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MOTHER//SANCTUARY

重すぎた、アウト臭が凄ぃ!

1


「……お母さん」


 ――また夢を見た。


 幼い頃の、どうということもない光景。

 ただの“日常”のはずなのに、いつもそこにだけ悪意が滲んでいる。

 理由なんて考えなかった。子供の世界は大人が思う以上に残酷で、弱い者から順に潰されていく。

 だからこれは、当然の結果なのだと、ずっと思っていた。


 午前二時。

 寝直す気にもなれず、エフィムは脱衣所に向かった。


 鏡の前に立つ。

 そこにいるのは、腰まで伸びた黒髪と青い瞳の“可憐な少年”。

 滑らかな肌、細い手足、影もない喉仏。

 男らしさの欠片もない自分。


「……男なのに」


 何に怒っているのかさえ分からない。

 ただ、胸の奥がぐらつく。

 エフィムはシャワーをひねり、冷たい水を浴びた。


 普通になりたかった。

 平凡で、誰にも何も言われない生き方がしたかった。

 努力して、地位を得ても――結局、何も変わらないままだ。


『ガキの癖に』『女みてぇな顔しやがって』


 言われる度に心が削れる。

 泣きたくなる自分が嫌で、また自己嫌悪が渦を巻く。


「……もう、こんな顔やだ」


 この身体も、声も、心も。

 何一つ好きになれない。


 ――どうか、全部いらない。


「そんなに嫌うことないじゃないか。君は僕にとって魅力的で、愛おしいよ」


 突然、浴室の窓が開いた。

 夜風が冷気を連れてきて、混乱と羞恥を一気にかき乱す。


 気づけば窓枠には、長い茶髪を束ねた若い男が腰かけていた。


「良い夜だね、エフィムくん。君の悩み、解決できるかもしれないよ?」

「……どういう意味ですか」

「君が望むなら、どんな願いでも叶えてあげよう。さあ、言ってみなよ」

「……何でも?」

「うん。なんでも」


 ほんの一瞬、胸の底で“諦め”が落ちた。


 「男にして下さい。強くて、かっこよくて――誰にも馬鹿にされない、そんな大人の男に」

「本当にそれが望み?もっと他にも願えることはあると思うけどな〜」


 男は窓から飛び降りて、床に軽く着地した。


「君が君を否定してどうするのさ。ほら、僕なんて、こんなに素敵なのに誰も肯定してくれない」

「それは日頃の行いでしょう。……出てってください」


 こんな――惨めな姿なんて、見ないでよ。


 本当はスカートも、バレエも、ピアノもしたくなかった。

 ただ、母が喜ぶから。笑ってくれるから。褒めてくれるから。

 だからずっと、あの頃からエフィムは“良い子”でい続けたのだ。


 エフィムはシャワーを止めた。

 排水溝へ流れていく水の音が、静まり返った浴室に広がる。


 鏡を見る。

 そこにいるのは、濡れた黒髪を頬に貼りつかせ、青い瞳を虚ろに揺らす“いつもの少年”。


「風邪なんて引いたらアルキンさんが悲しむよぉ。明日も仕事だろう? 眠れないなら、子守唄でも歌ってあげようか〜」


 エフィムはそいつを無視して脱衣所へ戻る。

 タオルで身体を拭き、髪を挟んで水分を絞る。


「――くしゅんっ!」


 冬の空気が容赦なく肌に刺さる。

 芯まで冷え切った身体が震えた。


「ほら、言った通りだ。まったく……君は本当に無鉄砲で聞かん坊だな」

 

