
「ですが……」
そこで珍しく言葉が途切れる。
エフィムは思わず隣を見た。
アルキンドラネスが歯切れを悪くするなど、滅多にない。
「ですが?」
「……これ以上深掘りすべきではないと、私の直感が告げています」
その声音はいつになく真剣だった。
「会長に何らかの影響が及べば、我々としても看過できません」
エフィムは小さく息を吐く。
確かにその通りだった。
ヴォルーツォやバライバと接触を重ねるたび、自分自身が何か得体の知れない渦へ引き込まれているような感覚がある。
気のせいだと片付けるには、少々不気味だった。
「でも……」
エフィムは足を止める。
「ヴォルーツォさんの双子の弟が、あのアンティークショップに出入りしているのは確かだし」
脳裏に店の光景がよみがえる。
薄暗い店内。不気味なほど静謐な空気。
そして、あの女。
「あの店員も、恐らく裏で繋がっている」
「……しかし、それも所詮は噂に過ぎないのでしょう?」
アルキンドラネスは静かに言った。
「会長は何にでも首を突っ込みたがりますからね、何かあってからでは遅いのですよ」
そう告げると、父親代わりの秘書は恭しく腰を折る。
「本日も遅い時間です。ひとまずお帰りください。私がお送りいたします」
「大丈夫だよ。一人で帰れるから」
「いいえ、よろしくありません。私には貴方様を送り届ける義務があります」
しばらく押し問答が続いた末、エフィムはどうにか護衛を断ることに成功した。
なおも食い下がろうとするアルキンドラネスを振り切り、人気のない廊下へ足を向ける。
ふと、西棟にも仮眠室があったことを思い出した。
今夜はそこで休むのも悪くない。
そう考え、エフィムは踵を返すと仮眠室へと向かった。
3
ベッドの上で膝を抱え込み、そのまま顔を埋める。
仮眠室というだけあって設備は簡素だ。
ベッドメイクは最低限。プライバシーも薄いカーテン一枚で仕切られているだけだった。
「……受けるんじゃなかった」
小さく漏れた呟きは、自分でも驚くほど弱々しい。
魔術薬の被験者として志願し、見事に適合判定を受けた。
だが、実際に待っていたのは想像を遥かに超える苦痛だった。
「あたしに魔力なんかないんだもん。そもそも無意味じゃない……」
胸の奥から込み上げる苛立ちを抑えきれず、枕を掴んで壁へ投げつける。
ぼすっ、と気の抜けた音。
勢いよく飛んでいったはずの枕は壁に弾かれ、情けない軌道を描いて戻ってくる。
そして何事もなかったかのように、再び膝の上へ収まった。
「……最悪」
静寂が、余計に惨めさを際立たせる。
せめて誰かに愚痴を聞いてほしかった。
だが、それすら叶わない。
祖母は口も利いてくれないし、そもそも仕事が忙しすぎる。最近は顔を合わせることさえ少なくなっていた。
家族に心配を掛けたくなくて、適当な理由を並べて家を飛び出したというのに。
「何の意味もなかった……」
少女はベッドから身を起こし、二段ベッドの梯子を伝って床へ降りる。
照明は最低限。
天井の蛍光灯が放つ白い光は、目に沁みるほど冷たかった。
部屋の隅に畳まれた私服へ視線を向ける。
優しげな色合いの私服は、この場所では妙に浮いて見えた。
代わりに袖を通すのは検査着。
何の装飾もない、無機質な白。
それはまるで、彼女の心情を写すようで、感情も個性も削り取り、誰も彼も同じ色に塗り潰していく。
「行かなきゃ……」
小さく呟き、部屋を後にする。
廊下は静まり返っていた。
時間帯のせいだろう。
人の気配はほとんどなく、薄暗い照明だけが無機質な床を淡く照らしている。
「なるほど――……魔力がない、とな」
「……誰!?」
少女は足を止めた。
いつからそこにいたのか。
廊下の先、壁にもたれるようにして一人の男が立っている。
茶色の髪。
どこか浮世離れした出で立ち。
それでいて、妙な威圧感だけが現実味を帯びていた。
「如何なる者であれ、多かれ少なかれ魔力を有する。それが世の理」
男は独り言のように呟く。
「だが、其方は……」
視線が検査着の胸元へ落ちる。
まるで何かを見透かすような目だった。
「生命を維持するための僅かな反応しか無い」
値踏みするように少女を見つめる。
痩せた身体。隠しきれない疲労。そして、諦めを滲ませた瞳。
その全てを見抜かれている気がした。
「どうして分かるの」
少女は眉をひそめる。
「あなた、誰なの」
至極当然の問いだった。
男は少しだけ考える素振りを見せる。
そして懐から一枚の名刺を取り出した。
差し出されたそれを受け取り、少女は目を落とす。
【空蝉、魔術師育成協会・癒し係】
「癒し……?」
思わず声に出してしまう。
男は静かに頷いた。
「己も丁度、同じ被験を受けるつもりである」
その声は穏やかだった。
だが次に続いた言葉は、妙に引っ掛かる。
「だが、其方の様子を見て気が変わった」
「……え」
空蝉は何も答えなかった。
問いなど最初から存在しなかったかのように。
ただ静かに歩き出す。
その背は迷いなく、少女と同じ医療棟へ向かっていた。
「あの!」
呼びかけても、返事はない。
振り返ることすらない。
それでも不思議と無視された気はしなかった。
ただ、答える必要がないだけなのだと。
白い検査着の裾が揺れる。
その姿はどこか現実離れしていて、まるで人の姿を借りた風が歩いているようだった。
「ねえ、待ってよ!」
少女はその背を追う。
気づけば、自分の足は勝手に動いていた。
4
みぞれ混じりの雨。
黒々と膨れ上がった雨雲から、時折、雷鳴が轟く。
屋根を叩く雨音は絶えず、外の景色は白く霞んでいた。
「ああ、嫌な天気だなぁ。午後から晴れるって聞いたのに〜」
ヴォルーツォは窓辺に目を向け、小さく肩を落とした。
朝のお天気コーナーでは、午後から回復する見込みだと言っていたはずだ。
だが現実はどうだ。
空を覆う灰色の雲に、晴れる気配など微塵もない。
「はぁ」
諦めたように背伸びをすると、そのままデスクへ突っ伏した。
「……珍しく真面目に仕事してると思ったけど、やっぱり気のせいだったね」
「そりゃ、期待する方がおかしいでしょう。あの人だもん」
聞こえているとも知らず、事務員たちはひそひそと囁き合う。
ヴォルーツォは机に顔を埋めたまま、さらに深く沈んだ。
「……僕、買い出し行ってきま〜す」
この場に居続けるのも何となく気まずい。
そう判断し、席を立つ。
廊下へ出ると、窓の向こうでは相変わらず雨が荒れていた。
ガラスを叩く風の音だけが妙に大きい。
途中、何人かの職員とすれ違う。
だが誰もヴォルーツォを呼び止めない。
視線すら向けない。空気のような扱い。
もっとも、それは今に始まったことではなかった。
「それにしても……今日はやけに静かだね〜」
ふと足を止める。
いつも人の行き交う廊下に、妙な空白があった。
聞こえるのは雨音と、遠くで鳴る雷だけ。
まるで建物そのものが息を潜めているようだった。
雨脚はさらに強まっていた。
窓の向こうでは、公園の木々が激しく揺れている。
枝葉は風に弄ばれ、右へ左へと振り回されていた。
地面は既に水浸しだ。
溢れた雨樋が、不満げな唸り声を上げている。
――その時だった。
轟音。視界を裂くような閃光が走る。
次の瞬間、窓ガラスがびりりと震えた。
「――ヒィ!」
「――キャッ!」
思わず悲鳴が漏れる。
廊下を歩いていた職員たちも足を止め、不安そうに辺りを見回した。
「もう勘弁してくれよぉ〜……」
流石のヴォルーツォも泣き言を漏らす。
窓枠に額を押しつけ、そのままぐったり項垂れた。
「僕もう帰っていいかなぁ……いや、外に出れそうにないけど〜」
どうせ誰も聞いていない独り言だ。
返事など期待していなかった。
「……うわっ、びっくりした。あんな大きな雷、初めて見たかも」
「うん?」
声がした。暇人は、どうやら自分だけではなかったらしい。
視線を向ける。そこには一人の少女がいた。
窓枠に手をつき、今にも身を乗り出しそうな格好で外を眺めている。
その横顔に、ヴォルーツォはふと目を細めた。
「あれ、君は――……まさ、か」
「え?」
少女が振り向く。
「誰? あたしのこと知ってるの?」
金色のボブカット、薄茶色の瞳。
だが。ヴォルーツォが驚いた理由は、そこではなかった。
「まさ、いや……きみ、は――」
その顔を見た瞬間、ヴォルーツォは目を見開く。
「そんな……カレンデュラッ!? 待ってくれ、どうして君がこんな所に……!」
先程まで気にしていた雨風など、もはや眼中になかった。
「え? お兄さん、あたしのこと知ってるの?」
「いや、そりゃあ、ね――……え?」
ヴォルーツォは言葉を切る。そして、少女の姿を改めて見た。
