極東からの訪問者
1
荒く短い息を吐きながら、茶色の犬が狭い路地を駆け抜けていく。
野兎じみた軽やかさの脚には、無数の傷跡が刻まれていた。
どれも浅くはないが、古びている。それだけ長い時間を生き延びてきた証だ。
「……やっぱり閉店しちゃったんだ」
ダワイカ市場と呼ばれる商店街の片隅に、小さな喫茶店があった。
今はもう看板は外され、扉は鎖で厳重に封じられている。
店先に並んでいた鉢植えも枯れ果て、かつての面影はほとんど残っていない。
少女はその場所をしばらく見つめていた。
やがて諦めるように小さく息を吐き、踵を返す。
歩き出した足取りはひどく重い。
ここ数日、少女は同じ問いに囚われ続けていた。
自分はこれから何をすべきなのか、ということ。
本来であれば、この時間は学校にいるはずだった。
だがこの一か月ほど、彼女は休学している。
体調が悪いわけでもなく、明確に登校を拒む理由があるわけでもない。
ではなぜか。答えは、あまりに単純だった。
クラスに馴染めないのだ。
もうすぐ小学校を卒業するというのに、友達と呼べる存在はひとりもいない。
その理由もまた、彼女自身がよく分かっていた。
――少女の名前はメイリア・ドレイマン。
内申点の結果次第では、魔術師育成学校への進学が叶わず、一般教養だけを学ぶ普通の中学校へ進むことになる。
絶対に育成学校を経由しなければ魔術師育成協会へ入れないわけではないが、条件の有利不利で言えば前者に軍配が上がる。
『――おい、小娘よ』
不意に、頭の奥へ直接割り込むような声が響いた。
「……えっ?」
一瞬遅れて、メイリアは顔を上げる。
目の前には、茶色の毛並みを持つ中型犬が静かに立っていた。
『金髪の小娘を見なかったか』
あまりに唐突な問いかけに、メイリアは反射的に首を横に振るしかない。
犬はわずかに鼻を鳴らし、舌打ちでもしたような気配を残す。
どうやら誰かを探しているらしい。
メイリアは喉の奥で息を整え、勇気を絞るようにして口を開いた。
「あ、あの……わんちゃん、さん? 何か困って――」
『己の名はワン・チャンではない!! ――空蝉だ!!』
吠えるような一喝が、路地の空気を震わせた。
あまりの音圧に、メイリアは反射的に耳を塞いだ。
腹の底まで震えるような声量で、思わず後ずさりしそうになる。
だが空蝉と名乗った犬は、そんな反応など意に介さず続けた。
『己は孫と逸れてしまった哀れなる神ぞ。謝れ、そして敬え。さもなくば神罰を下すぞ』
「ご、ごめんなさい!」
ほとんど反射で謝罪が飛び出す。
空蝉は満足げに鼻を鳴らしたが、次の瞬間にはふっと表情が抜け落ち、妙に落ち着いた声音になる。
『それにしても、小娘がこんな人通りの少ないところで何をしておる。今日は平日ではないのか』
「……あの、その」
メイリアは視線を落としたまま言葉を詰まらせる。
学校に行きたくない、なんて簡単な理由を口にできるほど、気持ちは軽くない。
けれど、その沈黙は隠し事というより、むしろ答えそのものだった。
空蝉は一瞬だけ目を細めると、ため息のように鼻を鳴らした。
『なるほどな。逃走者の匂いがする』
その言葉は断定だった。
からかいでも推測でもない。妙に確信めいた響きがある。
メイリアは思わず顔を上げる。空蝉はもう彼女を見ていない。
路地の奥、何か別のものを測るように視線を向けていた。
『今の己では役に立たんかもしれんが、しばらく側に居てやろう。ほれ、ちこうよれ』
空蝉はその場にどっかりと伏せると、欠伸をひとつ噛み殺すように漏らした。
孫を探していると言った割に、その態度には緊張感というものが欠片もない。
むしろ散歩中の犬そのものだ。
メイリアは拍子抜けしたように瞬きをする。
「あの……探さなくていいんでしょうか、お孫さん」
『それもそうだが端的に言って――』
一度そこで言葉を切り、空蝉は大げさなほど深い溜息を吐いた。
『腹が減って動けん』
2
「はい――プリエ、戻して〜。はい、そこ! エフィムさん」
名指しの声が落ちる。
やりたくもないバレエレッスン。けれど身体は、反射のように動き出していた。
この場所では“怠惰”という感情すら、成立する余地がない。
幼少期から繰り返し叩き込まれてきた動作は、嫌悪も拒絶も素通りして、もはや条件反射に変質している。
意識が追いつくより先に、四肢が正解を選ぶ。
「いいわね、そのままアームス柔らかく、ワン、トゥ――」
母に“女の子として”育てられた時間。
礼儀作法、立ち居振る舞い、そして身体の使い方。
積み上がった記憶は、意志よりも早く骨に染みついている。
本人の感情なんて関係なく、身体だけが勝手に完成形へと近づいていく。
「アンシェヌマン行ってみましょう――シャッセ・ジュテ・アントルラッセ」
「あ……ッ!?」
空中での脚の交差が、ほんのわずかに遅れた。
軸が崩れる。そのまま身体は床へと引き寄せられるように落ちた。
視線が刺さる。
評価、嘲笑、無関心、冷えた沈黙。
それらが一斉に降り注ぐ中で、呼吸だけがやけに大きく響いていた。
「いや――ちが!」
喉の奥から押し出した声は、形を保てないまま空気に溶ける。
途中で途切れ、何も残らない。
視界が揺れる。
崩れた身体の感覚だけが妙に鮮明なのに、周囲の音は遠い。
――チュン、チュン。
場違いなほど軽い鳥の声が、ひび割れた意識の隙間に落ちてくる。
「夢、か」
ゆっくりとまぶたを開く。
天井へ伸ばしたままの右腕だけが、まだどこかに取り残されていた。
ひとつ呼吸を整える。
けれど、さっきまで触れていた床の冷たさだけが、妙に現実味を帯びて残っている。
「……もうちょっと寝てたかったんだけどな」
寝直すには、微妙な時間だ。
アラームまではあと十五分。だがここで二度寝をすれば、まず間違いなく起きられない。
上半身を起こし、枕元のスマートフォンを手に取る。
指紋認証でロックを解除し、そのままアラームを止める。
ついでにニュースアプリを開き、時事の見出しを流し読みした。
「えーっと、卵まだあったかな」
エフィム=ゾーラが目を覚まして、最初に考えることはだいたい決まっている。
魔術師育成協会の会長として、処理すべき案件は山ほどある。
あるのだが――それより先に、今朝のメニューが頭を占拠する。
「やっぱ、朝ごはんといえば、目玉焼きだよね」
もはや思考ですらない。習慣だ。
身体に染みついた、ただの反復。
「うん、僕もそう思う♡」
その一言で、エフィムの思考はきれいに停止した。
首だけが機械みたいにカクカクと動き、声のした方へ向く。
