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シャルトルーズ・ドゥ・パルム 後編

 女なんて生き物は醜い。


 地位、家柄、年収、学歴。

 男を値踏みするための尺度ばかりを並べ立て、自分は何一つ差し出そうとしない。


 甘えを愛嬌と呼び、依存を献身と呼び、都合が悪くなれば「価値観の違い」の一言で全てを投げ捨てる。つくづく身勝手な生き物だ。


 ――フェイルツィーオ・マクシミリアン・チェン、22歳。


 家柄良し、容姿良し、成績優秀。

 誰もが羨む将来を約束された青年だ。


「――待てやジジイィィイ!!」


 外から響いた大声に、フェイルツィーオは眉を顰めた。


 西棟の渡り廊下からは、協会の庭がよく見渡せる。


 芝生の上を駆け回るのは、茶褐色の被毛を持つ犬と、その後を追い回す金髪の小娘だった。

 犬は植え込みに鼻先を突っ込み、何かを探しているらしい。

 小娘はそれを止めようとしているのか、ただ騒いでいるだけなのか判然としない。


「……全く騒がしい」


 フェイルツィーオは窓から目を逸らした。


 どいつもこいつも気楽なものだ。

 世界が自分を中心に回っているとでも思っているのだろうか。


 苛立ちを紛らわせるように、窓枠に頭を打ち付ける。


「……女はいいな。家庭に入れば保護され、働けば働いたで権利を主張する。どちらを選んでも損をしない。実に羨ましい人生だ」


 吐き捨てるように呟き、廊下を後にする。


 その時だった。懐のスマートフォンが短く震える。

 画面に表示された名前を見た瞬間、フェイルツィーオは露骨に顔をしかめた。


『――兄様、そろそろジャンパカダへ戻る頃合いかと。貴方様のお気持ちは分かりますが、お父様も心配なさっている頃合いですわ』


 フェイルツィーオは大きく舌を打った。


 小さい頃はそれなりに可愛げもあったはずだが、いつの間にか父親そっくりの小言屋になってしまったらしい。


 家族でありながら、まるで監視役のような口ぶりで私生活にまで首を突っ込んでくる。


「別に父上のことは関係ない。ボクは単に本部に用事があって来ているに過ぎない」


 苛立ちを隠さず言い返す。


「本当のところを言えば、本部への異動を願い出ているんだが――なかなか聞き入れてもらえない」


 そして、わざとらしくため息を吐いた。


「お前こそ、さっさと嫁に行って子供でも産んだらどうだ。その点、エゼルリードの嫁は感心なものだ。もう二人目だそうじゃないか。少なくとも、お前よりは役に立っている」


 皮肉を込めて言い放つ。

 だが妹は動じる様子もなく、電話越しに鼻を鳴らした。


『そういう兄様はどうなさいますの。これ以上、あちらのご家族をお待たせするべきではないでしょうに』


 その言葉に、フェイルツィーオの眉がぴくりと動いた。


 何故だろう。父親に言われるよりも、弟に言われるよりも、この女に言われる方がよほど腹が立つ。


「……黙れ」


 声が一段低くなる。


「ボクの気持ちも知らずによくもそんな口が利けたものだな」


 スマートフォンを握る手に自然と力が入った。


「もう一度言うが、家督はエゼルリードに譲る予定だ。ボクなんかより、あいつの方が余程上手くやっていける。皆そう言っていただろう」


 吐き捨てるように続ける。


「……それに、お前もいい加減身を固めたらどうだ」


 しばしの沈黙。言い返してくると踏んでいたフェイルツィーオは、僅かに眉を顰めた。


『――知っているくせに』


 妹の声が静かに落ちる。


『ワタクシの気持ちなど、とっくにお見通しでしょうに』

「……リュディオール、だろう」


 電話越しに息を呑む気配が伝わってきた。


『何故……それを』

「何故も何もなかろう」


 フェイルツィーオは呆れたようにため息を吐く。


「あれだけ分かりやすければ嫌でも気付く」


 肩を竦めた。


「あの男はやめておけ。どうせゴリラ女――リヒェンツァにしか目がない。勝ち目など最初からないだろう」


 しばらく返事はなかった。


『そうですわね』


 その声は不自然なほど穏やかだった。


『初めから勝負にならない負け戦ですもの。……けれど、ワタクシは諦めが悪いんですの』


 声の調子は平静を取り繕っているようだが、そこに滲む屈辱的な感情は隠しようがない。


「おい、アフェルディータ。くれぐれもあのゴリラ女が暴れないように見張って――ぐわっ!?」


 突如、襟首を誰かに掴まれる。

 フェイルツィーオは大きく仰け反り、そのまま後ろへ倒れそうになった。


「ンフフ、フェイルくぅん? こんな所で兄妹喧嘩かぁい?」


 聞き覚えのありすぎる声。全身から血の気が引く。

 ぎこちなく振り返った先には、満面の笑みを浮かべたヴォルーツォの姿。


「あ、これは……いや、その……」

 