飾り気のない白い検査着。首元に下げられた被験参加者の識別証。
「……待って。なんで外に出てるんだい!?」
「――何の話?」
少女は怪訝そうに首を傾げる。
その反応に、今度はヴォルーツォの方が困惑した。
「バライバ……そうだ! 君のお婆ちゃんはどうしたんだい? 許可が下りるはずない。だって君は――」
「……そうなんだ。お婆ちゃんの知り合いなんだ」
少女――いや、カレンデュラは目を伏せた。
どこか諦めたような声音だった。
「あたしは魔法薬の被験に来たんだ。適性はあるんだって」
「……適性?」
ヴォルーツォの表情が固まる。
「君が……魔力適性……?」
信じられないものを見るように、カレンデュラの顔を見つめた。
「……いや、確かに魔力がある。僅かだけど、生まれた時よりほんの少し増えてる。本来なら、あり得ないことなんだが……」
困惑したように呟く。
まるで自分自身に言い聞かせるようだった。
「あたし、まだ信じられないんだよね」
カレンデュラは窓の外へ視線を向ける。
激しい雨が窓を叩いていた。
「だってずっと、何も出来なかったから」
「それは――」
ヴォルーツォは言葉に詰まった。
何かを言おうとして、結局飲み込む。
「……でも、ダメだ」
やがて絞り出すように口を開いた。
「君は屋敷に戻るべきだ。バライバが許すはずがない。外に出すなんて……」
「そう」
カレンデュラは小さく頷いた。
「知ってるんだ」
俯いたまま呟く。
「あたしが生まれてからずっと、外に出してもらえなかったことも」
ヴォルーツォは黙り込む。
「危ないからって」
カレンデュラは苦笑した。
「何が危ないのかも教えてもらえないまんま」
その笑みはどこか寂しい。
「ママもお婆ちゃんも、同じことしか言わないの」
それは、いつも通りの日常だった。
毎日のように繰り返される言葉。
『――カレン、外は危ないよ』『――カレンちゃん、どこにも行かないで』
「……わからないよ」
カレンデュラは俯く。
「何が危ないのかも。どうしてダメなのかも」
ぽつりと漏れた本音。
雨音がそれを掻き消すように窓を叩く。
荒れ狂う空模様は、まるで彼女の心そのものだった。
「君をここへ連れてきたのは、一体誰だい?」
ヴォルーツォは静かに問いかける。
その声音には警戒が滲んでいた。
「誰かが唆したんだい? それ以外考えられない」
「……違う」
「君は誰かに騙され――」
「――違う!!」
カレンデュラの声が廊下に響く。
窓の外で雷鳴が轟いた。
だが、その声量は負けていなかった。
「お願い、話を聞いて」
震えている。それでも、その瞳は真っ直ぐだった。
「これ以上、疑われるのは嫌なの」
静かな怒りが滲む。
「これはあたしの意思」
一歩、前へ出る。
「ママの願いでもある」
さらに言葉を重ねる。
「魔術師になる。それがあたしの誓い。そして願いなの」
その瞳はどこまでも澄んでいた。
迷いはない。そこにあったのは、ただ真っ直ぐな覚悟だけだった。
「……なるほど」
ヴォルーツォは小さく息を吐く。
「魔術師に、か」
その表情から警戒が消えた。
代わりに、どこか懐かしむような色が浮かぶ。
「そうか」
ぽつりと呟く。
「アーシャリオくん。君の願いは、ようやく芽吹いたんだね」
誰もいない虚空へ語りかけるような声だった。
「そうさ。そう来ると思っていたよ」
ヴォルーツォは小さく笑う。
どこか懐かしむように。
「やはり君は素晴らしい魔術師だ。アーシャリオくん」
その微笑みには、深い確信と、ほんの僅かな寂しさが滲んでいた。
「……誰の話?」
「ンフ」
ヴォルーツォは目を細める。
「英雄さ」
さらりと言ってのけてから続けた。
「かつて、一つの国を壊した、ね」
「悪い人なの?」
間髪入れずに返ってきた問いに、ヴォルーツォは肩を竦める。
「ああ。とってもね」
まるで昔話でもするような気軽さだった。
「でも、彼は正しい選択をしたよ」
窓の外へ視線を向ける。
雨粒がガラスを伝い落ちていく。
「君みたいな素晴らしい花を咲かせたんだから」
カレンデュラは首を傾げた。
言葉の意味を探るように。
だが、ヴォルーツォはそれ以上何も語らない。
ただ静かに窓の外を眺めていた。
気付けば、先程まで猛威を振るっていた雨も少しずつ勢いを失っている。
「お兄さん」
「うん?」
「お兄さんは、あたしみたいな人が被験に参加するのは反対なの?」
ヴォルーツォは少し考える。
そして苦笑した。
「いいや。ただ、君の場合は――……」
そこまで言いかけて口を止めた。
「おっと」
廊下の奥から、誰かが駆けてくる。
見慣れた姿だった。
息を切らしながら、必死な形相でこちらへ向かってくる。
「――ヴォルーツォさん!」
長い黒髪を揺らしながら、少年――エフィムが駆け寄ってくる。
「探しましたよ。全く、どこへ行ってたんですか」
肩で息をしながら恨めしそうな視線を向ける。
額には薄く汗が滲んでいた。
どうやら建物中を探し回っていたらしい。
「いやぁ、ごめんごめん」
ヴォルーツォは悪びれる様子もなく手を振った。
「……その方は」
エフィムの視線が少女へ向く。
金色のボブカット。被験者の検査着。そして、どこか見覚えのある顔立ち。
「ンッフフ。エフィムくん、よ〜くこの娘の顔を見てご覧」
ヴォルーツォが楽しそうに笑う。
「誰かに似ていないかい?」
「……なるほど」
エフィムはすぐに察した。
「バライバ理事長のお孫さんですか」
そして確認するように続ける。
「カレンデュラ・ララミデシアさん。ですね」
エフィムは懐から名刺入れを取り出し、一枚の名刺を差し出した。
『魔術師育成協会・会長 エフィム=ゾーラ』
その文字を見た瞬間、カレンデュラの目が大きく見開かれる。
「……わ、会長さん?」
名刺とエフィムの顔を見比べる。
そして、もう一度見比べる。
「こんなに小さい子でもなれるんだ……」
思わず本音が零れ落ちた。
エフィムの眉間に皺が寄る。
「はいぃ?……あなたと同じ17です。半年後には18になりますぅ〜」
投げやりな声だった。
カレンデュラはぽかんと口を開く。
「え……」
数秒の沈黙。
「同い年?」
さらにエフィムを見つめる。
頭の先からつま先まで。
「――すごい!」
何がすごいのか分からないが、カレンデュラは感動していた。
「女の子の友達ほしかったんだ! よろしくね!」
勢いよく差し出された手。
エフィムは硬直した。
一拍置いて。
「――男です!!」
廊下に声が響く。
「お・と・こ!!」
びしりと自分を指差す。
「確かに髪は長いですし、顔もこんなですけど! わたしは男なので!!」
差し出された手を慌てて押し返す。
その勢いで、艶やかな黒髪が大きく揺れた。
「えっ」
カレンデュラが固まる。
「……ええええええっ!?」
思わず上擦った声が廊下を揺らした。
「ホ、ホントに!?」
信じられないといった面持ちでエフィムを見つめる。
「ああもう、もう一度言いますよ、男で17歳です! 三回言いました。覚えて下さいね!!」
エフィムは前髪を払い上げながら叫んだ。
艶やかな黒髪が大きく揺れる。
「……ご、ごめん」
カレンデュラは申し訳なさそうに頬を掻いた。
「でも、あたし男の人ってここに来て初めて見たからさ」
「はい?」
エフィムの眉がぴくりと動く。
「……どういうことです?」
「だから、男の人がどんな感じなのか知らなくて」
カレンデュラは困ったように笑う。
「こんな可愛い男の子もいるんだなぁって」
一瞬。沈黙が落ちた。
エフィムのこめかみに青筋が浮かぶ。
「褒めてるんですよね?」
「え、そうだけど……?」
全く悪意のない笑顔だった。
余計に質が悪い。
「……エフィムくんの場合、かなり特殊な例だからねぇ」
見かねたヴォルーツォが口を挟む。
「男の子みんながそうだと思っちゃいけないよ」
「――ンギィッ!!」
エフィムが歯を食いしばる。
助け舟のはずなのに、何一つ助かっていなかった。
「と、ともかく!」
ヴォルーツォがぱん、と手を叩いた。
「君は魔術師になるためにここまで来たんだろう?」
わざとらしい咳払いを一つ。
エフィムが何か言いたげな顔をしたが、無視した。
「大丈夫さ。きっと良い結果が出る」
そう言って手を差し出す。
その笑顔はどこまでも穏やかだった。
先程までの軽薄さも茶化すような態度もない。
ただ純粋に、目の前の少女の未来を祝福するような笑み。
「僕が保証しよう」
そして静かに告げる。
「――ようこそ、魔術師育成協会へ」
その声音は、不思議と温かかった。
「君の未来に幸多からんことを」
カレンデュラは少しだけ目を見開く。
それから小さく笑って、その手を握り返した。
大きくて温かい手だった。
「……ありがとう、お兄さん」