「……なんで、またいるのさ!? この変態、助平、アホンダラ!!」
寝起きの静けさが、一瞬で台無しになる。最悪な目覚めだ。ほんとに。
3
――しまった。やってしまった。
空港を出てしばらくしたところで、祖父がトイレに行きたいと騒ぎ出した。仕方なく近くの公園へ向かったのが一時間前。
その隙に、なぜか吸い寄せられるように雑貨屋へ足を踏み入れたのが30分前。
そして――そこで“運命の出会い”などという厄介なものをやらかしたのが、つい15分前のこと。
要するに――いや、要するまでもなく。
祝部さんちの芽依ちゃんは、見知らぬ土地でしっかり迷子になっていた。
「やってもたん……初めて来た国で迷子とかシャレにならへんやん」
芽依は、祖父とはぐれた公園のベンチに腰を下ろし、頭を抱える。
足元にはスーツケースが二つと、犬用のキャリーバッグ。完全に動けない装備だ。
周囲は閑静な住宅街といった風で、見渡しても似たような家ばかりが並んでいる。
さっきまで歩いていた通りは車も人も多かったのに、この辺りだけ妙に静かだ。
空は曇天。光は鈍く、空気も重い。
今にもひと雨来そうな気配が、じわじわと辺りを包み込んでいた。
「ジジイ本能的に血が騒ぐから、今頃走り回って車に轢かれてズシャーッ!!とか、なってたり……!? アカン、それ最悪過ぎるわ……!」
ぶつくさと不吉な想像を吐き出しながら、芽依は重い腰を上げた。
ここで座っていても状況は何も変わらない。まずは交番を探す。それしかない。
そもそも、この旅自体が無茶なのだ。
両親には黙ったまま、祖父にだけ話して連れてきてもらった。
目的はひとつ。
『イル・マット』――そこへ入り、魔術師になること。
幼い頃から、母親に何度も聞かされてきた魔術の話。
それが現実だと知ったのは、小学校に上がった頃だった。
母親は、まるで宝物を見せびらかすみたいに語っていた。
『イル・マット』で見たこと、聞いたこと、その全部を。
芽依はそれを、ただ黙って聞いていた。
そして、はっきりと覚えている。羨ましい、と。
――そう、世界には“魔術師”と呼ばれる、奇跡を纏う人間がいる。
ここスェンディア国は日本と違い、そうした超神秘の研究に特化した機関が各地に点在しているらしい。
母の故郷でもあるこの国なら、自分も魔術師になれるかもしれない――。
そんな期待は、あっさり現実に叩き落とされた。
当然ながら両親は猛反対。話は平行線どころか、即座に却下だった。
その結果がこれだ。半ば家出のような形で、日本を飛び出してきている。
祖父は驚くほど簡単に言いくるめられたが、母はそうはいかない。
きっと今頃、家はひっくり返ったみたいな騒ぎになっているはずだ。
……想像したくない類のやつだ。
そして、この状況である。
初日からこの体たらくで、はたして『イル・マット』とやらに辿り着けるのか。
「どないしょ……ほんまに……どないしょ……」
同じ言葉を繰り返していた、その時だった。
「お嬢さ〜ん。こんな所で何してるのかなぁ?」
不意に、背後から声がかかる。
芽依はびくりと肩を揺らし、振り返った。
そこに立っていたのは、若い男。年の頃は十代後半ほどに見える。
だが、その出立ちは明らかに浮いていた。
中世の貴族めいた派手な服装。妙に整いすぎた身なりが、逆に現実感を削いでいる。
胡散臭い――その一言で済む種類の違和感があった。
「え……あ……んと」
言葉がうまく出てこない。
「大丈夫かい? 随分と焦ってたみたいじゃないか〜」
軽い調子の声が重なる。
「へ、平気やで!!」
反射的に強がる。
けれど、その声には張りがない。自分でも分かるくらいに、空回っていた。
知らない土地で、知らない相手に声をかけられる。
その事実だけで、思考がじわじわと鈍っていく。
しかも相手は見るからに怪しい。
だが、ここで怯んでいたら本当に何もできない。
「うちは日本からこの国まで来たんやけど、ちょーっとばかし面倒な事になってもてん……。あーいや、一人で解決するから平気やで!」
強引に言い切る。
すると派手な男は、わざとらしいほど大げさに目を見開いた。
「えーーーーっ!! 日本って凄く遠いところじゃない!? 君、ご両親はどこ? 見たところまだ子供だけど!? まさか一人で来たわけじゃないよねぇ!?」
矢継ぎ早の質問。
芽依はじとりとした視線を向ける。
――なんなん、この人。普通に失礼やろ。
「別に兄ちゃんには関係あらへんやろ。うちは単にこの国に魔術を習いに来ただけやし。あっち行ってーな、しっしっ!」
露骨に追い払う仕草。
だが男は引かない。むしろ面白がるように身を乗り出してくる。
「君、魔術を習いに来たのぉ? 在留資格は持ってる? 魔術師関連の訓練所って、スェンディアの人間しか許可されてないんじゃないかな〜?」
細い顎に手を当て、わざとらしく首を傾げる。
「ダイジョブやし! ツテなら他にもいくらでもあんねん!」
反射的に言い返す。
根拠はない。あるのは意地だけだ。
芽依の額に、大粒の汗がにじむ。
まずい。このまま変に勘繰られたら厄介なことになる。
――どうにかして話を逸らさないと。
「そ、そんな事より兄ちゃんこそ、こんなところで何してはんの?」
必死に話題を返す。
すると男はあっさり乗ってきた。納得したのか、にこやかな笑みを浮かべる。
「ああ、僕? 暇だからブラついてただけぇ♡……それよりお嬢さん、ツテって言ってもこの国に知り合いとかいるの〜?」
軽い調子。だが視線だけは、妙に外さない。
「……『イル・マット』……」
思わず、言葉が漏れる。
その瞬間。
男の笑みが、わずかに深くなった。
「うんっ! そうだねぇ、僕もそう思う♡ 魔術師目指すならぁ、ウィリディアス・ルカ・グレイスに弟子入りして、『イル・マット』の一員として認められないといけないよね☆」
やけに具体的な名前が、軽い口調で転がる。
そして次の瞬間、空気が変わった。
「――ねえ、君さ。『イル・マット』がどういう組織か知って言ってる訳? ってか、何でその名前を知ってるの? いや、それよりなんで日本にまで『イル・マット』の名前が広まってるわけ?」
一息に畳みかける。
さっきまでの間延びした調子は消え、言葉だけが異様な密度で押し寄せてくる。
「ねぇねぇねぇねぇねぇねぇ…………!!」
距離が、詰まる。
笑っているはずなのに、目だけが笑っていない。
芽依は一歩、無意識に後ずさった。
男がぐいっと距離を詰めてくる。
芽依は思わず身を引き、仰け反った。