 ――煩い。


 何でこんな時間に人の家にいるんだ。

 過去を思い出して最悪の気分の時に、よりによってこいつの相手とか。


「帰ってください。貴方に用はありません」


 男はふっと笑って一歩、また一歩と近づいてくる。


 その瞬間、背筋が粟立つ。

 逃げろ、と本能が警鐘を鳴らした。


 だがもう遅い。


「僕は君と話がしたい。君のことを、もっと知りたい。ねぇ、エフィムくん。君だってそうだろう?」


 間近で見るその顔は、あまりにも整っていた。

 少し下がった目尻、赤みを帯びた茶髪、柔らかい笑み。

 けれどその奥に潜む“何か”が、ぞくりとするほど不気味だった。


 背の高さも相まって、見下ろされるだけで息が詰まりそうになる。


「……わたしは……」


 逃げることはできる。

 でも逃げたところで、また振り出しに戻るだけだ。


 だったら――少しでも変わるほうへ、足を出すしかない。


「……わたしも、話がしたい」


 その言葉に、男は満足げに微笑み、エフィムの頭を撫でた。

 子供扱いされているようで、妙に腹立つ。


「うん、そのままでいいよ。そのままの君が、いちばん美しい。――さて、本題なんだけど」


 男は声色を変えた。

 微笑みのまま、嫌なほど自然に。


「一晩、泊めてくれないかな」


 2


 エフィム=ゾーラは、つい半年前まで学生だった。


 “だった”というのは、魔術師育成協会の会長に就任するにあたり、卒業扱いになったからだ。

 学費は免除され、資格や経歴もそのまま手に入る。

 社会に出る気はなくても、後々の活動には役立つだろう。


「……というわけで、卒業扱いになりました」

 電話越しの担任は申し訳なさそうに事実のみを告げる。

 エフィム自身、拍子抜けするほど淡々と受け止めた。


 魔術師育成協会――通称『協会』

 その会長という肩書は、魔術師たちには憧れの的だろう。

 だが、エフィムにとっては、ただの重荷でしかなかった。


 都心の一等地。その最上階に広がる全面ガラス張りの校長室。

 今日は、卒業式が近いこともあり卒業生代表として、全校生徒の前でスピーチを行うため、早朝から学校に登校していた。


 胸の奥で、わずかな緊張が芽生える。

 学生時代とは違う、会長としての責任感が、それをさらに重く感じさせた。


 咳払いをして目の前の人物に頭を垂れる。

 ついこの間までずっと遠い存在だった、魔術師育成学校の校長。

 高齢ながら、その眼光は衰えを知らない。

 皺の刻まれた顔には威厳があり、白い髪と髭がさらにその雰囲気を際立たせている。


「今日は、特別にお話をする機会を与えていただき、ありがとうございます」

「こちらこそ、協会の新会長殿にお越しいただけるとは、ありがたい限りです」


 穏やかに微笑む校長の表情に、エフィムは少しだけ背筋を伸ばす。


「ところで、エフィム=ゾーラくん。君は、卒業生代表として、どんな言葉を届けるつもりかな?」


 エフィムはわずかに息を整え、深呼吸する。

 そして、校長の視線を受け止めながら、決意を持って答えた。


「わたしが伝えたいことは一つです。それは、全ての魔術師が、自分の選んだ道を歩んでほしいということです」


 校長の顔が一瞬、険しさを増した。

 しかし、すぐに元の穏やかな表情に戻る。


「ところで、エフィム=ゾーラくん。君は、自分がどうやって会長に選ばれたか、知っているかね?……――いや、あまり気にしなくてもいいよ」


 何か含みのある言葉だったが、エフィムはあえて掘り下げなかった。

 校長室を出たあと、廊下を歩きながら考え込む。


「……どうしてだろう」


 漠然とした問いだが、胸の奥で針のように引っかかる。

 校庭の方で生徒たちが賑やかに話している声が耳に届く。

 窓の外からは冬の日差しと、時折吹く風が葉を落とした枝木を揺らした。


 3


「――改めてお聞きしますが、アルキンドラネスさん。貴殿はこの組織について、どこまで把握されていますか」


 室内には、気怠い会議の余韻だけが残っていた。

 言葉を交わす事もなく、冷えた空気だけが緩やかに沈んでいく。


「平たく申しますと……私めは、何も」


 そう答えたあと、アルキンドラネスはわずかに言葉を切った。

 その沈黙に対し、フェイルツィーオは頷いただけだ。


 促しも、否定もない。

 返す言葉を探すように、アルキンドラネスは一度、息を吸う。


 この組織に長く身を置いていれば、黒い噂とは否応なく耳にする。

 闇の裏側で行われてきた数々の“調整”。

 だが、その実情を語る者は、ほとんどいない。

 口にすれば、次は己の番になる――誰もが、それだけは理解していた。


「ほう……なるほど」


 フェイルツィーオは、感心したようにも、納得したようにも取れる声音で応じる。


「では、その流れで先日の件を」


 彼は言葉を選ぶように一瞬だけ視線を伏せ、

 再び顔を上げた。


「……ウィリディアス。いえ、ダージ・レンドーですが。“ここ”との繋がりがあった、という話を耳にしまして」


 ウィリディアス・ルカ・グレイス――いや、ダージ・レンドー。

 その名が出ただけで、アルキンドラネスの内側に拒絶感が走る。


 先日の雑貨屋での一件――『イル・マット』を名乗り、ダワイカ市場を荒らし回っていた一団の首魁は、すでに死んでいる。

 その死は内々で処理され、真相は伏せられたままだ。


「……ああ、あの事件ですか。あれは、色々と複雑な事情が絡んでおりまして」


 アルキンドラネスは慎重に言葉を選んだ。

 背景には、あまりにも多くの思惑が交錯している。


「そもそも、表向きは“事故死”……でしたっけ」


 その言葉に、フェイルツィーオが被せるように応じる。


「……確かに、その方が都合は良い」


 誰が消えたかなど、最初から頭数に入らない。

 どのみち、壊滅させねばならないのだから。


「エフィム会長がヴォルーツォ殿の監視を振り切り奴と接触した――という話は聞いていますが……あの方が、そう手を下すとは思えず」

「ほう」


 その瞬間、フェイルツィーオの左目だけが、わずかに鋭さを帯びた。

 だが次の瞬間には、興味を失ったかのように瞼が下ろされる。


「いや……意外と、やりかねないかもしれません。見た目より、随分と肝が据わっていますから。あの子は」


 アルキンドラネスの言葉に、フェイルツィーオは「はは」と、小さく笑った。


 それ以上でも、それ以下でもない。


「まあ、今は会長閣下などどうでもよい」


 そこで、フェイルツィーオは言葉を切り「ボクが知りたいのは、その事件の発端です」と、吐き捨てる。


 粘ついた視線が、再びアルキンドラネスの瞳を捉えた。


「……資格を失った者が、随分と長く生き延びましたね」


4


 エフィムは魔術師育成学校の元生徒であり、魔術師育成協会の現会長――その異例の立場は、否応なく人目の中心へと押し上げ、誰もが立ち止まる理由となっていた。


「会長ぉさ〜ん、ツーショ撮りませんかぁ?」


 卒業生代表としてのスピーチを終えたエフィムは、廊下を進むなり生徒達に取り囲まれる。


 向けられる視線は一様ではない。

 憧れ、好奇、そして隠しきれない反感。


 それらすべてを浴びながら、エフィムは気負う様子もなく歩き続けた。

 野次馬達は、彼を崇拝するかのように自然と道を空けていく。


 だが、それも束の間だった。


「――ちょっと良いかい、エフィム君」


 突然、背後から声がかかった。

 振り返るとそこに立っていたのは、魔術師育成協会の重鎮、ヤイロダ支部長のラヒナー・トカーニだ。


 その姿を見た瞬間、周囲の生徒たちは一斉に道を開け、頭を深々と下げる。

 ただ立っているだけで、協会内での彼の権威が伝わってくる。

 ラヒナーは満足げに微笑むと、口を開いた。


「やあ、昨日ぶりかな。今日も可愛いね」


 普通、この言葉は男に向けて使うものではない。

 エフィムは思わず溜息をつきつつ、作り笑いで応じた。


「はい、そうですか。ところで何のご用でしょうか。会食は明日でしたよね」


 ラヒナーはにこやかに笑みを返す。しかし、その目は鋭く光っていた。


「……そのつもりだったが、気が変わってね。予定を変更しよう」


 そしてニヤリと笑い、言葉を続ける。


「今からわしの家で食事でもどうかな。君の好きな料理を用意しようじゃないか」


 その一言に、周囲の空気がざわつく。

 エフィムは一瞬固まったが、すぐに笑顔を作って答える。


「嬉しいですけど、午後から会議が控えていますので……」


 ラヒナーは目を細める。

 確かに午後には協会の重要な会議がある。

 会長であるエフィムが不在では問題になるだろう。

 しかし、そのことをラヒナーが知らないはずはない。


 それでも、敢えて誘ってきたということは――何が何でもエフィムを連れて行くつもりなのだろう。


「君は働きすぎだよ。まだ子供なんだから、もう少し遊んでもいいんじゃないかな」


 子供――その些細な言葉が、エフィムの中で微かに響く。

 逃げたい過去の蟠り、否応なく突きつけられる現実、そして諦念。


「……ですから、会議は外せません。無理です」


 踵を返そうとした瞬間、ラヒナーがそっと腕を掴む。どうやら、帰すつもりはないらしい。


「――そういう訳にもいかないんだよ。こっちにも事情ってものがあってだな」


 その声には、焦りにも似た緊張が含まれていた。

 普段は冷静沈着なラヒナーの表情が、ほんの僅かに強張っている。

 しかし、エフィムも退く気はない。ここで流されれば、これまで築いてきたものが音を立てて崩れる。


「……この間の件で、少し君に聞きたい事があってな」

「なるほど……そういう事情でしたら、承知せねばなりませんね」


 エフィムは表面上、穏やかに了承する。

 内心では、どこか不穏な感覚を覚えながらも、相手が協会の重鎮であることを思えば無碍にできない。

 ――ならば、この場はラヒナーの誘いに従う方が得策だ。


 承諾した瞬間、ラヒナーは満足げに微笑む。

 その笑みの奥に、計り知れない恐ろしさが潜んでいることに、エフィムは気付いていた。


 5


 フェイルツィーオは中央棟の廊下に立ち、窓枠に背を預けながら、人々の行き交う様子を冷ややかに眺めていた。


「ダージ・レンドーが単独で強盗団を指揮していたとは、考えにくい……」


 小さく吐き出した声と共に、口元がわずかに緩む。


 影で蠢く何者かの存在――その混乱の予感を、手中で眺めるような快感があった。

 まるで、賭け事のようだ。

 成否は、すでに自分の掌の上にあるかのように思えた。


「奴を直接仕留めたのは、おそらく、ヴォルーツォさんで間違いない。まあ、あの道化なら躊躇はないでしょう」


 賽は投げられた――だが、投げた本人は微動だにせず。


 そんなフェイルツィーオの前を、一度通り過ぎてから、後ろ向きのまま戻ってくる男がいた。

 アルキンドラネスである。


「おや、フェイルツィーオ殿。まだ本部に? いやはや、ご熱心なことで。ジャンパカダ支部から毎日のように通われて……その勤勉さ、私など到底かないませんよ」


 声音は丁寧だが、礼の裏に刃が仕込まれている。