窓の外では、いつの間にか雨が上がっていた。
雲の切れ間から差し込む陽光が、濡れた街並みを照らしている。
路面に残った雨水はきらきらと輝き、嵐の名残だけを静かに留めていた。
ふと、誰かが窓の外を指差す。
本部庁舎の向こう。
雨上がりの空に、大きな虹が架かっていた。
七色の橋。それはまるで。
新たな始まりを祝福するかのように、鮮やかに輝いていた。
5
魔術師育成協会の正門をくぐると、まず目に飛び込んでくるのは、通称「庭」と呼ばれる広大な芝生広場だった。
丁寧に整えられた緑の絨毯がどこまでも広がり、その向こうには協会の象徴とも言うべき中央棟が堂々とそびえ立っている。
右手には式典などが執り行われる講堂館。左手には白亜の医療棟が静かに佇み、行き交う魔術師たちを見守っていた。
そして、そのさらに奥。
知識の殿堂とも呼ぶべき建物が、ひっそりとその姿を現す。
「ここが、図書館……」
独立館として建てられた図書館は、北棟に寄り添うように位置していた。
外観こそ落ち着いた石造りだが、その内部には三万冊を超える蔵書が収められているという。魔術書はもちろん、歴史書、学術論文、詩集、小説に至るまで、ありとあらゆる知識が眠る場所だった。
館内へ足を踏み入れた瞬間、カレンデュラは思わず息を呑んだ。
視界いっぱいに広がる本、本、本……。
天井近くまで伸びる書架が幾重にも並び、その光景はまるで果ての見えない本の森のようだった。
紙とインクの匂いが静かに漂う空間の中で、無数の背表紙が整然と並んでいる。
生まれて初めて目にする、本の山。
いや、山という表現すら生ぬるい。
まるで知識そのものが形を得て積み重なったような光景に、カレンデュラはただ立ち尽くすことしかできなかった。
「すごい……たくさんある……」
思わず漏れた声は、感嘆とも畏怖ともつかない響きを帯びていた。
すると近くで本を整理していた司書が、小さく微笑みながら答える。
「ここは学術専門書だけでなく、小説や詩集、伝記なども幅広く所蔵しています。勉学のためだけでなく、生徒たちの憩いの場でもあるんですよ」
カレンデュラは言葉もなく頷いた。
書架はまるで壁のように並び、その一冊一冊に異なる世界が閉じ込められている。
遠い時代の歴史。誰かが生涯をかけて積み上げた研究。まだ見ぬ土地の物語。人の心を綴った詩。そして魔術の神秘。
背表紙に刻まれた文字を追うだけで、知らない世界への扉が次々と現れてくるようだった。
知りたい。もっと見たい。もっと読んでみたい。
胸の奥で、小さな火が灯る。
それは好奇心という名の炎だった。
「貸し出しも行っていますので、気になる本があれば遠慮なく申請してください」
司書の言葉に、カレンデュラは我に返ったように顔を上げる。
「……は、はい!」
返事をしながらも、その視線は再び本棚へ吸い寄せられていた。
まるで宝物庫を見つけた子供のように。
その瞳は、期待と憧れにきらきらと輝いていた。
「――よし!」
カレンデュラは小さく拳を握った。
これだけの本があるのだ。正直、どこから手を付ければいいのかわからない。
だが、闇雲に手を伸ばすよりも、まずは魔術の基礎を学ぶのが先決だろう。
そう考えながら、彼女は書架の間へ足を踏み入れた。
高くそびえる本棚は迷路のように続いている。
歴史書、魔術理論書、生物図鑑、地誌、詩集。
並ぶ背表紙を目で追うだけでも、新しい世界が次々と姿を現していくようだった。
その時だった。
ふと。視界の端に、一人の女性の姿が映る。
長い茶色の髪。落ち着いた色合いのレディーススーツ。
それだけなら別段珍しくもなんともない。
協会には研究者、職員を含め、多くの魔術師が在籍しているのだから。
それなのに。カレンデュラの視線は、その人物に吸い寄せられるように止まった。
「……あれ?」
自分でも理由が分からない。
顔を見たわけでもない。声を聞いたわけでもない。
ただ本棚の向こうに立つ後ろ姿を見ただけだというのに、胸の奥が妙にざわつく。
どこかで会ったことがあるのだろうか。
だが、そんなはずはない。
外の世界へ出たばかりの自分に知り合いなどいるはずがないのだから。
それでも目を離せない。
忘れていた何かを思い出しかけているような、不思議な感覚。
知らないはずなのに、知らない気がしない。
そんな矛盾した感情が胸の内で静かに渦を巻いていた。
「誰だろう……」
思わず零れた呟きは、本棚に吸い込まれるように消えていく。
女性は一冊の本を手に取り、静かに頁をめくっている。
その何気ない仕草さえ、なぜか気になった。
気付けばカレンデュラは無意識のうちに歩み寄っていた。
そして、少し緊張しながら口を開く。
「あの……」
意を決して声をかけた、その瞬間だった。
女性がゆっくりと振り返る。
さらりと揺れた髪。そして向けられた双眸が、真っ直ぐにカレンデュラを捉えた。
だが。カレンデュラが無意識のうちに期待していたものは、そこにはなかった。
懐かしさでもない。驚きでもない。ましてや喜びでも。
その瞳に宿っていたのは、鋭く張り詰めた警戒の色だった。
「……どちらさまでしょう」
静かな声だった。
けれど、その一言は刃物のように冷たい。
踏み込ませない。近づかせない。
そんな意思が、言葉の端々から滲んでいた。
カレンデュラは思わず息を呑む。
なぜだろう。初対面なのだからだ。
それなのに、胸の奥がちくりと痛んだ。
まるで、期待していた答えを否定されたように。
「――い、いえ、もしかしたら知り合いかも……と、思ったのですが……」
言いながら、自分でも不思議だった。
どうしてそんなことを口にしたのか。
相手の顔を見た覚えなどない。名前を知っていたわけでもない。
それでも。
あの後ろ姿を見た瞬間から、胸のどこかが落ち着かなかった。
この違和感を放っておけない。
そんな根拠のない確信だけがあった。
「そうですか」
返ってきたのは、短い言葉だった。
波ひとつ立たない湖面のような声音。
女性はそれ以上追及することもなく、一度だけ視線を手元の本へ落とした。
ぱたり、とページが閉じられる。
「ライツォフィオナと申します。フリーで記者をしています。もしかしたら、どこかの現場でお会いしたのかもしれませんね」
そう言って、彼女は鞄から革製の名刺入れを取り出した。慣れた手つきで一枚を抜き取り、差し出す。どこか事務的な動作だった。
まるで、それ以上の関係を求めないための線引きのように。
カレンデュラは差し出された名刺を受け取る。
『フリージャーナリスト ライツォフィオナ・マキャシナラ』
書かれている文字を、じっと見つめた。
聞き馴染みのない名前だった。異国の響きを思わせる、どこか古めかしい名前。
それなのに。
その名を目で追った瞬間。胸の奥で、何かが微かに震えた。
まるで冷え切った灰の下に、小さな火種が残っていたかのように。
忘れていたはずの感情が、ゆっくりと息を吹き返そうとしている。
理由は分からない。思い出せない。それでも確かに。
その名前を知っている気がした。
「――っは」
気付けば、名刺を持つ指先がかすかに震えていた。
「どうしました?」
ライツォフィオナが怪訝そうに眉を寄せる。
その声で、カレンデュラは我に返った。
「あ……」
慌てて視線を逸らす。鼓動だけが妙に早い。
なぜこんなにも動揺しているのか、自分でも説明できなかった。
「い、いえ……記者さんは、どうして図書館に? あ、ご、ごめんなさい……」
口から出たのは、考えるより先に飛び出した質問だった。
失礼だったかもしれない。
そう思った途端、頬が熱くなる。
慌てて名刺を胸元へ引き寄せる。
失くしてはいけないもののように。あるいは、手放したくないもののように。
ぎゅっと。
無意識のまま、その紙片を握りしめた。
「実は、ある事件について調べていまして」
ライツォフィオナはふと視線を遠くへ向けた。
「……隣国の歴史に残る大事件なんですが」
そこまで言いかけて、言葉が止まる。
まるで何かに気付いたように。
静寂が落ちた。
図書館の奥で誰かがページをめくる音だけが微かに響く。
「あ……」
ライツォフィオナは小さく瞬きをした。
「興味がないですよね」
言いかけた言葉を無理やり飲み込むような声音だった。
カレンデュラは僅かな違和感を覚えたが、深く追及することはしなかった。
「いいえ」
首を横に振る。
「お仕事中なのに、お邪魔してしまってごめんなさい」
胸元の名刺をそっと押さえながら頭を下げる。
「お疲れ様でした」
そう言って踵を返した。
これ以上引き留める理由もない。
そう思った、矢先。
「お嬢さん」
背後から声が飛ぶ。
「もしかして、バライバ理事長のお孫さんでしょうか?」