 廊下には、いつの間にか数人のギャラリーが集まっていた。


「君ってば、熱中するとすぐ周りが見えなくなるんだからぁ。……内緒話をするなら、もう少し目立たない場所を選ぶべきだと思うよ〜?」


 ヴォルーツォがふわりと微笑む。

 だが、その目は少しも笑っていなかった。


「これは失敬。つい夢中になって――」


 言い訳を遮るように、細い人差し指がフェイルツィーオの唇に触れる。


「ンフフ♪ まぁ良いさ。ここで会えたのも何かの縁だし、これから遊びに行かな〜い? ……なぁんて」


 断られる前提の誘いだった。

 少なくとも、ヴォルーツォはそう思っていた。


「いいですよ」


 一瞬――ヴォルーツォの表情が固まった。


「……どうしちゃったの、フェイルくん」


 信じられないものを見る目だった。

 次の瞬間には額へ手を伸ばし、熱でも測るように触れてくる。


「変なもの食べた? それとも具合でも悪い?」

「失礼ですね」


 フェイルツィーオは眉ひとつ動かさず、スマートフォンをポケットへ仕舞った。


「別にこれといった理由はありません。貴方の方から誘ったのでしょう」

「……いや、まぁ、確かにそうだけど」


 ヴォルーツォは怪訝そうに首を傾げる。

 普段ならここで嫌味の一つでも飛んでくるはずなのだが。


「いやぁ、フェイルくんと遊べるの嬉しいよ〜」


 両手を合わせ、大袈裟に喜んでみせる。

 もっとも、その口元は笑っていても目は少しも笑っていなかった。


「でもさぁ……本当にいいの?」


 不意に声の調子が変わる。


「今さらだけど、僕と遊びに行くっていうのが……どういう意味か、分かってるよねぇ?」


 その言葉にフェイルツィーオは周囲のギャラリーたちを横目に見やり、わざとらしい咳払いをひとつ落とした。


「お好きにどうぞ。ボクは一向に構いませんから」

「へぇ。……じゃ、どうなっても知らないよ?」


 ヴォルーツォは腕を組み、意味深に周囲を見回す。


「じゃあ行こうか、フェイルくん」


 肩を抱かれ、強引に歩き出す。


 別に理由なんてない。暇だったから。

 ただ――それだけの理由だ。


 2


 こんな時間から、男二人で街へ繰り出す。

 それだけでも十分に噂の種だ。


 まして片方はヴォルーツォで、もう片方はフェイルツィーオ。

 明日になれば、どんな尾ひれが付いていることやら。


 他人の評判など気にしないと言えば嘘になる。

 だが、今さら気にしたところで栓なきことだが。


「……ほら、ミルクティーだよ〜」


 不意に頬へ冷たい感触が押し付けられた。


「冷たっ――」


 言い終える前に、隣へヴォルーツォがどさりと腰を下ろす。


「ンフフ、ごめんよぉ。ホントは温かい方が良かったかな〜?」

「どちらでも構いませんよ」


 受け取ったペットボトルを開け、一口含む。

 途端に眉が僅かに寄った。


 甘ったるい。ただ甘味を足しただけ。

 雑味ばかりが舌に残り、肝心の茶葉の風味はほとんど感じられない。


「どこに行くぅ? 繁華街? それとも新商業区とか?」


 ヴォルーツォが缶を揺らしながら尋ねる。

 今日はコーンスープらしい。相変わらず妙なものを好む男だ。


「どこでも構いません」


 短く答える。


「本当につれないねぇ、君は……。おっ、来た来た」


 ちょうどその時。ナァダリ区名物のマリントラムが、甲高い高周波音を放ちながらホームへ滑り込んできた。


「僕、電車のピーって音苦手でさぁ」

「磁励音です」


 即座に訂正が飛ぶ。


「VVVFインバーターによる電力制御の副産物ですよ。直流から交流へ変換する際、電動機の振動が車体へ伝わってあの音になります」

「へぇ……じゃあさ、エフィムくんに何したわけ? 妙によそよそしいんだけど」


 ヴォルーツォがあっさり話題を切り替えた。


「……何のことでしょう」


 フェイルツィーオはトラムの方へ視線を向けたまま答える。


「別に何もありませんよ」

「まさかとは思うけど、泣かせたりしてないよね?」

「……随分な言いがかりですね。根拠に欠けています」


 淡々と返し、興味を失ったようにホームへ目を移す。


「それで、どこへ向かうのですか。ナンパですか? それとも?」

「……僕って、そういうイメージなのかなぁ」


 ヴォルーツォは肩をすくめて苦笑した。


「君の発想のほうがよっぽど直接的だよねぇ」


 そう言いながら、開いたドアから降りてくる乗客の流れに紛れるように二人は踏み出した。


「自業自得じゃないですか」


 いつもは満席のマリントラムも、この時間帯は比較的空いている。

 学生たちは学校へ。勤め人たちは職場へ。


 ぽっかりと空いた二人掛けの座席へ、ヴォルーツォは遠慮なく腰を下ろした。


「……ねぇ、フェイルくん。女の子抱いたことあるわけ?」


 あまりにも脈絡のない問いだった。

 フェイルツィーオは眉ひとつ動かさない。


「ありませんよ」


 その答えに、ヴォルーツォの口元が愉快そうに歪む。


「あはっ、だろうねぇ!」


 快活な笑い声が車内に響いた。


「女の子はいいよぉ。柔らかくて、温かくて、良い匂いがしてさぁ」

「そうですか」


 フェイルツィーオは窓の外へ視線を向ける。

 興味がない。そう言わんばかりの態度だ。

 だがヴォルーツォは気にも留めない。


「抱き締めるとねぇ、壊れちゃいそうなんだ。だから大事にしなきゃって思うんだよ」

「へぇ」

「もぅ、反応薄いなぁ! 自分から振った癖して」


 ヴォルーツォは頬杖をついた。


「フェイルくんてさ。本当は女の子嫌いなんじゃない?」


 からかうような口調だった。だが、その目は笑っていない。


「なんでそんなに頑ななわけ?」


 フェイルツィーオは小さく鼻を鳴らした。


「男だからといって、女を毛嫌いしていたら結婚できませんからね」


 その言葉に、ヴォルーツォが僅かに目を瞬かせる。


「結婚?」

「ええ」


 まるで天気の話でもするように続けた。


「許嫁がいましてね。近いうちに正式な婚姻を結ぶ予定です」

「へぇ……意外だね」

「そうでもないですよ。自由意思ではありませんから」

「ふふ、つまり練習に付き合わされるわけだ」


 ヴォルーツォは愉快そうに喉を鳴らした。


「……さて、次の駅で降りようか。目的地は決まってるからね」

「行き先くらい教えたらどうですか」


 フェイルツィーオにしては珍しく、声に棘が混じる。


「君なら分かるだろうに」


 ヴォルーツォは悪戯っぽく片目を閉じた。


 いつだってそうだ。

 人を見透かしたような顔をして、勝手に先を歩いていく。


 気に入らない。実に気に食わない。

 なのに、その笑顔を真正面から否定しきれない自分がいる。


「分かりませんね」


 視線を逸らしながら肩を竦めた。


「察しの良さだけで生きていけるなら、誰だって苦労はしませんよ」

「――ほら、おいでよ」


 ヴォルーツォが手を差し出す。

 まるで絵本から抜け出してきた王子様のような仕草だった。

 もっとも、その顔に浮かぶ笑みは気品より悪戯心の方が勝っているが。


「何を考えているのですか」

「さぁ、なんだろうねぇ」


 一瞬だけ。フェイルツィーオの視線が差し出された手へ落ちる。

 だが次の瞬間には、その手を軽く払いのけていた。


「行きましょう」


 ちょうどその時、ブレーキ音と共にトラムが停止する。

 扉が開き、降車を促すアナウンスが流れ始めた。


 3


 漣の音が耳に心地よい。


 マリントラムの終着駅は、ラナカラヤ駅に接続している。

 海が目の前にあるというだけで、街全体に漂う空気はどこか違っていた。


 潮の香りを含んだ風が吹き抜けるたび、磯の匂いとともに微かな塩気が肌を撫でていく。

 駅に隣接したカフェテラスは冬季のため閉鎖中らしく、降り立つ乗客の姿もまばらだ。


 冬の海辺らしい静けさが辺りを包んでいた。


「――さあ、ここだよ」


 ヴォルーツォはコートの裾を風に遊ばせながら振り返った。


「思ったより、人が少ないですね」


 フェイルツィーオは周囲を見渡した。


 冬場の海辺が賑わうはずもない。

 港湾施設と住宅街の狭間にあるこの駅は、普段から利用客が少ないのかもしれなかった。


「……それで? 何をするんですか。ナンパをするにしても、これでは話になりませんが」

「相変わらずの言いようだねぇ」


 ヴォルーツォは肩を竦める。


「ちょっとついておいでよ」

「はぁ……」


 促されるまま、その後に続いた。

 海へ続く階段をいくつか下ったところで、ヴォルーツォがふいに足を止める。


 その先には砂浜が広がっていた。

 シーズンオフの今、訪れる人影はまばらだ。

 打ち寄せる波の音だけが、やけに大きく耳に響いていた。


「久しぶりに来たなぁ」


 ヴォルーツォは階段に腰を下ろし、煙草を一本取り出した。


「君、何か抱えてるんだろ? お兄さんに話してご覧よ。きっと力になれると思うよ〜?」

「貴方に相談できるほど、純真な少年時代は送っていません」

「そんなぁ」


 ヴォルーツォは拗ねたように唇を尖らせると、マッチを擦って火を灯した。


「ねぇ、フェイルくん。今日だけ特別に心を開いてほしいな。誰だって生きていれば一つや二つ、厄介ごとを抱えるものなんだからさ」

「随分な物言いですね」


 フェイルツィーオはわずかに目を伏せ、懐から飴玉を取り出した。


「人に聞かせて面白い話ではありませんよ」