 フェイルツィーオは表情だけ笑みを浮かべ、目だけが退屈そうだった。


「ええ、経費で落ちますので。それに、高速鉄道は快適ですし。……あそこはどうも、空気が重いですから」


 軽口に見せかけた一刺し。

 相手より一段高い場所に立って眺めるような、独特の“余裕”がある。

 アルキンドラネスは微動だにせず、その言葉を受け止めた。


「なるほど。では、ここで黄昏れておられるのも“移動のついで”というわけですかな。……実に、羨ましい。ジャンパカダ支部がそれほど暇だとは、知りませんでしたよ」


 冷静な声音で淡々と返す。

 だがその言葉の奥に、じわりとした圧がある。

 フェイルツィーオは、ほんのわずかに唇の端を吊り上げた。


「ええ、暇ですとも。ジャンパカダは空気が悪い。それこそ、煙草の煙のような曖昧なものではなく、もっと……ドス黒い。まるで、肺に沈殿する毒のようです」


 冗談めかした言い方でありながら、棘のある言葉選びだった。


 アルキンドラネスは、ほんの一瞬だけ目を細める。

 フェイルツィーオの言葉の中に混ざった、皮肉ではない本音を感じ取っていた。

 だが、それを暴こうとするよりも先に、フェイルツィーオは静かに続ける。


「ですから、こうして散策がてら、少し頭を冷やしているのです」


 軽やかな足取りで、フェイルツィーオはゆっくりと歩き出す。

 革靴の音だけが、静まり返った空間に響く。

 アルキンドラネスもまた、その歩みに合わせるように、無言で付き従った。


 まるで、互いの距離を測るように。


「さて、本題にでも入りましょうかね、アルキンドラネスさん」


6


 ――ヤイロダ支部は、魔術師育成協会の地方支部に過ぎない。

 だが、その実態は本部以上の影響力を持つ、歪な中枢だった。


 強大な財力と、この地に根付いた独自の魔術技術。

 ヤイロダ県そのものが、他の支部とは土台から違う。


 そして――その中心にいるのが、ラヒナー・トカーニだ。


 彼は長年にわたって支部を掌握し、独自の網を張り巡らせてきた。

 協会本部ですら、彼の意向を無視できない。


 その支配力ゆえに、人は密かにこう呼ぶ。

 ヤイロダ支部の“長”ではなく――独裁者だ、と。


「配車は手配してある。少し待つといい。その間、話でもしようか」


 ここは幹部しか立ち入る事を許されない――西棟の応接室。

 本来は客をもてなし、茶を嗜むための場所。

 だが、権力者が腰を下ろせば、そこは即座に密談の場へと変わる。


 部屋の中央には大きなガラステーブル。

 それを挟むように、革張りのソファが向かい合っていた。


「協会も変わったものだね。まさか君のような子供が、頂点に座るとは」


 エフィムはゆっくりと腰を下ろす。

 柔らかなソファが、静かに身体を受け止めた。


「……そうですね」


 視線を落とす。

 なぜ自分なのか。なぜ、若輩の身で会長に選ばれたのか。


 何も、わからないことだらけだ。


「エフィム君。君には、何か秘密があるだろう?」


 ラヒナーの声が、わずかに低くなる。

 値踏みするような視線が、エフィムを射抜いた。


「分かりません。わたしが会長に選ばれた理由なんて……本当に、偶然だと思います」

「偶然、か……」


 ラヒナーは頷き、ワイングラスを掲げる。

 一口、喉を潤した。


「だが君は強い。君なら協会を、さらに大きくできる」


 その言葉に、エフィムは小さく息を吐く。


「買い被りです。わたしは平凡な魔術師ですよ。特別な才など――」

「ほう。君が平凡だと?」


 ラヒナーの目が細まる。

 何かを知っている――それだけは、隠しようもなく伝わってきた。


 だが彼は、それ以上は踏み込まない。

 知らぬふりを装う、その仕草こそが――最も雄弁だった。


「そうだ。ならば一つ、聞いてもいいかい?」


 ラヒナーは楽しげに微笑んだ。

 その声音は柔らかく、雑談の延長にしか聞こえない。


「会長ともなるとね。“力”だけでなく、さまざまなものが見えてくる立場になる」


 エフィムは黙って、先を促す。


「資質。精神性。――そして、“見た目”だ」


 その一言で、空気の温度がわずかに下がった。


「……――君の身体について、だ」


 エフィムの動きが止まる。

 意図を探るように、相手の表情を見つめ返す。


「……それは、どういった意味でしょうか」

「深い意味はないさ。ただ、君は“見た目”で損をしているように思えてね」


 ラヒナーは穏やかに続ける。


「人というものは、どうしても相手の実力を測る際、まず外見で判断する」


 逃げ場を与えるような口調だった。


「君はもう十七だ。年齢の割に“変化”が少ないと、自分でも感じたことはないか?」


 “少ない”。


 それだけの言葉なのに、胸の奥がざわついた。


「声もそうだ。まだ、声変わりをしていないだろう?」


 その瞬間、心臓を掴まれたような衝撃が走る。

 同級生の男子は、遅かれ早かれ皆それを迎えている。

 それに比べて――自分は。


「……っ! わ、わたしは、他の男子より発育が遅いだけです。これから成長しますので!」


 思わず語気が荒くなる。


「まあまあ」


 ラヒナーは両手を前に出し、宥めるようにゆっくり振った。


「責めているわけじゃない。成長が遅い者など、珍しくもない」


 ――一瞬、安堵しかける。


「ただ……」


 ラヒナーは、そこで言葉を切る。


「遅れている、というより。君の場合は、“止まっている”ようにも見える」


 心臓が、重く鳴った。


「外見も、声も、気配も。十七歳のものとは、少し違う」


 反論しようとして、言葉が出ない。

 事実だけを並べられているからだ。


「生理的な兆候についても、同じだ」


 淡々とした声。まるで検分だ。


「……例えば」


 ここで初めて、ラヒナーはエフィムを正面から見据える。


「――精通は、しているのかね」


 その単語が耳に届いた瞬間、エフィムは一瞬、自分が何を聞かされたのか分からなかった。


 一拍、思考が真っ白になる。

 知識としては知っている。だが、それは書物の中の言葉でしかなく、実感を伴うものではない。


 動揺を悟られてはならない。

 その一心で、唇を噛み、無理に言葉を絞り出す。


「……して、ます。……多分」


 わずかに視線が泳ぐ。


「ほう。“多分”か」


 ラヒナーは微笑む。

 だがその声は、どこか粘ついていた。


「曖昧だね。だが――無理もない」


 グラスを置き、指先を組む。


「君は、いくつもの“基準”から外れている」


 空気が重く沈む。

 否定したい。だが、喉が動かない。


「安心したまえ」


 ラヒナーは肩をすくめる。


「咎めているわけじゃない。ただ、気になっただけさ」


 にこやかな声で、こう続ける。


「協会の頂に立つ人間が――“どんな存在なのか”、ね」


 その視線は、もはや好奇ではなかった。

 解剖する者の目だった。


 エフィムは悟る。この男は、知っている。

 そして、まだ“切り札”を切っていない。


 ――ここは、談笑の場ではない。


 静かに、しかし確実に。

 エフィムは、追い詰められていた。


「……君は、こう考えたことはないかい」


 ラヒナーは声を落とす。


「自分は他人より成長が遅れているのではない。――そもそも、身体の成長そのものが止まっているのではないか、と」


 沈黙が、重く落ちる。


 ラヒナーは何も言わず、ただ待っていた。否定も、補足もせず。

 エフィムが“辿り着く”のを。


 やがて、エフィムはゆっくりと顔を上げる。

 正面から視線を合わせはしたが、その瞳に宿るのは諦めの色だった。

 口元には、かすかな笑み――笑おうとして、失敗したような歪さが残る。


 平静を装っている。

 だが、その奥に沈殿した絶望は、隠しきれていなかった。


 その様子を見て、ラヒナーの口元が、ほんのわずかに歪む。


 勝ち誇るでもなく、喜ぶでもない。

 ただ“確認できた”という顔で、静かに言葉を継いだ。


「……やはり、そうか」


 淡々と、事実を並べる口調で。


「君の身体には、厄介な術が幾重にも重ねられている。そしてその術が――君の成長を、意図的に縛っているようだ」


 ――断定ではない。だが、否定の余地もなかった。


 言葉は、すでにエフィムの中で答えになっていた。

 理由は分からない。

 だが、思い出さないようにしていた何かが、確かに軋んだ気がした。


 ――思い出すのは、ふわりと揺れた、銀糸の髪。

 優しく抱き寄せせてくれた、華奢な腕。

 拒まれることのない、温もり。

 甘くて、懐かしくて――だからこそ、胸が締めつけられる。

 それは、守られていた記憶なのか。それとも、縛られていた記憶なのか。


 エフィムは、目を閉じた。


「……お言葉ですが、あなたには関係ありません。これ以上、詮索するのはやめていただけませんか」


 ようやく絞り出した声には、怒りよりも諦念が滲んでいた。

 しかし、ラヒナーは表情を変えず、グラスを傾ける。


「君にとって、不愉快な話だったかな。だったら謝ろう」


 だが、謝罪の気配は一切なかった。


「ただ、ワシは君が心配なんだ。会長という立場にある者が、“未熟なまま”成長を放棄していては困るからね」

「放棄などしていません。これは――」


 言いかけた言葉が、喉の奥で絡む。否定すべきなのに、言葉が見つからない。

 代わりに、ラヒナーが先を奪った。


「それとも、その未熟さこそが、“君の価値”だとでも言うのかな」


 嫌味ではない。純粋に、興味から訊いている口調だった。


「――どういう意味ですか」

「そのままの意味だよ」


 ラヒナーはグラスを置き、ゆっくりと立ち上がった。


「“君は大人になってはいけない”」


 エフィムの眉がわずかに寄る。


「“君の身体は、ずっと子供のままのほうが都合がいい”。……少なくとも、君のそばにいた誰かは、そう願っていた」


 一瞬、空気が凍る。

 そして、ラヒナーは窓際に歩み寄ると、遠くを見やりながら呟いた。


「もし仮に、“君が君のままで生きていく”事を拒んでいる。そうは考えないかい」


 それはつまり、今の君を否定するなという事か。


「君は、もっと自由になれるはずだ」


 ラヒナーは、少しだけ言葉を切った。


「……過去に縛られたままでいる必要はない」


 その言葉が、エフィムの胸に刺さる。


 エフィムは俯いた。

 ラヒナーの言葉は、優しかった。

 だが、その裏に潜む何かが、どうしても拭えない。


「エフィム君、君の“枷”を解いてあげようか」


 突然、声色が変わる。

 優しいが、有無を言わせない圧があった。


「――……ぁ」


 エフィムは、何も言えなかった。

 ただ、黙って俯くしかない。

 そのとき、ドアのノックの音が響いた。


「さあ、迎えが来たようだよ。おっと――ここにサインをくれないかな? ……後々、逃げられると面倒なんでね」


 軽い調子だった。

 冗談めかした言い方で、ラヒナーは書類を差し出す。

 それが何の書類なのか、エフィムにはもう考える余裕がなかった。