思いがけない言葉に、カレンデュラの足がぴたりと止まった。
ゆっくりと振り返る。
そこにはライツォフィオナが立っていた。
先ほどまでの冷ややかな警戒心は薄れ、その瞳には別の色が宿っている。
興味。観察。あるいは確認。
そんなものが静かに揺れていた。
「えっと……そうですが」
カレンデュラは戸惑いながら答える。
「祖母をご存じなんですか?」
「ええ」
ライツォフィオナは頷いた。
「理事長さんには、お世話になりましたから」
その唇が穏やかな弧を描く。整った微笑みだった。非の打ち所もないほど自然な笑顔。
それなのに。なぜだろう。どこか作り物めいて見えた。
「これから別件の取材があるんです」
ライツォフィオナは鞄の肩紐を軽く整えた。
「お会いできてよかった」
短く会釈する。
それだけ言うと、彼女は身を翻した。
長い茶髪がふわりと揺れる。だが、その足は一度も止まらない。振り返ることもない。
まるで最初から立ち去るつもりだったかのように、迷いなく図書館の奥へ消えていった。
カレンデュラはしばらくその後ろ姿を見送っていた。
胸の奥に残る妙な感覚が消えない。
懐かしいような。寂しいような。それでいて、何も思い出せないもどかしさ。
やがて視線を落とす。手の中には一枚の名刺。
『フリージャーナリスト ライツォフィオナ・マキャシナラ』
印刷された文字を、指先でそっとなぞる。ただの紙切れのはずだった。
それなのに。その感触だけが不思議なほど鮮明だった。
胸の奥でざわついていた感情が、ほんの少しだけ静まっていく。
カレンデュラは無意識のうちに名刺を握り直した。
そしてもう一度だけ、ライツォフィオナが去っていった方向へ目を向ける。
そこにはもう、誰の姿も残っていなかった。
6
「……ごめんなさい」
小さな執務室に、その声だけが静かに響いた。
「勝手に応募しちゃって……」
机を挟んだ向こう側には、祖母であり、魔術師育成協会理事長でもあるバライバ・ララミデシアが座っていた。
「は〜」
深いため息が漏れる。
バライバは眉間を指で押さえながら椅子の背にもたれた。
机の上には書類が山積みになっている。
開きっぱなしの資料。飲みかけで冷めたブラックコーヒー。乱れたまま積み重なった調査報告書。
「もう終わったことだい」
掠れた声で言う。
「今さら悔いたところで、栓なきことさね」
その口調はいつも通りだった。
けれど、その目の奥には隠しきれない疲労が滲んでいる。
カレンデュラが魔法薬の被験者へ応募した。
その報告を受けてからというもの、バライバは落ち着く暇もなかった。
研究部門への照会。開発責任者への聞き取り。過去の事故記録の精査。
少しでも不審な点がないか確かめるため、自ら動き回った。
理事長としてではない。一人の祖母としてだ。
孫を守りたい。その一心だけだった。
重い沈黙が部屋を満たす。
その時だった。
「バライバ。少し休んだほうがいい」
不意に扉が開く。
聞き慣れた低い声と共に現れたのは、ヴォルーツォだった。
彼は部屋の様子を一瞥すると、机の上に積まれた書類の山へ目を向ける。
そして呆れたように肩を竦めた。
「また徹夜したねぇ? もう若くないんだから、無理はしない方がいいよ〜」
「うるさいよ、このデク」
即座に返ってきた言葉には、棘こそあったが力がなかった。それが余計に事態の深刻さを物語っている。
ヴォルーツォは小さく息を吐いた。
長い付き合いだ。今のバライバがどれほど消耗しているかくらい、一目で分かる。
「……まあ、気持ちは分かるよ」
バライバは肩を竦める。
「アタシだって、アンタと同じ歳の頃は毎日好き勝手やってたしねぇ。それこそ危ない橋なんて何本渡ったか覚えちゃいない」
どこか遠くを見るような目。
懐かしむようでもあり、呆れているようでもある。
「明日のことなんか考えちゃいなかった。生きてるだけで面白かった時代さ」
ふっと笑う。
だが、その笑みには若き日の輝きよりも、苦労の日々を生き抜いた者の苦味が滲んでいた。
「今になって振り返れば、よく生きてたもんだと思うよ。運が良かっただけかもしれないねぇ」
自嘲するように肩を揺らす。そして表情を引き締めた。
「だからって、カレンにも同じことをさせたくはないんだわ」
部屋の空気が少しだけ重くなる。
バライバは机に肘をつき、組んだ指の上に顎を乗せる。
疲労の滲む顔。それでも、その瞳だけは鋭かった。
「検査で適性が見つかったって言ったね?」
低い声だった。理事長としてではない。祖母としてでもない。もっと別の何かを確かめるような声音。
ヴォルーツォは静かに頷いた。
「ああ。魔法薬に対する適性さ」
一拍。部屋の空気がわずかに重くなる。
「……僕としては、もうこれ以上隠し通すのは難しいと思う」
その言葉の意味を、カレンデュラは理解できなかった。
だが、二人が話しているのは魔法薬のことだけではない。
それだけは分かる。
「それ以上は言わなくていい」
低い声で、バライバが遮った。
机に落ちる影が、その表情を半ば覆い隠している。
「これから先、お前の身にはもっと危険なことが降りかかる」
真っ直ぐに向けられた視線。
それは祖母の忠告ではない。明確なる警告だった。
「――危険?」
カレンデュラが小さく繰り返す。
ヴォルーツォは答えず、窓の外へ目を向けた。
夕焼けがガラスを赤く染めている。
「君はこうは考えたことがないかい?」
穏やかな声だった。
「どうして自分だけ、ずっと外へ出してもらえなかったのか」
カレンデュラは黙ったまま彼を見つめる。
「どうして周りの人間が、そこまでして君を守ろうとしたのか」
そこでヴォルーツォは小さく肩を竦めた。
「……なんてね。意地の悪い聞き方だった」
苦笑を浮かべる。
けれど、その笑みはどこかぎこちない。
「ただ、君にとって必要なことだったのは事実だ」
「それって……」
言いかけたところで、「アタシから言わせてもらうなら」と、バライバが乱暴に金髪を掻き上げた。
「コイツの言うことは半分くらい聞き流していい」
鼻で笑う。
その矛先はヴォルーツォ自身というより、彼の持ち込む話題へ向けられているようだった。
「ひどいな〜」
ヴォルーツォが肩を落とす。
「君の口から説明しなきゃ、カレンちゃんだって納得できないだろぉ?」
「うるさい、このアンポンタン!」
机を叩かんばかりの勢いでバライバが睨み返す。
「アタシにだって話す順番ってもんがあるんだい!」
二人の応酬は次第に熱を帯びていく。
だが、カレンデュラの耳にはほとんど入っていなかった。
軟禁同然の生活。生まれつきの魔力欠乏。周囲の過剰な保護。
そして今の会話。
頭の中で、ばらばらだった欠片が少しずつ繋がっていく。
「……もしかして」
その呟きに、二人の声が止まった。
部屋に静寂が落ちる。
バライバとヴォルーツォの視線が、一斉にカレンデュラへ向けられた。
カレンデュラはゆっくりと顔を上げる。
「――あたし、誰かに命を狙われてる?」
ゆっくりと、自分が口にした言葉を確かめるように、もう一度繰り返す。
「だから、あたしはお屋敷から外に出してもらえなかった?」
ヴォルーツォは静かに頷いた。
その表情には誤魔化しも躊躇いもない。
「……ああ」
短い肯定。
「君は命を狙われている。生まれる前からね」
不思議なことに、その言葉はすんなりと胸の内へ落ちていった。
驚きはあった。恐怖もあった。けれど、それ以上に納得してしまったのだ。
これまで抱いていた違和感。過剰なまでの保護。不自由な暮らし。
その全てに、ようやく一つの答えが与えられた気がした。
「もちろん」
ヴォルーツォは続ける。
「僕が君の傍にいる限り、できる限りの力を尽くそう」
その声には揺るぎのない自信があった。
長い年月を生きてきた者だけが持つ確信。
「だけど、それだけじゃ足りない」
窓の外では夕日がゆっくりと沈み始めている。
赤く染まった光が部屋の床を長く照らした。
「これから先は、君自身の力で立たなければならない時が来る」
脅しではない。未来を見据えた言葉だった。
「だから――君に魔術師になってほしい」
カレンデュラは息を呑む。
ヴォルーツォは慎重に言葉を選びながら続けた。
「今はまだ魔力が少ない。難しいことも多いだろう」
だが、と彼は微笑む。
「だが、君は一人じゃない」
逆光を背に受けながら、その瞳だけが静かに輝いていた。
「僕が君の進む道を照らそう」
そして、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……ようこそ、こちら側へ」
その言葉には歓迎の響きがあった。
「君は今、初めて自分の運命と向き合うことを選んだんだ」
