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シャルトルーズ・ドゥ・パルム 前編

 薄暗い部屋の中で、ガサゴソと小さな手が箪笥を漁る。

 引き出しの中は滅茶苦茶だった。

 畳まれてすらいない衣類が、押し込まれるように詰め込まれている。


「……これじゃない」


 引っ張り出しては放り投げ、また掴んでは捨てる。

 床へ散らばっていくのは、色褪せた服、擦り切れた袖、もう何年も前の匂いを閉じ込めたままの布切れたち。


「違う……これでもない」


 焦れたように呟き、再び箪笥へ腕を突っ込む。


 出てくるのは、幼い頃の服ばかりだった。

 成長が止まってしまった身体には、それでも着られてしまう。サイズだけなら問題はない。


 けれど。


「……違う」


 その声だけが、やけに小さい。


 彼が探しているのは、“着ていた服”じゃない。“今の自分が着たい服”だった。


 だが、箪笥の奥から出てくるのは、そんなものではない。


 もう二度と着たくないもの。

 できれば思い出したくもないもの。

 それでも捨てきれず、見えない場所へ押し込むことしかできなかったもの。


 蓋を開けた途端、それらはまるで呪いのように溢れ返ってくる。


 指先が、一着の服を掴む。


 淡いピンク。幾重にも重なったフリル。袖口のレース。そして、馬鹿みたいに大量についたリボン、リボン……リボン。


 どれもこれも、「あの頃のお前はこんなものを着ていた」と無言で突きつけてくる。


 箪笥ではなく、棺桶だったのかもしれない。

 忘れたつもりの過去を、律儀に保存し続けるための。


「……こんなの、着れる訳ないじゃん」


 吐き捨てる声は、怒っているようで、どこか怯えていた。


「こんな……女の子の服」


 その言葉と同時に、服を乱暴に投げ捨てる。

 軽い布地は床へ落ち、音もなく降り積もった。


 部屋の中には、もう服の山しかない。

 けれど、どれも違う。

 どれを見ても、自分のものだと思えない。


「……ダメだ」


 苛立ったように髪を掻きむしる。


「まともな服、全然ない……」


 吐き捨てるように呟き、彼はもう一度、箪笥へ腕を突っ込んだ。


 今度は浅い場所じゃない。

 ぐしゃぐしゃに押し込まれた服のさらに奥へ、半ば乱暴に手をねじ込む。


 指先に触れた、少し厚めの生地。

 引っ張り出した瞬間、彼の動きが止まった。


 黒いカーディガンだった。


 袖口には小さな毛玉。

 ボタンもひとつ、今にも取れそうになっている。

 決して綺麗じゃない。新品には程遠い。


 それでも。


 フリルもない。レースもない。リボンもついていない。


 男が着ていても、たぶん変じゃない。

 少なくとも、“可愛い服”を押し付けてくるような形じゃない。


「あった――」


 声が、思ったより幼く弾んだ。


 彼は反射的にそれを抱き寄せる。

 くしゃりと胸元へ押し当て、まるで奪われないように腕へ力を込めた。


 柔軟剤の匂いは、もう残っていない。

 代わりに、長い間しまい込まれていた布特有の、少しカビた匂いがする。


 それでも、不思議と安心した。

 ようやく、“普通”を見つけた気がしたから。


『――……いいの、本当に?』


 頭の中に、静かな声が落ちた。


 彼は反射的に振り向く。

 だが、そこには誰もいない。


 薄暗い部屋。散乱した衣服。開け放たれた箪笥。

 それだけだ。


『君は、本当にそれを望んだの?』


 また声がする。

 ぞわり、と背筋を何かが這った。


 あり得ない。

 この部屋には、自分しかいないはずだ。


 それなのに。“誰か”が立っている気配だけが消えない。


「……いいに決まってるじゃん」


 吐き出すように言って、彼は俯いた。


 これが、自分で望んだ姿だ。

 誰かに押し付けられた形じゃない。

 泣きながら、迷いながら、何度も自問自答した末に辿り着いた、“こうなりたい”という願い。


 もう、昔の自分に縛られる必要なんてない。

 着たくもない服を着せられて。

 鏡を見るたび、自分じゃない誰かを押し付けられて。

 笑われないよう、怒られないよう、ただ息を潜めていた日々。


 そんなものは、もう終わったのだ。

 終わらせるんだ。


「……これと、これ。こっちも」


 彼は床に散らばった服を掴み上げる。

 ピンク色。レース。フリル。柔らかな布地。


「全部、嫌いだ」


 ぐしゃり、と掴み、ゴミ袋へ放り込む。

 一着。また一着。

 投げ入れられた服たちは、袋の中で潰れ、絡まり合い、やがて無機質なゴミの塊になっていく。


 もう戻らない。戻るつもりもない。

 そうやって切り捨てているはずなのに。


『……それが、“本当”の君なの?』


 声だけが、しつこく耳に残る。

 まるで脳の裏側に貼り付いているみたいに。

 振り払っても、掻き消そうとしても、消えてくれない。


 少年は強く唇を噛んだ。

 痛みが走る。鉄の味が、じわりと広がる。


「……早く消えてよ」


 ただの幻想に、いつまでも囚われている訳にはいかない。

 ここで踏み出さなければ、何も変わらない。

 また同じ場所へ引き戻されるだけだ。


「もうわたしは、戻らないって決めたんだ。だから……」


 その言葉は、自分へ言い聞かせるための呪文みたいだった。


 彼――いや、“アンネローゼ”は、膨れ上がったゴミ袋を持ち上げる。

 詰め込みすぎたせいで、袋は今にも裂けそうだった。


 けれど、気にしない。

 腕に食い込む重みごと、抱え上げる。


 過去は、軽くなんかない。

 捨てようと決めた記憶ほど、妙に質量を持つ。


 扉の向こうから、生活の音が聞こえていた。

 遠くを走るバイクのブレーキ音。どこかで猫が威嚇し合う低い声。通学中の子供たちの笑い声と、駆けていく足音。


 世界は当たり前みたいに朝を迎えている。

 自分がどれだけ苦しんでいても、どれだけ迷っていても、そんなことには一切感せずに。


 一度、深く息を吸う。

 肺の奥に溜まっていた淀みを吐き出すように、ゆっくりと息を吐いてから、“アンネローゼ”は扉へ手をかけた。


 軋んだ音と共に、薄暗い部屋へ朝の光が差し込む。

 その光は、床に散らばった服も、開け放たれた箪笥も、何もかも容赦なく照らし出した。


『酷いよ』

「煩い」


 それでも、“アンネローゼ”はもう振り返らない。

 ゴミ袋を抱えたまま、一歩、外へ踏み出す。


 さよなら、もう戻れない日々。


 2


 犬が、ふあぁ……と気の抜けた欠伸を漏らす。


 弱い日差しと、肌寒さがちょうど釣り合った時間帯だった。

 建物の隙間を抜ける風も、薄い膜を一枚隔てた向こう側みたいに遠い。


 床へ寝転がった犬は、完全にやる気を失っていた。


「空蝉さん」


 エフィムが声を掛ける。


 犬は片目だけをうっすら開き、面倒臭そうにこちらを見た。


『……霊力が尽きた』


 開口一番、それだった。

 まるで「だから放っておけ」とでも言いたげな思念が飛んでくる。


「いえ、そういう話ではなくて……」


 エフィムは疲れた顔で訂正した。


『服ならメイディが持っておる』


 空蝉は前脚へ顎を乗せたまま続ける。


『褌なら、この下に』


 もそり、と犬の腹が少し浮く。

 その下から、一丁のトランクスが覗いていた。


「……だから、そうじゃなくて」


 エフィムは額を押さえた。


「昨日の件を、もう一度整理したいんです。出来ればご同行願いたいのですが」


 呆れ半分、諦め半分の声音。

 空蝉はしばらく黙っていた。


『ぐぅ』


 短く喉を鳴らす。


 返事なのか寝言なのか分からない音を最後に、空蝉は再び目を閉じた。


 風だけが吹き抜ける。

 数秒待っても反応はない。


「……寝ました?」


 返事はない。完全に無視だった。


 昼下がりの犬ほど、世界への責任感が希薄な生き物もなかなか存在しない。

 エフィムは小さく溜息を吐く。

 そして、仕方ないと言わんばかりに懐へ手を入れた。

 包装の擦れる音――その瞬間。


 ぴくり、と空蝉の耳が動く。

 閉じていた瞼がわずかに震え、途端に鼻をひくつかせる。


「――高級鹿肉ジャーキー」


 エフィムは淡々と告げる。


「お持ちしました」


 その途端だった。

 空蝉の目が、かっ開かれる。


 次の瞬間には無言でむくりと起き上がり、先ほどまで怠惰だった犬が、急に“ちゃんとした犬”の顔になっていた。


 尻尾が、ゆったり左右へ揺れる。


「会議が終了次第、すぐにお渡しします」


 エフィムは事務的な口調を崩さない。


「ですから、ちゃんと出席してください」

『合点』


 即答だった。


 空蝉は前脚をぴたりと揃え、実に厳かに頷く。

 さっきまでの屍みたいな姿勢はどこへ行ったのか。

 エフィムはそんな様子を見ても、特に驚きもしない。


 外はまだ、曖昧な陽射しに包まれていた。


 白とも灰色ともつかない空。風に揺れる木々。どこか眠たげな彩り。


 その穏やかさの中で、犬の尻尾だけが妙にご機嫌だった。


 3


 椅子の脚が床を擦る音が、やけに鋭く響いた。

 誰も口を開かない空間では、そんな小さな音ですら神経を逆撫でする。

 静かな部屋というのは大抵、知性か殺意のどちらかが煮詰まっているものだ。


「……てな感じで、家飛び出して来てもーてん」


 軽い調子の言葉だけが、その重苦しい空気を和らげていた。

 西棟の会議室は、いつも以上に冷えている。


 薄暗い照明。壁一面を埋める資料棚。几帳面に整えられた書類の束。そして、沈黙を好む幹部たち。


 中央の長机を囲むように、椅子が配置されている。

 そこに座るのは、組織の上層部と、極東の国から流れ着いた“客人”。


 誰も無駄に動かない。視線だけが静かに交差している。

 そんな張り詰めた空気を嘲笑うように、テーブル脇では犬が一匹、欠伸をしながら尻尾をぱたぱた揺らしていた。


「……つまり、芽衣さんのお母様は、『イル・マット』の元構成員――そういう認識で間違いないんですね?」


 会長エフィムの声は穏やかだった。

 だが、その穏やかさは氷みたいに冷たい。


 芽衣は小さく頷く。

 彼女は椅子へ深く腰掛け直しながら、気怠げに続けた。


「ウチのおかん、めちゃくちゃ酒癖悪いねん。飲んだら暴れるわ、ウザ絡みするわで、最終的に追い出されたらしいんやけど」


 そこで肩を竦める。

 妙に達観した仕草だった。


「……まあ、それでも“一応は組織側の人間”やったんは変わらへんやろ?」


 冗談めかした口調。

 けれど、その場にいた誰一人として笑わなかった。


『イル・マット』


 その名が持つ重さを、この部屋の人間は全員知っている。

 だからこそ、軽口ひとつで空気が緩むほど甘くはない。


「ウィリディアス・ルカ・グレイスを除き、構成員は全員女性――ですか」


 ボフマン・アンタレスが、静かに資料から目を上げた。

 その声音には驚きも感情もない。

 ただ事実を整理するためだけの確認。


 芽衣は頬杖をついたまま、「そうやでー」と軽く頷く。


「ウィリディアスはん、“美人にしか魔術教えたない”とか言うてたらしくてなぁ。せやから、色んな国から将来有望な女の子ばっか掻っ攫って来たらしいでぇ」


 笑いながら言う。

 だが、その目だけは笑っていなかった。

 昔話をしているというより、“未だ終わっていない何か”を眺めている目だった。


「他に――他に何かないんですか!?」


 沈黙を破ったのは、エフィムだった。


「規模、構成人数、活動拠点、資金源、メンバー構成! 何でもいい、少しでも――!」


 言葉が後半になるにつれ、苛立ちが露骨に滲み出る。

 彼は身を乗り出し、机へ両手を突いた。


 焦っている。

 いや、“焦らされている”と言った方が近い。

 情報が少なすぎるのだ。

 巨大な影だけ見えているのに、その輪郭がまるで掴めない。


「……やめな、エフィム坊ちゃん」


 間延びした声が、空気を切った。

 ヨレヨレのTシャツ姿のまま、バライバ理事長が煙草を咥えている。

 紫煙がゆっくりと天井へ昇り、薄暗い照明の下でぼやけた。


「客人は、まだここへ来たばっかりだろう?」


 その口調はいつも通り飄々としている。

 だが、言葉の芯には鋭い硬さがあった。


「それに、まだ確証のない情報だ。現状じゃ、アタシらにゃ動きようがないのさ」


 煙草を指先で軽く弾く。

 灰が、静かに灰皿へ落ちた。


「確かに、“ウィリディアス・ルカ・グレイス”は今なお多くの信奉者を抱えている」


 ボフマンが淡々と続ける。

 まるで報告書を読み上げる合成音声のように抑揚がない。


「その影響力を考えれば、軽率な行動は避けるべきでしょう」

「ですが」


 エフィムが即座に切り返した。

 食い気味だった。


「肝心の情報が少なすぎる。ウィリディアス本人以外、未だに詳細が一切掴めていないというのは、異常です」


 彼の視線が鋭く細まる。


「……写真の一枚も漏洩していない。そんな事が、本当に可能なんですか?」


 その問いに、バライバは小さく鼻で笑った。


「“用心深い”で済ませりゃ簡単だけどねぇ」


 紫煙越しに、彼女は目を細める。


「もしくは――」


 そこで一拍置いた。誰も口を挟まない。

 犬だけが、退屈そうに尻尾を揺らしている。


「本当に、“存在しない”のかもしれないねぇ?」


 その言葉を最後に、会議室へ沈黙が落ちた。

 短い。だが、妙に重たい沈黙だった。

 誰も即座には否定できない。


 “存在しない”。

 普通なら鼻で笑い飛ばされるような仮説だ。

 だが、この場にいる誰もが、その可能性を完全には切り捨てられなかった。


 情報が少なすぎる。顔写真すらない。出生も経歴も曖昧。

 あるのは、“ウィリディアス・ルカ・グレイス”という名前だけ。


 まるで最初から、“誰か”ではなく“概念”として作られたみたいに。


「……仮に、ウィリディアスが実在しないとして」


 エフィムが眉間を押さえながら口を開く。


「では、なぜここまで巨大な組織が成立したんです?」


 疲労と苛立ちが滲んでいた。


「幽霊が組織でも作ったと?」

「あるいは」


 ボフマンが静かに割って入る。


「その名前を冠しているだけの、別の集団かもしれません」


 低く、慎重な声音だった。


「いずれにせよ、根底にあるのは“信仰”でしょう」


 彼は指先で資料の端を整えながら続ける。


「人間は偶像を必要とする生き物です。実体があるか否かなど、本質ではない」


 淡々としている。

 まるで人間そのものを、少し遠くから観察しているみたいだった。


「信じている方が都合がいいなら、それで成立してしまう」

「……厄介な話だねぇ」


 バライバが煙草を灰皿へ押し潰す。火種が鈍く潰れ、細い煙だけが残った。


「結局、“本物”かどうかなんざ二の次なんだ。旗立ってりゃ、人は勝手に群がる」


 吐き捨てるような口調。


「……それで、これからどうするんだい。あの子煩いのに勘付かれると――……」


 その直後だった。


「――はい。子煩いのですが」


 声が割り込んだ。同時に――ガチャリ。会議室の扉が、静かに開く。


 空気が変わった。


 エフィムの表情が固まる。ボフマンの視線が鋭く細まり、バライバだけが「はぁ」と面倒臭そうに天井を仰いだ。


 施錠したはずだった。

 少なくとも、全員そう認識していた。

 だが、扉は何事もなかったかのように開いている。

 その入口に、一人の青年が立っていた。


 金糸を頭の後ろへ撫で付けた、美しい男。

 柔和な微笑み。隙のない姿勢。

 だが、その完璧さが逆に薄気味悪い。


「ジャンパカダ支部長、フェイルツィーオ。ただいま戻りました」


 丁寧に一礼する。