「あ、あんな。うちのオカンは昔魔術師だったんや。そんでオカンは『イル・マット』っていう団体におったらしくて……」
勢いに押されるまま、言葉がこぼれる。
「……――君のママ、名前は?」
声の調子が、ほんのわずかに落ちた。
「えーと、ヴァレンティナ・レオノワ……やったっけ、なんかそんなん」
そこまで言った瞬間だった。
「……あの娘かぁ〜〜〜〜……」
派手男は、なぜか頭を抱えた。
さっきまでの軽薄さが嘘みたいに、露骨なため息が漏れる。
「な、なんやの、兄ちゃん!? どないしたん、どっか打ったん!?」
「いやぁ? 何でもないんだよ〜? ただちょーっと思い出してたってだけ……はぁ……」
軽く取り繕うように笑うが、どこか引きずっている。
芽依はその様子に引っかかりを覚えながらも、内心ではわずかに安堵していた。
少なくとも、この男が『イル・マット』に無関係というわけではなさそうだ。
――だからこそ、余計に厄介だ。
目の前の男の素性は、依然として何一つ分からないままだった。
「……あの娘、日本にまで逃げてたのか。そら、見つけようがない訳だ。……てか、娘ってぇぇぇえ!? 『イル・マット』は異性交際厳禁なのにィッッ! ゔぎぃぃい!! 孕ませやがったのはどこの馬の骨だ!! ゆ・る・さ・んッ!!……――あ、処女懐胎かな? な訳ないよねぇッ!!」
一人で騒ぎ、一人で否定する。
忙しい男だ。情緒がジェットコースターか何かか。
芽依は半眼でそれを眺めた。
――マジでなんなん、コイツ。
「なあ兄ちゃん、うちもう行ってええか? ジジイ探さなアカンねん。……ほな、さいなら」
見切りをつけて踵を返す。
だが――「ちょーーーーと、待ってぇ!! とりあえず話がしたいから、場所変えよう!!」
がし、と右手を掴まれた。
同時に、空いた手でスーツケースの持ち手まで押さえられる。
「――ちょっ、どこ行くつもりやねん!? 離しぃや!!」
抵抗するが、男は気にも留めない。
力の強さというより、妙な“逃がさない感じ”がある。
軽薄そうに見えて、やってることはわりと強引だ。
その笑顔も、さっきよりずっと質が悪い。
そのまま半ば引きずられるように連れてこられたのは、ロイヤルホテルの裏手にひっそりと佇む小さな喫茶店だった。
『カフェ・ド・メメント森』。
外観は控えめだが、扉の向こうにはきちんと整えられた空間が広がっている。
「さあ、何でも頼んで! お兄さんの奢りだよぉ!」
派手男はやたら上機嫌で、メニューを差し出してくる。
さっきまでの妙なテンションを引きずったまま、にこにこと笑っていた。
「いや、ほんまにええんか?」
「いいから、遠慮せず頼みなさいっ!」
押し切られる形で、芽依はメニューを受け取る。
丁度昼時。店内はそれなりに混み合っていたが、運よく窓際の席が空いていた。
外の曇り空が、そのままガラス越しに滲んで見える。
注文はすぐに決まった。
芽依はブラックコーヒー。派手男はオレンジジュース。
――組み合わせとしては、どう考えても逆だ。
「改めて自己紹介するねぇ。僕の名前はウィリディアス・ルカ・グレイス♡ ご存じ『イル・マット』の司令塔的なアレやってまーす⭐︎」
軽い。自己紹介の軽さじゃない。
それでいて内容は、妙に重い。
「よ、よろしゅうな……うちは、祝部芽依いうねん。メイディって気軽に呼んでーな」
芽依は引き攣った笑顔で応じる。
正直、気軽に呼ばれる距離ではない。
「うん♡ 君のママの事はよーーーーーーく知ってるよ! よろしくねメイディちゃん」
ウィリディアスはそう言って、どこか苦笑めいた表情を浮かべた。
「そっかー……兄ちゃんがウィリディアス師匠とかいうヤツか。そら、オカンの事知ってるわな」
メイディは運ばれてきたブラックコーヒーに口をつける。
苦味が舌に広がるが、顔には出さない。
向かいでは、ウィリディアスがオレンジジュースをストローでぶくぶくと泡立てていた。
さっきの肩書きと、その行動。見事なくらいに噛み合っていない。
「……やっぱ、逃げられる前にちゃちゃっと記憶消しとけば良かった」
ぼそりと漏れた一言に、やけに生々しい執着が滲む。まだ、引きずっているらしい。
「そうそう、弟子入りの件なんだけど……」
「……おっ、もしかして……!?」
メイディがぱっと顔を上げる。目が輝く。
期待がそのまま前のめりになっている。
「無・理・で・す⭐︎」
「……な、なんでぇぇぇやぁぁぁぁあッ!?」
即答。しかもやたら楽しそうだ。
「だって君、魔術の才能ゼロって感じだしぃ? 習っても無駄だと思うよ〜?」
軽い口調で切り捨てる。
だが――その言葉に、重みはない。
……というのも、完全に嘘だからだ。
まさか、こんな子供が『イル・マット』の中身も知らずに飛び込んでくるとは思っていなかった。
いくら人でなしのウィリディアスでも、最低限の良心くらいは残っているらしい。
「才能とか関係あらへんねん! うちは、オカンがおった団体に入りたいだけやねん!! ほんで、ここまでの旅費、いくらかかったと思っとんねん!!」
感情のままにぶつける。理屈も順序もない。ただの本音だ。
「いや、それは……ごめんofごめん!! ほら、観光ビザしかないんでしょぉ? どのみちこの国で暮らそうなんて無理に決まってるんだよぉ! だからさぁ、適当に観光でもして帰って♡ 日本まで送り届けるから!!――ついでに君のママに話があるんだ」
軽い口調のまま、内容だけが現実的すぎる。
逃げ道を潰しに来ている言い方だ。
「うぅぅぁ……ウィリディアスはん、可愛い娘なら誰でも弟子にする言うとったのにぃ〜! うち、こう見えてもモデルやってんねんで!? 顔には自信あるんやぞ、コラ!!」
ほとんどヤケだ。
だがウィリディアスは、眉ひとつ動かさない。
さっきまでの軽薄さを保ったまま、妙に揺るがない。
その態度が、余計に癪だった。
「いやぁ、まあ可愛いのは確かなんだけどさ、そういう問題じゃないんだよねぇ。そもそも『イル・マット』は魔術師の集まりであって、アイドル養成所ではないんだよ〜? だから、諦めて♡」
さらっと褒めて、さらっと切り捨てる。
言ってることは正論なのに、語尾が腹立つ。
「……そ、そんなぁ〜〜……」
メイディの身体から、一気に力が抜けた。
椅子に沈み込み、そのまま魂まで床に落ちそうな勢いで項垂れる。
すると、見かねたのか、近くを通りかかったウェイトレスが、おずおずと声をかけてきた。
「あの、お客様方」
「うん、何?」
ウィリディアスはにこやかに振り返る。