7
中央棟一階にある談話室は、魔術師育成協会の中でもひときわ賑わいを見せる場所だった。
協会において談話室は単なる休憩所ではない。
情報が行き交い、噂が生まれ、人と人との繋がりが生まれる。
言わば、協会の鼓動が最も色濃く感じられる場所だった。
「やあ、会長さん。仕事には慣れたかい?」
その一角。
ソファに腰掛けて資料を捲っていた少年が、ふと顔を上げる。
掛けられた声に、エフィムは僅かに肩を揺らす。
「……え、ええ。まあ」
ぎこちなく頬を緩めながら答えた。
胸元の協会紋章入りの名札へ無意識に指先が伸びる。
その仕草は、新しい立場にまだ完全には馴染めていないことを物語っていた。
「いやぁ、驚いたよ。君みたいな若い子がまさか会長の席に就くだなんてね」
揶揄うような響きこそないものの、言葉の端々に僅かな興味と、それ以上の観察眼が滲んでいる。
「その若さで大変だろうけど、しっかり頑張りなよ」
職員はそう言いながら、湯気の立つコーヒーをゆっくりと口へ運んだ。
「ええ」
エフィムは一拍遅れて頷く。
どう返すのが正解なのか掴めないまま、言葉が喉の奥で迷っていた。
「ありがとうございます」
ようやく絞り出した声は、少しだけ硬い。
誤魔化すようにカップへ視線を落とす。
「そういえばさ」
職員が何気ない調子で話題を変えた。
だが、その何気なさが逆に引っかかる。
「バライバ理事長のお孫さん、魔法薬の被験者に選ばれたらしいね?」
「……そう、らしいですね」
声の温度を変えずに返す。できるだけ平静を装う。
「うちの部署でもちょっとした騒ぎだよ」
「……そうですか」
短い相槌。それ以上踏み込まないように意識しているのが、自分でも分かった。
「もしよければ、会長さんの意見も聞いてみたいところだけど」
「それは……」
言葉が途中で途切れる。
意見――何をもって意見とするのか。協会の会長としてか。それとも個人としてか。
視線が宙を彷徨う。
「まあ、騒ぎになるのも分かるよ」
職員は肩を竦めた。
「なんでも魔力が極端に少ないって話だろ?」
その一言で、空気がわずかに変わる。エフィムは一瞬だけ呼吸を止めた。
もうそこまで情報が回っているのか。
いや、当然かもしれない。魔力をほとんど持たない者が、魔法薬の被験者に名乗りを上げた。
しかも相手は、バライバ・ララミデシアの孫。
話題にならない方が不自然だ。
噂が噂を呼び、情報は勝手に形を変えていく。それが協会という場所だった。
エフィムはカップを見つめたまま、静かに息を吐いた。
「いやぁ、俺もここ長いけど、バライバ理事長ってのは本当に謎が多いよな」
「……え、それはどういう」
エフィムは思わず顔を上げた。
「だってそうだろう? あれだけの功績を積み上げてきた人なのに、私生活の話はほとんど出てこない」
職員はコーヒーカップを軽く回しながら、気の抜けた調子で続ける。
「それに……娘さんの話も、あんまり表に出ないしな」
「娘さん?」
「体が弱いとか、未婚の母だとか。まあ、魔力が少なくて魔術師にもなれずに、家にこもりがちって噂だよ」
さらりとした口調だった。まるで天気の話でもするように。だが、その言葉だけが妙に引っかかる。
エフィムは無意識に眉を寄せた。
「魔力が……?」
協会の中枢にいる人物の血縁で、それは珍しいどころではない。
バライバ・ララミデシアほどの人物の家系で、二代続けて魔力が発現しないなど、通常ならあり得ない。
エフィムはカップの縁を見つめたまま、静かに息を吐いた。
噂は軽い。だが、その軽さのままでは終わらないものもある。
「おっと、こんな時間か。そろそろ仕事に戻らないとね」
職員は腕時計に目をやると、ゆっくりと腰を上げた。
「会長さん」
立ち去る直前、ふと思い出したように振り返る。
その声音だけが、少しだけ温度を落とした。
「……ヴォルーツォ君は、あまり信用しない方がいいよ」
一瞬。談話室の空気がわずかに沈む。
エフィムは反射的に顔を上げた。
「え?」
だが、問い返すより早く職員は軽く肩をすくめる。
「まあ、ただの噂だけどね」
冗談のように言い残し、コーヒーの香りの残る空間を背にガラス戸へ向かう。
残されたのは、薄く冷めたコーヒーの香りと、言葉だけが置き去りにされた空気。
エフィムはしばらく動けなかった。
『ヴォルーツォ君は信用しない方がいい』――その一言だけが、残響する。
何の根拠も示されていない。ただの雑談の延長――それでも、簡単に流せる言葉ではなかった。
エフィムは静かに息を吐くと、手元の資料へ視線を落とした。
指先がわずかに迷いながら、それでもページを揃えていく。
エフィムは無言のまま立ち上がった。
8
「……お祭り、ですか?」
エフィムは受け取ったパンフレットに目を落としながら、怪訝そうに眉をひそめた。
「ええ。もちろん強制ではなく、あくまで任意参加です」
広報課の男性はにこやかに微笑む。
パンフレットにはナァダリ区周辺の地図と、いくつもの催しが色分けされて記載されていた。
「地域交流の一環として、今年から始まった非公式の行事です。規模はまだ小さいですが、会長にも一度視察という形で参加していただければと」
提案というより、すでに予定表へ書き込まれていることを報告しているような口調だった。
エフィムは嫌な予感を覚える。
「ちなみに、どんな催しなんです?」
「ええ――それは、なななんと、悪魔の祝祭なのです……!」
横から口を挟んだアルキンドラネスは、あまりにも当然という顔をしている。
エフィムは数秒沈黙した。
「……悪魔の?」
「祝祭です」
「悪魔、のぉ……ッ!?」
「祝祭です」
アルキンドラネスは一切ぶれなかった。
「ムー・ヌーといえば、かつて一度は衰退した信仰です」
アルキンドラネスは眼鏡を押し上げた。
「しかし、ある神官一族の末裔が中心となり、住民の協力を得て祭事を復活させました。今回の催しは、その復興を記念する意味合いもあります」
「……悪魔崇拝」
エフィムがぽつりと呟く。
「はい」
広報課の男性が穏やかに頷いた。
「とはいえ、それは一神教圏が広めた呼称に過ぎないですよ。彼らにとってムー・ヌーは崇敬すべき神格です」
「つまり邪教じゃないですか」
「会長――」
アルキンドラネスの眼鏡が鈍く光った。
「それは大変聞き捨てなりませんね」
来た。エフィムは内心で察した。
「ムー・ヌー信仰は長い歴史を持ち、その文化的価値は計り知れず、また祭礼様式においても非常に興味深い特徴を有しておりましてですね――」
「また始まった」
エフィムは苦笑しながらアルキンドラネスの腕を軽く突く。
「アルキンってこういう話になると止まらないよね」
「は……失礼いたしました」
アルキンドラネスは小さく咳払いをした。
しかし、その表情にはどこか語り足りなさが残っている。
「まあ、時間があればね。わたしだって忙し……」
「お任せください。このアルキンドラネス、すでにお時間は確保しておりますので」
「まだ返事してないんだけどぉ!?」
エフィムが思わず身を乗り出す。
「必ずや会長を現地へお連れいたします。そのために、わたくし、アルキンドラネスもこうして予定を調整して参りました」
「待って!? 今さらっと既定事項みたいに言ったよね!?」
アルキンドラネスは胸を張った。
「……更に、ヴォルーツォ殿にもご同行いただけるよう手筈を整えております」
「――はぁっ!?」
廊下に素っ頓狂な声が響いた。
「な、なんでそこでヴォルーツォさんが出てくるんですか!?」
アルキンドラネスは得意げに眼鏡を押し上げた。
「祭礼と言えば民俗学」
指を一本立てる。
「民俗学と言えば民間信仰」
二本目。
「民間信仰と言えば魔術体系」
三本目。
「そして魔術体系と言えばヴォルーツォ殿です」
「なに、その無理矢理な連想ゲーム! 成立してなくない!?」
「しております」
即答だった。
「確かにあの胡散臭いお方は信用なりません。しかし魔術師としての力量は折り紙付きです。現地調査において、これ以上適任な人材はそうそうおりません」
「褒めてるのか貶してるのか分からないっつーの」
「両方です」
迷いのない返答だった。
「――アルキン。確認なんだけど」
「はい」
「……わたしたちって敵同士じゃないよね?」
「敵ではありません」
アルキンドラネスは即答した。
そして一拍置き、きっぱりと言い切る。
「単に理解しあえないだけです」
あまりにも迷いのない断言だった。
むしろ清々しい。
エフィムはしばらく沈黙した。
「それは、さあ……」
――『否定材料として弱くない?』
そんな言葉が喉元まで出かかったが、結局飲み込む。
長い付き合いだから分かっている。