 声音だけは穏やかだった。


「ボクとしては、常に皆様へ協力的でありたいのです」


 ゆっくりと視線を巡らせる。

 会長。理事長。役員たち。客人。まるで一人ずつ観察するように。


「ですから、勝手に話を進めてしまうのは、いかがなものかと思うのですが」


 フェイルツィーオは柔らかく微笑んだまま言った。

 声音だけなら穏やかだった。

 だが、その奥には薄い氷みたいな冷たさが張り付いている。


「地方支部の支部長には関係ないだろ。すっこんでな」


 バライバが露骨に顔をしかめ、片手をしっしっと振る。

 まるで野良犬でも追い払うみたいな扱いだった。

 だが、フェイルツィーオの笑みは崩れない。


「……はて」


 彼はわずかに首を傾げる。

 その動作ひとつひとつが妙に洗練されていて、逆に作り物じみて見えた。


「それは、どういった意味合いで?」


 細められた瞳が、静かにバライバを射抜く。

 冷たい。怒っている訳でもない。

 感情を剥がし切った刃物みたいな視線だった。


「『イル・マット』に関する情報は、本来、魔術師育成協会全体で共有されるべき案件ではありませんでしたでしょうか?」

「本部だけで処理できる案件だよ」


 バライバが先に答えた。

 声には明確な苛立ちが滲んでいる。


「各支部には各支部の仕事があるんだから、そっちへ集中したらどうだい?」

「……例えば?」


 フェイルツィーオは、無邪気さを装った声で問い返す。

 まるで本当に分からない子供みたいに。

 だが、この場の誰も、その演技を信じていない。


「どのような仕事でしょうか?」


 空気が軋む。

 バライバの眉がぴくりと動いた。


「それを考えるのが、“支部長”であるアンタの仕事だろうが!」


 吐き捨てるような声。

 会議室の温度が、さらに数度下がった気がした。

 犬だけが空気を読まず、テーブルの下に寝そべっている。


「はぁ……やめだやめ。会議しゅーりょー。お疲れさん」


 空気そのものを追い払うみたいに、バライバが片手を振った。

 次の瞬間、ガタン、と椅子を蹴るように立ち上がる。

 緊張感も格式も知ったことじゃないという態度。


 彼女はそのまま机の横を回り込み、エフィムの肩をぽんと叩く。


「相変わらず面倒臭いねぇ、あの王子様は」


 顎先で示された先では、フェイルツィーオが静かに微笑んでいた。

 何を言われても崩れない笑み。

 あまりに整いすぎていて、もはや仮面に見えた。


「……後でメールするわ。アンタんとこ」


 それだけ言い残し、バライバはひらひらと手を振る。

 引き留める者はいない。

 彼女はそのまま会議室を出ていった。


 ドアが開いた瞬間、外廊下の冷えた空気がふわりと流れ込む。

 古い建物特有の、少し湿った匂い。遠くで誰かが歩く靴音。

 だが、それもすぐに断ち切られた。


 パタン。

 静かな音を立て、扉が閉まる。

 その瞬間。部屋には、沈黙だけが残った。

 誰もすぐには口を開かない。


 エフィムは眉間を押さえたまま動かず、ボフマンは資料へ視線を落としている。

 犬だけが退屈そうに鼻を鳴らし、床へ顎を乗せた。


 そして。

 フェイルツィーオだけが、相変わらず微笑んでいた。


 秒針だけが、細かく音を刻む。

 コチ、コチ、コチ。


 やけに鮮明な音だった。


 4


 すらりと伸びた手足。

 無駄のない輪郭。

 だが、その立ち姿には妙な威圧感があった。


 シャンタン地のコルセットに、揃いのティアードスカート。存在感を強調するボンネット。

 装飾は華やかなはずなのに、甘さより毒々しさが先に来る。

 踝まで流れ落ちた栗色の髪は、照明を受けて艶やかに揺れていた。


 ぱっちりと開いた瞳は鮮やかな水色。

 その色だけ見れば宝石なのに、視線はまるで刃物だ。


 ――カラン、カラン。


「あら、いらっしゃいませ」


 円花・ミレフォリアは、椅子へ浅く腰掛けたまま言い放った。

 視線は相手へ向いている。

 だが、その奥では別の何かを見ているようでもある。


「どういったご用件でご来店されたのかしら」


 客相手だろうと媚びない。

 いや、媚びる気が最初から存在しない。


「私も、こう見えて暇じゃないの」


 細い指先でテーブルを軽く叩く。


「用がないなら、さっさとお引き取り願えるかしら」


 丁寧な形をしているが、内容はほぼ追い出しである。

 しかも時折、小さく舌打ちまで混ざる有様。


「……ンッフフ」


 対する客人は、妙に楽しげに肩を揺らした。


「開店祝いにと思ってねぇ。邪魔して申し訳ないとは、思ってるんだけど〜」


 芝居がかった喋り方。大仰な身振り。派手な服装。どこを切り取っても胡散臭い。


 だが、その胡散臭さが“演技”なのか“素”なのか分からない辺りが、なお悪質だった。


「――開店祝い?」


 円花は眉を寄せる。

 まるで聞き慣れない言語でも聞いたように、ゆっくりと首を傾げた。


 警戒。困惑。そして、ほんの僅かな苛立ち。

 その全部が、水色の瞳の奥で静かに揺れていた。


「あれほど反対してた癖に、祝ってくれるのかしら?」


 円花は脚を組み直しながら、鼻で笑った。


「へぇ。“父親”としての責務くらいは果たしたい、と」


 最後の言葉だけ、わずかに声音が鋭くなる。


「随分と立派なのねぇ」


 挑発だった。

 いや、半分以上は嫌味だ。

 だが男は気分を害した様子もなく、むしろ楽しげに肩を揺らす。


「まぁまぁ、そう言わないでよぉ」


 両腕を大袈裟に広げてみせる。

 まるで舞台の中央に立つ役者みたいだった。


「親が“娘”の門出を祝うのは、普通の事じゃないか〜!」


 芝居がかった声。計算された表情。わざとらしいほど柔らかな笑み。

 その一挙手一投足が、妙に完成されている。

 だからこそ、嘘臭い。


 対する円花の視線だけが、ひたすら冷えていた。

 冬の硝子みたいな目だった。


「……どうぞ」


 ごとっ、と少し乱暴な音を立てて、ルフナとカトルカールがテーブルへ置かれる。

 カップの縁が微かに揺れ、琥珀色の液面が波打った。


 接客としては失格。

 だが、その雑さには、“飲んだら帰れ”という意思が隠しきれないほど滲んでいる。


 男はそれを気にした様子もなく、「ありがとうねぇ」と微笑んだ。


「大事な娘が夢を叶えたんだ」


 フォークを手に取り、カトルカールへ躊躇なく突き刺す。


「喜ばない理由なんて、ないよぉ」


 男は穏やかに笑った。

 全く悪びれない。その自然さが、逆に不気味だった。


 円花の眉が、ぴくりと動く。

 ほんの僅かな変化。

 だが、それだけで十分だった。


 この男の言葉ひとつひとつが、彼女の神経を逆撫でしている。

 店内を、紅茶の香りが静かに満たしていた。


 カトルカールの甘い誘い。温かな湯気。磨かれたカップの艶。


 本来なら、人を落ち着かせるための空間。

 なのに、空気は少しも和らがない。

 親子の会話というより。互いの喉元へ、薄い刃を突き付け合っているみたいだった。


 紛れもなく、空気は重い。

 その重苦しさを縫うように、店内ではスウィングジャズが軽快に流れていた。

 跳ねるピアノ。陽気なブラス。小気味良いハイハット。


 まるで、この場の空気だけ切り抜かれたように。

 その明るさが逆に不穏で、妙に耳へ残る。


 円花は黙ったまま紅茶へ口つける。

 流れてくる耳障りな音だけが楽しげだった。


 5


 嫌な知らせが入った。


「……分かりました。すぐ向かいます」


 通話を切った後も、エフィムはしばらくその場を動けなかった。

 父親を名乗るあの男が。留置所で自殺未遂を図ったという。


 スマートフォンを握りしめたまま、彼は小さく息を呑む。

 行かなければならない。責務を果たさなければならない。


 そう考える理性と、もう顔も見たくない、関わりたくもない、という本能が、胸の内で真っ向から衝突していた。


「……行かなきゃ」


 かすれた声だった。

 唯一の身内。それが、どれほど厄介で、どれほど呪いじみたものであっても。

 エフィムにとって、その義務だけは捨てられなかった。


「エフィム会長、先程の議録を――」


 執務室へ入ろうとしていたフェイルツィーオは、不意に言葉を止めた。

 部屋の入口で、ぴたりと動きを止める。


 エフィムがいた。

 窓際に立ったまま、こちらへ背を向けている。

 元々小柄な背中が、今日はさらに小さく見えた。

 肩はわずかに落ち、身体全体が内側へ縮こまっている。

 何かを考え込んでいる。それだけは、背中越しでも分かった。


 表情は見えない。

 だが、その沈黙が何より雄弁だった。

 窓の外では、曇った午後の光が街を白く濁らせている。


 室内は薄暗い。

 書類棚。積み上がった資料。針だけが進む壁掛け時計。


 静かすぎる空間だった。


「何かございましたか」


 フェイルツィーオの声が、空気を裂いた。

 遠慮という概念を置き忘れてきたみたいな声だった。

 本人に悪気はない。だから余計に厄介だ。

 しめやかな空気へ、平然と土足で踏み込んでくる。


 エフィムは振り返らない。

 窓の向こうを見たまま、しばらく沈黙し。


「……何でもないです」


 ようやく、それだけを返した。

 短い言葉だった。

 だが、“それ以上触れるな”という拒絶だけは、はっきり滲んでいる。


 フェイルツィーオは黙ったまま、その背中を見つめていた。

 普通の人間なら、そこで察して引く。

 触れてはいけない空気だと理解して、静かに退室する。

 だが彼は、“察する”という行為そのものを、拒絶している。


「そうですか」


 穏やかな声だった。


「でしたら、ボクから一つ」


 一拍置き。


「あの男が、緊急搬送されたそうですよ」


 何の悪気もない笑顔のまま、フェイルツィーオは言った。

 まるで明日の天気でも話すみたいに。

 冷たくもない。攻撃的でもない。むしろ妙に朗らかだった。


「自殺未遂ですか。運が良かったですね」


 さらりと続ける。

 そこに配慮はない。慰めもない。言葉を柔らかく包もうとする意思すら存在しない。


 エフィムの肩が、ぴくりと揺れる。

 窓の外へ向けられていた顔が、ゆっくりと動いた。

 静かに。本当に静かに。フェイルツィーオの方へ振り返る。

 無表情だった。怒っているようにも見える。

 だが実際は、もっと別の何かを押し殺している顔だ。


「……なんで、知って……」


 掠れた声。

 フェイルツィーオは肩を竦める。


「さあ?」


 相変わらず、笑顔のまま。


「関係者だからですかね。分かりません」


 軽い口調。

 だが、その目だけが異様なほど澄んでいた。

 底が見えない。悪意がないからこそ、不気味だった。


「それで、どうなさいますか」


 彼はソファへ浅く腰掛けた。

 長い脚をゆったり組み、机の端を指先でなぞる。

 その仕草は妙に優雅だった。

 洗練されている。

 なのに。同時にどこか、挑発めいて見えた。


「……わたしは、これにて失礼します」


 エフィムはそれだけ告げると、スマートフォンを静かに鞄へしまった。


 動作は丁寧だった。丁寧すぎるほどに。

 感情を零さないため、一つ一つの動きを無理やり整えているみたいだった。


 フェイルツィーオは何も言わない。

 引き止めもしない。問い掛けもしない。

 ただソファに腰掛けたまま、静かにその背中を見送っている。


 エフィムはその視線から逃げるように、足早に執務室を出た。

 重たい扉が閉まりかける。その寸前。


「あまり、ご無理をなされませんよう」


 穏やかな声だけが、背中へ追いかけてきた。

 優しい声だった。労わるような。気遣うような。

 だからこそ、不気味だった。


 まるで、全て分かっているみたいに。

 エフィムが何を抱えていて、何を恐れていて、これからどこへ向かうのか。

 その全てを承知した上で、なお静かに見送っているような声音。


 パタン。

 扉が閉まる。薄暗い執務室に残されたフェイルツィーオは、しばらく動かなかった。

 机の端をなぞっていた指先だけが、ゆっくり止まる。


 そして彼は、小さく目を細めた。

 笑っているのか。考えているのか。

 その表情は、最後までよく分からなかった。


 廊下の向こうでは、エフィムの足音だけが遠ざかっていく。

 規則正しく。けれど、どこか逃げるみたいに忙しく。


 6


 日が傾き始めていた。

 窓の向こうでは夕焼けが滲み、赤い光だけが静かに病室へ差し込んでいる。

 その色は温かいはずなのに、部屋の空気は妙に冷えていた。


 静かだった。機械音すらほとんどない。

 あるのは空調の微かな駆動音と、時折揺れる点滴の僅かな音だけ。

 空虚な病室だった。生活感も、人の気配も薄い。

 まるで“誰かが長く滞在する場所”ではなく、“ただ命を繋ぐためだけの空間”みたいだった。


「――おとうさん……」


 エフィムの声は、ほとんど掠れていた。

 ベッドの上の男を見つめる。

 一目で分かるほど衰弱していた。

 かつての面影が、ほとんど残っていない。


 贅肉を纏い、肥え太っていた身体は見る影もなく痩せ細り。頬は深くこけ、目の下には濃い隈が落ちている。

 皮膚は土気色に沈み、呼吸ひとつするだけでも苦しそうだった。


 ラヒナー・トカーニ。元ヤイロダ支部長。

 魔術師育成協会において、確かな権威を持っていた男。

 多くの人間が頭を下げ、恐れ、媚びへつらっていた存在。


 だが今、そこにいるのは。ただ、弱った老人だった。

 痛々しいほど痩せ細り。シーツの上へ沈み込む姿は、まるで別人みたいだった。


 エフィムはしばらく何も言えない。

 嫌っていたはずだった。憎んでいたはずだった。

 それなのに。実際に弱り切った姿を前にすると、感情は綺麗に整理なんてできない。


「……おお、アンネローゼ。我が天使よ」


 震えるように、薄く瞼が開かれる。

 濁った瞳が、ゆっくり宙を彷徨った。


 焦点は合っていない。

 その目に映っているのは、きっとエフィムではない。もっと遠い何か。

 過去。記憶。あるいは、自分に都合よく塗り替えられた幻想。

 ラヒナーは、虚空を見つめたまま呟く。


「愛しき妻よ……」


 乾ききった唇から零れる声は、あまりにも弱々しかった。

 そこに威厳はない。支部長としての面影もない。

 あるのは、壊れかけた老人の残滓だけだった。

 エフィムは、その姿を無表情に見下ろしている。


「……元気そうで良かったです」


 感情を削ぎ落とした声。


「それでは」


 短く告げる。

 父親。そう呼ぶには、あまりにも忌々しい存在だった。


 もっと言えば。犯罪者と、その被害者。

 表向きには伏せられている事実。

 誰かが聞けば、“冷たい息子”に見えるかもしれない。


 だが。

 エフィムは、そうするしかなかった。

 そうしなければ、自分を保てない。

 関わるべきじゃない。向き合うべきじゃない。

 何より、この男は――自分の息子を傷つけた。


 その事実だけは、どれだけ弱り果てようと消えない。

 今さら罪悪感を滲ませた顔で。今さら後悔したような目で。「許してくれ」などと言われたところで。

 そんなものは、救いにも赦しにもならない。


 ただ遅すぎるだけだ。


「……もう、行きますので」


 エフィムは静かに告げた。

 そのまま、念を押すようにベッド脇へ手を伸ばす。

 シーツの端へ指先が触れかけた――瞬間だった。


 ラヒナーの指が動く。


「――……ッ!?」


 次の瞬間、視界がひっくり返っていた。

 天地が逆転する。


 半回転。いや、一回転はした。

 床。天井。夕焼け。白い照明。


 景色が混ざり合い、猛烈な衝撃が後頭部へ突き抜ける。


 ――ドンッ!!