 慣れた手つきで包装を剥がし、口へ放る。

 カラン――。波音に溶けるように、小さく硬い音が口の中で鳴った。


「へぇ、君って飴なんか舐めるんだ」

「口寂しいだけですよ。貴方と同じです」

「へへっ。乳離れできない子供みたいな理由だね〜」


 ヴォルーツォはからかうように笑い、ゆっくりと煙を吐き出した。


「まぁ、僕も人のことは言えないかもしれないけどね」


 フェイルツィーオは答えない。ただ、じっと砂浜を見つめていた。

 まるでそこに、誰にも掘り返されたくない何かが埋まっているかのように。


「……砂浜で遊ぼうか。お城でも作ってさ」


 ヴォルーツォは立ち上がりざまに尻の砂を払い、最後の段を下りて砂浜へ足を踏み入れた。

 柔らかな砂が靴底を受け止め、沈み込む。


「ボクはもう子供じゃないので」


 フェイルツィーオは素っ気なく答えた。


「ふ〜ん、つまんないの」


 ヴォルーツォは唇を尖らせる。


「おいでよ。たまには童心に帰ってみるのも悪くないんじゃない?」


 そう言いながら、乾いた砂を手でかき集める。


 山を作る。誰に教わったわけでもないのに、手は勝手に砂を積み上げていく。

 波に攫われたなら、また一から作り直せばいい。


 終わりのない行為だった。

 それでも不思議と退屈ではない。


 フェイルツィーオは遠くを見つめたまま、微動だにしない。


「波の音を聞いてるとさぁ、他のことが全部どうでもよくなるよねぇ」


 ヴォルーツォは砂を叩いて固めながら呟く。


「そうでしょうか」

「あはは。難しいこと考えなくていいよ」


 ヴォルーツォは肩を竦めた。


「ただ、ここは静かでいいだろう。悩みを洗い流してくれるみたいで、気に入ってるんだ」

「そうですか」


 素っ気ない返事。

 だが、不思議と嫌ではなかった。


 大人二人が、仕事をサボって海を眺める。

 それだけでも、世間から見れば十分な悪徳なのに。


「ねぇ、フェイルくん」


 ヴォルーツォは、波音に掻き消されそうな声で言った。


「人間の営みなんて、砂のお城と同じだと思わない?」


 指先で靴に着いた砂を払う。


「どれだけ積み上げても、波が来れば呆気なく流されちゃうんだ」

「……つまり、流されたいと」

「いいや」


 ヴォルーツォはゆっくりと首を振った。


「流されても、人間は強いよ」


 せっかく積み上げた山を崩しながら。


「何度だって積み直せるからね」


 フェイルツィーオはわずかに唇の端を吊り上げた。


「随分と壮大なお話をされますね」

「そぉ?」


 ヴォルーツォは不思議そうに首を傾げる。


「信頼も、愛情も、友情も。全部目には見えない。形のないものばかりだろう」

「くだらない」


 フェイルツィーオはそう吐き捨てると、口の中で飴玉を転がした。

 カラン。小さな音が波音に溶けていく。


 まるで砂の城が波に崩されるように、この会話にも終わりが訪れることを告げているかのようだった。


「……おんやぁ?」


 尻ポケットのスマートフォンが震えた。


「これは、これは……」


 画面を確認した彼の眉が楽しげに持ち上がる。


「えへへ、いいタイミング。ウチの可愛い子ちゃんから応援要請だぁ♡」


 猫を撫でるような甘い声。

 口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。


「ごめんね。僕、先に帰るよ。実は結構忙しい身でさぁ」

「そうですか。お気遣いなく。こちらは暇なので、しばらく一人で留守番していますよ」

「そっか」


 ヴォルーツォは悪戯っぽく目を細めた。


「また遊ぼうね。一人の友人としてさ」


 そして、ひらひらと手を振る。


「それじゃ――」


 砂浜に足跡を刻みながら、ヴォルーツォの背中が遠ざかっていく。


 波が、静かに砂の城を飲み込んでいく。

 残されたフェイルツィーオは、口の中の飴玉を噛み砕いた。


「……くだらない」


 呟いた声は、波間に消えていった。


 4


「――何着ればいいんだろ」


 ごろん、と部屋のソファへ寝転がる。

 手にした封筒をひらひらと振りながら、エフィムは天井を見上げた。


 招待状の差出人はカミハナ=ロッソ。ロッソ・カンパニー会長。

 そして今回の主役は、その長男ヴィンセント。


「誕生日パーティーとか、そういうのって子供の頃に卒業するもんじゃないの……?」


 思わず独り言が漏れる。封筒の端を指先で弾いた。


 ロッソ・カンパニーといえば、大手魔法薬メーカーとして知られる巨大企業だ。

 魔術師育成協会への出資額も桁違い。

 その次期社長ともなれば、住む世界が違う。


 そう言ってしまえば簡単だが、エフィムもまた、他人から見れば十分そちら側の人間ではある。


 それでも、成り行きで会長になったエフィムと、生まれた時から全てを約束された御曹司とでは、生きてきた環境が違う。


 だから当然、親交もない。


 誕生日パーティーの招待状など貰う謂われもなければ、足を運ぶ理由も本来なら存在しない。


「でも、魔術師育成協会としては、顔を出さないわけにもいかないし」


 ちらり、と封筒を裏返す。

 素人目にも上質だと分かる紙材。深紅と黒を混ぜたような蝋封。

 中を開けば、やはり一級品の便箋に端正な筆跡が並んでいる。


「……これは、行くしかないな」


 溜息混じりに呟き、再びソファへ背を預けた。


 問題は衣装だった。

 こういう場へ招かれるのは初めてではないにせよ、御曹司の誕生日パーティーなど経験がない。


 礼服なら持っている。

 だが、どれも会長職に就いてから仕立てられた堅苦しいものばかりだ。

 かといってレンタルというのも味気ない。

 別に誰かに咎められるわけではない。

 それでも、何となく落ち着かなかった。


 格式を重んじるべきなのか。

 それとも若者らしく多少は砕けた方がいいのか――。


「……分からない」


 エフィムは封筒を胸の上へ乗せたまま、ぼんやりと天井を見上げた。

 すると、封筒の隙間からもう一枚の紙がするりと滑り落ちる。


 それは厚手の招待状だった。

 白地に金の縁取り。裏面には精緻な魔法陣が描かれている。


 どうやら入場許可証を兼ねているらしい。

 招待された本人の魔力にのみ反応し、他者の侵入を防ぐ仕組みだ。


「……厳重だな」


 ただの御曹司のお誕生日会とは思えない。


 大企業ともなれば、どこで恨みを買っていても不思議ではない。

 これくらいの警備体制も当然なのだろう。


 エフィムは半身を起こし、拾い上げた招待状をしげしげと眺めた。


 その時だった。ベッドへ放り投げていたスマートフォンが短く震える。


「――誰だろ」


 嫌な予感ほど、よく当たるものだ。

 画面に表示された名前を見た瞬間、エフィムは露骨に眉をひそめた。


 5


「ねぇ、あなた。少しお話を聞いてもよろしいかしら」

「んー? どうかしましたか」


 ここは魔術師育成協会本部。

 日も傾き始めた庭には人影もまばらで、植え込みの手入れをしていた男性職員だけが黙々と作業を続けていた。


 声を掛けられた男性は手を止め、ゆっくりと振り返る。


「『イル・マット』という組織について、何かご存じないかしら。どんな些細なことでも構わないのだけれど」


 女性は周囲へさりげなく視線を走らせた。


 尋ねる相手は慎重に選ばなければならない。

 魔術師に関わる組織は数多く存在するが、『イル・マット』は別格だ。


 その名を知らぬ者は少ない。そして、その名を軽々しく口にしたがる者もまた少なかった。


「『イル・マット』ねえ……。協会が公表してる以上のことは知りゃあせんよ。儂はただの職員だからな」


 男性は困ったように肩を竦めた。

 だが、その言葉を聞いた瞬間だった。彼の視線が、ほんの僅かに横へ流れる。

 それは一瞬のこと。見逃してしまいそうなほど些細な変化だった。


「……何だって急にそんな事聞くんだい」


 彼の言う事も最もだ。

 その組織名は友人から耳にしただけで、しかも未だ規模も分かっていないような組織である。

 それをいきなり見ず知らずの女に聞かれて怪しまない者はいないだろう。


「どうしても知りたいのよ、お願い」


 頭を下げる彼女に職員の男は、何度目かの溜め息を吐くと、分かったと答えた。


「儂が知っている範囲だけだからな――」



「……お待たせしました。魔術師育成協会会長のエフィム=ゾーラです」


 そう言って現れたのは、まだ幼い子供だった。

 エフィムは額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、小さく息を吐く。


 ライツォフィオナは僅かに目を細めた。

 若き会長。その名は何度も記事で目にしていた。

 だが実際に相対すると、思っていた以上に頼りなさそうな少年に見える。


「私はフリー記者のライツォフィオナ・マキャシナラと申します」


 名刺を差し出しながら、軽く会釈する。

 エフィムはそれを受け取り、記された文字へ視線を落とした。


「いいえ、構いません。それより、本日は何か取材ですか? アポイントは取られていないようですが……」

「はい。実は魔術師育成協会に『イル・マット』の関係者が入会したと耳にしまして」


 エフィムは笑みを崩さなかった。だが内心では頭を抱えたくなる。


 協会として外部に漏らしたくない情報が、既に記者の耳に入っている。

 