ヤツは本気だ。だから余計に質が悪い。
「……なんで、そこまでしてわたしをそんなところに連れて行きたいのさ」
エフィムはぶつぶつと文句を言いながら、パンフレットを鞄へしまい込む。
アルキンドラネスはすぐには答えなかった。
ほんのわずかな沈黙。それから静かに口を開く。
「最近の貴方様は……」
その声音から、先ほどまでの軽さが少しだけ消えていた。
「会長としての責務を優先するあまり、ご自身の感性を押し込めておられるように見えましたので」
エフィムの手が止まる。思いもよらない言葉だった。
「だから、たまには外へ出るべきだと思ったのです」
淡々とした口調。
けれど、その言葉には長く見守ってきた者ならではの気遣いが滲んでいた。
エフィムは視線を落とす。何かを言おうとして、結局言葉にならない。
「それに」
空気を切り替えるように、アルキンドラネスは眼鏡の位置を直した。
「会長は興味を持ったものには存外積極的でしょう?」
今度は少しだけ悪戯っぽい笑み。
「今回も、おそらく貴方様のお気に召す催しだと思いますよ」
「そうかなぁ……」
エフィムは半信半疑のまま唸る。
だが、完全に否定もできない。
そう言われると、少しだけ気になってしまう自分がいる。
「……なんだか裏がありそうなんだけど」
ぽつりと漏らす。
アルキンドラネスは肩を竦めた。
「それこそ会長のお好きな陰謀というものでは?」
「――誰のせいだと思ってるのさ」
呆れ混じりの溜息が漏れる。
会長になってからというもの、陰謀だの派閥だの裏工作だの、聞きたくもない話ばかり耳に入ってきた。
疑う癖がついたのは、自分のせいだけではない。
その筆頭が目の前にいる。
エフィムがじとりと睨むと、アルキンドラネスは涼しい顔で微笑んだ。
だが反省の色は、まったく見えなかった。
10
夜の帳が街を包み始める頃。
ナァダリ区では、悪魔の祝祭が静かに幕を開けようとしていた。
やがて。――わあっ、と歓声が弾ける。
石畳の坂道を埋め尽くす人波の向こうから、色鮮やかな灯りをまとった山車が姿を現したのだ。
鈴の音。打楽器のリズム。弦楽器の軽快な旋律。
お囃子に合わせるように、山車はナァダリ区名物の石段をゆっくりと下っていく。
「……えっ」
エフィムは思わず瞬きを繰り返した。
「悪魔って聞いてたから、もっとこう……怪しい儀式とか、生贄とか、黒いローブの集団とかを想像してたんだけど」
視線の先では、子供たちが歓声を上げながら山車を追いかけている。
露店では焼き菓子の甘い香りが漂い、大人たちは酒を片手に談笑していた。
どう見ても、どこにでもあるローカルな祭りだった。
「会長は悪魔に対して偏見をお持ちですね」
隣でアルキンドラネスが呆れたように言う。
「だって悪魔だよ?」
「民間宗教においては、このような祭礼形式が一般的です」
アルキンドラネスは人混みの向こうを指差した。
そこを進んでいたのは、羊を模した山車だった。
金色の角には無数の飾り紐が結ばれ、提灯の灯りを受けて幻想的に輝いている。
その後ろには犬。さらに牛。猫。
それぞれ異なる意匠が施されており、まるで神話の獣たちが街を練り歩いているかのようだった。
「ムー・ヌー信仰では、これらの獣が神そのものであると同時に、人々を導く守護者でもあります」
「へぇ……」
エフィムは思わず感心した声を漏らす。
確かに不気味さはある。けれど、それ以上に美しかった。
揺れる灯火。響く音楽。人々の笑顔。
少なくとも、彼が想像していた邪悪な儀式とは程遠い。
「でしょう?」
アルキンドラネスはどこか得意げに眼鏡を押し上げた。
「だから申し上げたではありませんか。きっと会長のお気に召すと」
エフィムは返事の代わりに苦笑した。
悔しいことに、その予想は当たり始めている。
「あはは。アルキンさん、相変わらずエフィムくんいじめてるねぇ〜」
不意に横合いから声が飛んできた。
気付けばヴォルーツォが人混みの中からひょっこり姿を現している。
まるで最初からそこにいたかのような自然さだった。
「ヴォルーツォ殿」
アルキンドラネスの眉がぴくりと跳ねる。
「虐めているなどと、人聞きの悪いことを仰るのはおやめください」
「でも好きでやってるんでしょ〜?」
ヴォルーツォは相変わらず飄々としていた。
「それが楽しいのは分かるけどねぇ。ほどほどにしないと、そのうち本気で愛想を尽かされちゃうよ〜?」
「なっ……!」
アルキンドラネスのこめかみに青筋が浮かぶ。
「――何を仰いますか!」
珍しく声が大きかった。
「私はそのような不埒な趣味は持ち合わせておりません!」
「えぇ〜?」
ヴォルーツォはわざとらしく首を傾げる。
「でもさっき、エフィムくんの困り顔見ながらニヤニヤしてたよねぇ?」
「そ、それは……!」
反論しようとして口を開く。だが、言葉が続かない。
図星だったからか。
どちらにせよ、黙った時点で負けだった。
「まあ趣味趣向は人それぞれだからねぇ。僕にはよく分からないけど〜」
「待ちなさい」
アルキンドラネスの声は低かった。
「今の発言について詳しく説明していただきましょうか」
「じゃあね〜」
説明する気は皆無だった。
ヴォルーツォはひらひらと手を振ると、そのまま人混みの中へ紛れ込んでいく。
「あっ、こら! 勝手な行動するなー!」
エフィムは慌てて後を追った。
だが、祭りの人波は思った以上に濃い。
色とりどりの飾り付け。行き交う人々。山車を囲む歓声。
その全てが視界を埋め尽くし、ヴォルーツォの姿はあっという間に消えてしまった。
「もう!」
エフィムは振り返る。
「アルキンが余計なこと言うからだよ!」
するとアルキンドラネスは、なぜか深く項垂れていた。
「わたくしはただ、純粋な関心と探究心に基づき……会長の嗜好や思考傾向を研究していただけなのです……」
「反省するとこそこなの!?」
エフィムは迷うことなくアルキンドラネスの手首を掴み、そのまま人混みの中へ駆け出した。
その瞬間だった。不意に胸の奥が、ほんの少しだけ疼く。
――父親とこんなふうに手を繋いで走ったこともなかった、と。
思考は一瞬で過ぎ去る。
振り返る間もなく、祭りの喧騒がそれを押し流していった。
エフィムは頭を振る。今はヴォルーツォを探す方が先だ。
石畳の坂道を駆け上がる。蝋燭の灯りが揺れ、人々の影が遠くに伸びる。
そうして辿り着いた先は、祭りの中心から少し離れた静かな広場だった。
「ここは……」
エフィムは思わず足を止める。
高台には大きな祭壇が築かれていた。
周囲を囲む木柵。無数に並べられた燭台。揺れる蝋燭の炎が夜風に震え、辺りを幻想的な光で照らしている。
そして祭壇の中央。そこには一体の神像が祀られていた。狐にも似た顔立ち。大きく立った耳。
「あれが風の神、マヤリカです」
アルキンドラネスは自然と声を潜めた。
「少数民族ハムヤタカにおいて、マヤリカはムー・ヌーに次ぐ高位の神格として信仰されています」
エフィムはちらりと隣を見る。
意外だった。こういう話題になれば、いつものように熱弁が始まると思っていたからだ。
祭壇の周囲には犬を連れた人々の姿があった。
胴長短足。三角の立ち耳。愛嬌のある姿。
「あれはコーギーという犬種です」
アルキンドラネスが静かに言う。
「マヤリカの姿に最も近い犬として知られています」
言われてみれば確かによく似ている。
神像の耳も大きく立ち、脚は短い。
厳かな神でありながら、どこか親しみやすい印象を受ける理由もそこにあった。
「伝承によれば、マヤリカは妖精の馬だったとされています」
エフィムは神像を見上げる。
「しかし、長い尾を持っていたため、狐と間違えられ追放されたそうです」
「……狐に?」
「ええ」
揺れる蝋燭の光が眼鏡に映る。
「狐は嘘つきですから」
アルキンドラネスはごく当然のように言った。
灯が神像を照らす。その影の加減か、どこかマヤリカが泣いているようにも見えた。
「……でも」
エフィムは祭壇へ一歩近づく。
無数の炎が風に揺れ、赤い色の光が石畳へ滲んでいた。
「こうして神様として祀られてるんだよね」
「ええ」
「だったら、それでいいんじゃないかな」
エフィムはマヤリカ像を見上げた。
「必要とされてるってことでしょ?」
アルキンドラネスは僅かに目を見開く。
「なら、充分じゃないのさ」
信仰の歴史も。神話の真偽も。過去にどんな扱いを受けたのかも。
それらは確かに大切なのだろう。
けれど今この瞬間、ここには祈る人々がいる。
マヤリカへ花を捧げる者がいる。
その事実だけで、神としては幸せなのではないか。
「……会長らしいお考えですね」
アルキンドラネスは小さく微笑んだ。
その時だった。
カラン――カラン、カラン……!