「……大変申し上げにくいのですが、店内で騒ぐようでしたら、警察を呼ばせて頂きます」
「あばぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
奇声を上げたのはウィリディアスだった。
4
「……そういうわけで、もう来ないでくださいね」
ガチャリ、とアパートの鍵を閉める音が響く。
エフィムは、隣でしょんぼりしている男を冷めた目で見た。
先ほど散々絞られたせいか、ヴォルーツォは多少なりとも反省している……ようには見える。
「だってぇ、アルキンさんに言われたんだもん。エフィムくんをお願いって」
ヴォルーツォは露骨に拗ねた声を出した。
「そうだとしても、貴方のやった事はただの不法侵入です。普通なら警察ですよ」
エフィムは長い溜息混じりに言い放つ。
言葉を選ぶ気力すら、もう残っていなかった。
「えー」
返ってくるのは、まるで反省の色が見えない間延びした声。
その後も不貞腐れ続けるヴォルーツォの頬を、エフィムは半ば無理矢理につねった。
眠気をごまかすような態度が腹立たしかったのだ。
「それじゃあ、協会で。貴方は遊んでばかりで、どうせ仕事する気なんてないんでしょうけど」
少し突き放しすぎただろうか。
そんな考えが、一瞬だけ胸を過る。
だが――今のヴォルーツォに甘い顔をする方が、よほど恐ろしい。
放っておけば、この男は平然と他人の生活へ踏み込み、悪びれもせず居座る。
しかも本人に自覚がない分、なおさら質が悪かった。
「……エフィムくんさ」
不意に、ヴォルーツォの声が落ちた。
その瞬間、エフィムの肩がぴくりと揺れる。
――来る。
そんな予感が、反射みたいに全身を強張らせた。
「もし仮に、君がまた連れ去られたりしたら、僕、もう我慢できなくなっちゃうよ」
穏やかな口調。
だが、それは忠告であり、ほとんど脅しでもあった。
エフィムの背筋を、冷たい汗が伝う。
冗談ではない。
そんなことは、聞いた瞬間に分かった。
「……分かるよね、エフィムくん。君は自分自身を過小評価し過ぎだ。ちゃんと自覚を持ってほしいんだよ。――君は僕にとって、唯一無二の存在なのだから」
静かな声だった。
怒鳴りもしない。責め立てもしない。
それなのに、その奥で渦巻く感情だけが異様に鋭い。
ただの苛立ちではない。
抑え込まれた怒りと恐怖が、言葉の隙間から滲んでいる。
――どれだけ周囲を振り回したと思っているのか。
責められている。
けれど同時に、それ以上に。
この人は、本気で心配してくれていた。
「……分かりました。ヴォルーツォさん」
そう答えながら、エフィムは泣きそうになるのを堪えていた。
自惚れではない。
自分を中心に事件が起きたことくらい、理解している。
それでも。
あんな風に助けられて。命の恩人みたいに守られて。
感謝より先に、屈辱を感じてしまう。
そんな自分の性格が、たまらなく嫌だった。
「すみませんでした、あの時は本当に……ありがとうございます。ヴォルーツォさんだけじゃなく、バライバ理事長初め、アルキンにも、チェンさんにも。感謝してもしきれないんです。――本当は、ちゃんとお礼、伝えなきゃいけないのに……何て言えばいいのか、分からなくて」
言いながら、エフィムは拳を強く握り締めた。
爪が掌に食い込む痛みだけが、どうしようもない情けなさを、少しだけ誤魔化してくれる気がした。
「――そういうところだよ、エフィムくん。君って子は、本当に……」
呆れと苦笑が混ざった声だった。
次の瞬間。ヴォルーツォは、思い切りエフィムの頬を抓る。
「いひゃい! いひゃぃってば! ――何するんだよ、この独活の大木!!」
突然のことに、エフィムは反射的に暴言を吐き返した。
だが、それは本気の悪態ではない。照れ隠しだ。分かりやすすぎるくらいに。
「痛くて当然だよ、これぐらい。まったくもう、君は本当に向こうみずで聞かん坊なんだから……。ほんと、バライバも、アルキンさんも、フェイルくんも、君がいなくなって心配してたんだからね」
「ごめんなさい……」
さっきまでの勢いが嘘みたいに萎む。
「やっぱり君を一人にしておくと、またどこか行っちゃうから、アルキンさんのとこに住まわせて貰った方がいい。それかやっぱ僕と一緒に……」
「――ご遠慮します」
即答だった。
反射的ですらある拒絶。
「男同士で同居なんて、近所の人に何言われるか分からないので絶対に嫌です。それに、わたしは自分で稼いでるので、生活に困ったことなんてありませんから」
きっぱりと言い切る。
言いすぎた。その自覚は、ちゃんとある。
それでも譲れなかった。どうしても。
ヴォルーツォの唇が、かすかに震える。
その目は、痛みを押し殺すみたいに細められていた。
「君は――世間からの評価だけ気にするの? それ、少し寂しいと思う。でもね、それだけじゃ駄目だ」
静かな声だった。
怒ってはいない。だからこそ、余計に刺さる。
エフィムは視線を逸らした。
まともに見返せる気が、しなかった。
「――少しは他人の事も考えてあげられるくらいにならないと。僕の気持ちくらい、受け取ってくれても良くないかい?」
それは、もう説教ではなかった。
もっと個人的で。もっと感情に近い言葉だった。
「分かってます」
今度は目を逸らさなかった。
逃げるみたいに誤魔化しもせず、正面から返事をする。
嘘ではない。
少なくとも、その言葉だけは。
「そっか。それならいいよ。多分フェイルくんがうるさいと思うけれど、僕がどうにか言いくるめておくから」
ヴォルーツォは小さく笑うと、今度こそ背を向けた。
そのまま歩き出す。
アパートの階段を降り、遠ざかっていく背中が、薄い朝の空気へ少しずつ溶けていく。
――いつもより、少しだけ寂しそうだった。
エフィムは何も言えないまま、その後ろ姿を見送る。
引き止める言葉は浮かばない。
けれど、胸の奥に残った重さだけが、やけに消えてくれなかった。
5
「……それで、理事長。進展はありましたか」
ここは理事長バライバの執務室。
室内にいるのは二人だけだった。
バライバ・ララミデシアは、相変わらず煙草を咥えたまま、目の前の男を見上げる。
「あー、ラヒナーの事かい? あのエロ爺、まったく吐かないんだってよ。今は留置所にいるけど、警察もお手上げだろうねぇ。なんせ権力だけは一丁前だから」
肩をすくめながら吐き捨てる。
ラヒナーは取り調べに対し、一貫して黙秘を続けているらしい。
おそらく、目的はすでに達成済み。だから口を割る必要がないのだ。