 ただ一つ――この呪いから、解放されるかもしれない。

 その期待だけが、胸の奥を満たしていた。


 言われるがまま署名欄に名を記し、エフィムはラヒナーと共に迎えの車へ乗り込む。


 ドアが閉まり、外の気配が遮断される。


「君は、運命というものを信じるかね」

「運命、ですか……」

「そう。すべては導かれるべくして起こる。――ワシは、そういう世界の在り方を否定しない」


 揺れる車内で、エフィムはぼんやりと考えていた。


 もし、本当に運命というものがあるのなら。

 きっと、自分は今――その流れに抗う術を、もう持っていない。


「それで……わたしは、助かるのですか」


 ラヒナーは、一瞬だけ目を細めた。


「助かる? 何を言っている。ワシのもとに来れば、君は“自由”を手にする」


 そう告げる声は、どこまでも穏やかだった。


「それはもう、神の祝福と呼んでもいい」


 ラヒナーは笑った。


 車窓に映った自分の顔は、ひどく疲れて見えた。

 その疲れが、いつから積み重なっていたのかは分からない。


 ただ、一つだけ確かなことがある。

 ――どこかで、道を間違えたのだ。


 7


「ちょっとアンタらぁぁぁぁ!! 会議が始まるってんだい!!」


 廊下に怒号が響いたかと思うと、ドタドタと騒がしい足音が迫ってきた。

 姿を現したのは、魔術師育成協会――バライバ理事長だ。


 急いで来たのだろう。豪奢な金髪は乱れ、真冬だというのに額にはうっすら汗が滲んでいる。


「は、これは誠に申し訳ありません、バライバ理事長」


 アルキンドラネスは慌てて姿勢を正し、隣のフェイルツィーオへと視線を送った。


「理事長、会長かっ――おほん!会長をお見かけしませんでしたか。どうも、姿が見当たらず」


 フェイルツィーオが、探るように切り出す。


「坊やが来ないから、アタシが直々に探し回ってんだろうがい!!」


 バライバの剣幕に、フェイルツィーオは思わず一歩引いた。


「……で?」


 バライバは、ふいに声を落とした。


「魔術師育成学校で、あの坊やは誰と会った?」


 一瞬の沈黙。


「ラヒナーだろ」


 名が出た瞬間、空気が凍りついた。


「……お二方の間に、何かあったのですか?」


 アルキンドラネスの問いに、バライバは答えない。

 ただ、忌々しげに視線を逸らした。


「知りゃせんよ。あのジジイが何考えてるかなんて」


 低く吐き捨てる。


「ただ……アイツは元々、本部の人間だ。問題を起こしてヤイロダに飛ばされたが、影響力だけは未だに残ってやがる」


 それだけで、十分だった。


 フェイルツィーオは確信する。

 ――嫌な点と点が、繋がり始めている。


「……過去にも、問題行動が?」

「ガキに手ェ出す趣味があってね」


 バライバは、笑わなかった。


「才能ある子どもを守るために、アタシがどれだけ汚れ役を被ったと思ってんだい」


 そして、一拍。


「……だから言ってるだろ。あの坊やに、何かあったら――ただじゃ済まさないよ」


 その言葉に、二人は顔を見合わせる。


「会議は中止だ」


 バライバは踵を返し、短く言い放った。


「行ってきな。エフィム会長を連れ戻してきな」


 命令だった。


「……承知しました」


 二人は同時に頷き、駆け出した。


 ***


 聞き込みは、難航した。


 すれ違う会員に問いかけても、皆一様に首を振るばかりだ。

 会長クラスの人間が忽然と消える――それ自体が異常だった。


「……これは、本当にまずい」


 フェイルツィーオが、息を吐く。

 その時だった。


 ――ばさり、と紙の落ちる音。

 視線を向けると、床に書類を散らばらせた少女がいた。

 制服からして、魔術師育成学校の生徒だろう。


「あ……すみません……」


 書類を拾い集めながら、彼女はぽつりと呟いた。


「そういえば……お昼頃、支部長さんと、エフィム君が何か話してるのを見ましたわ。会食、とか……」

「――今、何と?」


 アルキンドラネスの声が、裏返った。


「ヤイロダ支部の……もしや、ラヒナー支部長ですか?」

「え、ええ……?」


 少女は戸惑った様子で頷き、慌ててその場を去っていった。


 残された二人の間に、沈黙が落ちる。


「……ヤイロダ支部」


 アルキンドラネスの顔から、血の気が引いた。


「まずい……非常にまずい」


 最悪の想定が、現実味を帯びて迫ってくる。


「フェイルツィーオ殿」


 低く、決意を込めた声。


「――急ぎましょう。今の会長は、間違いなく危険な場所にいる」


8


 エフィムに向けられる視線は、祝意ではない。

 無数の針のようなそれが、皮膚を突き刺す。


 目を逸らす者。興味を隠さず値踏みする者。そして、ごく稀に浮かぶ、意味の分からない微笑。


 どれも同じだ。

 彼はここでは「人」ではなく、“扱われる存在”として見られている。


 誰かが何か言いかけた。

 次の瞬間、隣の会員がさりげなく肩に触れ、制する。

 言葉は飲み込まれ、視線だけが残る。


 沈黙。

 それこそが、この場の規律だった。


 ――魔術師育成協会ヤイロダ支部。

 地方支部でありながら、本部に匹敵する権力と財力を持つ場所。


 だが、それは外向きの顔にすぎない。

 ここでは、支部長ラヒナーの意向が法であり、正義だった。


 内装は奇妙なほど簡素だ。

 装飾らしい装飾はなく、冷たい色調と直線的な構造が空間を支配している。

 質素というより、感情を排した造りとでもいうか。

 ここでは華美よりも、従属のほうが重んじられる。


「エフィム会長、こちらへ」


 黒服の男の声に抑揚はない。

 命令でも案内でもなく、ただ“当然の手順”を告げるだけ。


 エフィムは黙って従った。

 足音が廊下に吸い込まれていくたび、逃げ道が一つずつ塞がれていく気がした。


 最奥へ続く道は、異様なほど長い。

 壁も床も変わらない。曲がり角すら少ない。

 時間の感覚が曖昧になり、目的地より先に、意志が摩耗していく。


 部屋の前で、ほんの一瞬だけ足が止まった。

 だが、それすら許さないように、背後から圧がかかる。


 進め。

 ここで立ち止まる権利はない。


「……僭越ながら、ひとつご忠告を」


 低く、抑えた声。

 黒服の男は視線を前に向けたまま、言葉を選ぶ。


「ラヒナー支部長は……お気に召した相手には独特のおもてなしをなさることがございます」


 それ以上は語られなかった。

 だが、十分だった。


 エフィムの胸の奥が、冷たく締め付けられる。

 理解してしまったが、理解していないふりをするしかない。


 彼は曖昧な笑みを作り、歩を進めた。

 この建物では、それが唯一の防御だった。


 奥へ進むほど、建物の空気は別物に変わっていく。

 煌びやかな装飾は一切なく、落ち着いた色調の壁と簡素な絨毯が延々と続く廊下。

 静かすぎる――その事実が、かえって神経を削った。


 音がないわけではない。足音も、衣擦れもある。

 だが、それらすべてが抑え込まれ、この場所に相応しい形に矯正されている。


「こちらへ」


 黒服の男が扉を開く。

 中に足を踏み入れた瞬間、エフィムは息を詰めた。


 室内は広い。だが、余白が多すぎた。

 控えめな調度品が一定の距離を保って配置され、どれも実用性以上の意味を感じさせない。

 豪奢さを避けた結果、ここは人を招く部屋ではなく、“従わせる”部屋になっている。


 ――そして、その中心。


 一段高く据えられた仰々しい椅子。そこに、ラヒナー支部長は座っていた。


 姿勢は緩やかで、威圧する素振りもない。

 それでも、その存在だけで視線は拘束される。


 冷たい微笑。

 計算された優雅さと、隠しきれていない歪んだ執着。


「ようこそ、エフィム君。待っていたよ」


 声音は穏やかだ。だが、その視線は一切和らがない。

 まるで値踏みするように、頭の先から足先までをなぞってくる。


「忙しい中、よく来てくれた。感謝しているよ。さあ、こちらへ」


 差し出される手は丁寧で、礼を失してはいない。

 だからこそ、拒む理由が存在しない。

 エフィムは導かれるまま席に着いた。


 ここは安全な場所ではない。

 だが、逃げ道は最初から用意されていない。


 この場に集められた者たちは皆、それを理解している。

 それでも口を噤み、視線を伏せ、ラヒナーの意向を待っている。


 ――沈黙は了承を意味し、反論は存在しない。


「さて……」


 ラヒナーが静かに手を叩く。

 その一挙動で、室内の空気が完全に支配された。


「お待たせしたね。今宵の会食を始めよう」


 その声を合図に、給仕たちが音もなく動き出す。


「エフィム君も、どうぞ気楽に。今夜は特別な料理が揃っている」


 にこやかな笑み。

 だが、その言葉は歓迎ではなかった。


 これはもてなしではない。始まりの宣告だ。


 9


 アルキンドラネスの運転する車は、静かなエンジン音だけを残して高速道路へ滑り出した。

 夕焼けの残光がフロントガラスに赤くにじむ。


「……ラヒナー支部長と会食」


 アルキンドラネスは短く言い、視線を前方の信号機に固定したまま眉をひそめた。


「しかし……どうにも生徒達は口止めされていたようです」

「会食そのものは珍しくありませんが……」

「問題は“その後”です」


 フェイルツィーオは遠くを見つめながら、深く息を吐いた。


「エフィム会長の足取りはその場を最後に途絶えています。ラヒナー支部長にも連絡が繋がらない。……偶然とは思えません」

「あの男に、会長を手にかける理由があると?」

「理由が“あるように見せかけたい”誰かがいても不思議ではありません」


 アルキンドラネスはその言葉に反応し、わずかに肩を揺らした。


「……なるほど。とにかく急がなくては」


 車内に沈黙が落ちる。

 しかし、それは決して安らぎではなく、何かの前触れのように重い。


「とにかく、ヤイロダで“痕跡”を拾うしかありませんね」


 フェイルツィーオがそう締めくくり、アルキンドラネスがアクセルを踏み込んだ。


10


「ところでエフィム君。会長に就任してから、もう半年になるそうだね」


 ラヒナーはグラスを指先で軽く揺らした。葡萄色の液体が、静かに縁をなぞる。

 その視線が、自然な流れでエフィムを捉える。


「仕事の方は、どうかね」

「……お陰様で。何とか、務めさせていただいております」


 答えながら、エフィムはグラスに手を伸ばした。

 躊躇は一瞬だけだった。飲まないという選択肢が、最初から存在しないことは分かっている。


「そうか、そうか。君は優秀だと聞いているよ」


 朗らかな声色。

 だが、その言葉は逃げ道を塞ぐように、静かに積み重ねられていく。


「若いのに立派だ。皆、君に期待しておる。支部としても、誇らしい限りだ」

「……ありがとうございます」


 視線を外せない。

 外した瞬間に何かが終わる――理由は分からないまま、そう感じていた。


 給仕たちが静かに皿を下げ、また次の料理が置かれる。

 誰一人として、こちらを見ない。