「『イル・マット』ですか」


 エフィムは首を傾げる。


「申し訳ありませんが、何のことやら」


 しらを切る。ここで露骨に追い返せば余計な憶測を呼ぶだけだ。


「そもそも、魔術師育成協会に反社会の人間がいるという話自体、初耳ですね」


 穏やかな口調を崩さぬまま続ける。


「仮にそんな人物がいたとして、それがどうして貴殿の取材対象になるのでしょうか」


 あくまで冷静に。あくまで丁寧に。そのつもりだった。

 それでも、自分でも気付かぬうちに声には僅かな硬さが混じっていた。


「無理を申し上げていることは承知しております」


 彼女は一歩引くように声の調子を和らげる。


「ですが、どうしても『イル・マット』についてお話を伺いたいのです」


 その眼差しは本物だった。少なくとも興味本位で首を突っ込んでいる者のそれではない。


「実は、かの組織に私の友人が連れ去られた可能性があるんです。ですから、その真相を追いたくて……」


 エフィムはライツォフィオナをじっと見つめた。

 嘘を見抜こうとするように。しかし彼女の瞳に迷いはない。

 少なくとも、この場で虚偽を語っているようには見えなかった。


「……そういう事情でしたか」


 エフィムは小さく息を吐いた。


「お気持ちは分かります。ですが、我々も『イル・マット』については調査中の身です。あまり期待はなさらない方が良いでしょう」


 遠回しな拒絶だった。

 しかし、ライツォフィオナもまた引き下がらない。

 質問を変え、言葉を選びながら、それでも食い下がってくる。


 エフィムは額を押さえた。このまま庭先で続ける話ではない。


「……ここでは何ですので、応接室へご案内します」


 諦めたように肩を落とす。


「お茶でも飲みながらお話ししましょう」


 ライツォフィオナは僅かに目を見開いた後、静かに頷いた。


「ありがとうございます」


 こうなれば、きちんと話を聞いて納得してもらった方が早い。

 エフィムはそう判断し、西棟へ向かって歩き出した。


 6


 西棟の応接室には、高級な革張りのソファが向かい合うように置かれ、その間にはガラス製のテーブルが据えられていた。

 エフィムは片方のソファへ腰を下ろし、向かいを手で示す。


「どうぞ、お掛けください」


 ライツォフィオナが席に着くのを確認してから、エフィムは軽く頭を下げた。


「改めまして、エフィム=ゾーラです。魔術師育成協会の会長を務めています。……それと、この格好はご容赦ください」


 ジャージ姿の自分を見下ろしながら苦笑する。

 自宅で休んでいたところを急遽呼び出されたのだ。とはいえ、客人と会うには些か情けない格好だった。


「いえ、お気になさらず」


 ライツォフィオナは首を横に振った。

 エフィムは一息つくと、本題へ入る。


「先ほどのお話ですが。ご友人が『イル・マット』に連れ去られた可能性がある、というのは?」


 ライツォフィオナの表情が僅かに曇った。


「私の友人、リリハが失踪したのは17年前です」

「17年前……」

「当時、彼女は臨月でした」


 エフィムの眉がぴくりと動く。


「もし生きているのなら、お腹の子も今年で17歳になります」


 ライツォフィオナは膝の上で手を握り締めた。


「ですが、彼女の行方を知る者は誰もいません。警察も、探偵も、誰一人として」


 そこで一度言葉を切る。


「だから私は、『イル・マット』が関わっている可能性を疑っています」


 静かな声だった。

 だが、その瞳には17年分の執念が宿っていた。


「なるほど。事情は分かりました」


 エフィムは静かに頷いた。


「ですが、何故リリハさんが『イル・マット』に拉致されたとお考えなのですか。何か心当たりでも?」

「はい」


 ライツォフィオナは迷いなく答える。


「彼女はバルディナ王国で錬金術師をしていました」

「――っ!」


 エフィムの表情が固まった。

 思わず声を上げかけ、寸前で飲み込む。

 胸の奥が何か嫌な音を立てた。


「……どうかされましたか?」


 ライツォフィオナが不思議そうに首を傾げる。

 エフィムは慌てて視線を逸らし、一度深く息を吐いた。


「いえ」


 そう答えたものの、声は僅かに硬い。


 ――バルディナ王国。

 まさか、その名をここで聞くことになるとは思わなかった。


「あの子は当時妊娠中で、出産費用と生活費を稼ぐために働いていました」


 ライツォフィオナは静かに続ける。


「身重の身体でありながら、国家プロジェクトの責任者を任されるほど優秀だったんです」


 エフィムの表情が僅かに強張る。


「……そのプロジェクトとは?」

「申し訳ありません。それ以上は聞かされていません」


 ライツォフィオナは首を横に振った。


「ただ」

「ただ?」


 気付けば、エフィムはテーブルへ身を乗り出していた。


「研究内容についてだけは聞いています」


 一拍の沈黙。


「人体錬成です」


 応接室から音が消えた。エフィムは絶句する。

 ライツォフィオナもまた、苦いものを噛み潰したような表情で視線を落としていた。


 ――人体錬成。それは禁忌の中の禁忌だ。

 人が人を造る。人工的に生命を生み出す。

 そんな行為は神への冒涜に等しい。


「……そんなものが、本当に実現可能だったと?」


 エフィムは半ば呆然と呟く。


「はい。少なくとも、器までは完成していたそうです」


 ライツォフィオナは頷いた。


「ですが、その後エンネリネ女王が崩御し、プロジェクトは強制的に終了しました」

「そうですか……」


 エフィムは僅かに安堵した。


「ただ」


 その一言に、再び表情が強張る。


「その計画に関わっていた人物の一人がいます」


 ライツォフィオナは真っ直ぐエフィムを見据えた。


「ウィリディアス・ルカ・グレイスです」


 沈黙が落ちた。

 エフィムは何も言えない。否、言葉が出てこなかった。

 そんな彼をよそに、ライツォフィオナは続ける。


「あの子は、バルディナから逃げる際に私を頼ってきました」


 その声は震えていた。


「逃走資金と出産資金が欲しいと。そう言って」


 膝の上で握り締めた手に力が入る。


「でも、私は何もしてあげられなかった……」


 一度唇を噛む。


「もう生きていないのかもしれません。それでも……探さずにはいられないんです」


 ライツォフィオナの瞳には涙が滲んでいた。

 エフィムは黙ってその顔を見つめる。

 やがて静かに息を吐き、ゆっくりと口を開いた。


「つまり、ライツォフィオナさんはこう考えているのですね」


 エフィムは指を組むと、そこに顎を乗せた。


「リリハさんは国家プロジェクトの責任者だった。そして、その研究内容を秘匿するために何者かによって殺害された可能性がある」


 一拍置く。


「……そういう理解でよろしいでしょうか」


 感情を挟まず、事実だけを並べる。

 しかし。ライツォフィオナは静かに首を横へ振った。


「違います」


 その返答に、エフィムは僅かに眉を動かす。


「私は、あの子がまだ生きていると信じています」


 迷いのない声だった。


「リリハは生きています」


 その言葉には、記者としての推論ではなく、一人の友人としての確信が滲んでいた。


「エフィム会長」


 ライツォフィオナは身を乗り出す。


「『イル・マット』の情報を、私にも教えてください」


 エフィムは言葉を失った。


 彼女の願いは理解できる。

 だが、それと協会の情報を渡すかどうかは別問題だ。


 しばらく沈黙が続く。

 やがてエフィムは深く息を吐いた。


 目の前の女性は、もう17年も探し続けている。

 今ここで追い返したところで諦めるようには思えなかった。


「……分かりました」


 慎重に言葉を選ぶ。


「ただし、お話しできるのは協会が把握している範囲だけです」


 ライツォフィオナの表情が僅かに明るくなった。


「ありがとうございます」


 エフィムは内心で頭を抱える。

 厄介なことになった。そんな予感しかしなかった。


 7


「……それだけですか。その空蝉さんという方とお会いすることはできませんか?」


 ライツォフィオナは食い下がる。


「ぜひ直接お話を伺いたいのですが」

「会っても意味ないと思うよ」


 エフィムは苦笑した。


「あのおじいちゃん、耄碌してるから。まともな受け答えは期待しない方がいい」

「それでは、お孫さんには……」

「あー、その娘はやめてあげて」


 エフィムは即座に首を振った。


「仮にもまだ子供なんだ。巻き込むべきじゃない」


 ライツォフィオナは言葉を失う。それでも諦めきれない様子だった。


 今さら引き下がれない。その気持ちは理解できた。

 理解できてしまったからこそ、エフィムは小さく息を吐く。


「……ごめん」


 そして静かに首を横へ振った。


「これ以上は協力できない」


 声に迷いはなかった。


「我々にも守らなきゃいけない人たちがいる」


 ライツォフィオナの表情が僅かに強張る。

 しかし反論はしなかった。


「分かりました。お時間を頂きありがとうございました。また後日改めて伺います」


 そう言って席を立つと、深々とお辞儀をして去って行く。

 エフィムはその後ろ姿を複雑な表情を浮かべながら見送った。


 8


 ライツォフィオナが去った後、エフィムはすぐに上層部へ報告を上げた。


「……それは誠ですか。何故、今になってそんな話が」


 秘書のアルキンドラネスが困惑したように眉を寄せる。

 エフィムも同じ疑問を抱いていた。


 17年前の失踪事件。

 友人を探し続けているという話自体は理解できる。


 だが、何かがおかしい。あまりにも情報を持ち過ぎているのだ。

 しかも、その全てが今になって表へ出てきた。


「気になるんだ」


 エフィムは静かに呟いた。


「彼女の目的が本当に人探しだけなのか」


 脳裏にライツォフィオナの顔が浮かぶ。


 バルディナ王国。人体錬成。そして――『イル・マット』。


 長らく表舞台に姿を見せなかった組織の名が、ここ数日で立て続けに聞こえてくるようになった。

 まして、その首頭であるウィリディアスが人体錬成計画に関与していたなど。


 エフィムは小さく身震いする。エンネリネ女王は、一体何を造ろうとしていたのか。


「……彼女を放置するのは危険ではありませんか?」


 アルキンドラネスが低い声で言う。


「仮にも、それだけの情報を握っている人物です」


 その指摘はもっともだった。


「……協会で保護するというのはどう?」


 エフィムは慎重に言葉を選ぶ。


「彼女の身柄をこちらで預かるんだ。そうすれば安全も確保できるし、情報漏洩の危険も減らせる」


 アルキンドラネスは頷いた。


「それが妥当かと存じます」


 エフィムは密かに安堵する。

 ――だが。


「アタシは反対だね」


 鋭い声が部屋に響いた。

 振り返ると、腕を組んだバライバが入口に立っていた。


「理事長……」

「仮にその、リリスだか、リリハだかって奴が誘拐されていたとしてさ」


 バライバは鼻を鳴らす。


「何で17年も経ってから動き出すんだい?」


 エフィムは言葉に詰まる。


「しかも相手は『イル・マット』だろ。規模も実態も分からない連中だ」


 バライバの視線が鋭くなる。


「そんな相手に関わって、何か起きたら誰が責任を取るんだい?」

「ですが――」

「いいや、関わるべきじゃない」


 エフィムの反論を切り捨てる。


「エフィム坊ちゃん」


 その呼び方は妙に優しかった。

 だからこそ重い。


「ここは何百人もの魔術師を預かってる組織なんだよ」


 静かな声だった。


「アンタ、一人の善意で動かしていい場所じゃない」


 部屋に沈黙が落ちる。エフィムは唇を噛んだ。

 分かっている。バライバの言葉が正しいことくらい。


 相手は未だ全容すら掴めない組織。

 一つ判断を誤れば、協会全体を巻き込みかねない。


 それでも。

 ライツォフィオナのあの表情が、どうしても頭から離れなかった。


 ただ、友人を助けたいという彼女の願いだけは本物だ。


 エフィムは、決意を込めて宣言した。


「バライバ理事長! 申し訳ありませんが、あなたの意見には賛同出来ません」


 エフィムの発言に、アルキンドラネスが口を閉ざす。

 だが、ここまで来たらもう引き下がれない。


「――エフィムくん。僕は君の味方さ」


 エフィムは、てっきり彼だけは自分に賛同してくれるものと思っていた。


 ヴォルーツォはいつものようにへらりと笑った。


「だけど、ごめん。僕もバライバと同意見かなぁ」


 その言葉に、エフィムは目を見開く。

 まさか彼まで反対するとは思わなかった。


「……何故ですか」

「ん〜?」


 ヴォルーツォは首を傾げる。


「だって怪しいじゃないか、その人」


 あまりにも軽い口調だった。


「17年も前の話を持ち出して来たんだろ? 突然『イル・マット』を調べてますって」


 肩を竦める。


「普通に考えて面倒事の匂いしかしないよぉ」

「ですが……」

「それにさ」


 ヴォルーツォの笑みが少しだけ薄くなる。


「仮に彼女が本当のことを言っていたとしても、僕らにどうこうする権利はない」


 部屋の空気が静まった。


「彼女の事情と、協会の事情は別だからね」


 エフィムは反論できない。

 理屈は分かる。分かってしまう。


「ヴォルーツォさん……」

「なんだい?」

「どうして、そこまで言い切れるんですか」


 ヴォルーツォは一瞬だけ目を細めた。

 だが、すぐにいつもの笑顔へ戻る。


「さぁ?」


 あっけらかんと笑う。


「勘かな〜?」


 その答えに、エフィムは眉をひそめる。

 そんな曖昧なもので片付けられる話ではない。

 しかしヴォルーツォはそれ以上語ろうとしなかった。


「エフィム坊ちゃん」


 代わりに口を開いたのはバライバだった。


「アンタ、この前の件を忘れたのかい」


 その言葉にエフィムは息を呑む。


「アンタ一人のために何人動いたと思ってるんだい」


 厳しい口調だった。


「組織ってのは誰か一人の判断で動くもんじゃないんだよ」


 バライバは腕を組む。


「ましてアンタは会長だろう」


 逃げ場を塞ぐような言葉だった。


「誰かを助けるってことは、誰かを危険に晒すってことでもある」


 エフィムは俯く。反論はできなかった。

 できないからこそ苦しかった。


「『イル・マット』を敵に回すのは賛成できないなぁ」


 ヴォルーツォが呟く。


「リリハって人が本当に被害者だったとしてもね」


 そこで一度言葉を切る。


「僕らには、その人の人生を背負う義務まではないんだよ」


 ぐうの音も出ない正論だった。

 組織と個人。大局と心情。両者の間には、決して埋められない溝がある。


「ごめん……なさい」


 絞り出すように呟く。ヴォルーツォは微かに笑うと、「エフィムくんは優しいね」


 ぽん、と肩を叩く。


 その時だった。

 コンコン、と会議室の扉が叩かれる。

 一同が視線を向けるより早く、扉が開いた。


「皆さん、ご機嫌よう」


 聞き慣れた声に、エフィムは嫌な予感を覚える。


「ジャンパカダ支部長のフェイルツィーオです。庭で記者を名乗る女から興味深い話を耳にしましてね。何でも十七年前の事件についてだとか」


 そう言いながら悠々と入室してきたのは、案の定フェイルツィーオだった。


 何故ここにいるのか。誰も呼んでいない。そもそも本部所属ですらない。


 エフィムは頭痛を覚えた。


「フェイルツィーオさん、実は少し――」

「ああ、女の件ですね」


 エフィムの言葉を遮る。


「協会幹部用住宅が一室空いていたはずです。ひとまずそこへ住まわせては如何でしょう」


 実にフェイルツィーオらしい結論だった。


 エフィムは思わず口を閉じる。

 だが、悪くない案だった。


 恐る恐るバライバの方をチラ見する。


「……コイツ呼んだの誰だい」


 バライバが額を押さえる。


「フェイルくぅん?」


 ヴォルーツォはにこやかに微笑んだ。


「あとで医療棟の裏まで来てくれるかなぁ?」


 笑顔だった。だが二人とも目が一切笑っていない。

 しかし、フェイルツィーオも二人の反応を受けても眉一つ動かさない。


「おや。何か問題でも?」


 問題しかなかった。

 エフィムは思わず身震いする。

 