「……証拠は揃っているんですよね。何故立件しないんですか?」
その問いに、バライバは不敵に笑った。
「アルキンドラネス、知らないのかい。アイツは幹部を買収してんだよ。証拠なんざ、いくらでも揉み消せる。だから警察も迂闊に手が出せないのさ」
そう言いながら、机の上の書類を手に取る。
例の事件についてまとめられた報告書らしい。
「ま、そのせいで尻尾掴むまで随分時間かかったんだけどねぇ?」
バライバは椅子に腰掛けたまま、苛立たしげに足を揺らす。
「……エフィム会長が無事でよかった、とはとても言えません。今回はたまたま助かっただけです。今後もあの調子なら――」
言葉を濁したまま、息を吐き出す。
アルキンドラネスは静かに視線を落とした。
「そうさねぇ……アタシらに出来る事なんて限られてる。後は本人の心がけ次第じゃないかい?」
突き放した物言いだった。
だが、その声音には怒りよりも諦めに近い疲労が滲んでいる。
「バライバ理事長、あまり責めないであげてください。……あれでも、本人なりに苦心しているのですから」
その言葉に、バライバはゆっくり目を伏せた。
「アルキン、エフィム坊ちゃんが心配なのは分かるが、少し甘やかしすぎだよ」
「……なっ」
「だってそうだろう。アンタ、最近ずっと付きっきりじゃないか。まるで監視してるみたいでさ」
そう言って、バライバは悪戯っぽく笑った。
「バライバ理事長、監視ではありません。あれは正当な護衛です」
「はいはい、そういう事にしておくよ。――でもねぇ、アンタが甘やかすから、あの子、全然懲りてないんじゃないかい?」
その指摘に、アルキンドラネスは言葉を詰まらせた。
――確かに、その通りだ。
あの少年は、自分自身を省みない。
何でも一人でできると言い張っているが、まだ十七歳の子供だ。
しかも見た目は九歳児。
心身ともに未成熟な子供が、周囲の庇護を振り切って突っ走る。
そんなもの、結末は目に見えている。
「アルキン、アンタが止めない限り、あの子は危険な目に遭い続ける。……今度こそ、手遅れになるよ」
それは脅しではなく、確信めいた言葉だった。
「私は……」
自分に、何ができるのか。
エフィムが望む未来のために。
自分が仕える主のために。
その答えは、まだ見えていなかった。
6
犬が道行く女性の脚にまとわりつき、スカートへ鼻を突っ込むという、とんでもない事案が発生していた。
「あわわわわ……」
そのたびにメイリアは平謝りする。
だが当の犬はどこ吹く風で、後ろ足で頭を掻きながらまるで反省していない。
「ごめんなさいっ! ごめんなさい!」
何度も頭を下げるものの、女性の方も「まあ犬だしねぇ」とでも言いたげに笑って流していた。
「はあ……」
飼い主は見つからない。
しかも女性を見るたび犬が猛ダッシュで突撃するせいで、メイリアの体力も精神もそろそろ限界だった。
『あい、すまぬ。これは本能的なアレでソレなのだ。このばーじょんでは理性が働かんのだ。許せ』
言い訳になっていない。
人間なら即通報案件だが、当の本犬(?)はまるで悪びれなかった。
神を名乗るには、だいぶ品性が終わっている。
「お嬢さ〜ん。こんな所で何してるのかなぁ?」
その時だった。
不意に、メイリアの肩へぽんと手が置かれる。
「うひゃっ……!?」
びくりと身体を震わせ、振り返る。
そこに立っていたのは、十代後半ほどの若い男だった。
だが、その格好が妙に浮いている。
中世の貴族じみた派手な装い。整いすぎた笑顔。
全体的に胡散臭さが限界突破していた。
「……え、あの」
メイリアは思わず身構える。
すると男は、彼女より先に足元へ視線を向けた。
「――わぁっ! 可愛い犬くんだねぇ! おすわり!! お手!!」
最悪だった。
犬は瞬時に全身の毛を逆立てる。
鼻に深い皺を寄せ、牙を剥き出しにしたまま、今にも飛びかからんばかりの姿勢を取った。
『……おい、貴様! 何者だ……! 人ではないな』
空気が変わる。
先ほどまでスカートへ突撃していた犬とは思えないほど、低く鋭い声だった。
危機感だけは本物らしい。色々終わってるが、そこだけは妙に神っぽい。
男は犬へ手を差し出したまま、きょとんと目を丸くする。
そして次の瞬間、口元をにやりと吊り上げた。
「うわぁ! 喋る犬くんなんて久々に見たよぉ! すご〜い! この子、お嬢さんの犬くん?」
「え? あ、いえ、あの……」
メイリアは慌てて否定しようとする。
だが男は気にも留めず、勝手に話を続けた。
「いきなり押しかけてごめんねぇ? 僕ってば犬くんとは、ちょーっとだけ縁があってね〜?」
藤色の瞳が爛々と輝いている。
新しい玩具を見つけた子供みたいな無邪気さ。
――その奥に、妙に嫌なものが見えた。
「おいで〜! 怖くないよぉ! 大丈夫だよ〜」
男が手を差し出す。
すると、それまであれほど警戒していた犬が、急に大人しくなった。
牙を引っ込め、静かに男へ鼻先を擦り寄せる。
「……え?」
あまりの変わり身に、メイリアは目を瞬かせた。
そして犬は、相手を確かめるように鼻を鳴らす。
『……貴様』
低い声には、警戒とは別の感情が混じっていた。
『死臭がするぞ。内臓が腐ってるんじゃないのか? ……旨そうだな』
「やだなぁ、まだちゃんと生きてるよぉ。でも、もしかしたらもうすぐ死ぬかもね〜?」
その瞬間だった。
犬が勢いよく男の腕へ噛みつく。
「――いだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあいッ!?」
悲鳴が響き渡り、通行人たちが一斉に振り返った。
だがメイリアは、別の異変に気付く。
男の腕から、夥しい量の血が流れていた。
牙は深く食い込み、普通なら大怪我で済まない傷だ。
――なのに。
裂けた肉が、音もなく閉じていく。
まるで時間そのものが巻き戻っているみたいに、傷口だけが消えていくのだ。
血痕だけを残して。
不気味だった。
生き物の治癒というには、あまりにも自然の摂理を無視している。
「ふむ、やはりか。――人といふには、あまりにも生淀めり」
犬はゆっくりと口を離すと、ぺろりと舌舐めずりした。
どうやら本当に“味見”したらしい。
「……そう言う君こそ、ただの犬じゃないでしょ」
男は僅かに残る傷跡も気にせず、興味深そうに目を細める。
『――ふっ、当然であろう! 己は!! 神なのだ!! 敬え、愚民よ!!』
犬は胸を張った。
サイズ感のせいで威厳より柴犬的な愛らしさが勝っているが、本人は至って真面目である。