「――ところで」


 ラヒナーの声が、ほんのわずかに低くなる。


 エフィムの手が止まった。


「先程、相談を受けた件だがね」


 その続きを、聞いてはいけない気がした。

 それでも、席を立つことは許されない。


「……は、はい」

「残念だが、どうにも難しいようだ」


 ラヒナーは肩をすくめ、困ったように笑った。


「わしの手には負えん。どうにもならない話だったよ」


 “どうにもならない”。

 その言葉が、やけに静かに胸へ落ちてきた。


「だから、この件は忘れてくれると助かる」


 世間話の延長のような口調だった。

 だが、エフィムの理解は、もうそこに追いついていた。


 ――最初から、解く気などなかったのだ。


「君の身体は、そのままだ」


 淡々と告げられる。


「これ以上、変わることはないだろう。……生涯、ね」


 誰も口を挟まない。

 誰も、助けない。


 それが、答えだった。


 ラヒナーの言葉は、刃のように胸へ届いた。

 呼吸が、わずかに乱れる。視界の端が白く滲み、それでも意識ははっきりしていた。


 不思議と、感情は一色ではない。

 沈み込む絶望の底に、わずかな静けさが混じっている。


 ――これが、あの人の望んだ結末に近いからなのか。

 エフィム自身にも、判断はつかなかった。


「……そう、ですか」


 俯いたまま、言葉だけが零れる。

 考えるほど、何も言えなくなる。沈んでいく感覚だけが、確かだった。


「だが、安心したまえ」


 ラヒナーは穏やかに笑い、声を和らげる。


「学者にも、魔術師団にも話は通そう。わしも出来る限り――」

「結構です」


 遮る声は、驚くほど落ち着いていた。

 自分の口から出たとは思えないほど、冷たい音だった。


 一瞬、ラヒナーの動きが止まる。

 だがすぐに、張り付けたような笑顔へと戻る。口元だけが、僅かに歪んでいた。


 幹部たちは沈黙し、給仕の手も止まる。

 誰一人、息をしていないかのようだった。


 エフィムは静かに立ち上がり、出口へ向かう。


「エフィム君、どこへ行くんだい」


 呼び止める声にも、足は止まらない。

 背中に刺さる視線が増えるのを感じながら、淡々と歩を進める。


「申し訳ありません。ここで失礼します。急用を思い出しましたので」


 振り返らない。

 これ以上、この場に意味はない。


「……まるで分かっていないな」


 苛立ちが、初めて声に滲んだ。


「君の首には、死神の刃がかかっている。ワシの一存で、いくらでも落とせるんだぞ」


 脅しは、事実だった。


「そうですか」


 エフィムは歩みを止め、ゆっくりと振り返る。


「――どうぞ、ご自由に」


 その視線は、もう怯えていない。


「会長という椅子に、未練はありませんので」


 ラヒナーの笑みが、完全に消えた。

 その時だった。


 乾いた音が、空気を裂いた。


 ラヒナーの指先から放たれたナイフが、一直線に飛ぶ。

 エフィムの頬を刃がかすめた。


 ちり、と灼けるような痛み。

 遅れて、温かいものが肌を伝う。


 ナイフは床に弾かれ、金属音を立てて転がった。


「――エフィム君」


 ラヒナーの声は、驚くほど静かだった。


「誰に向かって、その口を利いている」


 一拍。

 視線だけが、刺さる。


「君を推薦し、会長の椅子に座らせてやったのは誰だ。そのふてぶてしい態度……何様のつもりだ?」


 エフィムは答えない。ただ、真っ直ぐに見返した。

 瞳の奥には恐怖がある。張りつめた緊張も、確かにある。

 だが、顔は動かない。


 凍りついたような無表情。


 それが意図されたものか、それとも恐怖の先で感情が削れ落ちた結果なのか――エフィム自身、判別はつかなかった。


 だが、その“読めなさ”が逆に癇に障ったのか、ラヒナーの目が、細く鋭く光る。

 椅子が、音もなく引かれた。


 立ち上がり、一歩。


「……君達、母子のために」


 また更に一歩。


「このワシが、どれほど骨身を削ったと思っている」


 距離が、縮まる。


「それを……無碍にする気か?」


 声は低く、抑えられている。

 だからこそ、含まれた怒りがはっきりと伝わる。


 場の空気が張り詰め、誰も動けない。

 給仕も、幹部も、置物のように沈黙していた。


 エフィムは、逃げなかった。

 ここで崩れれば、すべてを奪われると、本能が告げていたから。


 その態度が――ラヒナーの神経を、決定的に逆撫でした。


 口元に浮かぶのは冷笑。

 だが瞳は冷たく、憎悪を孕み、見ただけで背筋が凍る。


「……何のことでしょうか」


 声は、わずかに震えた。

 それでも、言葉は手放さない。


「覚えがありません」


 一歩。

 また一歩。


 逃げ場は、とうに塞がれている。


「そうか」


 ラヒナーは笑わない。


「それは、それは……残念だ」


 そして、唐突に話題を変えた。


「では、エフィム君。君の父親の名を教えてくれ」


 その瞬間。

 ほんの僅か――エフィムの眉が、動いた。

 ラヒナーは、それを見逃さなかった。


「母君は一人で君を産んだそうだな。だが、愛人が何人も居たのでは――」


 言葉を選ばない。


「誰が本当の父親かなど、分からんだろう?」


 空気が、凍りつく。


 エフィムは無表情を保ったまま、ラヒナーを見据える。

 視線を逸らさない。


 その双眸に宿るのは、怒りではない。

 拒絶でもない。


 ――耐える力。


 ねっとりと絡みつくような執着を帯びた老人の視線が、逃げ場を探すように、エフィムを舐め回す。


 ラヒナーは、満足そうに微笑んだ。

 互いに目を逸らさない。

 言葉も、沈黙も、すべてが刃だった。


 二人はその場で、腹の底を探り合っていた。


「……なぜ、無関係のあなたが、わたしの家の事情を知っているのです?」


 低く、抑えた声だった。

 怒りが喉までせり上がっているのを、無理やり飲み込む。


「父は、わたしが生まれる前に亡くなりました。母はその後再婚し、今も遠くの街で――幸せに暮らしております」


 嘘を並べることで、心を守ろうとする。

 それが防壁になると、まだ信じていた。


「ほう……ほぉう?」


 ラヒナーは、舌の上で味わうように声を転がした。


「それは妙だなあ。君の母君は――」


 一拍。

 わざと間を置く。


「ワシの腕の中で、随分と——」


 ――言葉が、そこで止まる。


「……おっと、いかんな」


 くぐもった笑いが零れた。


「ふふ……失礼。つい、昔話が口をついて出てしまったわい」


 その目は、謝罪など欠片も映していない。

 事実を早口で隠すでもなく、ただ“分かっている”者の目だった。


「それで、エフィム君。本当のところはどうなんだい?」


 問う口調は穏やかだった。

 だからこそ、逃げ場がない。


 エフィムは、一瞬も視線を逸らさなかった。

 蔑むような眼差しを真正面から受け止め、言葉を選ぶ。


「……知りませんね。父親など、最初から居ませんから」


 声は冷静だった。だが、胸の奥で何かが軋む。


「そんなに――あの人が良かったのなら」


 言葉を吐き捨てる。


「あなたが結婚してやればよかったじゃないですか。きっと、喜んだでしょう」


 一瞬、空気が凍りついた。


「……では、わたしはこれで失礼します」


 知れたところで、何も変わらない。

 そう言い聞かせながら、エフィムは背を向けた。


 ――だが。

 次の瞬間、背後から伸びる影。ごつり、と骨を掴まれる感触。


「っ……!」


 ラヒナーの手が、エフィムの腕を捕らえていた。


 老人のそれではない。

 逃がさぬと決めた者の、現役の力だった。


 爪が食い込み、逃げ道を断つ。


「……話は、まだ終わっとらんよ」


 低く、確信に満ちた声。

 エフィムの身体は、その場に縫い止められていた。


「君は、おかしいとは思わないのかね」


 ラヒナーの声は、不思議なほど落ち着いていた。


「独り身で、定職にも就かない母親が――どうやって君を名門校に通わせ、幾つもの習い事をさせられたのか」


 淡々と、事実を並べる。


「金は、どこから出たと思う?――全て、ワシが出したのだよ」


 胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちる音がした。

 知りたくなかった。知る必要もなかった。

 裕福な生活など、望んだことは一度もない。

 ただ、普通でいたかった。それだけだったのに。


 叫びたい衝動を必死に押し殺し、エフィムは震える声で答える。


「……そう、でしたか」


 舌が重い。


「その節は、お世話になりました。感謝いたします。ですが――これ以上、あなたに関わる理由はありません。これで失礼しま……」


「まあ、待ちたまえ」


 遮る声に、温度はない。


「話は、ここからだ」


 掴まれた腕に力が込められ、逃れられないと悟る。


「君は、自分の出生について……本当に興味がないのかい?」


 一拍。


「なあ――“アンネローゼ”、ちゃん?」


 その名前が、空間を切り裂いた。

 呼ばれた瞬間、エフィムの思考が一瞬、停止する。


「本当はね」


 ラヒナーは囁くように続ける。


「君が産まれたら、ワシが引き取る手筈になっていたんだよ。だが……」


 口端が歪む。


「母君は、君を置いて失踪してしまった。契約は破棄。約束は反故。ワシは――」


 ぎらりとした眼差し。


「君を探して、あちこちを歩き回った。その結果が、この通りだ」


 老いた顔に浮かぶ笑みは、誇らしげですらあった。

 犠牲を払った者の正当化。


 ラヒナーは強引にエフィムの顔を覗き込み、その瞳を捕らえる。


 逃がさない。

 否定する余地も、沈黙する余地も与えない。


 その執着は、もはや理屈の域を越えている。

 言葉が、視線が、過去が――エフィムの心をじわじわと侵食していく。


 眩暈がする。だが、ここで崩れれば終わりだ。

 だから、エフィムは唇を噛み締めた。


 ――弱みを見せるわけには、いかない。


「……そうですか、それはどうも」


 エフィムは、わざと肩をすくめてみせた。


「わたしは母に捨てられ、あちこちを放浪する羽目になりました。叔父の家に預けられたかと思えば、ほどなく追い出され、孤児院暮らし。やっとの思いで魔術師育成協会に拾われたと思えば――この有様です」


 言葉は滑らかだった。

 だがそれは、防御のために練り上げた虚勢に過ぎない。


「散々な人生ですよ、もう」


 吐き捨てるように言ったその瞬間。


 ――ラヒナーが、笑った。

 唇の端をわずかに吊り上げただけの、いやらしい笑み。同情でも、驚きでもない。


 その笑みを見て、エフィムは悟る。

 やはり最初から、疑うべきだったのだ、と。


 優しさも、援助も、偶然も。

 すべてが意図されたもので、逃げ道のない檻だった。


 胸の奥で、冷たく沈んでいく。

 では、自分のこれまでの人生は何だったのか。


 精一杯、“女の子”のふりをしたことは?