 鈍い音と共に、身体が床へ叩き付けられた。


「――いっ、つぅ……!」


 息が詰まる。


 耳鳴り。視界の端が白く滲む。だが、理解だけは早かった。

 投げ飛ばされた。それも、素人の暴力じゃない。


「動くんじゃないよ、エフィム君」


 ねっとりとした声が、耳元へ落ちる。

 右手首が、異常な角度へ捻り上げられていた。

 左腕はラヒナーの身体の下へ押し込まれ、完全に固定されている。


 逃げられない。単純な体重任せではなかった。

 骨格。関節。それらを正確に利用した拘束。


 力による制圧じゃない。“技術”だった。

 綿密で、無駄がない。まるで、何度も人を制圧してきた人間の動き。


「ぐっ……ッ!」


 激痛が走る。右腕の腱が、限界寸前まで引き絞られる。少しでも抵抗すれば、折られる。


「そうだ……その顔だ」


 ラヒナーの声は、先程までの衰弱した老人のものではなかった。

 粘つくような熱を帯びている。呼吸は荒い。だが、妙に生気だけは満ちていた。


「我が愛しのアンネローゼ……」


 耳元へ、吐息混じりの囁きが落ちる。


「君を傷つけていいのは……わし一人だけ――」


 その瞬間。エフィムの背筋を、生理的な嫌悪が駆け抜けた。


 病室の夕焼けは、まだ赤かった。

 点滴だけが静かに揺れている。


 ラヒナーは、笑っていた。頬を歪め、心底楽しげに。

 老いさらばえている。

 深く刻まれた皺。黒ずんだ歯茎。痩せこけた頬骨。それなのに、その目だけが異様に爛々としていた。


「さあ……あの日の続きと行こうか」


 掠れた声が、耳元で粘つく。

 拘束していなかった片手が、ゆっくりエフィムの身体を這った。

 まるで最初から、この為に空けていたみたいに。


 コート。カーディガン。シャツ。

 布越しに輪郭をなぞり、その下の熱を確かめるように。


 やがて指先は素肌へ触れる。

 ぞわり、と生理的嫌悪が走った。

 その手つきは、老人らしからぬ軽快さを持っていた。


「やめッ……っ、クソ……!!」


 エフィムは必死に身体を捩る。だが意味がない。

 重心まで制御されたこの体勢では、抵抗そのものが封じられている。


 少し暴れるたび、右腕へ鋭い痛みが走る。

 ラヒナーはそれを楽しむように目を細めた。


「そうだ、その顔だ……」


 恍惚とした声。


「怯えている君は、本当に美しい……」


 夕焼けの赤が個室へ滲んでいる。

 点滴の滴る音だけが、妙に規則正しかった。

 その静けさが逆に恐ろしい。


 エフィムは歯を食いしばる。

 恐怖より先に、怒りが込み上げる。

 何故、この男は、最後の最後まで“父親”になれないのか。


 弱り果てても。壊れかけても。

 結局、自分の欲の優先しか出来ないのか。

 ラヒナーの唇が、首筋へ落ちる。


 ――その瞬間。風が駆け抜けた。


「失礼」


 涼やかな声。

 軽い足音。一拍遅れて、男が入室する。


 だが、その男の動きは異様だった。

 コートを翻すような仕草。

 だが、そこには確かな“殺意”が乗っていた。


 次の瞬間。

 ラヒナーの身体が、横殴りに吹き飛ぶ。


「がッ――!?」


 鈍い衝突音。

 点滴台が倒れ、透明な液体が飛び散る。


 エフィムの身体から圧力が消える。


「っ、は……!」


 肺へ空気が流れ込み、遅れて激痛が右腕を突き抜けた。

 男は何事もなかったかのようにコートの裾を払う。


 その立ち姿は静かだった。

 静かすぎて、逆に異様だった。


「病院では、お静かに願います」


 穏やかな声音。


 まるで本当に“少し騒がしかったですね”程度の注意をしているだけみたいに。


 だが。

 壁へ叩き付けられたラヒナーは、呻き声を漏らしたまま立ち上がれない。


 男が放った一撃は、それほど正確だった。

 急所を外しながら、抵抗だけを刈り取るような暴力。


 エフィムは息を乱しながら、その姿を見上げる。


 見覚えのあるチェスターコート、眼帯にオールバック。


「……チェン、さん……?」


 男はゆっくり見下ろしてくる。

 そして、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。


「お迎えに上がりました、会長閣下」


 その声だけが、不自然なほど穏やかだった。

 病室の空気へ、静かに差し込まれる。


「――会長!!」


 続いて飛び込んできたのは、秘書のアルキンドラネスだった。


 息を切らしている。

 恐らく、ここまで全力で走って来たのだろう。

 だが。病室の光景を目にした瞬間、彼の表情が凍り付いた。


「ご無事ですか……!?」


 悲鳴に近い声だった。

 壁際で呻く老人。零れた点滴液。


 そして。床へ倒れ込んだエフィム。

 混乱の痕跡が、生々しく残っている。

 アルキンドラネスの顔がみるみる青ざめた。


「ぐぬぬぬ……」


 ラヒナーが低く唸る。

 壁へ身体を預けたまま、二人を睨み付けていた。

 その目には、剥き出しの憎悪が宿っている。

 先程までの恍惚とした顔とは別人だった。


「貴様ら……また、わしの邪魔をしおって……」


 掠れた声。だが、その執念だけは異様に濃い。

 そして。ラヒナーの手が、ゆっくりと懐へ。

 アルキンドラネスの視線が鋭くなる。


 武器――ナイフか。拳銃。あるいは何かの術式媒体か。

 封印されているはずの魔力。

 それでもこの男なら何を仕込んでいてもおかしくない。


 フェイルツィーオも一瞬だけ目を細め、身構えた。

 空気が張り詰める。一秒が、やけに長い。


 だが。次の瞬間、ラヒナーが取り出したのは――USBメモリだった。


「……は?」


 空気が抜ける音がした。

 アルキンドラネスの表情が崩れる。


 拍子抜け。困惑。そして遅れて来る警戒の再構築。

 一瞬で思考が迷子になるタイプの“ズラし”だった。

 ラヒナーは、それを見て笑った。


「ふふは。怖いだろう?」


 指先でUSBをくるくると回す。

 小さな金属片が、夕焼けの光を反射して光った。

 場違いなほど、軽い。だが、その軽さが逆に不気味だった。


 ラヒナーは構わず続ける。


「拳銃でもナイフでもない。だから安心したか?」


 笑みが、少しだけ深くなる。


「だがな……“中身”はもっと厄介だぞ」


 その一言で、空気が再び冷える。

 USBメモリ。ただの記録媒体。

 だが“記録”ほど危険な武器はない。


「これにはね、君達の事が沢山入っている」


 ラヒナーの声は低く、湿っていた。

 まるで腐った生ごみのように、じわじわと嫌な空気を染み出させる。


「個人情報。改竄した履歴。AI生成による証拠写真。音声データ……その他諸々」


 指先でUSBを軽く弾く。

 小さな金属が、病室の光を鈍く反射した。


「そうだな……一つの人生を潰すには、十分だ」


 静かな宣告だった。

 だが、その内容だけが異常に重い。

 空気が一段、沈む。


 アルキンドラネスの喉が、ごくりと鳴った。

 フェイルツィーオだけが、わずかに眉を動かす。


「……この期に及んで悪あがきとは」


 呆れたように、彼は肩を竦めた。

 その動作はいつも通り優雅で、無駄がない。


「魔術師が聞いて呆れますね」


 だが、視線は一切外さない。

 USBから。ラヒナーから。そのどちらからも、一瞬たりとも油断していない。


「何より。わざわざ警告する時点で三流ですよ」


 言葉は淡々としていた。

 だが、その奥には鋭い刃が混じっている。


「そんなものは、こそこそ隠して、気づかれぬうちに叩きつけるのが筋というものです」


 軽く息を吐く。


「まったく、悪役にも劣る愚行ですね」


 その瞬間。空気がわずかに揺れた。

 ラヒナーの目が細くなる。

 笑みの形は崩れないまま、しかし温度だけが下がる。


「……ほう」


 短い声。

 だが、その一音だけで、病室の緊張がさらに締まる。

 エフィムは床に倒れたまま、呼吸を整えている。

 右腕の痛みが鈍く続いていた。


 アルキンドラネスは動けない。

 何をするべきか判断が追いついていない。

 そしてフェイルツィーオだけが、変わらずそこに立っていた。

 まるで、最初からこの状況を観察するために来たみたいに。


 ラヒナーはUSBを指先で弄ぶ。


「面白いな……」


 低く、笑う。


「では試してみるか?」


 その声には、妙な確信があった。

 “まだ終わっていない”という確信。

 病室の夕焼けは、さらに赤みを増していた。

 点滴の滴る音だけが、静かに時間を刻んでいる。


「――全く、この時代に物理媒体に頼る時点で、時代錯誤も甚だしい」


 低く、冷えた声が病室へ落ちる。

 フェイルツィーオが革手袋の指を鳴らした。


 ――パチンッ。

 軽い音。その直後、ラヒナーの掌の中でUSBが痙攣するように震えた。


「なっ――!」


 反応より早く、異常が走る。

 内部から金属が焦げる匂い。

 次の瞬間、鋭い火花が散り、USBは閃光と共に崩れ落ちた。燃え滓だけが、床へ舞い散る。


 静寂。

 フェイルツィーオは視線を動かさないまま言う。


「情報も人も、どう守るかが問題です」


 一拍。


「貴殿には、どちらもできまい」


 冷徹な断言だった。

 アルキンドラネスは身構えたまま、呼吸を殺す。

 エフィムは床に倒れたまま、その光景を見ていた。


 右腕の痛みはまだ残っている。

 だがそれ以上に、心臓の鼓動だけがやけにうるさい。


 ラヒナーはしばらく動かなかった。

 そして――力が抜けるように、壁へ背を預ける。


「はは……」


 乾いた笑いが、病室に落ちた。

 笑っているのに、音は軽くない。


 ラヒナーは、焼け焦げた残骸を見つめる。

 そこにあったはずの“武器”が消えている現実を、ようやく理解した顔だった。


 夕焼けの赤が、窓越しに静かに滲んでいる。

 点滴の音だけが、規則正しいリズムを刻んでいた。


 7


 ノックの音で目が覚めた。


「はい、たらぃま……」


 寝ぼけた声が、喉の奥でひどく掠れる。

 ベッドから身体を起こすだけで、全身が鉛のように重い。


 ここ最近はずっと、そんな調子だった。

 やっと眠れたと思えば電話が鳴る。

 仕事が片付いたと思えば、今度は夜更けに訪問者が来る。

 休む暇など、ろくにない。

 そのせいで、身体の芯まで疲労が染みついている。