「わ〜♡ 可愛い〜♡」
7
スェンディア国の首都ロティリスは、観光都市として名高い。
中でもナァダリ区の大聖堂は、一度は訪れたい名所としてガイドブックにも載るほど有名だった。
しかし、観光客で賑わう大通りも、一歩裏路地へ入れば空気が変わる。
薄暗い石畳。入り組んだ路地。
そこに立っているだけで、別世界へ迷い込んだような錯覚を覚えた。
「うひゃー、高いわぁ。あそこから落ちたら一発で死ぬで」
メイディは大聖堂の尖塔を見上げ、顔を引きつらせる。
二人は観光がてら、各地を歩いて回っていた……のだが。途中で道に迷った。
現在、二人は地図を片手に裏道を彷徨っている。
「……なあ、ウィリディアスはん。もしかしてジブン、地図の読み方知らんかったりする?」
ウィリディアスは地図をぐるぐる回した後、ぎくりと肩を震わせた。
「そそそそそそそんな訳ないじゃないかぁ!! 僕だって一人でもやれば出来る子なんだからッ!!」
怪しい。致命的なほど怪しい。
実のところ、メイディ自身も重度の方向音痴だった。
地図アプリの矢印がどちらを向いているのか理解できず、その場でぐるぐる回った経験が何度もある。
だからこそ、今ここで強く出られない。
「……ねえ、メイディちゃん。一度戻ってみた方がいいんじゃないかな……」
「え、なんでや……さっきも同じ事言って一周したやん」
終わっていた。
方向音痴が二人揃ったところで、遭難の効率が上がるだけだったのである。
通りを行き交う人々は、そんな二人など気にも留めず忙しなく過ぎていく。
そして当人たちだけが、裏路地のど真ん中で真顔になっていた。
すると前方から、一人の少年が歩いてきた。
その隣では、茶色い中型犬が尻尾を振りながら軽快に歩いている。
「……――あ」
メイディの顔から、すっと血の気が引く。
「ヤバ……ジジイの存在、完全に忘れとったわ」
8
「……はい? 今日は休め、ですって?」
魔術師育成協会のエントランスで、エフィムは受付嬢の言葉を聞き返した。
どうやらバライバ理事長からの伝言らしい。
「理由は分かりませんが、そう言付かっております」
エフィムは胸ポケットからスマートフォンを取り出す。
だが数秒考えた末、画面を開かないまま伏せた。
――理由くらい、察しはつく。
「はあ、せっかく早起きして来たのに。なんか損した気分……」
小さく愚痴を零しながら、エントランスを後にする。
とはいえ、冷静に考えれば、このところまともに休めていなかった。
少しくらい静養しろという話なのだろう。
「……あ、そうだ。こういう日こそ買い物に行こ」
頭に浮かぶのは、完全に生活感の塊みたいな単語だった。
ジャガイモ。人参。玉ねぎ。
この三つは外せない。
「たまには、自炊しなきゃ。節約、節約」
誰に聞かせるでもなく呟く。
魔術師育成協会の会長。
肩書だけ聞けば随分偉そうなのに、考えている事は普通にスーパーの特売だった。
人間、案外そんなものである。
だだっ広いだけの敷地を横切って――また戻って。そして、同じ場所を三回くらい通過したところで。
「……何してるわけ」
エフィムは額を押さえた。
耳の奥で、きぃん、と嫌な耳鳴りが響く。
頭痛の時に限って現れるタイプのやつだ。人体って妙なところだけ律儀である。
視線の先では、茶色い犬が芝生へ前足を突き立て、猛烈な勢いで地面を掘り返していた。
ざっ、ざっ、ざっ。ざっざか。ざざざざ。
芝が宙を舞う。土が飛ぶ。掘る。嗅ぐ。また掘る。
その繰り返し。
養成中の芝生は、既に小規模な噴火口みたいになっていた。
「いや、待って。なんでこんな所に犬がいるわけ?」
犬は聞いていない。
鼻先を土に突っ込んだまま、さらに別の場所を掘り始める。
ミミズでも探しているのか。
あるいは何かを埋めた記憶でも蘇ったのか。
どちらにせよ、迷惑以外の何物でもなかった。
「あ、エフィムく〜ん♡」
間延びした声が飛ぶ。
振り向けば、ヴォルーツォがにこにこと手を振っていた。
犬を従えているせいで、完全に散歩中の飼い主である。
「……ヴォルーツォさん、説明してもらえます?」
エフィムは真顔で問う。
ヴォルーツォは「あはは〜」と笑いながら視線を逸らした。
絶対ろくでもない流れだ。経験則が告げている。
次の瞬間。
土まみれの犬が、一直線にエフィムへ突撃してきた。
「うわっ!?」
勢いそのままに飛びつかれ、エフィムは大きく尻餅をつく。
犬は尻尾をぶんぶん振りながら、遠慮なく顔へ鼻先を擦り付けてきた。
「ちょ、待っ……土! 土つくっ!!」
朝っぱらから情報量が多すぎた。
せっかくの休養日。
その結果が、“芝生を荒らす謎の犬に全力で懐かれる”である。
「ちょ――離れろ!! ――って、見てないでどうにかしろバカ!」
必死に犬を引き剥がそうとするが、相手は完全にテンションが上がっている。
吠えるでも唸るでもなく、ただ全力でじゃれていた。
一方ヴォルーツォは、その光景を満足げに眺めているだけである。役に立たない。
「良かったねぇ、空蝉くん。お孫さん見つかったみたいで」
「……はい?」
エフィムの思考が止まる。
犬は「わふん」とも「ぐるる」ともつかない曖昧な声を返した。
肯定なのか否定なのか、一切分からない。
「だから説明してください。なんなんですか、この状況。てか、孫って誰?」
エフィムが問い詰めると、ヴォルーツォは嬉しそうに笑うだけだった。
「……あ、あの、エフィムさま」
その時。
ヴォルーツォの後ろから、控えめな声がした。
小さく手を挙げている少女。
見覚えのある顔。
「メイリア、なんで協会に……」
エフィムは一瞬だけ困惑を浮かべる。
だがすぐに咳払いし、貼り付いていた犬を引き剥がした。
『むぅ』
犬が不満そうに鼻を鳴らす。
「全く……協会への使い魔の持ち込みは禁止だと、あれほど」
そう言いながら、エフィムは土だらけになったズボンを見下ろした。
真新しいスーツには、見事な肉球スタンプ。
深々とため息を吐くエフィムに対し、ヴォルーツォはどこか楽しそうに肩を竦めた。
「でもほら、この子、使い魔じゃなくて神様らしいよぉ?」
「何が神ですか。ただの犬でしょう」
『ただの犬とはなんだ、この小童めが!! 己を誰だと思っておる!!』
犬――いや、自称神はエフィムの顔面すれすれまで迫り、牙を剥いて吠えた。
エフィムは数秒、無言になる。
「……犬が喋った」
今さらそこだった。
人間、理解の限界を超えると逆に現実逃避するのである。
「ヴォルーツォさん、ちゃんと説明しろ」