 好きでもない服を着て、髪を整え、笑顔を作ったことは?


 ――母に、喜んでほしかったから。


 不得意な習い事に歯を食いしばって耐えたのも。

 叱られても、否定されても、泣くのを堪えたのも。


 ――嫌われたくなかったから。


 母の望む理想の「女の子」を演じ続けた日々。自分を削って、形を変えて、嘘を積み重ねて。


 それでも構わないと、思っていた。

 全ては、ただ一つ。


 ――愛して、ほしかったから。


 その感情に名前を与えてしまった瞬間、エフィムの中で、何かが決定的に壊れた。


 ラヒナーは、その沈黙を楽しむように見下ろしている。

 まるで――もう逃げ場はないと、確認するかのように。


「どうしたんだい、エフィム君。まだ会食は始まったばかりだよ」


 ラヒナーは愉快そうに両手を広げた。


「さあ、一緒に食事を楽しもうじゃないか。それとも」


 そこで、一拍。


「ふふふ。最初からベッドの方が良いかね」


 その一言が、決定的な引き金だった。

 エフィムの胸の奥で、怒りと悲しみと嫌悪が一気に噴き上がる。

 思考が焼き切れ、視界の縁が赤く染まった。


「――空よ、悠久を駆ける風よ!」


 叫びと共に、内側で縛られていた魔力が解き放たれる。

 圧縮された風が空間を震わせ、食卓の上のグラスが一斉に鳴動した。


「我が身、我が慟哭となりて――全てを切り裂――!」


 だが、詠唱は最後まで辿り着かなかった。


 一瞬。


 空気の流れを“見切った”としか思えない動きで、ラヒナーが踏み込む。

 枯れたはずの腕が、視認するより速く伸び、エフィムの首元を正確に捉えた。


「おやおや」


 軽い声だった。


「エフィム君、そんなに怒るなよ」


 指が締まり、足が床を離れる。

 首が圧迫され、詠唱の続きを吐き出す余地すら奪われる。


「君は、もっと冷静でいるべきだろう?」


 次の瞬間。


 視界が反転し、鈍い衝撃が全身を貫いた。

 背中から床に叩きつけられ、肺の空気が一気に吐き出される。


 がしゃん、と音を立てて何かが割れた。

 魔力の流れは完全に断ち切られ、残ったのは痛みと眩暈だけだった。


「っ……!」


 エフィムは咳き込みながら、必死に身を起こそうとする。

 喉が焼け、視界が滲む。それでも、歯を食いしばってラヒナーを睨みつけた。


 だが――その視線を受けて、ラヒナーは微笑んだ。


 叱責でも、怒りでもない。

 “出来の悪い子供を見下ろす”余裕の笑みだった。


「無駄だよ」


 そう告げる声には、一片の苛立ちすらない。


「君はね、エフィム君。最初から――ここで暴れる“自由”すら、持たされていないのさ」


 周囲の幹部も給仕も、誰一人として動かなかった。

 視線を逸らし、息を殺し、沈黙を守る。


 それこそが、この場の答えだった。

 エフィムは、床に伏したまま理解する。


 ――逃げ場はない。助けも来ない。

 そして、自分は最初から、この男の“所有物”だったのだと。


「さすがだね、エフィム君。その魔力は実に見事だ。だが――」


 その声音に、先ほどまでの好色さは一片も残っていなかった。

 目の前にいるのは、耄碌した老人などではない。

 権力と財力、そして血に濡れた実績を揃えた、現役の大魔術師だ。


 ラヒナーは微笑を崩さぬまま歩み寄ると、エフィムの髪を乱暴に掴み上げ、顔を無理やり引き寄せた。


「一つ、聞き忘れていたよ……」


 低く、ねっとりとした声。


「ダージ・レンドーを殺したのは――君かい?」


 皺だらけの口元には薄ら笑いが浮かんでいる。

 だが、その奥の瞳は、獲物の生死を量る冷酷な光を宿していた。

 先ほどまで漂っていた好色な空気は、完全に消え失せている。


「――げほっ……。そう、だと……言っ、たら……どうな、る」


 絞り出したその言葉に、老人は満足したように目を細め、ふっと手を離した。

 エフィムは床に崩れ落ち、両手をついて激しく咳き込む。


「ああ、実に悲しいよ、エフィム君。君は会長という立場にありながら――一人の人間を殺めた。それが、どういう意味を持つのか……本当に分かっているのかね」


 その言葉は叱責ではなく、祝詞にも似た呪詛として耳に残った。


 この老人の執着が何に由来するのかは分からない。

 だが、自分が“裁かれる側”に置かれた事実だけは、はっきりと理解できた。


 エフィムは一瞬だけ視線を伏せたが、すぐに歯を食いしばり、顔を上げた。


「答えろ! ダージ・レンドーを操り、ダワイカ市場を荒らしていたのは――お前か!」


 叫びに近い問いかけにも、ラヒナーは動じない。

 それどころか、まるで出来の良い生徒を褒めるかのように、感心した表情でエフィムを見つめ返した。


 その視線は、不気味なほどに全てを見透かしている。

 背筋を氷で撫でられたような寒気が走る。


 ――だが、ここで引き下がるわけにはいかなかった。


「それは違うさ、エフィム君。わしとあの子は――もう無関係だ」


 一拍置いてから、ラヒナーは肩をすくめる。


「裏で操っているのは『ロッソ』。……ああ、すまない。今のは聞かなかったことにしておくれ」


 まるで失言を恥じるような軽い口調だった。

 次の瞬間、ラヒナーはふいにしゃがみ込み、エフィムの顎先に指先を触れた。

 拒む間もなく、その指はゆっくりと顎をなぞり、首筋へと滑り落ちていく。


 ――ぞわり。


 愛撫にも似たその動きに、背筋を冷たいものが走る。

 喉元を撫でられるたび、呼吸の仕方さえ忘れそうになった。


 手つきはあくまで穏やかだ。

 だが、その奥に潜む殺意はあまりにも明白だった。


 冷えた手が喉を締め上げる直前で止まり、まるで“いつでも終わらせられる”と誇示するかのように、指先だけが優雅に動き続ける。


「どうしたんだね、エフィム君」


 囁くような声。


「さっきまでの威勢はどこへ行った? もっと抵抗してもいいんだよ。……ワシは一向に構わん」


 その言葉と共に、エフィムの内側に、はっきりとした恐怖が芽吹き始めた。


 ――一体、こいつは何を企んでいる。


 理解できない。

 だが、この男が抱く歪で粘つく欲望だけは、嫌というほど伝わってくる。嫌悪感が、胸の奥でどす黒く膨れ上がる。


 それでも――。

 ここで怯えを見せるわけにはいかなかった。


「うるさい! お前に何がわかる!」


 それが、エフィムにできる精一杯の抵抗だった。


 だが、その叫びは、老人の冷ややかな笑みにいとも容易く飲み込まれる。

 ラヒナーの指が首筋に触れ、ほんのわずかに力を込めた。

 その冷たさが、骨の髄まで染み込むように、重い恐怖となって刻み込まれる。


「君のその強がり、本当に可愛いね、エフィム君。でもね――そんな虚勢を張る必要はないんだよ」


 囁く声は、あまりにも穏やかだった。


「君はもう、ワシの掌の上にいる。無駄な抵抗は、ただ時間を浪費するだけさ……」


 薄ら笑いを浮かべたまま、指先がさらに首筋を撫でる。

 喉元を掠める冷たい感触に、凍てつくような感覚が走った。


 ――生殺与奪は、完全に相手の手中にある。

 そう告げられているのも同然だった。


「君が何を言おうと、どう足掻こうと、結末は決まっているんだ。だから、せめて良い子で大人しくしてくれたまえ」


 一瞬、楽しげに目を細める。


「何せ、これからもっと――楽しい時間が待っているんだからね」


 そう言うや否や、ラヒナーはエフィムを軽々と抱え上げ、出口へと歩き出した。

 その瞳に宿る冷酷な光は、エフィムの抵抗を、最初から最後まで“戯れ”としか見なしていなかった。


 11


 よくもまあ、協会の中にこんな部屋を拵えたものだと、感心するしかなかった。


 そこは、住居とも執務室ともつかない、異様に私的な空間だった。

 自らの権力を誇示するかのような豪奢な内装。天蓋つきのダブルベッドに、小ぶりなソファとテーブル。

 どれもが不自然なほど整えられている。


 ラヒナーは、まるで荷物でも扱うかのように、エフィムをベッドへと放り投げた。


「……っ」


 短い呻きが漏れる。

 柔らかな寝具の上を転がり、エフィムは体勢を立て直そうともがいた。


「この部屋はね、君が来るのをずっと待っていたんだよ」


 低く、くぐもった声が響く。


「協会の中に、こんな場所があるなんて、誰も想像しないだろう? ここは、わしの秘密の部屋だ。――君のために、特別に用意しておいた」


 囁くようなその言葉に、エフィムの胸はじわじわと締め付けられていく。

 恐怖、嫌悪、そして言葉にできない屈辱。

 感情が絡まり合い、呼吸が浅くなる。