 しかし、今回ばかりは奴の空気を読まない性格が味方になっていた。


「あ、あの……大丈夫なんですか、その……」


 エフィムは恐る恐る尋ねた。


「何がですか」


 フェイルツィーオは首を傾げる。


「記者を協会内に保護する件です」

「ああ」


 彼はあっさり頷いた。


「別に構わないのでは?」


 まるで天気の話でもするような口調だった。


「ボクとしても『イル・マット』に関する情報は少しでも欲しいですし」


 そこで一度言葉を切る。


「仮に問題が起きたとしても、あの女の処分方法ならいくらでもありますからね。例えば……ふふっ」


 微笑む。

 嫌な予感しかしない笑みだった。


「最悪、外に出さずに処理すれば済む話です」


 部屋の空気が一瞬だけ凍った。


「それより」


 フェイルツィーオは何事もなかったかのように話を戻す。


「その情報とやら、ボクにも聞かせていただけませんか」

「……分かりました。別室に移動しましょう」


 エフィムはフェイルツィーオの腕を掴むと、二人の間にできたわずかな隙間を縫うようにして部屋を後にした。


 9


 エフィムの説明を聞き終えたフェイルツィーオは、珍しく黙り込んでいた。

 細い顎に手を当て、何かを考え込んでいる。


「……人体錬成、ですか」


 その声に、いつもの軽薄さはない。


「何のために行われていたんでしょうね」

「そこまでは彼女も知らないそうです。ただ、ある実験のためだったと」


 その瞬間。フェイルツィーオの表情が僅かに強張った。


「……そうですか」


 短い返答。だが、その瞳だけが妙に冷えていた。


「チェンさん?」

「……嫌な予感がします」


 ぽつりと呟く。


「ボクらは今、踏み込むべきではない領域の入口に立っているのかもしれません」


 そして顔を上げた。


「エフィム会長、本当にその記者を協会内に入れても構わないのですか?」

「はい、そうすべきだと思います」


 即答するエフィムに、フェイルツィーオは驚いたように目を瞬かせた。


「何故、そんなにも確信を持てるのでしょう」

「……分からないです」


 エフィムは正直に答える。


「ですが、このまま彼女を放っておくのは危険かなと」


 フェイルツィーオはしばらく黙っていた。

 やがて静かに頷く。


「まあ、そうですかね。どのみち会長閣下は他人の話を聞く気ないのでしょうし。ならば、こちらも勝手に動きますよ」


 エフィムは顔をしかめた。


「何か文句でもあんの?」

「特には。ただ、無理にとは言いませんので」


 フェイルツィーオは涼しげな笑みを浮かべた。


 10


「どぉすんのさ、バライバ。まさか関係者がまだ居たとか聞いてないんだけど〜」

「アタシだって初耳だよ、このスットコドッコイのズンドコベロンチョが」


 バライバとヴォルーツォは、頭を抱えていた。


「良いかい、絶対にあの女を協会に入れんじゃないよ。あそこまで知ってるって時点でアン畜生が目を付けてるだろうし」


 バライバはヴォルーツォに向かって捲したてると、そのまま机に突っ伏して動かなくなった。


 ヴォルーツォは、腕を組んで目を瞑る。


「……いつかこうなる気はしてたさ」


 そう言って、深い溜め息をつく。


「いくらあの場に居た研究者全員を殺したとしても、こうやって外部の人間に情報を漏らしていたなら意味がない」


 バライバは突っ伏していたテーブルから勢いよく顔を上げると、ギロリと睨んで反論する。


「片割れと同じで馬鹿だからだろう。この、アンポンタンめ」


 バライバは、豪奢な金髪をかきあげて、苛立ちを露わにする。


「もう一度言うかんね。その塞がってる耳穴かっぽじってよーーーく聞きな? あの女を協会に入れるんじゃない。これは人命がかかってんだ」


 念を押すように、強く言い放つ。


「万が一ウィリディアスに入り込まれでもしたら、内部から破壊される可能性があるんだよ」


 そう言って、再度念押しをする。


 ヴォルーツォは、そんな彼女の様子を見て苦笑いを浮かべながら答えた。


「分かってるよ。今の僕じゃ、相打ちにすらできない。……だけどね、僕は諦めが悪いんだ」


 そう言いながら、彼は自分の掌を見つめる。

 そこには、まだ僅かな温もりが残っている気がした。


 そんな彼を、彼女は鼻で笑う。


「まだ未練タラタラなのかい、みっともない」


 そう言って、呆れたように肩を落とす。

 だが、その表情はどこか寂しげだった。


「そう言うバライバこそ、未練タラタラの癖に〜」


 そう言って、ニヤッと笑みを浮かべて言い返した。


「……アタシのどこが未練タラタラだってぇ!? ――この独活めっ」


 バライバがヴォルーツォの脇腹をこしょぐる。


「やめろってば、ははっ!」


 ヴォルーツォは身をよじり、大袈裟に悶え苦しむ。

 その様子を見ていたバライバは、ふとあることを思いついた。


「そういやヴォルーツォ。アンタ、なんか吹っ切れたような顔してるね。前はあんなに思い詰めた顔してたくせに」


 そう言って、ククと笑う。


「……そうかなぁ、そんなことないけどなぁ。まあ、悩んでる暇がないくらい、日々厄介ごとが舞い込んでくるから、ね」


 そう言って、笑った。


「そういう君だって、あの件はいいのかい? かなり厄介じゃないか」

「……そうだね、厄介を通り越して面倒だね。もう、どうにもならんもん」


 バライバは、そう言って笑うと、ヴォルーツォの頭を強めに撫でた。


 11


「――ご機嫌よう。エフィム会長」


 その声を聞いた瞬間、エフィムの喉からヒキガエルの潰れたような声が漏れた。


 まさかアパートにまで押しかけてくるとは思っていなかったのだろう。慌てて周囲を見回し、反射的に身を隠せそうな場所を探した。


「ちょ、ちょっと、チェンさん!?」

「先ほどは、お世話になりましたね」


 フェイルツィーオはそう言って、丁寧に一礼する。

 あまりにも律儀なその態度に、エフィムは若干引きつつも曖昧に頷いた。


「……い、いや、こちらこそ。あの、なんでここに居るんですか?」

「実は少々用事がありまして。そのついでに、ご挨拶でもと思ったんです」


 そう言うと、フェイルツィーオは鞄から一通の封筒を取り出し、エフィムへ差し出した。


「……あれ?」


 受け取った瞬間、エフィムは目を瞬かせる。


「なんでチェンさんが、これを?」


 フェイルツィーオから手渡されたのは、他でもない。あの招待状だった。


「……ええ。ボクの家は代々ロッソ家と親交がありましてね。その縁で、例の誕生日会に招かれたのですよ」

「なるほど〜。意外かも」

「ふふ、そうかもしれませんね」


 そう言って、フェイルツィーオは年相応の笑みを浮かべた。


「もっとも、ボク自身がカミハナと親しいわけではありません。家同士の付き合いというやつです」

「へー、それで?」


 こんな夜更けにわざわざ訪ねてきた理由は何なのか。

 エフィムは先を促した。


「いえ。せっかくですし、一緒に行こうかと思いまして」

「は……はぁあぁあい?」


 思わず素っ頓狂な声が漏れる。


「ボクと一緒なら、少なくとも口下手なエフィム会長の補佐くらいはできますから」


 フェイルツィーオは満面の笑みを浮かべた。


「……別にぃ? 面倒見てもらわなくても大丈夫ですぅ〜」


 エフィムは露骨に不機嫌な声を出す。


「その拗ねたような口調は何ですか。まさか、社交界の作法をご存じないわけではありませんよね?」

「はっ? 知らないわけないじゃないですか〜?」


 エフィムは胸を張った。


「こう見えて魔術師育成協会の会長ですよ? 少なくともあなたより偉いんですから、舐めないでくださいね?」

「ふむ、そうですか」


 フェイルツィーオは素直に頷いた。


「なら結構です。どうせ当日の衣装選びに頭を抱えている頃だろうと思い、助け舟を出しに来たのですが」


 ちらりと横目で見る。


「杞憂だったようですね」

「べ、べべべつに、別に困ってませんけどぉおぉおッ!?」


 エフィムは即座に顔を背けた。


「そんなこと、わざわざチェンさんに話す必要もないですしぃ!」

「そうですか」


 フェイルツィーオは小さく肩を竦める。


「では、当日のご武運をお祈りしています」

「うぐっ! や、やっぱ助けてください!」


 エフィムは思わず声を上げた。


「ほう?」


 フェイルツィーオの左目が怪しく光る。


「ですが、相談相手はこのボクですよ?」


 口元にうっすらと笑みを浮かべる。


「エフィム会長。今さら要望を出せる立場だと思っているのですか?」

「――分かりました!」


 エフィムは勢いよく頭を下げた。

 早い。あまりにも早い屈服だった。


「……おや?」


 フェイルツィーオは一瞬だけ目を瞬かせる。

 いつもみたいに、もっと抵抗するものだと思っていたのだが。


「実家から送ってもらった妹の服が何着かありましてね」


 フェイルツィーオは何気ない調子で言った。


「それらで揃えるというのはどうでしょう?」


 エフィムの表情が凍り付く。

 嫌な予感がした。というか、嫌な予感しかしなかった。


「安心してください」


 フェイルツィーオは柔らかな笑みを浮かべる。


「サイズはぴったりなはずですから」


 そう言って鞄を開き、一着のドレスを取り出した。

 レースとフリルをふんだんにあしらった、上質なデザイン。

 上品で、華やかで。誰がどう見ても素敵な服だった。


 ただし。女の子用であることを除けば。


「……また同じパターン」

「嫌ですか?」


 フェイルツィーオは小首を傾げた。


「ダメですよ、そういうのは。服に失礼です」


 声は穏やかだった。

 だが、その口調には有無を言わせぬ圧がある。


「いや、その……何度も言いますけど、わたし男なんですけど?」

「ええ、存じております」


 フェイルツィーオはあっさり頷いた。

 そのままドレスをエフィムの身体に当て、慣れた手つきでサイズを確かめる。


「うん、ピッタリです」


 満足げに頷く。


「とてもお似合いですよ」

「全然嬉しくないんですけどぉーっ!」


 エフィムの悲痛な叫びが、静かな夜空へと吸い込まれていった。


 12


 早朝。魔術師育成協会中央棟は、朝から騒がしかった。


「兄様〜〜〜〜!! 今日という今日は、ジャンパカダに連れて帰りますわよ〜〜〜〜〜!!」


 階段を駆け下りる足音が、建物中に響き渡る。


 次の瞬間――バァンッ! 談話室の扉が勢いよく開かれた。

 飛び込んできたのは、フェイルツィーオの妹、アフェルディータである。


「……まったく。可愛げのない」


 一方のフェイルツィーオは、騒ぎなど最初から予感していたかのように涼しい顔をしていた。

 

 高級茶葉で淹れた紅茶を一口。

 いつも通りの時間に起床し。いつも通りの身支度を整え、いつも通り優雅な朝を迎えようとしていた。


 ただ一つ。妹の襲来を除けば。


「毎度毎度、お父様を説得するワタクシの身にもなってくださいまし!」


 アフェルディータは額に青筋を浮かべながら兄を睨みつける。


「いい加減、実家へ顔を出してはいかがですの?」


 フェイルツィーオは静かにティーカップを置いた。


「兄に向かって命令か」


 カチャリ。


「恐れ入るな」

「んっっっっまっ!」


 アフェルディータは目を剥いた。


「こんなに心配して差し上げておりますのに! 感謝の一つもないなんて!」


 一度大きく息を吸い込む。


「こんな人とは絶縁ですわ~~~~~!」

「勝手にしろ。ボクも好きにする」

「ああ、そうですの!?」


 アフェルディータは怒りに肩を震わせた。


「兄様なんて、とっとと婚約破棄されて、ロリコン疑惑を噂されながら朽ち果ててしまえば良いのですわ〜〜〜〜〜!!」

「――んなッ!」


 フェイルツィーオが勢いよく立ち上がる。


「だ、誰がロリコンだ!」

「心当たりでもありまして!?」

「あるわけないだろう!! ――あれは正当な理由があって女装させているのであって決してボクの趣味ではなくむしろ正当な権利であるというよりロリではないだろあの子17だし男なんだし」


 早口すぎてほとんど詠唱するかのような否定だった。


「グググ……さては、貴様……また変な噂を流してボクの邪魔をする気だな」


 フェイルツィーオは腕を組み、堂々と仁王立ちになる。

 その姿は実に堂々としていた。内容を除けば。


「いい加減、身を固めてくださいまし!」


 アフェルディータも負けじと兄を指差す。


「毎度毎度、板挟みにされるエゼルリードが不憫ではありませんの!?」

「うるさい……」


 フェイルツィーオは眉間を押さえた。


「ボクはボクのペースで決める」


 そして、「……むしろ」そう言って紅茶を一口。


「向こうから婚約破棄してくれた方が望ましいのだが」


 視線は静かにカップへ落とされていた。

 一瞬。談話室の空気が止まる。


「んっっっっま!!」


 アフェルディータが白目を剥いた。


「なんてことをおっしゃいますの〜〜〜〜〜っ!?」

「大体、許嫁なんて制度自体が時代錯誤も甚だしいだろう!」


 フェイルツィーオの反論が炸裂する。


「そういうものは、お互いが納得して初めて成立するんだ! 家の都合で無理やり進めるべきではない!」


 勢いは止まらない。


「そういう意味なら、エゼルリードの婚姻だって本来なら正式なものとは言えなくて――」

「んまっ!」


 アフェルディータが声を張り上げた。


「そんなだから、お父様から勘当を言い渡されるんですわ~~~~!!」


 その一言が決定打だった。フェイルツィーオの動きがぴしりと固まる。


 談話室に沈黙が落ちた。


「……は?」


 数秒遅れて漏れた声は、驚くほど小さかった。


「本当か?」

「本当ですわ」


 アフェルディータは容赦なく頷く。


「しかも、お父様はエゼルリードに家督継承権まで譲るおつもりですのよ?」


 さらに追撃。


「兄様はもう、チェン家の敷居すら跨げませんわ」

「はは……」


 乾いた笑いが漏れた。


「そうか」


 フェイルツィーオはゆっくりと天井を見上げる。


「それなら、都合がいいじゃないか」

「んっっっま!?」


 今度はアフェルディータが固まる番だった。


「な、何をおっしゃいますの!?」


 机を叩き、身を乗り出す。


「これは一大事ではありませんか! 今すぐお父様のもとへ向かい、和解を――」

「ふふふ」


 フェイルツィーオは遮るように笑った。


「断る」


 そう言って紅茶を一口。


 その仕草はあまりにも優雅で、あまりにも自然だった。

 何も知らなければ、ただ朝の紅茶を楽しむ貴族にしか見えない。


「……勝手にボクを産んだくせに」


 フェイルツィーオは吐き捨てるように言った。


「ボクは別に、産んでくれなど――」


 ――スパァンッ! 乾いた音が談話室に響き渡った。

 フェイルツィーオの顔が横へ弾かれる。

 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。


「兄様」


 アフェルディータの声は低かった。


「流石に、それは聞き捨てなりませんわ」


 フェイルツィーオは頬を押さえながら、ぱちぱちと目を瞬かせる。


「いいですか、兄様!」


 アフェルディータは腰に手を当てると、そのまま額へ容赦なくデコピンを叩き込んだ。


「貴方の父親はお父様で、母親はお母様ですわ!」


 びしりと指を突き付ける。


「そして貴方とエゼルリードとワタクシは、れっきとした家族なんですの!」


 フェイルツィーオは呆気に取られたまま妹を見つめる。

 そんな兄を真っ直ぐ見返しながら、アフェルディータは続けた。


「……たとえ、片方しか血が繋がっていなくても、です」


 その言葉だけは静かだった。


「ワタクシは、そのことを軽んじたりしません」


 アフェルディータは兄の前へしゃがみ込む。

 そして、逃がさないと言わんばかりに、その瞳を覗き込んだ。


「だからこそ」


 一語一語を噛み締めるように告げる。


「もう一度話し合うべきなんですの」

「……っ」

「お互いを知ろうと歩み寄るべきなんですわ」


 アフェルディータの目に迷いはない。


「兄様」


 フェイルツィーオは目を伏せた。


「貴方様は、何を考えておりますの?」


 返事はない。それでもアフェルディータは言葉を止めなかった。


「お父様だって」


 少しだけ声が震える。


「お父様だって、貴方様とお話したいに決まっておりますわ」


 返事はない。


 怒りよりも、屈辱の方が強いのだろう。フェイルツィーオの瞳は揺れなかった。


 だが、アフェルディータには分かっていた。

 今、兄の胸の奥で渦巻いているのは紛れもなく悲しみだと。

 そして、それを見ている自分もまた悲しかった。


 どうしてこの兄は、ここまで頑ななのだろう。どうして家族の言葉を拒み続けるのだろう。


 そんな妹の想いを知ってか知らずか、フェイルツィーオは静かに口を開いた。


「ボクは、ただ普通の生活がしたかっただけだ」


 その声はどこまでも平坦だった。


「生まれた時から勝手に期待を背負わされ、決められた道を歩くのが当然だと言われる」


 フェイルツィーオは目を伏せる。

 

「それが、女であるお前に分かるのか?」


 責めるような口調ではない。

 ただ事実を並べているだけだった。


「お前と違って、ボクには選択肢がなかった。物心ついた頃には、もう全部決められていた。自由意思なんて、あってないようなものだった」


 アフェルディータは何も言わない。

 ただ黙って兄の言葉を受け止める。


「だからこそ」

 