エフィムが低い声で言うと、ヴォルーツォは笑顔のまま固まった。
「いや、だからさ〜、空蝉くん、お孫さんと逸れちゃったんだって」
「意味がわかりません」
秒で切り捨てる。
理解を放棄したというより、脳が処理拒否を起こしていた。
「ね、空蝉くん? 空港の近くで、日本人のお孫さんと逸れちゃったんでしょ〜? それで彷徨ってたところをメイリアちゃんに拾われて、今ココ」
『うむ! 実に波瀾万丈なる旅路であった!!』
「いや、何一つ分からないんですが」
エフィムは真顔のまま額を押さえた。
頭が痛い。
物理ではなく概念的な頭痛だった。
神を名乗る犬。メイリア。それを嬉々として連れてくるヴォルーツォ。
登場人物全員が好き勝手動いているせいで、会話の地盤が存在していない。
エフィムはゆっくりヴォルーツォを睨み、静かに言い放つ。
「ヴォルーツォさん。頭にウジでも湧いてるんですか?」
「……え〜、なんか今日のエフィムくん、当たり強くないかい?」
「つまり、犬と飼い主が逸れたと。最初からそう言えばいいでしょう」
エフィムは淡々と結論を出し、そのままスマートフォンを取り出した。
「……そんなだから、万年窓際部署なんですよ」
9
「まさか……本当に神様なの」
エフィムは、目の前の光景を呆然と見つめていた。
ここは魔術師育成協会の屋上。
通称、“塔”と呼ばれる展望台だった。
吹き抜ける風が、男の髪を揺らす。
余った裾を無造作に捲った腕には、古い傷跡と痣。
野生味を帯びた顔立ちに、鋭い金色の眼。
先ほどまで芝生を掘り返していた犬と同一存在とは、とても思えない、妙な説得力があった。
「……己は、いつからかこの名で呼ばれ、信仰を集めていた」
空蝉は淡々と語る。
口調は古風だが、不思議と耳に馴染む声だった。
「霊力――ああ、己への信仰が届かぬ故、長時間姿を保てぬのだ」
「神様だとか」
思うはずがない。普通なら。
だが、さっき目の前で犬が人間になった。
現実逃避にも限界がある。
「それで、空蝉さんはどうしてこの国に?」
「孫の頼みでな。まじゅつしになりたいだとかで、付き添いだ」
「あー……」
そこでようやく、エフィムの中で話が繋がった。
空港で孫とはぐれる。霊力とやらの不足で力が尽きる。その結果、犬化。
……なんで犬?
「あれは省エネモードだ。己は狗賓なるぞ。人の姿を真似る程度、造作も無い」
「なんか、ご都合主義的な説明が……」
エフィムは喉まで出かけたツッコミを飲み込んだ。
これ以上突っ込むと、会話が二度と本筋へ戻れない気がしたのである。
「……それで、お孫さんの名前と連絡先、教えてくれない? こっちでも捜索隊を出すから」
エフィムがそう言うと、空蝉は目を細め、愉快そうに鼻を鳴らした。
「童の貌で、群れの頂に立つか。……人とは、時に齢すら欺く生き物よ」
「褒めてるんですか……それ」
「ああ、褒めておる」
空蝉は屋上の柵へ背を預ける。
「――祝部 芽衣だ」
その名を口にした瞬間。
声音に、わずかな苦味が混じった。
飄々としているが、まったく気にしていない訳ではないらしい。
仮にも孫。
しかも“魔術師になりたい”などと言い出し、異国まで飛び出してきた未成年。
放っておけるほど、薄情にはなり切れないのだろう。
「連絡先は知らぬ。だからこうして探しておる」
「そこ一番大事じゃないですか……」
エフィムは思わず顔を覆った。
神。だが、保護者適性はだいぶ怪しい。
「でぇ、魔術師になりたいって言っても訓練所って国民にしか開かれてないんじゃないかな〜?」
呑気に煙草を喫むヴォルーツォが、唐突に口を挟む。
「ぬぅ、ツテはあると言うておった。なんでも、いる……ま、入間とかなんか、そんなんだ」
いるま……イルマ、『イル・マット』。
いや、そんなはずが――犯罪組織に自ら志願する子供なんかいるはずもない。
「……まあ、その件は追々調べるとして。捜索隊出してくるから、空蝉さんはそこで待機しててね。ヴォルーツォさんは責任持って監視しててください」
ヴォルーツォがエフィムの背に向かってヒラヒラと手を振っている。
エフィムの不安を他所に、事態は予期せぬ方向へ動き始めていた。
10
メイリアは、静まり返った路地を一人歩いていた。
時刻は、昼をとうに過ぎ夕暮れに染まる頃。
真冬の淡い紅が石壁へ反射し、街に柔らかな陰影を落としている。
誰に見送られるでもなく、たった一人で。
「……エフィムさま、忙しいんだもん」
言い聞かせるように、小さく呟く。
仕方ない。
そう思おうとしているのに、胸の奥には薄い重さが残っていた。
いつの間にか、彼の存在は大きくなっていた。
エフィムは、多分なにも変わっていない。
相変わらず淡々としていて、少し距離が近いくせに、どこか子供扱いするみたいなままで。
――それなのに。
「大きくなった」
ぽつりと、言葉が零れる。
出会った頃は、ずっと大きく見えていた背中。
今では、自分の方が高い。
その事実が、少し嬉しくて。少しだけ、寂しかった。
「メイリアは、どうすればいいのでしょうか」
答えは、まだ出ない。
強くなりたい。隣に並び立てるくらいには。
けれど、何をどう変えればいいのか、自分でも分からなかった。
白い吐息が、冬の空気へ溶けていく。
それでも、立ち止まる訳にはいかない。
道など最初から存在しないのだ。
だから人は、自分で歩いて、自分の足跡を道に変えるしかない。
子供のままでは、いられなかった。
11
一方――。
「せやから〜、ウチのジジイは犬やねん」
芽衣はウィリディアスへ詰め寄り、身振り手振りを交えながら必死に訴えていた。
「……犬?」
ウィリディアスは怪訝そうに首を傾げる。
「君も、もしかして犬くんなのぉ? 見た感じどう見ても人間だけど」
「そら人間に決まっとるやろが! ちゃうねん、なんていうか……こう……!」
芽衣は両手をぶんぶん振りながら言葉を探した。
説明したい。だが説明すればするほど頭がイカれた人みたいになる。
実際、内容だけ聞けばかなり危ない。
“祖父が犬”は、普通に病院を勧められるラインである。
「……とりあえず、警察に相談してみるわ」
芽衣は、これ以上ない名案を思いついた顔で言った。
しかし。
「……ご生憎様。お爺さんを探したいのは分かったけど、警察の助けは嫌かな〜」
ウィリディアスは、にこにこと笑ったまま指を立てる。
「確かに、観光に付き合って家に送り届けるとは言った。だけど、お爺さんの捜索まで手伝うとは言ってないよぉ?」
その張り付いた笑顔が、やたら爽やかだった。