 だが、ドアの向こうに立つ人物を見た瞬間――眠気は一気に吹き飛んだ。


「――カミハナ=ロッソの使いの者です。エフィム=ゾーラ様のご自宅はこちらとお聞きしたのですが、ご在宅でいらっしゃいますか」


 使いの者。

 その言葉よりも先に、カミハナ=ロッソという単語が耳を打つ。


 エフィムは、ほんの一瞬だけ息を止めた。

 カミハナ=ロッソ。

 その名を、今このタイミングで聞くとは思っていなかった。


 よりによって、こんな夜中に。


「はい、少しお待ちを――」


 チェーンを外し、鍵を解錠する。

 その間に、足元に散乱していたペットボトルや缶、広告や新聞の山を蹴って脇へ寄せる。


 寝癖はどうしようもない。この際、諦めるしかない。


「お待たせしました」


 扉を開ける。

 そこに立っていたのは、想像よりもずっと陰気な男だった。

 小柄で、小太り。俯きがちの視線。

 整った身なりのはずなのに、全体に湿気を含んだような印象がある。

 清潔なのに、清潔に見えないタイプの人間だった。


「――夜分に突然のお伺い、大変申し訳ありません」

「いえ。ご丁寧にありがとうございます。それで、本日はどのようなご用件で」

「こちらを」


 男はそう言って、一通の封筒を差し出した。

 鷲に柊の紋章。蝋封。


 間違いない。

 ロッソ・カンパニー。


 エフィムの指先が、ほんの僅かに止まる。


「ご当主様からのご招待でございます」

「……ご招待?」


 思わず復唱してしまう。

 あまりに場違いな単語だったからだ。


「ええ。この度はご子息であるヴィンセント=ロッソ様の二十歳の誕生日に際し、各界の著名人を招いての祝宴を執り行う運びとなっております」


 淡々とした説明。


「つきましては、ぜひエフィム=ゾーラ様にもご臨席いただきたいとのご意向でございます」

「……これは、どうも……」


 エフィムは封筒を受け取り、とりあえず礼を返す。


 頭では理解している。

 “招待状”という形を取っている以上、これは一応の丁寧な儀礼だ。

 それを立場上、無碍に扱えば角が立つ。

 だが、正直なところ参列する気にはなれなかった。


 それに、今はそれどころではない。


 父親の事件。イル・マット。積み重なる精神的疲労。

 思考の余白は、もうほとんど残っていない。


 カミハナ=ロッソは確かに魔術師育成協会にとって重要なお得意様だ。

 だがだからといって、社交の場に立つ余裕まで要求されても困る。


「……承りました。検討させていただきます」


 無難な返答。それ以上でも以下でもない言葉を選びながら、封筒の重みだけを指先で感じる。


「是非ともご検討願えますよう。ご当主様も、エフィム=ゾーラ様に個人的なお話をしたいと」


 その一言で、思考が一瞬だけ止まった。


 ――“個人的”。たったそれだけの単語なのに、妙な重圧を持つ。胃の奥が、じわりと重くなった。


「……分かりました。出来る限り予定を調整し、参加いたします」


 気付けばそう言っていた。


 習慣。立場。責任。

 そういうものが先に口を動かしてしまう。


「それは大変光栄でございます。詳細につきましては、近日中に別途ご連絡させていただきます」


 使いの男は深く一礼し、静かに去っていく。

 扉が閉まる音が、やけに軽かった。

 エフィムはその場に立ち尽くしたまま、小さく息を吐く。


 夜明け前の空は、まだ完全には明るくなっていない。

 薄い青と、溶けかけた茜色が混ざり合っている。

 冬は嫌いだ。寒くて、長い。

 静かすぎるせいで、余計なことばかり考えてしまうから。


 寝直す気にもなれず、エフィムは封筒を指先で弄びながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。


 8


 日が昇る。

 空は淡く青く透け、夜の名残を一枚ずつ剥がしていく。

 その頃になってようやく、世界は“業務用の顔”を取り戻し始める。


 魔術師育成協会本部も例外ではない。

 朝礼。書類確認。会議調整。講義準備――。


 魔術師といえど、やっていることは結局のところ、どこかの企業と大差ない。

 むしろ書類の量だけ見れば、普通の企業よりずっと俗っぽい。


 実に“普通”な一日の始まりだった。

 だが、その“普通”は、いつだって何かの前触れとして成立している。


「――エフィムはーん! エフィムはんっ!エ・フ・ィ・ム・は〜ん♪」


 廊下の向こうから、やたらと賑やかな声が響いてきた。

 振り向けば、魔術師育成学校の制服に身を包んだ金髪少女が、バタバタとこちらへ駆けてくる。


「うわ、うるさっ」


 思考の回らない頭で、思ったことがそのまま口をついて出た。


「なあなあなあなあ、ウチの格好見てみーや! 許可が降りてな? 正式に魔術師育成学校に入学が決まったんやで〜!」

「へー、そうなんですかー」


 エフィムは、辟易したように目を細める。


「……で、誰が許可出したんです?」


 答えを聞く前から、だいたい察してはいた。

 嫌な予感というやつは、こういう時だけ妙に正確だ。


「じゃあ、用がそれだけなら――」


 背を向ける。


「ちょちょちょ、待ちーや! 話まだ終わっとらんちゅーねん!」


 明るい声が、逃がすまいと追いかけてくる。


「あの、フェイク? フェンス? だかなんかアレな、イケすかない兄ちゃんが、取り計らってくれたんやって! だから、お礼言いたいねん。今どこ〜?」

「その人は地方の支部長なので、多分もう帰ってます。――というか、なんでまた勝手に……!」


 エフィムはこめかみを押さえる。

 頭痛というより、もはや慢性的な反応だった。

 ヴォルーツォにしろ、フェイルツィーオにしろ、どうしてこうも事後報告で引っ掻き回す連中ばかりなのか。


「そもそも本部の承認なしに、入学許可なんて通るわけが……」


 理屈を口にしながら、自分で自分を落ち着かせようとする。

 だが現実は理屈より先に動く。この組織は、そういう場所だ。


「せやけど、そのフェイなんちゃらが言うてたもん。『ボクに任せておけ』とか」

「……はぁ?」


 エフィムの声が一段だけ低くなる。


 “ボクに任せておけ”――その一言で許可が通る構造自体がもう異常だが、それ以上に問題なのは、その言葉に実績が伴ってしまっている事だった。


 エフィムは小さく息を吐いた。

 勝手に、どこかで何かが動いている。

 また頭痛の種が増えた。そう感じた、その時だった。


 ――風が、駆け抜ける。


『聞こえるか、人類よ。今、貴様の心に話しかけておる』


 頭の内側へ直接響くような、聞き覚えのある渋い声。


「オヤツなら、もう買い置きありませんよ」


 エフィムが振り返ると、少女の足元には中型犬がちょこんと座っていた。

 尻尾をゆったりと揺らしながら、何事もない顔をしている。


『ヌン! そんな話をしに来たのではないわ! 己の話を聞けい!』


 犬は鼻に皺を寄せ、歯を剥き出しにする。

 だが、威嚇の割に見た目はただの犬だった。


 さも重大な秘匿を抱えているかのように、無駄に重く、無駄に芝居がかっているが、やはりただの犬だ。


 エフィムは、半眼になった。


「……何ですか、一体」

『己がここに居るのは、他ならない。貴様に伝えるべき事があるからだ』

「はあ」

『ありがたく受け取るがいい』


 犬は、わざとらしく一拍置いた。


『貴様の知らぬところで、既に歯車は回り始めておる』

「へー」


 興味のない返事が落ちる。

 エフィムは欠伸をひとつ噛み殺した。


『この意味が、貴様に分かるか?』

「全然」


 即答だった。


『――ならば、教えてやろう』


 その瞬間だった。

 エフィムの指先に、ひんやりとした感触が触れる。

 犬の鼻先。湿った体温。


「――っ」


 反射的に身を引こうとした瞬間、視界が揺れた。

 音が遠のく。廊下の景色が薄く滲む。

 代わりに、別の“像”が脳裏へ流れ込んでくる。

 それは映像というより、感覚に近かった。


 裏通りの一角。雑居ビルの前。

 アンティーク・ショップ『シャルトルーズ・ドゥ・パルム』


 見上げる視点。古い二階建てのビル。

 洒落たアール・デコ調の看板が、薄い照明に浮かび上がっている。


 錆びた金具。燻んだ装飾。遠くで瞬く街灯。

 誰かが立ち止まり、ただそれを見上げている――そんな静かな気配だけがあった。


「……え、空蝉さん。今のって……」


 エフィムは我に返るなり、犬を見下ろした。


『おじいちゃんと呼べ』

「はい?」


 質問への回答は華麗に無視された。


『己はな、孫におじいちゃんとすら呼んでもらえんのだ。故にエフィム、貴様にその役を与えることにした』


 あまりにも一方的な宣言だった。

 エフィムは一瞬、言葉を探すのをやめる。


「……今の映像と、その話、関係あります?」

『あるに決まっておろう』


 即答だった。

 どこにも話が繋がっていない気もするが。

 ちょうどその時、少女が吹き出すように笑った。


 空気は一瞬で崩れたのに、エフィムの脳裏だけは妙に冷えていた。

 さっき見せられた映像。あれだけは、冗談の温度じゃない。


「……さっきのどこだろう。見覚えのある通りなんだけど」

『流石にそこまでは知らん。己の知識は古きが故に、現在とは擦れるが――それが面白味というものであろう。エフィムよ』


 犬は得意げに鼻を鳴らす。

 その自信だけは、毎回きっちり偉そうだった。

 エフィムは小さく息を吐く。

 スマートフォンを取り出し、検索欄に店名を打ち込む。


『シャルトルーズ・ドゥ・パルム』


 結果――薔薇の品種。それが最初に並ぶ。

 次に出てくるのは、地方店舗の口コミサイトや、閉業した喫茶店のブログだけだった。


 どれも違う。スクロールする指が止まる。

 情報はある。だが、つながらない。

 まるで最初から、辿り着かせる気のない断片だけをばら撒いたみたいだった。


「……SNSにも出てこないとなると、余計に怪しいですね。誰か一人くらいは足跡を残すもんでしょうに」


 エフィムは顎に手を当て、画面を軽く睨む。

 少女はその様子を、相変わらずニコニコしながら見ていた。


「なあ、エフィムはん。オモロいモン見つけたら教えてな〜。ウチも後で行ってみたいわ」


 軽い声。

 他人事みたいな明るさが、妙に引っかかる。


 ――行ってみたい?