 それでも、押し潰されるわけにはいかなかった。


 ラヒナーは、その様子を眺めながら満足げに口角を吊り上げ、再びエフィムのそばへと歩み寄る。

 そして、まるで扱い慣れた玩具でも撫でるように、彼をそっとベッドへと押し戻した。


 顔にかかった髪を、指先で丁寧に払う。


「君がどんなに泣いて、抵抗しても……わしからは一生逃げられない」


 耳元で、吐息混じりに囁く。


「それに――君自身も、心の底では分かっているはずだ。本当は、こうなることを望んでいたんだろう?」


 顎を掴まれ、無理やり視線を合わせられる。


「……違う」


 絞り出すような否定。

 だが、その表情に宿るのは、確かに揺らぎだった。


 ラヒナーは、その反応を見逃さない。むしろ、それを愉しむかのように、声を弾ませる。


「そうかい? でもね、君の無意識はきっと、わしに抱かれたがっている」


 指先が、輪郭をなぞる。


「ああ……こういう時こそ、子供らしく振る舞えばいい。甘えん坊の君の望み通りに、全部叶えてあげようじゃないか」


 距離は、もうほとんどない。

 相手の息遣いに、はっきりとした興奮の熱が混じっているのが分かる。


 このまま、唇を奪われる――そう思った瞬間、エフィムの脳裏に、なぜかヴォルーツォの姿がよぎった。


「……止めろって言っ、んぅ!」


 エフィムが言い終わる間もなく、ラヒナーの行動はエスカレートしていった。

 抵抗しようにも組み敷かれている上、顎を掴まれた状態ではどうすることも出来ず、ただされるがままだ。

 

「どうだいエフィム君、これが大人のキスだよ。お味はどうだい、君にはまだ早かったかな?」


 エフィムは口元を拭きながら起き上がり、キッとラヒナーを睨みつけた。

 その瞳には憎しみと屈辱が入り交じり、今にも泣き出しそうだ。


「……止めろ、わたしは男だぞ! 男なんだぞ!! 男同士で、こんなこと……世間が――」

「世間、ね」


 ラヒナーは低く笑った。


「君はまだ“外”の話をしているのか。可哀想に……もう、ここがどこだか分かっていないらしい」


 指が顎から喉元へ移り、言葉の続きを許さない程度の力で押さえつける。


「世間はね、エフィム君。――ここには、来ない」

「……っつ!」

「誰も入らない。誰にも聞こえない。記録も残らない。君が今からどんな声で喘ごうと、どんな顔をして泣こうと……」


 ラヒナーは顔を近づけ、囁く。


「それを“世間”は、知らない」


 エフィムの喉が鳴った。否定したいのに、言葉が形にならない。


「男だと言ったね。ふむ……確かに、その身体はそうだ」


 ラヒナーは一呼吸、わざとらしい沈黙を挟んだ。


「だが――君は“男として扱われた”ことが、今まで一度でもあったかい?」


 その一言で、エフィムの表情がはっきりと揺らいだ。


「女物の服を着せられ、化粧を施され、髪を伸ばされ……。君自身が一番よく分かっているはずだ。周囲の視線、口調、期待の色。――ずっと、そういう“前提”で見られてきた。違うかい?」


 エフィムの瞳が泳ぐ。否定の言葉を探そうとして、唇だけが微かに震えた。


 ラヒナーは、その沈黙を是とするように鼻を鳴らし、指先で頬をなぞる。


「……いいんだよ」


 耳朶にかかるほど近くで、甘く囁く。


「そんなに無理をしなくても。君は“大人の男”という像に、少し囚われすぎている」


 低く、諭すような声。


「“男とはこうあるべき”“男はこうしてはいけない”……。それは形だけの規則だ。君自身を守るには、あまりに脆い」


 囁きは、刃の角度を変えて突き刺さる。


「それとも――“男”という言葉を盾にして、本当の気持ちから逃げていただけかな? 自分自身に嘘をつくことを、自己防衛だと思い込んで」


 エフィムの胸が、強く脈打った。

 避け続けてきた思考が、一気に引きずり出される。


 自分は、“男であること”に固執することで、何かを押し殺してきたのではないか――その疑念が、鮮明な輪郭を伴って迫ってくる。


「君はスカートが嫌いだったかい?」


 何気ない調子で、決定打が落とされる。


「本当に嫌々だった? それとも……わしの前で踊ってくれた、あの時の笑顔は嘘だったのかな」


 息が、詰まる。


「良いんだよ。男の子が髪を伸ばして、スカートを履いたって。誰にも迷惑はかからない。君は、君のままでいい」


 ――そうだ。

 呪いは、かけられたのではない。

 母の期待を裏切らないために、自分で自分にかけ続けていたのだ。


 嫌だったわけじゃない。悲しませたくなかっただけ。

 だから理由を作って、納得したふりをして、何度も自分を誤魔化した。


 本当は、スカートも、リボンも、フリルも、ぬいぐるみも好きだった。

 鏡の前で好きな服を身につけた時、胸の奥が弾む感覚を、確かに覚えている。


 ――だが、それを許さない視線があった。


 “男のくせに”。そう囁く声が、常に背後にあった。


 母が失踪したあの日。

 悲しみと同時に、胸の奥で安堵が芽生えたことを、エフィムは思い出す。


 これで、みんなと同じになれる。

 ……本当に、そうだったのか。


 結局自分は、“誰かと同じ”であることを欲していただけだった。

 心に嘘をついたまま、“安心”を選び続けてきただけだったのだ。


 それを――今、この老人に暴かれている。

 理解した瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れ落ちた。


 涙が、止めどなく溢れ出す。

 考える前に、感情が剥がれ落ちていた。

 ラヒナーは、その様子を満足そうに眺め、ゆっくりと腕を回す。


「辛かったね」


 囁きは、驚くほど優しい。


「でも、もう大丈夫だ。ワシの側にいればいい。何も考えなくていい。何も選ばなくていい」


 それは、あまりにも甘い言葉だった。

 エフィムが、ずっと欲しかった“肯定”そのものだからだ。

 ただ、受け入れてほしかっただけ。

 条件も役割もなく。


 ラヒナーの声は慈愛に満ちていて、その腕の中で、エフィムの抵抗は静かに溶けていった。


 ――疑う力さえ、もう残ってはいなかった。


12


 その頃、魔術師育成協会本部は、まるで火のついた煙突のように騒がしくなっていた。


 “エフィム会長が宇宙人に拉致られたらしい”


 最初にその噂を流したのは、協会でも指折りの暇人として知られる中年会員だった。


 本人としては、くだらない冗談のつもりだったのだが──。


 その噂は、乾いた薪に火がつくように瞬く間に広がり、

 今や本部には問い合わせが殺到していた。


「会長はどこにいるんですか!?」

「宇宙船が本部に来たって本当ですか!?」

「もう地球にいないって噂が──」


 くだらないはずの噂が、“本人が本部にも学校にもいない”という事実と重なってしまったせいで、妙な説得力を持ってしまったのだ。


 受付はパニック。広報部は阿鼻叫喚。

 対応に追われる魔術師たちの悲鳴が廊下に慌ただしく響く。


 そして、混乱に輪をかけるように――更なる悪い報せが本部に届こうとしていた。


 13


 ――コン、ココン、コン。

 杖の先が大理石の床を叩く乾いた音が、ざわつくロビーに不自然なほどよく響いた。


 現れたのは、八十を優に超えたと思われる男。

 高級ブランド『レイオ・マッゾォ』のスーツを完璧に着こなしたその姿は、老いよりも金と権力の匂いを強烈に放っていた。優雅でありながら、近寄り難い圧がある。


 その男――カミハナ=ロッソは、幹部専用の西棟のゲートを警備員と受付を無視して通り抜け、一直線にカウンターへ向かう。


 新人の女性スタッフは慌てて頭を下げたが、カミハナは彼女らに目もくれず、低く、鋭い声で言い放った。


「エフィム=ゾーラは居るか」


 受付の女性は一瞬すくんだが、すぐに表情を整える。


「た、ただいまお繋ぎいたします……」


 だが心の中では分かっていた。

 ――どうせ出ない、と。


 形式的にエフィムの番号へかけるが、受話器から返ってくるのは虚しい呼び出し音だけ。


 カミハナはその様子を、淡々と眺めていた。

 やがて懐から銀色のシガーケースを取り出し、葉巻を一本抜き、火をつける。


「無駄だ。あの小僧がここにいないことくらい、承知している」


 煙がゆっくりと空気を重く染めた。


「だが、“確認しに来た” のは確かだ。それと、上に伝えろ――カミハナ=ロッソが来たとな」


 その瞬間、受付の空気が凍った。

 協会最大級の出資者。幹部も逆らえない存在。


「す、すぐに……!」


 女性が震える声で答えたその時だった。


 ――バシャァンッ!!