爽やかな人間ほど裏がある。今まさにそれ。
「お尋ね者の僕が、こうして堂々と君と歩き回れる理由、分からない?」
にっこり。
綺麗な笑顔のまま、さらっと物騒なことを言う。
「な、なんやの……急に」
芽衣は思わず一歩後ずさった。
だが、それでも睨み返す。
「だからぁ――君を指一本使わずに消し飛ばすことくらい造作ないってこと。空間の隙間に捩じ込んで、そのまま永遠に閉じ込めてあげてもいいんだけど〜?」
声音だけは軽い。冗談みたいに。
だからこそ、余計に怖かった。
空気が変わる。
周囲の喧騒だけが、妙に遠い。
「……や、やったらええやん」
芽衣は歯を食いしばった。
怖い。喉が震える。
それでも、怯んだと思われるのだけは嫌だった。
ウィリディアスの口角が、ゆっくり吊り上がる。
「わぁ、強いねぇ。流石ヴァレンティナの娘だ」
その笑みは楽しげなのに、目だけが笑っていない。
「でも――そろそろタイムアップみたい」
その瞬間。
路地の奥から、乾いた靴音が響いた。
一人ではない。複数人。
歩幅も速度も揃っていない足音が、石畳を硬く叩きながら近付いてくる。
その不規則なリズムが、夕暮れの空気へじわりと不穏さを滲ませていた。
「……残念無念」
ウィリディアスが、小さく肩を竦める。
次いで、慣れた手つきで燐寸を擦り、煙草へ火を点けた。
緊張感のない仕草。
だが、その表情だけは僅かに硬い。
「日本に送り届ける約束、守れなかったねぇ」
紫煙が細く吐き出される。
「――それじゃ、もう会わないと思うけど〜」
そう言って。
ウィリディアスは、舞台役者じみた優雅さで腰を折った。
ボウ・アンド・スクレープ。
まるで誰かを愚弄するためだけに磨き上げたような、嫌味なくらい優雅なお辞儀だった。
そして、無遠慮に煙を吐き出す。
吐息とともに広がった煙は、ただの煙草のものではない。
濃密な、紅色。
夕焼けとも血ともつかない色彩が、ゆっくり路地へ溶けていく。
一瞬、まばたきをした。
その次の瞬間には、もう何もなかった。
紅い煙も。気配も。あの胡散臭い男の姿すら。
まるで最初から存在しなかったみたいに、路地は静まり返っている。
芽衣は一人、その場に立ち尽くしたまま、空気へ溶け残った紅の残滓をぼんやり見つめていた。
「な、なんやったの……今の」
混乱した頭のまま、掠れた声が漏れる。
すると直後。
背後から、革靴の足音が近付いてきた。
石畳を叩く硬い音。
先ほど聞こえていた足音の主だろう。
「――探しましたよ、あなたが芽衣さんですね!?」
振り返る。
そこに立っていたのは、スーツ姿の長髪の少年だった。
そして――「メイディ!」
聞き慣れた声と同時に、祖父が駆け寄ってくる。
「……あれ」
芽衣は目を瞬かせた。
「ウチ、何してたんやっけ」
記憶が、妙に曖昧だった。
靄がかかったみたいに輪郭がぼやけている。
何か大事な話をしていた気がするのに、思い出そうとすると、そこだけつるりと指が滑っていく。
「とにかく、無事でよかった。お爺さん、ずっと心配してたんですから」
少年は安堵したように息を吐いた。
その表情は穏やかで、警戒心を抱かせない。
けれど芽衣は、なぜか胸の奥に小さな引っ掛かりを覚えていた。
思い出せない。でも、何かがおかしい。
そんな違和感だけが、妙に残る。
「……そっか」
結局、芽衣は曖昧に頷くしかなかった。
Ending
「んあー、つかーれーたー」
ソファへだらしなく身体を預けながら、芽衣が大きく伸びをする。
身体検査の結果に、特に異常はなかった。
ここは魔術師育成協会の医務室。
簡易的とはいえ設備は一通り揃っており、重症患者の応急処置や、外部病院への搬送待機にも使われている。
現在、室内にいるのはエフィムと、診察を終えてソファへ寝転がっている芽衣だけだった。
「別になんもされとらんしー。大袈裟ちゃう?」
「……そうだけど、念のためです」
エフィムは淡々と返す。
外見だけ見れば同世代。少なくとも外見だけなら。
だが芽衣からすると、妙に“ちゃんとしている側”の人間に見えてしまう。
逆にエフィムの方は、どこか落ち着かない様子だった。
そわそわしている。
警戒というより、単純に距離感へ困っている感じだ。
「誰に会ったか、とか……思い出せる範囲で構わないので、お話できます?」
エフィムは手元のスマートフォンへ視線を落としながら尋ねた。
空蝉は現在、別室で簡単な聴取を受けている。
記憶整理も兼ねて、芽衣へ少し時間を与えることにしたのだった。
「せやからー、誰かと会ったのは確かなんやけどー、それが思い出せんの」
真っ赤な煙が見えたのは間違いなく覚えてるけど、と芽衣は付け加える。
「他は? ……例えば、言葉遣いとか、雰囲気とか」
「そんなん言われてもー」
芽衣はソファの上で膝を抱え、天井を仰いだ。
「でもなぁ、なんとなく……不思議な感じやってん」
「不思議?」
「なんて言うたらええんやろ……こう、なんちゅうか……。ちゃうねんけど、ちゃう」
抽象的すぎて、正直よく分からない。
エフィムが眉を寄せ、言葉の続きを待つ。
「……エフィム会長、少しよろしいでしょうか」
医務室の扉が控えめに叩かれる。
顔を覗かせたのは、幹部のボブマン・アンタレスだった。
「少し失礼しますよ」
そう言って中へ入ると、彼は芽衣を一瞥し、それから小さく息を吐く。
「とりあえず、国へ申請するビザの種類だけ決めておきましょうか」
「……はい?」
芽衣が間の抜けた声を漏らした。
一方で、エフィムは妙に落ち着いている。
ボブマンはその反応を見比べた後、わずかに眉を寄せた。
「……本当に住まわせるおつもりですか?」
「ええ。魔術を習いに来たのでしょうから、そのまま送り返すのも忍びないですし」
さらりと返される。芽衣は目を丸くした。
ついさっきまで“検査対象”みたいな扱いだったのに、急に受け入れ方向の話になっている。
話がデカい。そして――早い。
エフィムの返答を聞き、ボブマンは諦めたように肩を竦めた。
「もう、好きになさってください」
半ば呆れた声音だった。
けれど、その直後。
ボフマンはふと表情を引き締め、静かに声を落とす。
「それから――やはり、エフィム会長の読みが当たりそうですよ」
空気が変わる。
エフィムは、無意識に息を呑んだ。
「なんでも、空蝉様の証言だと――」
そこで言葉を切る。
短い沈黙。窓の外では、夕暮れの乾いた鐘が遠く鳴っていた。
――賽は、もう投げられている。
前回が激重だったので少し軽めに……と、思ったら、逆に軽くなりすぎました。