 エフィムは一瞬だけ思考を止める。


 いや、違う。

 自分で探しに行けばいい話だ。


「分かりました。時間があればこちらで調べておきます。まだ来たばかりなんですから、勝手な行動は控えてください」


 言葉は丁寧だった。

 だが思考はもう別の線を走っている。


 検索に出ない店舗。妙に現実的すぎる視界。

 偶然にしては、揃いすぎている。


 仮に本当に存在するのだとしたら――なぜ、情報だけがここまで綺麗に欠けている?


『ふん、エフィムよ。己を誰だと思っておる。神ぞ。崇めよ』

「はいはい、神様神様」


 適当に流す。

 この手の厄介者は、だいたい構ってほしいだけだ。……のはずなのに。


『まあ安心せい。必ずや真実には行き着く。それだけは確かだ』


 その声だけ、妙に重かった。

 いつもの冗談混じりの調子ではない。

 エフィムは一瞬だけ犬を見る。

 ふざけた存在のはずなのに、こういう時だけやけに確信を持っている。


 それが、妙に引っかかる。


「……どうだか」


 エフィムは肩を竦める。

 言葉にせず、思考を巡らせる。

 真実なんて、案外、辿り着いた時にはもう手遅れの可能性の方が高い。


「まあ、一応探しておくけど」


 そう呟いて廊下を後にした。


 9


 視線は前へ。

 横手で印を刻みながら、エフィムは小さく呟く。


「……探索解除。空間固定、第三層――」


 指先へ意識を集中させる。

 北棟の地下研究室は、もともと人の出入りが少ない。


 だが、それにしても今日の北棟は静かすぎた。

 人の気配がない。いや、違う。

 誰かが意図的に気配を避けているような、不自然な静寂。

 嵐の前の空気を思わせる、不気味な静けさだった。


「……やっぱり、ダワイカ周辺かな」


 独り言が漏れる。見つからない店舗。空蝉の見せた視界。

 それらを頭の中で繋ぎ合わせながら、無機質な床へ視線を落とす。


 その時だった。廊下の角から、ゆらりと人影が現れる。


「――あっれ〜、エフィムくんじゃないかぁ!」


 場違いなほど明るい声。

 聞き慣れたはずなのに、何度聞いても妙な違和感が残る声だった。


 エフィムは振り返らない。


「いや、距離が遠いのかもしれないな。それとも妨害工作でも――」

「お〜い」

「違う。これはもしかして座標そのものが――」

「エフィムく〜ん」

「……うーん」

「ねぇってば〜」


 無視を決め込むエフィムの背後で、何かが蠢く気配がした。

 スス、ススス……。指先が背骨をなぞるように這い上がる。その瞬間、鳥肌が立った。


「――ひゃぁんっ!?」


 エフィムの身体が跳ねる。


「ちょっ、何するんですか!」


 振り返ると、そこには案の定、ヴォルーツォがいた。


「ずっと呼んでたんだけどなぁ? 反応してほしいお年頃なんだよねぇ、僕」

「……はあ?」


 エフィムは露骨に眉を顰めた。


「知りませんよ。鬱陶しい」

「つれないなぁ」


 ヴォルーツォは肩を竦める。まるで傷付いた様子もない。


「君にまた何かあったら、監視役の僕の責任になるしね?」

「そう思うなら、もう少し周囲に目を配ったらどうです?」


 エフィムは冷たく言い返した。


「今や協会なんて危険人物だらけなんですから」


 一拍置き、そして。


「例えば――貴方とか」


 ちらり、と視線を向ける。

 ヴォルーツォの笑顔は変わらない。


「危険人物かぁ。確かに僕は危険だねぇ……何てったって――美しすぎるッ!」


 ヴォルーツォは髪を束ねていたリボンをさらりと解く。

 そのままくるり。何故か舞台俳優めいた動きでキザったらしいポーズを決めた。


「はあ……」


 エフィムは深々とため息を吐く。


「なんでこんな奴と同じ組織にいるんだろ」

「いやいやいやいや!?」


 ヴォルーツォが飛び上がる。


「流石にそれは酷くないかい!? 僕だって心は硝子なんだよ!? 脆くて儚い美少年なんだからねッ!?」


 ヴォルーツォは胸を押さえ、さめざめと泣く真似をする。

 だが涙は一滴も出ていない。演技ですらない。単なる騒音だった。


「まあ、それは置いといて」


 エフィムは話を切り替える。


「ヴォルーツォさん、シャルトルーズ・ドゥ・パルムってアンティークショップ、ご存じありませんか?」


 何気ない問いだった。

 少なくともエフィムは、そのつもりだった。


「多分、この辺りにあるんじゃないかと思うんですけど」


 沈黙。不自然なほど唐突に。ヴォルーツォの動きが止まる。

 表情が消えた。ほんの一瞬。瞬きをするより短い時間。


「――エフィムくん」


 声の温度が下がる。


「また危ないことに手を出そうとしてる?」


 エフィムは思わず身を強張らせた。


「ち、違います」


 即座に否定する。


「これは単なる興味というか、その……調べものというか……決して危険なものじゃ――」


 言いながら、自分でも苦しいと思った。

 なぜなら。目の前の男は、そういう言い訳を聞き流すタイプではないからだ。


「何が目的なの?」


 静かな声だった。


「何か欲しい物があるなら僕が買ってあげる。調べたい事があるなら僕が調べる。だから君は大人しくしていてほしいなぁ」


 一拍。


「この前だって、危なかったんだろう?」

「……分かってます」


 エフィムは拳を握りしめる。小さく息を吐いた。


「分かってるんです」


 視線を落とす、磨かれた床へ。だが、それも一瞬だった。

 すぐに顔を上げる。逃げるつもりはなかった。


「でも――わたしだってやれるんです」


 その声は静かだった。けれど、芯だけは揺らがない。


「貴方が守ってくれているのは知っています」

「……うん」

「助けられている事も」


 ヴォルーツォは何も言わない。ただ聞いている。

 だからこそ、エフィムは続けた。


「それでも」


 拳を握る。


「わたしにも責任がある」

「……エフィムくん」

「会長として。協会の魔術師として」


 その瞳は真っ直ぐだった。


「みんなに守られるだけの存在でいたくないんです」


 沈黙が落ちる。室内の空調音だけが、微かに響いていた。

 ヴォルーツォはしばらく何も言わなかった。


「……困ったなぁ」


 小さく笑う。今度の笑みには、芝居臭さがなかった。


「そういう顔されると、僕が弱いの知ってるでしょ?」


 呆れたように肩を竦める。


「じゃあ約束」


 小指を立てる。


「どこへ行くのも自由」


 エフィムの表情が少しだけ緩む。


「ただし、一人は駄目」


 その瞬間、再び真顔になる。


「僕が嫌いなら他の誰でもいい。必ず誰かを連れて行くこと」


 軽い口調なのに、そこだけは譲らない。絶対に。


「それが条件。……どう?」


 エフィムは数秒考えた。そして。


「――分かりました」


 迷いのない返答だった。


「約束します」


 ヴォルーツォはそれを聞くと、ようやく息を吐く。

 張り詰めていた何かが少しだけ解けたように。


「ありがとう、エフィムくん」


 微笑む。その笑顔は、先ほどまでの派手な作り笑いとは違った。

 少しだけ疲れていて。少しだけ安心したような。

 そんな、人間らしい笑顔だった。


「よ〜し、そうと決まれば、暇そうな人でも連れて行こう〜! 誰がいいかなぁ?」


 ヴォルーツォはスマートフォンを取り出し、連絡先を漁り始める。


「……なんだ、ヴォルーツォさんが来てくれるんじゃないんですか」


 ぽつりと漏れた言葉。ヴォルーツォの指が止まる。


「え?」


 きょとんと目を瞬かせた。


「だって嫌われてるのかと思ってたから、てっきり他の人をご所望かと」

「ち、違っ――」


 エフィムは慌てて顔を逸らした。


「前言撤回です! やっぱり他を当たってください!」

「そうかぁ」


 ヴォルーツォの頬が緩む。


「そうかそうかそっかぁ」


 妙に嬉しそうだった。


「僕を頼ってくれてるんだねぇ♡」

「うっざ……」


 エフィムは心底嫌そうな顔をした。


「ほら、暇人2号探してくださいよ。得意でしょう?」

「もう、照れなくていいのに♡」


 ヴォルーツォは鼻歌交じりに画面を操作する。

 数秒後。


「よし、暇人2号ゲット!」


 満足そうに呟く。そして。


「――さて、と」


 その声だけが、不意に低くなった。


 空気が変わる。

 先ほどまでの軽薄さが、すっと消える。

 室内の温度が一気に下がったような錯覚を覚えた。


「まあ、あの子になら任せて大丈夫だとは思うけど、くれぐれも危ないことには手を出さないこと。それから……」

「はいはいはいはい」


 エフィムはこれでもかというように、ヴォルーツォの言葉を遮る。


「もう何度も聞きましたから、分かりますから」

「そっか。分かってるならいいけど」

「はい、よく知っています」


 その言葉に偽りはない。彼はいつだってそうだった。

 過保護で、口うるさくて、まるで――。


「お母さんみたい」


 思わず口をついたが、すぐに訂正する。


「……いや、お父さんですかね」


 苦笑混じりに、そう言った。


 10


 薄暗い路地を抜ける。


 石畳は長年踏み固められたせいか鈍く擦り減り、乾いた靴音を静かに吸い込んでいた。陽は既に傾き始めている。


 午後特有の気怠い空気が、埃の匂いを巻き上げながら路地を流れていく。


 その先。雑居ビルの二階に、それはあった。


 アンティーク・ショップ『シャルトルーズ・ドゥ・パルム』


 燻した真鍮の看板。アール・デコ調の装飾。錆びた金具。空蝉に見せられた光景と、同じだ。


「……まさか、本当にあるとは」


 思わずエフィムの喉が鳴る。


 対する暇人二号ことフェイルツィーオは、看板を見上げたまま淡々と言った。


「以前から報告は何件か上がっておりましたので」


 まるで天気の話でもするような口調だった。


「てっきり、エフィム会長の耳にも届いていたものかと」

「――えっ……し、知ってましたけど?」


 エフィムは目を細める。当然ながら初耳である。


 だが、ここで『そんな話は聞いていません』などと言おうものなら、『会長職というものは情報収集も職務の一つなのですが』くらいは平然と返ってくる。


 下手をすれば三倍くらいになって返ってくる。なのでに適当に流した。


 フェイルツィーオもそれ以上は追及しない。

 ただ、口元だけが僅かに笑っている。


「と、ともかく、入りましょう!」


 エフィムは半ば逃げるように話題を切り替える。しかし。


「いいえ」


 即座に否定された。


「潜入調査なのですから、まず周辺環境の確認が先でしょう」


 フェイルツィーオは店ではなく路地へ視線を巡らせる。


「出入口は一つ。監視カメラは確認できませんが、あの位置なら二階の窓から路地全体を監視できます」


 淡々と分析する。


「それにエフィム会長」

「は、はい?」

「貴方、どう見ても関係者の人間です」

「え?」

「その格好で『一般客です』は流石に無理があります」


 エフィムは自分の服装を見下ろした。

 魔術師育成協会の徽章入りコート。見慣れたスーツ。つやつやのロングヘア。


 確かに潜入調査には向いていない。


「……そろそろ、立場というものを考えて行動なさるべきでは?」


 フェイルツィーオは呆れたように眼帯のベルトを直した。


「貴方の名前も容姿も、既に国内では広く知られてます。潜入調査の意味は、流石にご理解いただいているものと存じますが」

「んあッ!? 言われなくても分かってるっつーの! もう!」


 エフィムは両手を振り上げた。


「いやはや。もう少し余裕と品格を持っていただきたいものですね」


 フェイルツィーオは優雅に肩を竦める。


「まあ、構いませんが。所詮は子供の癇癪ですし」

「うぎぃっ! その余裕が余計にムカつくんです、このこのこの!」

「ふふふ。あまり乱暴な言葉を使われると、会長としての品位が疑われますよ」

「うっさいなぁ! 貴方が言わせたんでしょうが!」

「おや」


 不意に、フェイルツィーオの視線が階段へ向いた。

 エフィムもつられて顔を上げる。