 フェイルツィーオは続けた。


「だからこそ、魔術師育成協会に入って、普通の魔術師として生きようと思った」


 わずかに口元が緩む。


「なのに、結果はどうだ」


 自嘲が混じった笑み。


「結局ボクの居場所なんてどこにもなかった」


 肩を竦める。


「期待されて、成果を求められて、そして――」


 その言葉を遮るように、アフェルディータがそっと兄の肩に触れた。


「……辛かったですわね」


 静かな声だった。


「ごめんなさい、兄様」


 穏やかに微笑む。


「でも」


 アフェルディータは首を横に振った。


「……やはり、お父様と話すべきですわ。きっと、まだ間に合います」


 フェイルツィーオの指がぴくりと動いた。


「……何を言っている」


 低い声だった。


「何も分かっていない」


 怒りというより、拒絶に近い。


「お前にボクの気持ちが分かるはずがない」

「ええ」


 アフェルディータは即答した。


「……長男の気持ちなんて、分かりませんわ」


 まっすぐ見返す。


「女は結婚すれば家を出るものですから。家のことに口を出す立場ではありませんわ」


 一切の迷いがない。その目に、悲しみすらなかった。


「だからこそ」


 静かに続ける。


「最後にできることをしたいんですの」


 一拍。


「欲しくても、長女に継承権などありませんから」


 フェイルツィーオが顔を上げ、初めて動揺を滲ませた。


「……何?」

「お父様に、もう一度だけチャンスを差し上げてほしいんですの」


 アフェルディータはまっすぐ兄を見つめる。


「兄様がどれほど傷ついて、どれほど悩んでこられたのか。ワタクシはすべてを知っているわけではありません」


 一拍置く。


「それでも」


 視線は逸らさない。


「苦しんでおられることだけは分かります」


 声に熱が宿る。


「兄様にとっても、お父様にとっても、これが最後の機会ですわ」


 ぎゅ、と拳を握る。


「お願いです」


 少しだけ声が揺れた。


「もう一度、ちゃんと話合ってみてくださいまし」


 その言葉が落ちたあと、静寂が訪れた。

 フェイルツィーオはゆっくりと息を吐く。


「……分かった」


 短く、それでも確かに頷いた。


「だが、条件がある」


 フェイルツィーオは静かに言った。

 鋭い視線がアフェルディータを射抜く。


「これからボクがすることに、一切口を出すな」


 声音は揺らがない。


「ボクの行動にも、言葉にもだ。異を唱えることも許さない」


 一拍。


「それを誓うなら――」


 言葉を区切る。


「父上ともう一度話そう」


 一瞬、室内から音が消えた。

 アフェルディータはゆっくりと目を伏せる。


「……分かりましたわ」


 静かに一礼した。


「ワタクシはこれにて下がらせていただきます」


 その所作は、あまりにも整っていた。

 美しく、そして強い。

 扉が閉まる直前、わずかに足が止まる。

 だが、振り返ることはなかった。


「それでいい」


 フェイルツィーオは短く言う。

 紅茶を一口含む。

 暖かさはもう残っていない。


「……お父上」


 カップ越しに、存在しない誰かへと語りかける。


「貴方の意志に背く形になること、どうかお許しください」


 その瞳は、ここにはいない父を見ていた。


 家族とは、呪いのようなものだ。

 そしてフェイルツィーオ・マクシミリアン・チェンという男に刻まれた呪いは、間違いなく“家族”だった。


 13


 その頃、とある高級ホテルの一室では、二人の男が密談を交わしていた。


「どうだい、カミハナくん。景気良さそうだけど〜?」


 茶髪の男が頬杖をつきながら尋ねる。

 向かいに座る老人は、葉巻の煙をくゆらせながらニヤリと笑った。


 カミハナ=ロッソ。

 ――ロッソ・カンパニー代表取締役。


 仕立ての良いスーツに派手な装飾品を身につけたその姿は、いかにも成金趣味の老人といった風情だった。


 そして、その隣に腰掛けている男こそ、ヴィンセント=ロッソ。


 今回の誕生日会の主役であり、ロッソ・カンパニー次期当主でもある。


「何を言うと思えば、お前がそれを言うか。キサマらのせいで金の成る木が一本減ったんだぞ」


 カミハナは吐き捨てるように言うと、葉巻を灰皿へ押し潰した。


「親父殿。あの好色爺は放っておいても、いずれ捕まっていたさ」


 ヴィンセントは肩を竦め、ソファに深く身を預ける。


「少なくとも、今回の件でヴォルーツォを責めるのは筋違いだ」

「問題はそこじゃない」


 カミハナは新しい葉巻を取り出した。


「よりによってエフィム=ゾーラに手を出したのが愚かだったと言っている」


 マッチの火が揺れる。


「あの小僧はまだ使い道がある。殺すには惜しい」

「やめてよぉ」


 ヴォルーツォがうんざりしたように口を挟む。


「エフィムくんは関係ないじゃないか。君たちは金になりさえすれば何でもいいんでしょぉ?」


 そこでわざとらしく肩を竦めた。


「なら、これ以上余計なことしないでよ〜」


 その言葉に、カミハナは舌打ちした。

 忌々しげな視線がヴォルーツォへ向けられる。


「ヴォルーツォ・ロクス・グレイス」


 カミハナはわざとらしく名を呼んだ。


「ウィリディアスとは上手くやっているのか?」


 ヴォルーツォの眉がわずかに動いた。


「……弟の話は今、関係ないだろう」


 低い声だった。いつもの軽薄さはどこにもない。


 部屋の空気が、僅かに冷える。


 ヴォルーツォはカミハナに背を向けた。

 そのまま出口へ向かって歩き出す。


「ヴォルーツォ」


 背後から呼び止める声。

 だが、足は止まらない。


「努々忘れるなよ」


 カミハナの口元が歪む。


「キサマは儂の奴隷なのだからな」


 ヴォルーツォの足が止まる。


「エフィムは所詮、道具に過ぎん」


 数秒の沈黙。

 やがて彼は何も答えず、再び歩き出した。


 14


「危ないですよ」


 その声に、エフィムの足がもつれた。

 黒服の男たちに囲まれるようにして、リムジンへ乗り込む。


 仕事柄、こうした車に乗る機会がないわけではない。

 それでも、慣れることはなかった。


「……会場って、どこなんです?」


 遠慮がちに尋ねる。

 隣に座るサングラスの男は、正面から視線を逸らさないまま答えた。


「ロティリス・グランドホテルです」

「はぁ……」


 返事はそれだけだった。それ以上の説明はない。

 少しばかり不審には思ったが、余計な詮索をしても仕方がない。


 エフィムは背もたれに身を預けた。

 窓の外を流れる景色だけが、静かに移り変わっていく。


 やがて、リムジンは目的地へと到着した。


 ロティリス・グランドホテル――。

 この国でも指折りの格式を誇る最高級ホテルである。


「お部屋は15階のスイートルームをご用意しております」

「は、はい?」


 思わず間の抜けた声が漏れる。


 エフィムは目の前の光景に圧倒されていた。

 煌びやかな装飾が施されたエントランス。

 無駄のない動きで客を案内するホテルスタッフ。


 ロビーを行き交う人々もまた、一目で上流階級と分かる装いをしている。

 誰もが余裕に満ちた表情を浮かべており、ここだけ異空間のようだった。


「……場違いすぎる」


 思わず呟く。だが、誰も答えてはくれない。

 黒服たちに促されるまま、エフィムはエレベーターへ乗り込んだ。


 正式な招待客とはいえ、これほどの待遇を受けるのは初めてだ。


 胃の辺りが、ムズムズ落ち着かない。

 逃げ出したくなる気持ちを押し殺しながら、ゆっくりと閉まる扉を見つめた。


「あ、あの……実はメイクとか、その辺をお願いする予定だった人が急に来られなくなってしまって」


 エフィムは気まずそうに頬を掻いた。


「服はあるんですけど、こういう時ってどうすればいいんでしょうか……?」


 黒服の男は一瞬だけ視線を向けた。


「問題ございません」


 短い返答。


「カミハナ様より、担当の者を手配していると伺っております」

「ほ、本当ですか?」

「はい」


 それだけだった。だが、その一言で十分だった。

 エフィムは胸を撫で下ろす。

 正直なところ、一人ではどうにもならないと思っていたのだ。


 やがて部屋へと案内される。そこは、まさに別世界だった。


 広々とした寝室。高級感のあるバスルーム。

 窓際には専用ラウンジまで備えられている。


 壁紙から調度品に至るまで、一切の妥協が見当たらない。


「……すご」


 思わず声が漏れた。語彙が消し飛ぶ。

 だが、それも仕方のないことだった。

 豪華という言葉だけでは、とても説明が追いつかない。


「それでは、私共はここで失礼いたします」

「あ、ありがとうございました!」


 エフィムは慌てて頭を下げる。

 黒服の男は小さく一礼すると、静かに部屋を退室していく。


 扉が閉まる。ようやく一人になれた。

 そう思った、矢先――「エフィムく〜ん♪」


「はっ!?」


 聞き覚えのある軽薄な声。

 振り返ったエフィムは、思わず顔を引き攣らせた。

 立ち替わるように部屋へ入ってきたのは、ヴォルーツォだった。


「げっ、何でいるんだよ!」

「君のメイク担当のヴォルーツォだよ☆」


 ウインクひとつ。

 その瞬間、エフィムの表情が露骨に曇る。


「よりによってアンタかよ」

「酷いなぁ」


 にこにこと笑いながら距離を詰める。


「僕じゃ役不足だった?」

「決まってるだろ!!」

「ンッフフ」


 ヴォルーツォの笑みが深くなる。


「……逃がさないよ」


 一歩。


「僕の可愛い実験台さん♪」

「誰が実験台だぁぁぁぁぁぁあっ!?」


 叫びながら、エフィムは後ずさる。


「大人しくしなってぇ。そんなに暴れられたら、綺麗に整えられないだろ〜?」

「うっっっさい! 自分でやるから!」


 必死に抵抗する。だが、その程度でヴォルーツォが諦めるはずもなかった。


「はい、確保〜」

「きゃ!」


 あっさりと抱え上げられ、そのまましばらく腕の中で暴れていたものの、やがて無駄だと悟ったのか、エフィムは抵抗をやめた。


「エフィムくんさ」


 不意に、ヴォルーツォが口を開く。

 いつもの軽薄な調子ではなかった。


「君、こんな立場じゃなかったら、社交界なんて近寄りもしなかっただろ?」

「……そりゃ」

「だよねぇ」


 ヴォルーツォは小さく笑った。


「もし立場が違ったらさ」


 一拍置く。


「僕たちも出会わなかったかもしれないね」

「急にどうしたのさ……」

「ンッフフ、別にぃ?」


 そう言って、ヴォルーツォはエフィムを抱えたまま窓際へ歩み寄る。


 眼下には無数の灯りが広がっていた。

 街を埋め尽くす光は宝石を散りばめたようで、夜の闇に浮かび上がっている。


 見上げれば星空。見下ろせば光の海。

 まるで一枚の絵画だった。


「せっかくだからさ」


 ヴォルーツォは窓の向こうへ目を向ける。