夜空へ鐘の音が響き渡る。
思わず二人は振り返った。
鐘楼から放たれた音色は祭りの喧騒を越え、街全体へ広がっていく。
すると、人の流れが変わり始めた。
露店の前で足を止めていた人々が、一斉に坂の下へ向かい始める。
遠くから打楽器の音が聞こえた。
重く。力強く。
まるで地面の鼓動のように。
――ドン! ドン!
祭りはまだ序章だったのだと気付かされる。
「始まりますね」
アルキンドラネスが鐘楼の方へ目を向ける。
その視線の先では、数人の魔術師が手を掲げていた。
次の瞬間。
鐘楼へ向かって幾筋もの光の矢が放たれた。
夜空を裂くように駆けた光は、鐘楼の脇を掠め、そのまま尾を引きながら空へ消えていく。
まるで流星だった。
「……あ」
エフィムは思わず声を漏らす。
「ん〜、当たらないなぁ……」
聞き覚えのある間延びした声が、その感動を見事に打ち砕いた。
視線を向ける。そこには数人の魔術師に混じり、当然の顔で魔術を放っているヴォルーツォの姿があった。
「もう少し右かなぁ?」
――ひゅ。光の矢が飛ぶ。鐘楼の1メートル横を通過する。
「違うなぁ」
――ひゅん。今度は少し上。相変わらず当たらない。
「……何してるんですか」
エフィムは呆れ半分で問いかけた。
ヴォルーツォは振り返る。
そして実に楽しそうな笑顔を浮かべた。
「ンッフフ。見ての通り、鐘楼当てさ」
難しい以前の問題ではない気もする。
そもそも当てていいのかも怪しい。
「面白いよ〜?」
ヴォルーツォは再び魔術を放つ。
「エフィムくんもやってみるかい?」
エフィムは周囲を見回した。
光の矢。歓声。舞い散る花弁。
鐘楼へ挑戦する参加者たち。
祭りの熱気は最高潮に達していた。
――だが。
「わたしは壊して弁償するのは嫌なので遠慮しておきます」
即答だった。ヴォルーツォが吹き出す。
「あはは、それが賢明だねぇ〜」
「誰かさんみたいに責任を負いたくないので」
夜空へまた一本、光の矢が駆け上がる。
当然のように外れた。
だが今度は、観客から拍手が起きた。
どうやら当てることだけが正解ではないらしい。
「変なの」
光の矢が夜空へ駆け上がる。
乾いた空気に触れた光は、一度だけ大きく瞬き、そのまま静かに霧散していった。
「――でも、やっぱり、魔術って綺麗ですよね」
鐘楼を見上げながら、エフィムがふわりと微笑む。
「そうだねぇ」
ヴォルーツォも空を見上げる。
「とても――綺麗だ」
珍しく短い返事だった。
無数の光が夜空を彩る。流れ星のように。
あるいは、誰かが星を空へ撒いたように。
祭りの歓声。鐘の音。遠く響く太鼓。
その全てを包み込むように、光だけが静かに空を流れていく。
11
祭りの余韻を残したまま、ナァダリ区の夜はゆっくりと更けていった。
先ほどまで賑わっていた石畳の通りも、今では少しずつ人影がまばらになり始めている。
露店の灯りは一つ、また一つと消え。
家路を急ぐ人々の話し声だけが、夜風に乗って流れていた。
「……結局、こんな時間まで遊んでしまった」
エフィムは夜空を見上げながら、小さく呟く。
会長として視察に来たはずだった。
それなのに気が付けば祭りを満喫している自分がいる。
「ですが、楽しかったでしょう?」
隣でアルキンドラネスが微笑む。
その表情はどこか満足げだった。
エフィムは苦笑する。否定はできない。
「……まあ、それは」
そう言いながら視線を向ける。
その先にいたのはヴォルーツォだった。
「えへへ♪ マシラアーのぬいぐるみ買っちゃった」
本人は実にご機嫌である。
腕には赤いリボンを付けた大きな黒猫のぬいぐるみ。
反対の手には焼き菓子の入った紙袋。
どう見ても祭りを全力で楽しんできた人間の姿だった。
「……視察だったんじゃなかったっけ」
エフィムが呆れたように呟く。
「でも、お祭りは全力で楽しむものだろ〜?」
ヴォルーツォはぬいぐるみを抱えたまま胸を張る。
「ね? アルキンさん」
突然話を振られたアルキンドラネスは、眼鏡の位置を軽く直した。
「私は特に何も申しておりませんが」
どこまでも素知らぬ顔である。
「ですが、そうですね」
夜風に揺れる街路樹を見上げながら続ける。
「せっかくの祝祭です。終始難しい顔をしていては、ムー・ヌーも肩を落とすかもしれません」
わずかに微笑む。
「そういう意味では、ヴォルーツォ殿の考えにも一理あります」
「でしょ〜?」
ヴォルーツォは満足そうに頷いた。
その時だった。
「――おとうさん」
遠くから声が飛んだ。
振り返ると、メイリアが大きく手を振っている。
祭りの灯りに照らされた笑顔は、遠目にもよく分かった。
「それでは、お二方」
アルキンドラネスは軽く胸に手を当て、一礼する。
「後はお若いお二人でごゆっくり」
「ちょっ……」
エフィムが何か言おうとした時には、もう遅かった。
アルキンドラネスは踵を返し、迷いなく歩き出している。
向かう先には家族がいる。待っている人がいる。
それだけのことなのに、どこか羨ましく見えた。
メイリアが駆け寄る。
アルキンドラネスは僅かに表情を緩める。
普段の彼を知る者なら驚くほど穏やかな顔だった。
やがて親子の姿は暗闇の向こうへ消えていく。祭りの後の静けさだけが残った。
ふと気付く。
いつの間にか隣にいるのはヴォルーツォだけだった。
「……行っちゃったね」
エフィムがぽつりと呟く。
「そうだねぇ」
ヴォルーツォは小さく笑った。
しばらく二人で歩く。祭りの喧騒は少しずつ遠ざかり、代わりに夜の静けさが戻り始めていた。
石畳を踏む音だけが、規則正しく響く。
「……あと何回、こうして君とお祭りを楽しめるかな」
不意にヴォルーツォが呟く。
どこか独り言のような声音だった。
「え?」
エフィムが顔を上げる。
ヴォルーツォは立ち止まっていた。
振り返る。
街灯の明かりが横顔を淡く照らしている。
「僕はさ、エフィムくん」
静かな声だった。
「君が成長していく姿を見ていたいんだ」
夜風が吹く。街路樹が揺れる。
「これから先も、一緒に色んな景色を見て」
少しだけ照れ臭そうに笑う。
「沢山、楽しいことを共有したい」
胸の奥が小さく鳴った。
理由は分からない。けれど、その言葉を聞いた瞬間、鼓動が少しだけ早くなった気がした。
「……そう、ですね」
エフィムは視線を逸らす。まともに見返せなかった。
ヴォルーツォはそんな様子を見て、少しだけ目を細める。
「エフィムくん」
呼ばれる。それだけなのに胸がざわつく。
「僕は君が好きだ」
今度は迷いのない声だった。
「この気持ちが友愛なのか、恋なのか」
小さく肩を竦める。
「正直、僕にも分からない。――ただね」
ヴォルーツォは笑う。
「僕は君に恋をするのが好きなんだ」
少し風が吹いた。
髪が巻上げられ、喧騒が遠くで微かに響いている。
エフィムはその場から動けなかった。
ヴォルーツォは静かに続ける。
「君の真っ直ぐな目に惹かれて」
穏やかな声音だった。
「君の諦めない姿勢を尊敬して」
空を見上げたまま言う。
まるで独り言のように。
「だから、僕は君のことが好きなんだ」
真っ直ぐな言葉だった。
飾り気もなく、誤魔化しもなく。
けれど、その重さを今のエフィムは受け止めきれない。
「――それは……」
口を開く。何かを返そうとする。
だが言葉が見つからない。
喉の奥で引っ掛かり、形にならず消えていく。
「……分かりません」
ようやく絞り出した声は情けないほど弱かった。
ヴォルーツォは責めることなく微笑む。
「今はそれでいいさ」
抱えていた黒猫のぬいぐるみを抱き直した。
「これは僕の一方的な宣言みたいなものだからねぇ」
どこか照れ隠しのように笑う。
「むしろ、覚悟を決めるべきなのは僕の方だ」
「覚悟……?」
エフィムは眉を寄せた。
ヴォルーツォは少しだけ視線を伏せる。
「そう」
静かな声だった。
「僕は長くないからさ」
夜風が吹く。風の音が遠くなる。
長くない。その言葉だけが胸の奥に沈んでいく。
意味は分からない。それなのに、不思議なほど恐ろしかった。
「――まあ」
ヴォルーツォはいつもの調子に戻る。
「今はこれくらいにしておこうか」
軽く肩を竦める。
「それじゃあ、また」
そう言って背を向けた。
離れていく。
その背中を見た瞬間だった。胸の奥が強く軋んだ。
今行かせたら、きっと後悔する。
理由は分からない。理屈もない。
けれど身体が先に動いていた。
「――待って!!」
気付けば呼び止めていた。
数歩駆け寄る。そして、その背中を掴む。
ヴォルーツォが振り返る。珍しく目を丸くしていた。
「おや?」
本当に予想外だったのだろう。