 雑居ビルの薄暗い階段を、一つの影がゆっくりと降りてくる。

 白い三段のティアードスカート。贅を尽くしたボンネット。陽光を受けて揺れる長い髪。


 まるで宮廷の夜会から抜け出してきた貴婦人のような装いだった。

 だが、その美しさにはどこか棘がある。

 触れれば傷付くと、本能が警鐘を鳴らす類の美貌。


「あら、新しいお客様かしら?」


 鈴を転がすような声。薄い青の瞳が細められる。唇には妖しく艶めいた微笑。

 毒花が人の姿を取ったなら、きっとこんな顔で笑うのだろう。


 にゃあ。

 足元に、サビ猫と黒猫が寄り添ってくる。

 食後なのか、喧嘩の後なのか。互いの毛並みを丁寧に舐め合っている。

 そのうちサビ猫が気まぐれに女の脚へ身体を擦り寄せた。


 女は慣れた手つきでその頭を撫でる。

 まるで、この路地も、この店も、この猫たちも。全て自分の庭であるかのように。


「……もしかして、あれが店主ですか?」

「どうでしょうね」


 フェイルツィーオは女性の背中を見送りながら肩を竦めた。


「まあ、潜入すれば分かることでしょう」


 そう言うと、近くの壁へ背を預ける。

 そして何事もないように詠唱を始めた。


「――変化、展開」


 フェイルツィーオの足元へ魔法陣が展開される。


「幻影、演算、構成、再構築――」


 フェイルツィーオの輪郭が揺らいだ。

 金色の髪が黒髪へ変わり、衣服が簡素な魔術衣に置き換わる。


「――ひとまず、こんなところですかね」

「おー」


 エフィムが思わず声を上げる。

 いつもの神経質なオールバックは消えていた。

 眼帯は外され、代わりに長い前髪を下ろし右目を隠した青年。

 服装も協会指定の物ではなく、どこにでもいそうな若い魔術師のものへ変わっている。

 顔立ちは同じはずなのに、受ける印象がまるで違った。


「すごいですね。まるで別人みたい」


 思わずエフィムが拍手する。フェイルツィーオは軽く会釈した。


「それほどでも」

「いえ、別に褒めてはいませんけど」

「そうですか」


 即答だった。一切気にした様子がない。

 むしろ最初から褒め言葉として受け取っていないような態度だった。


 そして――「ああ、そうでした」

 フェイルツィーオは鞄を開く。


「貴方にも変装していただかなくては」


 ごそごそと中を漁る。

 取り出されたのは、淡い水色のワンピースだった。


 数秒の沈黙。

 フェイルツィーオは極めて真面目な顔をしている。


「どうでしょう」


 恭しく服を差し出した。


「変装するのであれば、普段の格好から大きく離れたものが最適かと」


 にっこり。嫌味を一切感じさせない、爽やかな笑み。

 エフィムはこれでもかと露骨に嫌悪感を表す。


「……嫌に決まってるでしょ」

「何故? 貴方の容姿なら、何も違和感はないはず」


 本気で疑問に思っている顔だった。


「それに、万が一店主に貴方の情報が伝わっていた場合、警戒されて潜入が困難になります。そのリスクを考えれば、この程度の犠牲は払うべきでは? 我々は仕事で来ているのですから」

「うぐぐぐ……絶対嫌がらせだ」

「ボクは至って真面目です。兄妹という設定なら、多少の共通点も必要でしょうし」

「誰が妹だッ!?」

「えっ」


 フェイルツィーオは驚いたように目を見開く。


「まさか、弟希望とは……」

「そういう事じゃないっつーのッ!?」


 11


 フェイルツィーオに半ば強引に連行され、本部近くのビジネスホテルへ移動してから数十分後。

 洗面所の鏡の前で、エフィムは固まっていた。


 淡い水色のワンピース。裾には繊細なラッセルレース。

 ビブカラーには細かなピンタックが並び、首元にはカメオ付きのリボンブローチが揺れている。


 鏡に映った自分を前に、エフィムはしばらく固まっていた。


 ――可愛い。非常に可愛らしい。腹立たしいほど似合っている。

 幼い顔立ちとも調和しているし、サイズもぴったりだ。


 だからこそ落ち着かない。


 捨てたはずの名前。封じたはずの記憶。

 忘れたかったものばかりが、服の形をして戻ってきた気がした。


「お似合いですよ、エフィム会長」


 フェイルツィーオが微笑む。嫌味がない。

 完璧なる王子様の笑みだった。


「……満足ですか」

「ええ」


 即答。


「満足満足」


 フェイルツィーオはコームとコンコルドをベッドへ放り投げ、最後の仕上げとばかりに髪へリボンを通した。

 異様に器用な指先だった。


「兄妹という設定ですし、親睦を深める意味でも名前でお呼びしましょうか」


 嫌な予感がした。


「ボクのことは、お兄ちゃんと呼んでください」

「……おにいちゃん」

「ふふ」


 フェイルツィーオは笑う。


「もう少し自然にできませんか。アンネローゼさん」


 エフィムの眉がぴくりと動いた。

 こいつは本当に性格が悪い。何重にも過去を掘り返してくる。


 わざとなのか天然なのか分からない辺りが、なお悪質だった。


「……お兄様」

「どうしてそう極端なのですか」


 フェイルツィーオは呆れたように肩を竦める。


「まあ、いいでしょう」


 そして不意に首を傾げた。


「聞かないんですか?」

「何をです?」

「どうしてボクがここまで手際良く女装させられるのか、とか。何故、服のサイズを、とか」


 エフィムは鏡越しに奴を見る。

 数秒考える。そして。


「気にならないと言えば嘘になりますけど」


 ため息。


「聞いても碌な答えが返ってこない気がします」

「そうでもありませんよ」


 フェイルツィーオは実に爽やかに答えた。


「愚妹の世話を続けていれば、自然と身に付く技能です」

「……妹?」

「こう見えてボクは面倒見が良いと自負しています」


 エフィムは鏡から視線を外した。

 そして静かに言う。


「面倒見というか」


 一拍。


「貴方の場合、ただの性癖では?」

「失礼ですね」


 フェイルツィーオは心外そうに片眉を上げた。


「それを言うのであれば」


 ゆっくりと鏡の中のエフィムを見下ろす。まるで作品の出来栄えでも確認するように。


「貴方の方こそ、男として生きることに拘っている割には随分と髪を伸ばしておられる」


 さらりと言う。


「まるで、いつでも戻れるよう準備しているかのようだ」

「なっ! 何を――っ!?」


 エフィムの声が上ずる。

 だがフェイルツィーオは気にした様子もない。


「違うのであれば結構」


 あっさりと言葉を切る。まるで興味を失ったかのように。


「ただ」


 一拍。鏡越しに視線が合う。


「もし逆の立場でしたら、貴方も同じことを言うのではありませんか?」

「……っ」


 言葉が出ない。図星だった。

 仮に他人が同じことをしていたら。

 過去を捨てたと言いながら髪だけは切らずに残していたら――きっと自分も疑っただろう。


 本当に吹っ切れているのか、と。本当に過去と決別できているのか、と。


 だから反論できない。できるはずがなかった。


「そういうものですよ、人というのは」


 フェイルツィーオは涼しい顔で言うと、使い終えたコームやヘアピンを手際よく鞄へ仕舞う。

 まるで今の会話など最初から存在しなかったかのような態度だった。


「今日のために日々綺麗にお手入れしてきた甲斐がありましたねぇ、エフィム会長?」


 にこり。完璧な笑顔。欠片ほどの悪意も感じさせない。

 だからこそ癪に障る。


「殴りますよ」

「淑女がそのような発言をするのはいかがかと」

「誰のせいだと思ってるんですか!!」

「ボクでしょうね」


 即答だった。

 それはそれは、腹の立つ笑顔だった。


 12


 そこは、まるで時代から取り残された場所だった。


 床も壁も古びたコンクリート。天井には太い配管が何本も這い、錆びた金属が鈍く光を反射している。


 雑居ビルの一角とは思えない。

 どこか地下施設めいた閉塞感があった。


 エフィムは思わず足を止める。

 その視線の先。無骨な空間の中央に、一枚の扉だけが異様な存在感を放っていた。


 まだ新しい木製のドア。

 深い飴色の木肌には繊細な彫刻が施され、真鍮の取っ手は磨き上げられている。


 古いコンクリートと木の温もり。

 本来なら噛み合わないはずの組み合わせだった。


 けれど不思議なことに、違和感はない。

 むしろ最初から存在したかのように調和している。


「……妙な店ですね」


 思わず零した呟きに、「アンティーク・ショップとしては、むしろ正しいのでしょう」と、隣でフェイルツィーオが肩を竦めた。


「古い物と新しい物を並べて価値を生み出す。商売としては実に合理的です」


 相変わらず夢のない感想だった。


「良いですか、エフィム会長」


 フェイルツィーオは真鍮の取っ手へ手を伸ばしながら振り返る。


「ボクらはあくまで客として入店するのです」


 その声は、先程までの軽薄さを少しだけ引っ込めていた。


「調査とはいえ、あまり目立つ行動は控えてくださいね」

「分かってます」


 なんだか完全に主導権を握られている気がする。

 それが少し癪だった。

 だが、ここで反発したところで面倒事が増えるだけだということも分かっている。


 エフィムは渋々頷いた。


「……それより、一つだけ」


 扉へ視線を向ける。


「この店、アンティーク・ショップを名乗ってますけど、結局のところ何が問題なんですか」

「はて?」


 フェイルツィーオは怪訝そうに首を傾げた。


「……まあ、いいでしょう」


 取っ手から手を離し、扉へ一瞥を送る。


「ここは表向きこそアンティーク・ショップですが、実態は違います」


 声音が少しだけ低くなった。


「違法魔導書の売買。禁制指定魔術の資料流通。場合によっては魔道具の非合法な修理や製作も請け負っている」


 さらりと言う。

 まるでニュースでも読み上げるような口調だった。


「定期的にオークションも開催されているという情報も」

「……それって」


 嫌な予感がした。


「ええ」


 フェイルツィーオは頷く。


「反社会魔術師組織の資金源、あるいは協力者である可能性も考慮すべき案件です」


 さらりと告げられた内容に、エフィムは言葉を失った。


 違法魔導書。違法魔道具。そして――反社会魔術師組織。どれも冗談で済む単語ではない。


 空気が一段と重くなる。

 エフィムは思わず店の扉を見た。


 先程まで洒落た店にしか見えなかったものが、急に別の顔を見せ始める。


 数秒の沈黙――そして。


「知らないでここまで?」

「ぐう……っ!」


 エフィムが顔を歪める。


「初耳です……」

「それはいけませんねぇ」


 フェイルツィーオは微笑んだ。


「会長閣下ともあろうお方が、その程度の情報把握能力では」

「……こんのっ」


 反論したい。ものすごく反論したい。

 だが本当に知らなかったので反論できない。


「本当に性格悪いな……」

「ありがとうございます」

「褒めてないってば」

「存じております」


 フェイルツィーオは、にこりと微笑んだ。

 寸分の狂いもない完璧な笑みだった。


「ともかく」


 彼は視線を扉へ戻す。


「ここでは絶対に手を離さないでください、アンネローゼさん」

「……いい加減その名前で呼ぶのやめてもらえません?」

「出来かねます」


 即答だった。


「――それでは」


 真鍮の取っ手が静かに回る。重厚な木扉が音もなく開かれた。


 二人が中へ足を踏み入れる。

 チリン。頭上のベルが柔らかく鳴った。


 途端に空気が変わる。


 新しい木材の香り。薔薇に似た甘い匂い。蓄音機から流れるスウィングジャズ。そして、どこかで焚かれている香の煙が、加湿器の蒸気と混ざり合い、店内を淡く霞ませていた。


 エフィムは思わず足を止める。

 壁際の棚には無数の品々が並んでいた。


 壁にかけられた絵画。銀細工のティーセット。蛍光を放つウランガラスの香水瓶。煤けた燭台。頭蓋骨を配したヴァニタスと分厚い古書。装飾の施された懐中時計。鞘ごとの短剣。鹿のハンティング・トロフィー。