「君と一緒に見ておきたくてね」

「ああ、そう」


 エフィムは素っ気なく答えた。

 けれど、不思議と悪い気はしなかった。


「メイク、早く終わらせてくれない?」

「……ごめんね。もう少しだけ、このままでいさせてくれないかな」


 その声は微かに震えていた。

 ヴォルーツォは何かを噛み締めるように続ける。


「僕は怖いんだ」


 ぽつりと零れた言葉。


「大切にしたいものほど自ら壊してしまう。守る力も、与える愛情も、何一つ届かない」


 自嘲するように笑う。


「そんな無価値な人生で、僕は今、何をしているんだろうね」


 エフィムは何も言わなかった。

 ただ腕の中で、ぼんやりと窓の外を眺めている。


「ねぇ、エフィムくん」

「何」

「僕が消えても、君は僕を憶えていてくれる?」

「……え?」

「忘れないでくれるかってこと」


 急にそんなことを言われ、エフィムは目を瞬かせた。


 視線がぶつかる。ヴォルーツォは何も言わない。

 少なくとも、冗談には見えなかった。


 エフィムは考える。

 自分は、この男のことを何も知らない。


 どこで生まれ、どこに住み、何が好きで、何を嫌うのか。そんな些細なことすら。


 だから本来なら――この男がどう生きようと、どう死のうと。

 自分の人生には何の関わりもないはずだった。


「気が向いたら思い出してあげる。それでいいでしょ?」

「へへ……十分すぎるくらいさ」


 ヴォルーツォは小さく笑うと、エフィムを化粧台の前へ座らせた。


「それじゃあ、始めようか」

「え……はい」


 返事はわずかに遅れた。


「やっぱりさ」


 不意に、背後から声が降ってくる。

 次の瞬間。ヴォルーツォの腕がそっと肩を包んだ。

 大きくて、温かい。微かに香る香水の匂いが鼻を掠める。


「君は僕にとって、大切な友人だから」


 穏やかな声だった。


「これからも、ずっと側に置いてね」


 鏡越しに視線が合う。

 その瞳は、いつものように笑っているはずなのに。

 なぜだろう。どこか泣きだしそうにも見える。


 胸の奥が、僅かにチクリと痛んだ。


 15


 パーティ会場となる大広間は、すでに多くの招待客で賑わっていた。

 エフィムはヴォルーツォにエスコートされながら、人波を掻き分けるように進んでいく。


 右を見ても人。左を見ても人。

 前にも後ろにも、煌びやかな装いの客たちがひしめいていた。


 慣れないパンプスのせいで足元もおぼつかない。


 そんな中、パーティは始まろうとしていた。


「エフィムくん、歩けそうかい? 無理そうなら抱っこしてあげてもいいけどぉ」

「良いわけないだろ。目立つ真似は避けろよ。大体なんでアンタまで――わっ!?」


 早速、足がもつれた。慣れない靴が床を滑る。


「――キャッ!!」


 身体が傾く。だが、次の瞬間。伸びてきた腕が腰を支えた。


「危ない、危ない」


 ヴォルーツォが苦笑する。おかげで転倒は免れた。

 とはいえ、一歩間違えれば盛大にすっ転んでいたところだ。


「エフィムくん。そんな靴、履き慣れてないなら脱いじゃってもいいんだよ? 足を痛めたら明日から仕事できなくなっちゃうし」


 顔が近い。吐息が耳にかかり、妙にくすぐったかった。


「やだ」


 即答だった。


「やだやだやだ! せっかくここまで来たのに! こんな靴、もう二度と履く機会ないもん! 絶対嫌!!」


 エフィムは子供のように首を振る。

 だが、その意地とは裏腹に、足はとっくに限界だった。

 慣れないパンプスは想像以上に足へ負担をかけている。


「だから言ったんじゃないか〜」

「うるさいなぁ……っ!」


 しゃがみ込むことすらできず、エフィムはヴォルーツォへしがみついた。

 結果として、その胸元へ顔を押し付けるような格好になる。


 硬い。思ったよりずっと硬かった。

 貧弱そうに見えるくせに、胸板は意外なほど厚い。


「……はっ」


 エフィムは慌てて身体を離そうとした。

 しかし、その前に。


「はいはい」


 ヴォルーツォは背中と膝裏へ腕を回し、軽々と抱え上げる。


「――なっ!?」


 一瞬で視界が高くなった。

 いわゆる、お姫様抱っこである。


「降ろせぇぇぇぇ!!」


 そのやり取りを見ていた招待客たちから、「まあ♡」「素敵ですわね」「仲が良いこと」

 などと、意味不明な声が上がった。


 小さな歓声まで聞こえる。エフィムは顔を真っ赤にした。


「は、離せコラ!? 目立つから降ろせぇぇぇ〜〜!!」

「ンッフフ〜♪」


 ヴォルーツォは実に楽しそうに笑う。


「君さぁ、やっぱりこういうフリフリのドレス着られて嬉しいんじゃないかい?」

「はぁ!?」

「良いんだよ。男の子だからって遠慮することないさ」


 そう言って、エフィムの髪を優しく撫でる。


「自分が着たい服を着ればいい。性別なんて関係ないだろ〜?」


 その言葉に、エフィムは息を呑んだ。

 まるで全て見透かされたような気がしたから。


「――ち、違うし!?」


 反射的に声が大きくなる。


「これは仕事だから着てるだけだし! こんなフリフリなんて本当は着たくなかったし!!」


 必死だった。

 そう言い張らなければならない気がした。


「へぇ?」

「へぇ、じゃないよ!?」


 だって、そんなはずはない。

 エフィムは男なのだ。女ではない。

 だから。こんな風に褒められて、嬉しいはずがないのだ。


「――僕と踊ってくれますよね?」


 ヴォルーツォが囁きかかる。


「小さなプリンセス」

「誰がプリンセスだ」


 反射的に睨みつけた。


 だが、ふわりと身体が床へ降ろされる。

 いつの間にかパンプスは脱がされていた。


「さ、お手をどうぞ」


 差し出された手。

 細身に見えるくせに、その掌は思った以上に大きく、しっかりとしていた。


 気付けば、パーティは始まっている。

 流れる音楽。踊る招待客たち。

 煌びやかな灯りの下で、タキシード姿のヴォルーツォが微笑んでいた。


 そして。その手は、今もエフィムへ向けられている。

 逃げようと思えば逃げられた。

 だが。不思議と、その気にはならなかった。


「……仕方ないな」


 小さく息を吐く。


「今日だけだから」


 そう言って。エフィムは差し出された手を取った。

 ヴォルーツォの指が、そっと握り返す。


 16


 パーティが始まってしばらくした頃。

 会場の一角でざわめきが広がった。


「……ん?」


 何事かと視線を向ける。

 そこには、一人の老人が立っていた。


「カミハナ=ロッソ……」


 このパーティの主催者。

 そして、ロッソ・カンパニーを率いる大富豪。


 遠目にも分かるほど機嫌が良さそうだった。

 今夜は次期当主のお披露目でもある。それは、上機嫌にもなるのだろう。


「エフィムくん」

「……ん?」

「僕から離れないでね」


 ヴォルーツォが肩を引き寄せる。


「君ってば興味が湧くと、すぐどっか行っちゃうから」

「子供扱いすんなし」

「してないしてない」


 絶対している。だが今は、それどころではなかった。


「……うわっ」


 改めて周囲を見回す。


「あの人、テレビに出てる人!」

「どれ〜?」

「ほら、あそこ」


 指差す。


「あの司会者さん。あとあっちの女優さんも」

「へぇ〜」

「すごっ……」


 エフィムの目が輝く。


「サイン貰えたりするかな……!?」

「うん、そうだね。有名人かもね」


 ヴォルーツォは興味なさそうに相槌を打った。

 関心がないのか、エフィムの肩をしっかり抱いたまま離そうとしない。


 少し不満だったが、それ以上に好奇心が勝った。

 エフィムは人混みの向こうへ目を凝らす。


「……あれ?」


 ふと、一人の男が視界に入った。


「ねぇ」

「……ん?」

「あの人、ヴォルーツォさんとそっくりじゃない?」


 髪の色。髪型。体格。着こなしているタキシードの色形まで。

 後ろ姿しか見えていないにもかかわらず、不思議なほど似ていた。


 エフィムは隣の男を見上げる。

 しかし、ヴォルーツォは首を傾げただけだった。


「……僕、目が悪くてさぁ。老眼かな〜?」


 何を言っているんだ、この男は。

 呆れかけて、ふとエフィムは息を呑んだ。


 ――アンティーク・ショップで出会った、ヴォルーツォに酷似した、あの人物。

 背筋を冷たいものが這い上がる。


 まさか。あれは白昼夢でも、見間違いでもなく、本当に存在していたのか。


「エフィムくん」


 藤色と目が合う。


「君には僕には見えない人が見えてるみたいだ」

「……は?」

「疲れてるなら、今日はもう部屋に戻って寝た方がいいと思うなぁ」


 またそうやって、誤魔化す。しかも今回は露骨に。


「……離して」

「エフィムくん?」

「退けって言ってんの」


 ヴォルーツォの腕を振り払う。

 そのまま人混みを抜け、件の人物へ近付いた。

 あと数歩。

 声をかけようと口を開く。


 しかし。その前に、一人の黒服が立ちはだかった。


「エフィム=ゾーラ会長ですね」


 黒服の男が一礼する。


「当『ロッソ・カンパニー』社長、カミハナ=ロッソがお話をしたいと」


 次の瞬間。

 男はエフィムの腕を掴んだ。


「――ちょっ!?」

「こちらへ」

「いや、待って待って待って!?」


 有無を言わせぬ力だった。


「ヴォルーツォさん!!」


 助けを求めて振り返る。


「やだ、助けて!!」


 だが、その声も虚しく。

 エフィムは人混みを抜け、半ば引きずられるように会場の外へ連れ出された。


 やがてホールへ続く廊下に出たところで、ようやく解放される。


「はぁっ……はぁっ……」


 乱れた呼吸を整えながら睨みつける。


「いきなり何なんですか!? 客人に対して失礼じゃありませんか!?」

「申し訳ありません」


 謝罪の言葉とは裏腹に、声色は平坦だった。

 廊下の奥から足音が近づいてくる。


 ――カツン。コツン。コン、ココン。


 杖を突く音が静かな廊下に響く。

 どこか足を引き摺るような、妙に癖のある歩き方だ。


 やがて姿を現したのは、白髪を七三に撫で付けた老人だった。

 深い皺が刻まれた顔。しかし背筋は真っ直ぐに伸び、その眼光には少しの衰えもない。


「エフィム=ゾーラか」


 老人は値踏みするように目を細めた。


「話がある。ついて来い」


 有無を言わせぬ口調だった。


「カミハナさん。本日はお招きいただきありがとうございます」


 エフィムはドレスの裾を摘み、軽く会釈する。

 それを見たカミハナの口元が愉快そうに歪んだ。


「ほう」


 上から下まで眺め回す。


「ちんちくりんな餓鬼かと思っていたが、案外サマになっているじゃないか」


 その視線が顔へ移る。


「よく見れば顔も悪くない」


 エフィムの眉がぴくりと動いた。


 ――何だ、この爺さん。

 さっきまで壇上で愛想良く笑っていた人物と同一人物とは思えない。

 