自分でも何をしているのか分からなかった。
「い、今……」
声が震える。
「あなたが、変なこと言うから……」
「え?」
ヴォルーツォは困ったように笑う。
「わたしも……」
小さく呟く。
「ヴォルーツォさんの……」
そこで止まる。続きが出てこない。
――好き。
たったその一言が、どうしても言えなかった。
「――エフィムくん。それはさ」
ヴォルーツォは微笑む。
「君自身の気持ちを見つけてから言わないと」
夜風が吹く。
祭りの灯りが遠く揺れていた。
「後悔するよ」
エフィムは何も返せなかった。
ヴォルーツォはそっと手を伸ばす。
指先が髪に絡む。
優しく。あまりにも優しく。
それが、かえって残酷だった。
「だからね」
穏やかな声だった。
「ゆっくりでいい」
急かすこともなく。答えを求めることもなく。
ただ待つと告げるように。
「君は君の答えを見つけなきゃ」
それだけ言って、ヴォルーツォは背を向ける。
足音が遠ざかる。振り返らない。
その背中が、人混みの中へ溶けてしまいそうで。胸の奥が締め付けられた。
「――ヴォルーツォさん!」
気付けば叫んでいた。
夜の空気を震わせるほど大きな声だった。
ヴォルーツォが足を止める。
「好きです……」
息が苦しい。胸が痛い。
それでも。
「あなたのことが……好きです」
言葉は夜空へ放たれる。
届かないかもしれない。笑われるかもしれない。それでも伝えたかった。
ヴォルーツォは静かに振り返る。
灯りがその横顔を照らしていた。
そして――少しだけ困ったように。
「ありがとう」
その声は、どこまでも優しかった。
まるで長い旅路の果てに、ようやく欲しかった言葉を授かったように。
「それが君の答えなら」
ヴォルーツォは静かに目を細める。
「受け取らなきゃ、男が廃るよねぇ」
その笑みはどこまでも穏やかだった。
夜風が吹き抜ける。
祭りの熱気をわずかに残した空気が、二人の間を通り過ぎていった。
けれど今は、それすら遠い。
石畳を踏む足音が一つ。また一つ。
気付けば、二人の距離はほとんどなくなっていた。
月明かりが肩を照らす。並んだ影がゆっくりと重なる。
「――それじゃあ、これからは遠慮なく」
低い声が耳元をくすぐった。
その意味を問い返す暇はなかった。
そっと頬に触れる指先。
そして――唇に、柔らかな温もりが重なる。
ほんの一瞬だった。触れて、離れる。
それだけ。それだけなのに。胸の奥で何かが弾ける。驚きよりも先に熱が駆け巡った。
顔が熱い。心臓がうるさい。呼吸の仕方すら分からなくなる。
ただ一つだけ確かなことがあった。
今の温もりだけは、きっと生涯忘れられない。
いや、忘れたくない。
「あは……もしかして、エフィムくんって、こういうことするの――」
耳元で囁かれた瞬間。
「ひゃうっ」
肩が大きく跳ねた。反射的に顔を上げる。
目の前には、楽しそうに目を細めたヴォルーツォがいた。
「は、はじめてなわけないじゃんっ!」
勢いだけで言い返す。
言ってから気付いた。耳の先まで熱が駆け上がる。今すぐ穴を掘って地球の裏側まで逃げたい。
「……そっかぁ」
ヴォルーツォは小さく頷いた。
「それは残念」
くすりと笑う。
その言葉に、エフィムの顔はさらに赤くなった。
――絶対に信じていない。というより、全部見透かされている。
夜風が吹く。
二人の間を柔らかく通り抜けていった。
ヴォルーツォは少しだけ身を引く。
「さて、と」
乱れた前髪を指で整える。
いつも通りの仕草。いつも通りの口調。
けれど。どこか満たされたような笑みが口元に残っていた。
「帰ろっか」
あまりにも自然な言葉だった。
まるで何もなかったかのように。
二人は並んで歩き出す。
石畳に響く足音。
祭りの灯りは少しずつ遠ざかっていく。
けれど――。
唇に残る温もりだけは、なかなか消えてくれそうになかった。
ending
フェイルツィーオは一人、晩酌をしていた。
テーブルの上には琥珀色のウイスキーと、小皿に盛られたチーズ。
静かな部屋に響くのは、氷が溶ける微かな音だけだった。
彼はグラスを傾けながら、届いたメールへ目を落とす。
――RE:ご報告。
本文も同じ程度の軽さだった。だが、その内容は決して軽くない。
先日のパーティーに、ヴォルーツォの弟と思われる人物が出席していたらしい。
「……あの男」
無意識に呟く。
アンティークショップで出会った男。ヴォルーツォと瓜二つの顔。
それなのに、どこか歪な存在。
あの時から、妙な違和感だけが胸の奥に残り続けていた。
もし、もう一度会えたなら。もし、話を聞くことができたなら――何かが分かる気がしていた。
だが結局、今回も成果はない。
「……結局、核心には届かなかったか」
椅子の背にもたれる。
分かったことは一つだけ。奴がヴォルーツォの弟であるということ。それだけだった。
フェイルツィーオはウイスキーを口に含む。
「カミハナは、どこまで知っているんだ……」
ぽつりと零す。
「ボク達は知らなければいけない」
視線を窓の外へ向ける。夜の闇は深い。
「あの男が何者なのかを」
そして――魔術師育成協会という、この箱庭のことを。
グラスを置く。氷が小さく鳴った。
「……魔術師育成協会には秘密がある」
低く呟く。
「ボク達が、まだ知らない秘密が」
部屋に沈黙が落ちる。
窓の向こうでは、眠らない夜が続いていた。
「……良くない。このままでは、良くありませんね」
フェイルツィーオはグラスを手に立ち上がった。
窓辺へ歩み寄り、カーテンを開く。眼下には夜景が広がっていた。
ただ遠く、ただ虚しい。
「こんなものがあっても、何の役にも立たない」
そう言って右目の眼帯に手をかけた。ゆっくりと外す。
窓ガラスに映った自分と視線が合う。
そこにあるのは人の目ではない。妖しく輝く義眼だった。
暗闇の中で淡く脈打つ光。まるで所有者を見定めるように、静かに輝いている。
「……情けない話ですね」
窓に映る自分へ語りかける。
「ボクはいつまで経っても半人前だ」
その笑みはひどく弱々しかった。尚も夜景だけが変わらず輝いている。
その時だった。
テーブルの上に置いていたスマートフォンが震える。
画面に表示された名前を見て、フェイルツィーオは小さく眉を動かした。
――エフィム=ゾーラ。
一瞬だけ躊躇う。
だが結局、通話ボタンを押した。
『チェンさん、ありがとうございました』
開口一番、弾んだ声が返ってくる。
『無事にライツォフィオナさんを幹部用住宅へ移すことができました』
その声音だけで察しがついた。
どうやら上層部の説得は上手くいったらしい。
『でも、本当に良かったんですか?』
少しだけ声色が曇る。
『何かあった時の責任は全部チェンさんが持つなんて……』
「仕方ありませんよ」
フェイルツィーオは窓の外へ目を向けた。
「そうでもしなければ、情報は引き出せません」
薄く笑う。
「まだあの女には利用価値があります。もう少し泳いでもらわないと」
電話の向こうでエフィムが小さく息を呑んだ気がした。
しばしの沈黙。
やがて彼は話題を変えるように言った。
『それより、その……バライバ理事長のお孫さんが、魔法薬の被験者に選ばれたそうです』
唐突に告げられた言葉。
「そうですか」
しかし、フェイルツィーオは落ち着き払った態度で応じる。
『――えっ』
意外そうな声が返ってきた。
驚く様子が想像できるほど分かりやすかった。
『驚かないんですか……?』
「ええ。それより――」
氷で薄まったアルコールが喉を焼いて行く感覚が心地良い。
「ヴォルーツォさんはなんと」
端的な問いに、エフィムが慎重に答える。
『……分からないです。ずっとバライバ理事長と話し込んでる様子で、こちらには視線すら向けませんでした』
「でしょうね」
フェイルツィーオは苦笑する。
「あの男は、元からそういう男です」
そう言いながら、チーズに手を伸ばす。
『チェンさん』
少しだけ声が固くなった。
『その、まさかと思いますけど、バライバ理事長とヴォルーツォさんて……』
そして、最後に念押しするように告げる。
『バルディナ王国の件に関わっていたんじゃないですよね』
その瞬間、フェイルツィーオは手に持っていたグラスを思い切り床に叩きつけた。ガシャンという音が響き渡る。
電話越しに小さな悲鳴が聞こえた。
「……ボクだって知りたいですよ」
掠れた声が漏れる。
床に散ったガラス片の隙間を、琥珀色の酒がゆっくりと広がって行く。
それはまるで消えることのない傷痕のようだった。
「あの人は一体なんなのか」
そう呟くと、フェイルツィーオは右眼に手を当て、静かに涙を流した。