 どれも時代も用途も統一されていない。

 それなのに奇妙な調和があった。


 まるで誰かの記憶を切り取って寄せ集めたような、不気味な統一感。


「あら、いらっしゃいませ」


 柔らかな声が響く。カウンターの奥。

 一人の女が椅子へ腰掛けていた。


 白いティアードスカート。贅を尽くしたボンネット。淡い照明を受けて揺れる長い髪。

 まるで宮廷の夜会から抜け出してきた貴婦人そのもの。


「どうぞごゆっくり」


 女は微笑む。その笑みは美しかった。

 けれどどこか店そのものと同じ匂いがした。

 甘く、古く、そして少しだけ危険な。


「これはこれは、見事なコレクションだ」


 フェイルツィーオが感心したように店内を見回す。


「気に入ったかしら」


 店主は優雅に脚を組み替えた。


「そう言っていただけると嬉しいわ」


 エフィムは表情を崩さないまま店内を観察する。

 違法魔導書。違法魔道具。そして『イル・マット』との繋がり。


 少なくともフェイルツィーオの説明が正しければ、ここはそういった品々が流通する窓口の一つだ。


 ならば何かあるはずだった。

 隠し棚。封印された魔導書。危険な術具。

 そういった類の何かが。


「……ん?」


 思わず足が止まる。

 視線の先。店の奥には、古びた作業机が置かれていた。


 その上に広げられているのは布地。

 仕立て途中らしいブラウス。大きい蹴回しのサーキュラースカート。

 壁際の棚にも、レースやリボン、色とりどりの生地が整然と並べられている。


「――あの、これは?」


 思わず尋ねる。店主は目を細めた。


「あら」


 くすり、と笑う。


「可愛らしいお嬢さんね」


 エフィムは何も言わない。言えない。

 それでもアンネローゼを演じなくては。


「ここはアンティーク・ショップとは名ばかりの、洋品店なのよ」


 店主はゆっくり立ち上がる。


「ほら」


 スカートの裾を摘まむ。白い布地がふわりと揺れた。


「私が着ている服も」


 そのまま、くるりと一回転。まるで舞台の上の女優のようだった。


「昔からお裁縫が好きでね」


 エフィムは困惑する。あまりにも普通だったからだ。

 違法魔導書を扱う闇商人というより、単なるブティックの店主にしか見えない。


 ――いや。そもそも。

 ここへ来るまでに聞かされた情報そのものが、曖昧だった気がする。


 エフィムは横目でフェイルツィーオを見る。

 すると彼は、「まあ」涼しい顔で肩を竦めた。


「こういうこともあるでしょうね」


 その顔を見た瞬間。少しだけ殴りたくなった。


「ボクは禁忌術研究会の者です。ここに珍しい魔導書があると聞きましてね。ぜひ拝見したいと思い、足を運ばせて頂きました」


 エフィムが口を挟むより早く、フェイルツィーオが淀みなく語る。

 それを聞いた店主は、一瞬だけ目を丸くした。

 だがすぐに微笑みを取り戻すと、「まあ。それはまた物騒なお名前だこと」と、言いながら、二人を店の奥へ案内し始めた。


「エフィム会長はご無理をなさらず。交渉はボクごとは任せて下さい」


 棚の間を歩きながら、フェイルツィーオが静かに言う。


「子供扱いはやめて下さい」


 エフィムは即座に言い返した。


「わたしだって魔術師です。それに、勝手に話を進めるのもやめてください」

「おや。これは失礼」


 まるで反省していない声だった。

 エフィムは思わず眉をひそめる。


 本当にこの男は苦手だ。人を小馬鹿にしているようでいて、肝心な場面では妙に気を回す。

 嫌味なのか善意なのか、その境界線が分からない。


「ですが、こういう場でボクより目立つのは感心しませんね」

「だから誰のせいだと」

「可愛らしいですから」

「帰っていいですか」


 フェイルツィーオが小さく吹き出す。

 その笑みは珍しく自然で、演技めいたところがなかった。

 不意を突かれたように、エフィムは一瞬だけ言葉を失う。

 そして、その沈黙をごまかすように視線を逸らした。


 店の奥から、かすかな音が聞こえる。

 紙を捲る音。あるいは本を閉じる音。

 ほんの一瞬。誰かの気配がした気がした。


 だが次の瞬間には、もう何もない。

 棚と棚の隙間には静寂だけが残っていた。

 エフィムは気にも留めなかった。


 今の彼の意識は、目の前の店と、隣にいる面倒な男へ向けられていたのだから。


「……あら、ごめんなさい。今は入荷待ちみたい。最近は規制が厳しくて、あまり珍しいものも入ってこないの」


 店主は申し訳なさそうに微笑む。


「ほう。それは残念ですね」


 フェイルツィーオは肩を竦める。

 芝居がかった仕草だった。演技なのか素なのか。今となってはエフィムにも分からない。


「ただ」


 店主が指先で空をなぞる。


「連絡先を教えてくださるなら、入荷次第お知らせするわ」


 フェイルツィーオがちらりとこちらを見る。

 エフィムは小さく頷いた。


「大丈夫ですよ。ボクにお任せください」


 何が大丈夫なのだろう。

 そもそも本来の目的は、違法魔導書の流通経路を探ることだったはずだ。


 エフィムが頭痛を覚え始めた、その時だった。


「円花く〜ん。お茶ちょうだ〜い! ディンブラねぇ」


 カーテンの向こうから、気の抜けた声が響いた。


 エフィムの眉が僅かに動く。

 どこかで聞いた声だった。嫌というほど。聞き覚えがある。嫌な予感がした。

 聞かなかったことにしようかとも思った。


「はいはい」


 店主が呆れたように返事をする。

 次の瞬間。スタッフルームのカーテンが開いた。

 現れた人物を見て、エフィムの思考が止まった。


「……ヴォ、ルーツォ……さん?」


 思わず声が漏れる。膝から力が抜けた。

 隣にいたフェイルツィーオが咄嗟に腰を支えてくれなければ、本当にその場へ崩れ落ちていたかもしれない。


 そこに立っていた人物は、どう見てもヴォルーツォだった。


 派手な装い。整いすぎた顔立ち。人を食ったような笑み。見慣れたはずの姿が、何故かこんな場所にいる。


 理解が追いつかない。


「全くあんたは……自分でお茶くらい淹れなさいな。子供じゃないんだから」


 店主が呆れたように言う。その口ぶりは気安かった。

 まるで長年の付き合いでもあるかのように。

 エフィムの混乱はさらに深まる。


 一体どういう関係なのか。何故こんな場所にいるのか。疑問が頭の中を駆け回る。


 だが、その前に。


「ヴォルーツォさん、何故貴方が……!」


 フェイルツィーオが声を上げた。珍しく感情の滲んだ声音だった。


 エフィムは思わず隣を見る。あのフェイルツィーオが本気で驚いている。

 それだけで十分異常事態だった。


「おやぁ?」


 その人物は目を細めた。

 口元に浮かぶ笑みがゆっくりと深まる。


「君達はどうしてそんなに驚いているのかなぁ?」


 どこか楽しむような声。


「ンッフフ。僕がここにいるのが、そんなにも不思議かぁい?」


 まるで挑発するような口ぶりだった。

 その瞬間。

 エフィムのこめかみに青筋が浮かぶ。

 驚くなという方が無理だろう。


「……帰りましょう。この店に違法性はなかった。いいですね?」


 フェイルツィーオの静かな声に、エフィムは耳を疑った。


「はあ!? 何言ってるんですか。目の前に怪しい奴がいるのに、何もせず帰るっていうんですか!?」


 思わず声が大きくなる。

 だが、フェイルツィーオは眉ひとつ動かさなかった。


「違います。ここは一旦退くのです」


 あくまで平然と、まるでそれが当然の判断だと言わんばかりだった。


 エフィムは言葉を失う。

 確かに、まだ決定的な証拠は出ていない。

 だが、だからといって引き下がれる状況でもないはずだった。


 怪しすぎる店。得体の知れない品々。そして、ヴォルーツォ。

 目の前で、何かが確実にずれている。


「で、でも……」


 エフィムは視線を泳がせる。


「それなら、なおさら……ヴォルーツォさんを放っておくわけには……」


 自分でも、何を優先したいのか分からなかった。

 怪しい店を調べるべきだという理屈と、あの顔をここで失いたくないという感情が、胸の中でぶつかり合う。


「大丈夫です」


 フェイルツィーオは、やけに柔らかい声で言った。


「まだ違法物は出ていません。であれば、あの方に罪はない」


 それから、少しだけ目を細める。


「エフィム会長は、先に協会へ戻っていてください」


 促すような口調だった。

 だが、エフィムは一歩も動けない。


「おやぁ? 君達、どうしたんだい。話なら聞くよぉ? 魔導書が欲しいんだろ〜?」


 ヴォルーツォにそっくりな男は、二人の会話を耳ざとく拾うと、にやりと口元を吊り上げた。


 エフィムは慌てて首を振る。


「ウィリ……じゃなくて、ヴォルーツォ。早く戻りなさい。お客様を待たせるんじゃありません」


 円花が諭すように声をかける。

 だが男は、ちらりと彼女に目をやるだけで、その忠告をまるで意に介さなかった。


 次の瞬間、ゆっくりと手を伸ばす。

 そして、まるで獲物を選ぶみたいに、エフィムへ向かって指をくい、と動かした。


「来なよ。とっておきの物を見せてあげるから」


 声は妙に甘かった。

 柔らかく、耳の奥へ絡みつくような粘ついた声。


「……あ、定員は一名様ね。そこのお嬢ちゃんだけおいで」


 まるで闇へ誘う悪魔の囁きだった。

 エフィムの足が、勝手に動きかける。その瞬間、後ろから肩を強く掴まれた。


「あ……っ」


 我に返る。

 振り向けば、真剣な顔をしたフェイルツィーオがいた。


「行ってはいけません」


 低い声だった。


「……あれはヴォルーツォさんじゃない。同じ顔の他人です。惑わされてはいけません」


 その言葉で、ようやく思考が冷える。

 そうだ。あれはヴォルーツォさんじゃない。

 ただの、よく似た別人だ。


 そう自分に言い聞かせようとするのに、胸の奥だけが妙にざわついた。


「でも、それじゃ、何であんなにそっくりなんですか……!」


 エフィムは思わず声を荒げた。


「顔も髪型も服装も、何もかもヴォルーツォさんと同じなんて、おかしいじゃないですか!?」


 自分でも、どうしてこんなに動揺しているのか分からない。


 だがフェイルツィーオは何も言わず、ただエフィムの腕を引いて自分の後ろへ下がらせた。


「今日はこの辺で失礼します」


 そう言って、彼は店主へ名刺を差し出す。


「入荷がありましたら、こちらまでご連絡願えれば。それでは」


 もちろん、偽名だ。

 しかも、どう見ても事前に用意していた。


 やはりこの男、こういう時だけ妙に手際が良い。


「あら残念だわ。せめてお茶くらい飲んでいったら?」

「そうだよぉ。そこの可愛いお嬢ちゃん、僕とお茶しよ♡」

「エフィム会長、ダメです。戻りましょう」


 三方向から同時に声を浴びせられ、エフィムの思考が一瞬でほどけた。


 フェイルツィーオに腕を取られ、ほとんど半ば引きずられる形で出口へ向かうエフィム。

 それでも視線だけは、どうしてもあの男から離れなかった。


 ヴォルーツォらしき人物は、楽しそうにこちらを見ている。

 そして――ふっと、笑った。


 その笑みだけがやけに自然で、妙に優しくて、妙に人間的だった。


 一瞬、呼吸が止まる。


 理由のない違和感と、説明のつかない安心感が同時に胸の奥へ落ちてくる。

 視線が外れない。外せない。まるでそこだけ時間の流れがずれているみたいに。


「エフィムさん、見ないでください」


 フェイルツィーオの声が低く落ちる。


 それでも遅かった。


 バタン、と扉が閉じる。

 チリン、と軽いベルの音が追いかけるように鳴って――店内の気配ごと、完全に遮断された。


 13


 円花はエフィムとフェイルツィーオを見送ると、店先の「Open」の札を静かに裏返し、鍵を回した。

 金属が噛み合う乾いた音が、雑居ビルの静けさに吸い込まれていく。


「まさか魔術師育成協会が踏み込んでくるとはねぇ? 開店してまだ日が浅いけど、もう移転も考えた方がいいかもしれないよ〜」


 カウンターの奥では、ヴォルーツォ――いや、ウィリディアス・ルカ・グレイスが椅子に腰掛け、優雅に紅茶へ口をつけていた。


 カップの縁がわずかに鳴る。


「あら、よく魔術師育成協会だって分かったわね。あんた」


 円花が怪訝そうに目を細める。


 ウィリディアスは小さく肩をすくめただけだった。

 笑みは崩れない。けれど、どこか温度が抜け落ちている。


「……そこまで鈍くはないよぉ」


 軽い口調。だがその裏にあるものは、先ほどまでの飄々さとは質が違っていた。

 円花もそれ以上追及しないまま、棚へ視線を戻す。


「それにしても……円花くん、最近ちょっと辛辣じゃなぁい? 僕、そこまで間抜け扱いされる覚えはないんだけどな〜」


 わざとらしく肩を落とす仕草。

 だが芝居がかった軽さは、どこか空回りしている。

 円花は短く息を吐いた。


「事実じゃない」

「ひど〜い」


 ウィリディアスは苦笑しながら、カップをソーサーへ戻す。

 その音だけが、やけに静かな店内に落ちた。


「それにしても、あの娘可愛かったなぁ……♡ 名前、聞きそびれちゃったよ。また会えないかな〜」


 先ほどまでの態度はどこへやら。すっかりいつもの調子に戻ったウィリディアスを見て、円花は深くため息をついた。


 本当にどうしようもない。

 何度痛い目に遭っても懲りない、正真正銘の大馬鹿者だ。


「……あの子、男よ」

「へぁ……?」


 ぴたり、とウィリディアスの動きが止まる。