「来い」


 それだけ言うと踵を返す。

 エフィムは小さくため息を吐き、その後を追った。


 17


 案内された部屋は、エフィムが宿泊しているスイートルームよりもさらに広かった。


 壁を飾る絵画。重厚な家具。

 何気なく置かれた調度品の一つ一つから、途方もない金の匂いがプンと、香る。


「さて」


 カミハナはソファへ腰を下ろした。


「どこから話そうか」


 エフィムは無意識に喉を鳴らす。


「お前は、魔術師育成協会のことをどこまで知っている?」

「……さあ?」


 肩を竦めた。


「就任してまだ一年も経ってませんしね」


 少し考え、「知っていることと言えば、ラヒナー支部長に誘拐されたことくらいですか」と、付け加える。


 一瞬の静寂。――次の瞬間、カミハナが腹を抱えて笑い出す。


「そうさな、儂の金蔓が一本減ったな」

「どう言う意味ですか、教えて下さい」


 エフィムは真剣に訊ねた。それが、今日呼ばれた目的だと思っていたのだ。


「……ヴィンセントはな、ようやく出来た子なんだ」


 しかし、返ってきたのは意図を測りかねる言葉だった。


「子宝に恵まれなくてな」


 ため息ひとつ。葉巻に火をつける。


「だから、孤児院から娘を一人引き取った」


 そこで言葉を切る。


「お前と同じ孤児院だ」


 エフィムは黙った。話の繋がりが見えない。

 なぜ急に孤児院の話になるのか。


「……知らんか?」

「知りませんね」

「儂はあの孤児院へ多額の援助をしている」


 葉巻の煙がゆらりと揺れる。


「だから、お前のことはよく知っているぞ」


 エフィムは目を細めた。

 何が言いたい。だが、続きを待ってもカミハナは何も語らなかった。


 ――代わりに。黒服の男が部屋へ入ってくる。

 そして。鈍い音を立てて、黒いトランクをテーブルへ置いた。


「お前の給料を倍にしてやろう」

「……はい?」


 カミハナは葉巻を咥えたまま続ける。


「今すぐ職を辞する気はないか?」

「なんでですか」

「お前のような餓鬼が組織の頂点に立っても、上手く回るまい」


 挑発するような声音だった。だが、不思議と悔しくはない。


 事実だからだ。エフィムは若い。理事たちと比べれば経験も実績も足りないからだ。


「儂はフェイルツィーオを推薦したんだ」


 カミハナは鼻で笑った。


「少なくとも、お前よりはマシだからな」


 葉巻を咥え直す。


「ラヒナーに聞き入れてはもらえなかったがな」


 声の温度が僅かに下がった。


「どういうことか分かるか?」


 エフィムは答えなかった。代わりに思考を巡らせる。


 フェイルツィーオ。ラヒナー。そしてカミハナ。その三者がどこで繋がるのかを。


「――ラヒナー支部長と、どういうご関係なんですか」


 静かに問い返した。

 カミハナは笑うでも怒るでもなく、ただ葉巻の灰を落とす。


 視線だけが、じっとエフィムを見据えていた。


「単なる腐れ縁だな」


 カミハナは依然としてエフィムから目を離さない。

 ただ、その視線だけが妙に重かった。


「ヴォルーツォ・ロクス・グレイス」


 その名前が告げられた瞬間。

 エフィムの呼吸が止まった。


「……な」


 立ち上がりかけた身体が、途中で固まる。


「お前は、あの男のことをどこまで把握している」


 把握。その言葉が、喉の奥に引っかかった。

 まるでヴォルーツォが“人”ではなく、“奴隷”であるかのような響き。


「……何のことですか」


 平静を装って問い返す。

 カミハナの唇がわずかに吊り上がった。


「ラヒナーへの餞別だよ」


 葉巻の煙が、天井の光に溶けて揺れた。


 18


「お前は馬鹿だが、特別に何でも質問に答える権利を与えよう」


 カミハナの声は淡々としていた。

 腹の探り合い。もっとも、彼からすれば児戯に等しいのだろう。


「……『シャルトルーズ・ドゥ・パルム』」


 その名を聞いた瞬間、カミハナは目を細めた。


「ほう。あの店に辿り着いたか」


 僅かに、空気が重くなる。


「ただの餓鬼だと侮っていたが……なるほどな」


 エフィムは思わず問い返す。


「何かご存知なんですね」


 カミハナは髭を撫でながら、下卑た笑みを浮かべた。


「少なくとも、儂は関わりないぞ。彼奴らが勝手に始めた商売だ」

「質問に答えてください」


 カミハナは答えず、葉巻を灰皿へ押し付けた。


「指定の禁書を扱って、モグリの魔術師に流しているとか……」


 エフィムは言い淀む。


「証拠はまだ出てませんけど」

「ほう?」


 カミハナの目が一瞬だけ鋭く光った。


「そうさなぁ……まずはヴォルーツォの――ッ!?」


 言葉が途中で途切れる。カミハナは口を開けたまま固まった。


「えっ、ちょっとカミハナさん!?」


 エフィムが一歩踏み出した、その時。


「チャ〜オ〜、エフィムくん。迎えに来たよん♡」


 軽い声。場の温度だけが、明確に変わった。

 振り返った先に、ヴォルーツォが立っていた。

 とびきりムカつく笑顔のまま。


「あが……ごが……ッ!!」


 カミハナは口を開いたまま固まり、身体だけが必死に抗っていた。だが動かない。


 ヴォルーツォはそれを一瞥もせず、エフィムを引き寄せて、軽く抱きしめた。


「ダメだよ。知らないお爺さんについて行っちゃ」


 柔らかい声。なのに妙に刺さる。

 カミハナは必死に動こうとするが、指一本すら動かない。


「バイバイ、カミハナくん」

「……ッ、ギ、ザマァッ!!」


 ようやく声だけが絞り出された。


「――覚えておれ!!」


 その瞬間、扉が開く。


 黒服の男達が一斉に雪崩れ込んできた。

 銃。ナイフ。剣。整然とした殺気だけが部屋を満たす。


「わあ、お約束〜」


 ヴォルーツォは楽しそうに笑う。

 そしてエフィムを横抱きにすると、頬を寄せた。


「通してくれないかな。僕ら、これから夜のデートなんで」


 ――その瞬間、窓が弾け飛んだ。何かが部屋に飛び込んでくる。


「ちょっと待って僕は敵じゃ……――って、制御出来ないんだけどぉぉぉぉぉぉおッ!?」


 ヴォルーツォの声が途中で裏返る。

 次の瞬間、空気が変わった。


 黒服たちが一斉に動く。

 だが、遅い。一人が踏み込んだ瞬間、視界から消えた。


 鈍い音。もう一人が倒れる。さらにもう一人。


 何が起きているのか、正確に追える者はいない。

 気づいた時には、部屋の人数が減っていた。

 残った黒服が、じり、と後退する。


「――行け、奴を喰らえ」


 全身を黒光りする鱗に覆われた大型の生物は、床を這うようにして二人に迫る。


「ヴォルーツォさん!?」


 エフィムはヴォルーツォにしがみつき、身を固くしている。


「――雷よ、憤怒は空を斬り裂き、地を穿つ」


 ヴォルーツォの口から放たれた詠唱が部屋に木霊する。

 瞬間――紫電が意思を持つかのように、化け物に向かって走り抜けていく。


「――はーっははははははッ!」


 カミハナの勝ち誇った笑い声が響く。


 だが、化け物は間一髪の所で紫電を掻い潜ると、鋭い爪を立てながら二人を引き裂かんと飛び掛かる。

 

「ねぇ、エフィムくん。……ちゅ〜しよ♡」


 甘ったるい声。

 その瞬間、視界が落ちた。身体の力が一気に抜ける。


「……っん」


 呼吸だけが残る。


「ンッフフ、ご馳走様。魔力ありがと♡」


 意識が浮上する。遅れて、全身に熱が戻ってきた。

 妙に、ふわふわと身体が軽い。


「さて、格好いいとこ見せなきゃね!」


 ヴォルーツォはエフィムをそっと床に下ろすと、その前に立つ。


「――その必要はないし、僕のエフィムくんになんて事してるの」


 空気が変わる。

 その声で、意識がはっきりと戻ってくる。

 エフィムは自分の頬を叩いた。パン、と乾いた音が響く。


 視界が定まる。前に立つ背中。そして、その向こう側。


「くっそ〜〜〜! おい、良くも僕のエフィムくんを……!」


 声が二つ重なった。ヴォルーツォが、二人。

 顔も声も髪型も背格好も、完全に同じ。

 片方は不敵に笑い、もう片方はエフィムから視線を外している。


「ヴォルーツォさん、が……ふたり……?」


 エフィムの困惑を置き去りにして、二人は対峙した。

 先に動いたのは後から現れた方だった。


 一瞬で間合いが詰まる。

 拳。それを、もう一人が受け流す。

 衝撃音。空気が弾ける。


「ば、馬鹿!仲間割れしてる場合じゃ……!」


 その瞬間、黒い影が割り込んだ。


 猫型の化け物。エフィムは咄嗟に防御壁を展開する。

 だが――爪が触れた瞬間、魔術が裂けた。


「っ……!」


 腕を上げる。だが、間に合わない。血が滲む。


「僕のエフィムくんに、なんてことするんだ〜〜――キック!」


 化け物の腹に、ヴォルーツォの膝がめり込んだ。

 鈍い衝撃音。黒い巨体が吹き飛ぶ。


「ギィ……ッ、ギィィ……!」


 悲鳴とも鳴き声ともつかない音が漏れた。


「ふぅ、エフィムくん。血が出てる。治療しないと」

「僕がやるからお前はすっこんでなよぉ」


 同じ声が、二つ。

 どちらがどちらなのか、エフィムにはもう判別できない。


 化け物が起き上がる。怒りに任せて二人の元へ。


 二人は同時に視線を交わす。

 次の瞬間、左右へ分かれた。

 挟み撃ち。化け物の爪が空を裂く。

 しかし、どちらにも届かない。


 ――遅れている。動きが、完全に読まれている。

 いや、読んでいるのではない。

 合わせている。逃げる隙間すらないまま、化け物の体勢が崩れる。


 一人が顔面を殴り抜ける。

 もう一人が、同時に後脚を蹴り折るように打ち抜く。


 空気が一瞬だけ沈黙する。

 次の瞬間、巨体が床に叩きつけられた。


「……すご……」


 思わず月並みな台詞が漏れる。


「グググ……貴様ら許さんぞ!」


 カミハナが歯噛みし、腰から拳銃を抜いた。


「――待って、お願いですから」


 エフィムが慌てて二人の前に割って入る。


「エフィムくん、下がってて」「エフィムくん、危ないよ」

「――ええい、一斉に喋るの禁止!!」


 思わず叫んだあと、エフィムは深く頭を下げた。


「カミハナさん、本当にすみませんでした! この通りですので、どうかこの二人をお許しください!!」


 額を床につける勢いで土下座する。

 その様子を見て、ヴォルーツォ達も渋々その場に座り込んだ。


「警察だ! 警察を呼べ!! 今すぐだ!!」


 カミハナの怒声が廊下に響く。

 エフィムは肩を跳ねさせたまま、恐る恐る顔を上げた。


 サイレンの音が遠くで歪んでいた。ホテルの窓から見える夜景が、異様に静かで現実味がない。


「――ちょっと、どうすんのさ!?」


 エフィムが叫ぶより先に、背後から腕が伸びた。ひょい、と軽い動作で抱え上げられる。


「よいしょっと」


 そのまま窓枠に乗り、次の瞬間には外へ。


「――おい、待てヴォルーツォ! エフィムくんは僕が先に捕獲したんだぞ!!」


 もう一人の追いすがる声が室内に残る。


 落下……のはずだった。

 だが衝撃は一向に来ない。代わりに、身体が妙に軽い。

 風に押し上げられるように、ふわりふわりと浮いている。


「え、なにこれ……」


 ゆっくりと地面へ着地する。現実感のない着地だった。


「エフィムくんさぁ」


 甘ったるい声が耳元に落ちる。


「――アイツと間違えるのやめてくれない?」


 少しだけ拗ねたような間。


「僕の方が優しいし、かっこいいし、君のことよく見てると思うんだよね〜」


 息がかかる。体温が、近い。


「だから、エフィムくんは僕のことだけ見ててよ」


 遠くでサイレンが近づいてくるのに、目の前だけ妙に日常から浮いていた。


「それは良くないな〜」


 夜風の中で、もう一人のヴォルーツォがゆっくり降りてくる。

 胡座をかいたまま、妙に余裕のある姿勢だ。


「……まだいたのかよ」


 小さく漏れた声は、ほぼ諦めだった。

 その瞬間、胡座ヴォルーツォが地面に着くや否や、楽しそうに跳ねた。


「じゃ、続きと行こうか」


 言うが早いか、動く。

 それを見た抱えている側のヴォルーツォが即座にエフィムを抱え直し、距離を取るように跳ぶ。そこへもう一人が割り込む。


「ちょ、待てって!」


 空気が忙しない。地面の上なのに、やたらと空中戦じみている。

 エフィムは揺さぶられながら、必死に口を開いた。


「ねぇ!? なんでそんなに仲悪いんですか!?」


 一瞬、全ての動作が止まった。

 二人の視線が同時に互いへ向く。

 沈黙。そして、声がぴたりと重なる。


「だってコイツ嫌いなんだもん!!」


 エフィムは一拍置いて、空を見上げた。



 ending


 メールの件名は『ご報告』。

 中身は当たり障りのない定型文の寄せ集めだった。


「……理屈屋の会長閣下にしては、ずいぶん薄味だな」


 画面を閉じてスマートフォンを机の端へ放る。金属の軽い音が静かな部屋に落ちた。


「やはり、戻るべきか」


 独り言は誰にも拾われないまま消える。

 手元の書類は当然のように終わっていない。

 終わる気配もない。終わらせる気も、ない。


 フェイルツィーオは浅く息を吐き、次の紙へ手を伸ばした。


 その瞬間、ノック音。


「坊ちゃん、旦那様からお話があるそうです」


 指が止まる。

 この屋敷でその言葉を聞くのは、何年ぶりだろうか。


「……はい、フェイルツィーオ。ただいま」


 立ち上がる動作だけは無駄に整っている。

 廊下を進む。右奥の部屋。子供の頃から変わらない配置。

 目を閉じても歩ける程度には、身体が覚えている。


 ドアの前で立ち止まる。


「ご用件は、どのようなものでしょう」


 返事はない。

 沈黙が一拍、二拍。

 やがて、低い声だけが落ちてきた。


「入れ」


 たったのそれだけだった。

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