 円花はもう一度、長いため息を落とした。


「魔術師育成協会会長、エフィム=ゾーラ。17歳。会長の顔くらい覚えておきなさいよ。仮にも敵なんだから」


 ウィリディアスは顔を手で覆うと、大仰に嘆いてみせた。


「おおう……僕としたことが、野郎を女の子と見紛うばかりか、敵の将たる者の顔すら知らないとは……! なんたる失態!!」


 円花はその芝居を半分聞き流しながら、自分のカップへ茶を注ぐ。


 湯気の立つ紅茶は、さっきまでの騒がしさが嘘みたいに静かだった。

 この男は本当に、どこまでと救いようがない。


「……全く仕方ない人」


 ディンブラにはミルクがよく合う。

 濃く淹れた紅茶に白を落とすと、色がふっと柔らかく沈む。


 砂糖は4つ。少し多いようでいて、彼女の中ではそれが正解だった。


 焼きたてのスコーンは、表面がまだほんのりと熱を持っている。

 狼の口を割れば、外側はサクッと軽く崩れ、内側からは湯気とともに小麦の香りがふわり立ち登った。


 そこへクロテッドクリームをひとすくい。さらに木苺のジャムを落とすと、白と赤がゆっくりと混ざり合う。

 酸味が舌の上でほどけていく。紅茶の豊かな甘味がそれを追いかけて、全体を静かにまとめていった。


 まるで先ほどまでの騒動が嘘のように、空気だけが上品に整えられていく。

 紅茶の香りと焼き菓子の甘さだけが、きちんとした“日常”の顔をしてそこに残っていた。


 その横で、ウィリディアスだけが爛々と目を輝かせている。


「男かぁ……っていうか、あの見た目で17だってぇぇぇ!? 見た感じまだ下の毛もまだそうだし、どう見てもまだ子供じゃない? 声も妙に軽かったし、成長遅いのかなぁ」


 ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら、平然と失礼極まりない分析を垂れ流す。


 円花は一拍遅れて、じわじわと顔をしかめた。

 この男、どこまで本気なのか読めないのが一番たちが悪い。


「あんた、男嫌いじゃなかったわけ?」


 呆れた声のまま、円花は紅茶を一口含む。


「え〜?」


 ウィリディアスは悪びれもせず、肩を揺らして笑った。


「だってあれは別枠じゃなぁい? あんだけ可愛くてちっちゃい男の子だよぉ? 興味あるじゃん。ねぇ、円花くんも思うでしょ〜?」


 同意を求められても困る種類の圧だった。しかも、妙に楽しそうなのが余計に性質が悪い。


 円花は無言でカップを置いた。

 だが、その沈黙を肯定と捉えたのか、ウィリディアスはますます饒舌に語り出す。


「二次性徴前の男の子ってなんであんなにも魅力的なんだろ。小さな手も、細い首筋も、華奢な身体も、何もかもが愛おしい。あ、勿論女性も魅力的だと思うよ。だけど、それとこれとは別というかさ〜」


 一気に捲し立てるような早口。

 話の内容に嫌悪を感じる前に、喋りが早すぎて途中から耳が処理を拒否し始める。


「あとさ、ああいう小生意気な感じの子を屈服させたら絶対楽しいよぉ……! 涙目になって赦しを乞う姿を想像したらもうそれだけで……さっ!」


 そんなウィリディアスを、円花は一息で切り捨てた。


「あの子、ヴォルーツォのことが好きなんじゃないかしら」


 その言葉を聞いた途端、ウィリディアスはぴたりと動きを止めた。


 まるで信じられないものを見るような目つきで、円花を見つめる。


 円花は構わず続ける。


「あの子の態度といい、あんたを見る目つきといい、どう見ても恋する乙女の目だったわよ」


 それを聞いた瞬間、ウィリディアスはがくりと肩を落とした。


「そうだよね……」


 力なく呟く。


「ヴォルーツォ、ヴォルーツォって、あんなに呼んでたもんね……。僕を通してヴォルーツォを見てたんだ……」


 そう。あの少年が見ていたのは、ウィリディアスではない。そっくりな片割れの方だ。


 ウィリディアスは悲壮な面持ちのまま、俯いた。


 円花は小さく息を吐くと、そっとウィリディアスの肩に手を置いた。


「元気出しなさいな。機会はあるわよ」


 それから、少しだけ言葉を選ぶように続ける。


「ヴォルーツォのフリじゃなくて、ちゃんとあんたとして会えばいいじゃない」


 円花の言葉に、ウィリディアスは勢いよく顔を上げた。


「そうだね」


 低い声だった。


「アイツだけ、ずるいもんね」


 紅茶の湯気が、静かに揺れる。


「アイツはいつも僕から、何もかも奪っていった」


 笑っている。

 なのに、その目だけは笑っていない。


「だから……アイツの大切なものを、徹底的に奪って壊さないと」


 ぞっとするほど静かな声だった。


「そのためには、まずあの子を手に入れないといけないね」


 底冷えするような狂気と執着が、瞳の奥に沈んでいる。

 円花の背筋に、冷たいものが走った。


「僕、少し出てくるね。円花くん」


 ウィリディアスは立ち上がると、円花の返事を待たずに店を出て行った。


 円花はもう一度、大きく息を吐く。

 彼女はまだ知らない。


 ウィリディアスの執着の先に、あの美貌の少年が加わってしまったことを。


 14


 フェイルツィーオとエフィムは、魔術師育成協会へ戻る道すがら、先ほどの任務について話し合っていた。


「結局、何も掴めませんでしたね……それに、ヴォルーツォさんの件も」


 辛そうな顔でそう零すエフィムに対し、フェイルツィーオは特に気にした様子もなく、淡々と答える。


「あれは、ヴォルーツォさんではありませんよ。少なくとも、本物なら普通、顔見知りが来た時点で何らかの反応を見せるでしょう。ですが、あの方はボクらの名前すら呼ばなかった」


 さらりと言い切る声には、妙な焦りがあった。


「つまり、別人です。あんな偽物では、我々を引きつけるどころか、逆に警戒させるだけでしょうね」


 理詰めで押し切ったようなその口調には、しかし僅かに揺らぎが混じる。

 冷静な分析なのか、それとも無意識に怯えを抑え込むために言い聞かせているのか。


「じゃあ、あの人は何だったんですか? 何でヴォルーツォさんと、あんなにそっくりだったんです?」


 エフィムの問い詰めるような声に、フェイルツィーオは初めて足を止めた。

 そして、ゆっくりと振り返る。左眼が、妖しく光っていた。


「エフィム会長」


 フェイルツィーオは、静かな声で問いかける。


「ヴォルーツォさんの家族構成をご存知ですか?」

「え?」

「交流関係は。住居は。趣味は。思考の癖は。行動パターンは。好きな食べ物。嫌いなものは」


 一歩。また一歩。

 フェイルツィーオはゆっくりと距離を詰めながら、淡々と続ける。


「その程度の情報すら、我々はまだ持っていません。つまり――」


 口元には、薄い笑みが浮かんでいる。

 だが、それはいつもの軽薄な笑い方ではなかった。


「“あれが何者か”を判断する材料も、まだ足りないということです」


 その言葉は正論だった。正論なのに、妙に息苦しい。

 エフィムは反論できず、ただフェイルツィーオを見つめる。


「……ボクは、一つも知りません。何も知らないんですよ、あの人のことは」


 フェイルツィーオは、わざとらしく肩を竦めた。


「ボクほどの分析力と追跡能力を持ってしても、何ひとつ掴めない。ねぇ、おかしいと思いませんか?」


 首を傾げる仕草は、どこか幼く見える。可愛らしい、とさえ言えた。

 なのに、その声はひどく冷たい。


 エフィムはごくりと唾を飲み込み、震えそうになる喉をどうにか動かす。


「……この前、追い出されて。新しいアパートに引っ越したって」


 フェイルツィーオは満足そうに笑うと、そっとエフィムの頬へ手を添えた。

 ひんやりとした指先。死人みたいな体温だった。


「なるほど。そうでしたか。驚きましたよ」


 そう言いながらも、全く驚いているようには見えない。

 エフィムは焦りを悟られまいと、必死に平静を装った。


「例えば……兄弟とか、双子とか。フェイルツィーオさんなら、ご存じかと思ってたんですが……」


 フェイルツィーオはその言葉を聞き流したまま、じっとエフィムを見つめている。

 真っ直ぐな視線だった。逃がす気のない、静かな圧。


「まあ、確かに」


 やがてフェイルツィーオは、納得したように小さく頷く。


「兄弟、あるいは双子。なるほど。双子なら、服装の好みが似ていても不思議ではありませんね」


 そこで、ほんの少しだけ間を置く。


「では」


 声の温度が、すっと落ちる。


「エフィムさんは、あの店主らしき女をご存じで?」


 その一言で、空気がまた一段、冷えた。


 知らない。知らない。知らない。


 あの女のことも、あの店のことも、あの男のことも。何ひとつ、知っているはずがない。

 そう断言できるのに、胸の奥だけがやけにざわついていた。


 フェイルツィーオはそんなエフィムの様子を一瞥すると、ふっと息を漏らす。


「なるほど」


 まるで最初から答えを用意していたかのような声だった。


「あの方の性質を考えれば、影武者という線は薄いでしょうね。とはいえ……要観察対象が増えました」


 淡々と結論だけを置いていく。


「まぁ、いいでしょう。今は戻りましょう。バライバ理事長に報告しなければ」


 それだけ言うと、踵を返す。

 躊躇も未練もない動きだった。


 エフィムは一瞬遅れて、その背中を追いはじめる。

 石畳を踏む靴音だけが、やけに規則正しく響く。

 さっきまで存在していたはずの店も、人の気配も、最初からなかったように街は静かだった。


 エフィムは知らない。自分が何に触れたのかも。

 あの男が何を背負っているのかも。


 ――ヴォルーツォ。


 魔術師育成協会に属しながら、その実像を正確に知る者は少ない。

 一部の人間だけが、彼と何らかの形で繋がっている。


 裏切りでも密告でもない。ただ、否応なく関係が生まれてしまう種類の接点だ。


 協会にとって彼は、味方ではないのかもしれない。しかし、敵とも言い切れない。

 扱いきれないまま、棚の奥に置かれたままの刃物のような存在。


 そしてその正体を、エフィムもフェイルツィーオも、まだ掴みきれてはいない。



 ending


 仕事を終え帰宅する道すがら、人混みの中、見慣れた背中を見つけた。


「あ、あれは……」


 思考より先に身体が動く。

 エフィムは足を踏み出し、その背中へ手を伸ばした。


 届く。そう思った。

 だが――あと数センチで、指先は空を切った。


「――ヴォルーツォさん!!」


 声が人混みに吸い込まれるようにして響いた。

 その瞬間、彼が振り返る。


 一瞬だけ、驚いたような顔。

 それはすぐに、いつもの柔らかな笑みに塗り替えられた。


 エフィムの存在を確かめるように視線を落とすと、ヴォルーツォは何のためらいもなくその頬に触れた。


 大きな手。妙に慣れた動き。

 撫でる、というより、存在を確認しているような手つきだった。


 そして耳元に顔を寄せる。


「……君には何もしないよ」


 囁きは軽い。軽すぎて、逆に重い。

 少し間を置いて、同じ調子で続ける。


「まだ、ね?」


 その一言だけで、周囲の音が薄くなる錯覚が走った。


「……え……?」


 目の前の男は、確かにヴォルーツォだ。

 少なくとも、形だけ見ればそうとしか言えない。


 顔も、髪も、服装も、背格好も。記憶の中の人物と寸分違わない。

 それなのに、何かが決定的に違う。


 説明できない“質感”だけが、別物だった。


「だれ、なの……」


 声が震える。


「君がお探しなのは、ヴォルーツォ・ロクス・グレイスでしょ?」


 返ってきた声は、妙に滑らかだった。

 さっきまでの軽薄さも、冗談めいた明るさもない。


 エフィムは一歩、後退る。


「違う……違う……! ヴォルーツォさんじゃない……!」


 叫びはほとんど悲鳴だった。

 ヴォルーツォは小さく笑うと、自然な動作でエフィムの手を取った。


 その瞬間。全身の血が一気に引く。

 触れられた部分が、焼けるみたいに熱い。

 熱いのに、奥から冷えていく。


 じわじわと侵食される毒のように、感覚だけが崩れていく。


「何言ってるのさ」


 囁きは甘かった。


「ヴォルーツォだよ、“エフィム”くぅん?」


 美しいのに、怖い。怖いのに、目が離せない。

 エフィムの思考が、少しずつ遅れていく。

 そのまま動けないでいる耳元に、同じ声が落ちた。


「君とはさ……もっと違う出会い方がよかったなぁ、なんて」


 甘い。甘すぎて、どこか腐りかけている蜜みたいだった。


 エフィムは、うっとりとしたまま目を閉じる。

 抵抗する意志が、どこかへ落ちていく感覚だけが残っていた。


「ンフフ、でもそろそろ時間切れだ」


 男は軽く手を離す。

 まるで最初から触れていなかったように、あっさりと距離を戻した。


「それじゃ、また会おうね〜」


 そのまま踵を返し、人混みに紛れる。

 雑踏が、何事もなかったように戻ってくる。

 世界は普通に動いているのに、エフィムの中だけが少し遅れていた。


 呆然と立ち尽くす。

 心の輪郭だけが、薄く剥がれたまま残っている。


 追いかけなければいけない気がした。

 理由なんてない。ただ、それが当然に思えてしまう。


 エフィムはゆっくりと人波へ踏み出す。

 夢の中みたいに軽い足取りで、その背中を追うように。


 見上げれば、夜空。

 街の上に、月がやけに明るく浮かんでいる。

 まるで全てを知っているくせに、何も止める気のない顔で。

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