 廊下で派手な音が響き、鉢植えが倒れ、観葉植物の葉が飛び散った。


「いったぁ〜いッ! 僕、足折れちゃったぁぁ! 立てなぁい♡」


 甘い悲鳴を上げ、倒れた拍子に通りがかった女性職員の足へしがみつく男。

 ヴォルーツォである。

 空気を読まないという才能だけなら、右に出る者はいない。


 カミハナはわずかに視線を向けただけで、表情を一切変えず言った。


「……そこにいるのは、“弟” か“兄” か」


「ん〜?やだなぁ。弟が協会に居たら大スキャンダルでしょ〜? 僕はおにいちゃんの方だよ♡」


 にへら、と笑うヴォルーツォ。

 その答えを聞き、カミハナは紫煙を鼻からゆっくりと吐き出した。沈黙が重く落ちる。


「寝ちゃった? ねぇ〜? お〜い?」


 間の悪い声が鳴った瞬間、ヴォルーツォの尻ポケットで着信音が大音量で鳴り響いた。


「はぁい、どちらさま〜?」


 いつもの調子で出るが、聞こえてきた声に表情が変わる。


『――ヴォルーツォさん、緊急です。ヤイロダまで来ていただけませんか』


 フェイルツィーオだった。


「ん、フェイルくん? ヤイロダぁ? ここから何時間あると思ってるのさぁ? 僕だってそんな暇じゃ――」

『……エフィム会長が攫われた可能性があります』


 その一言で、ヴォルーツォの顔からヘラついた笑みがすっと消えた。


 退屈は嫌いだ。面倒ごとも嫌いだ。

 でも――嫌な予感は、もっと嫌いだ。


「ふぅん……君がそこまで焦るなんて珍しいね。いいよ。行くよ。ただしお代は身体で払ってね? ……なーんて」


 電話を切ると、ヴォルーツォは立ち上がり、カミハナへ歩み寄る。


「ねぇ、カミハナくん。君たちが何考えてるか知らないけど、あまり褒められた交友関係じゃないよぉ? お友達は選ばなきゃねぇ」


 相変わらずの気怠げな声。

 だが、瞳の奥はまったく笑っていなかった。

 カミハナは葉巻を味わいながら静かに答えた。


「……ヴォルーツォ。貴様こそ、協会をどうするつもりだ」

「さぁ? やだなぁ、僕はただの一般会員だよ? 買い被りすぎじゃなぁい?」


 天使の如く無垢な微笑み。そして対照的な悪魔の目。

 この男は底が見えない。カミハナはそう確信した。


「……また来る。エフィム=ゾーラがいる時にな」


 しかしその約束は、決して果たされなかった。


 ――事態は、その時点で、もはや“手遅れ”になりつつあったからだ。


 13


「ほう……それでヤイロダまでわざわざ足を運ばれた、と」


 ヤイロダ支部の上層部に座る男は、来訪者の二人――フェイルツィーオとアルキンドラネスを、半笑いのまま見下ろした。

 アポなし訪問を不快に思っているのが、態度の端々からにじみ出ている。


「いやいや、こちらこそ無礼を。申し訳ない……申し訳ない……」


 芝居がかった謝罪に、フェイルツィーオはにこやかに微笑み返した。


「突然押しかけてしまい恐縮です。ですが会長の行方が分からず、こちらへ伺うよう言われまして」


 本題に入ろうとした瞬間、男が遮る。


「まぁまぁ、ここでは落ち着きませんし。応接間で話しましょう」


 案内された部屋は、支部らしからぬ豪奢さだった。

 豪奢な調度品、場違いな金色の壁飾り。

 “支部長の私物”――そんな空気がぷんと漂う。


「さて、エフィム会長の件ですが――」


 フェイルツィーオが切り出すと、男はゆったりと腰を下ろし、さも無関心といった態度で答えた。


「ええ、エフィム会長……あのお方は、まだこちらへは来ておりませんよ」


 その瞬間、フェイルツィーオの左眼が一瞬だけ光る。

 だが表情はすぐに柔らかさを取り戻す。


「そうですか……おかしいですね。ここへ向かったと聞いたのですが。道中で何かあったのでしょうか?」

「ふむ……」


 男はカップを持った手を揺らし、芝居がかった思案顔を作る。


「まぁ、若い方というものは、大人の予測を軽く裏切るものですからな。会長殿も、例外ではないのでしょう」


 その余裕に、アルキンドラネスは内心で舌打ちした。

 ――嘘をつき慣れている顔だ。こちらを舐め腐っている。


 だがフェイルツィーオは笑みを浮かべたまま、別の話題を差し込む。


「ところで……最近、協会は随分と“風通しが良く”なったそうで」

「……ほう?」

「こちらを、どうぞ」


 フェイルツィーオが端末を差し出す。

 映し出された映像に、男の顔が凍りついた。


 ――真昼の西棟裏口。

 白昼堂々、エフィムを従え、周囲を警戒しながら出ていくラヒナーの姿。


「な……ッ!」


 男の顔色がみるみる蒼白になり、汗が一気に噴き出す。

 フェイルツィーオの表情は変わらない。

 むしろ微笑んだまま、声だけが低く沈む。


「ご説明を願いします。エフィム会長を――どこへ隠しているのです?」


 淡々とした声が、部屋の温度を確実に下げる。

 アルキンドラネスも一歩前へ踏み出し、獲物を睨む獣のような気配を漂わせた。


「い、いや……し、知らん! 私は何も――!」

「そうですか。では――」


 フェイルツィーオは冷ややかに続ける。


「これより、ヤイロダ支部の内部を、全て調べさせていただきます」

「ぬ、ぬぬぬっ! だ、誰か! 外にいる者は聞こえているだろう! そいつらを取り押さえ――」


 しかし、廊下は静まり返ったままだった。

 本来なら扉の向こうで待機しているはずの護衛たちの気配が、一切ない。


「な、なぜだ……!? おい、返事を――ひっ……!」


 支部長の声が裏返った、その瞬間。


「ちょっとごめ〜ん♡ お邪魔しちゃうぞ⭐︎」


 ねっとり甘ったるい声とともに、扉がゆっくりと開いた。

 そこに立っていたのは、棒つき飴を咥えたヴォルーツォ。


 彼はいつも通り、だらけた足取りで入ってきた。

 だがフェイルツィーオとアルキンドラネスは、一瞬で気づく。


 ――廊下から漂う、血の残り香。物音がしない静寂。


「いやぁ、遅くなっちゃってさぁ〜。電車ぎゅうぎゅうで〜。でもまぁ、僕って少しくらい遅れて来るのが似合うよねぇ?」


 彼は何も気にせず部屋に入り、空気を乱すように笑った。


 フェイルツィーオとアルキンドラネスの緊張。ヤイロダ支部の恐慌。

 そのどれとも無関係に、ヴォルーツォだけが楽しげだ。


 ――“結果”だけを携えて、災厄は遅れてやってくる。


 14


 ふわふわの羽布団。糊の利いたシーツは冷たく、肌に張りつくようだった。

 枕からは、どこか高価そうな香水の匂いが微かに漂う。


 ――どれほどの時間、眠っていたのか。


 身体中が鉛のように重く、動かすだけで軋む痛みが走る。

 ゆっくりと意識を引き上げようとしたとき、ぼんやりとした映像が脳裏に浮かんだ。


 エフィムは記憶を探ろうとする。

 その刹那、ズキン、と鋭い痛みがこめかみを突き刺した。


「……ッぅ、ぁ、あ……い、た……い……!!」


 反射的に頭を抱え込む。

 すると、手首に何か硬いものが触れた。


 ジャラリ。金属どうしが擦れる音。


「……え……なに……これ」


 片手をそろそろと持ち上げると、薄暗い部屋の中で鈍い光を反射していた。

 それは、太い鎖と繋がった拘束具。それが両手に、しっかりと嵌められていた。


 心臓が、喉にせり上がる。


『どうして。いつ。誰が――』


 数時間前の記憶を引っ張り出そうとするたび、

 脳内を焼き切るような激痛が走り、思考を強制的に遮られる。

 エフィムは涙目で顔をしかめ、もう記憶を追うのをやめた。


 ――コン、コン。


 不意に、扉がノックされた。

 続けて、ガチャリ、と重い鍵の外れる音。

 エフィムの全身がびくりと震える。

 息を止めたまま、天蓋の布越しに入口を見つめた。


 ゆっくりと開いた扉の向こうから、影がひとつ。


 足音は静かだ。

 まるで、この部屋の空気を乱さないように歩くかのように。


 天蓋越しでも分かる、その太く短いシルエット。

 その人物は、ためらう様子など一切なくベッド脇まで近づく。

 腰を屈め、布の向こうからエフィムを覗き込んだ。


 呼吸の音が、異様に近い。心臓が跳ね上がる。

 だが、顔はまだ見えない。

 けれど――その“気配”だけで、逃げ場がないことを悟っていた。


「どうだい、エフィム君。お昼を持ってきたよ」


 低く、乾いた声。

 それは――紛れもなく、ラヒナーの声だった。


「おや、やはり起きていたか」


 天蓋の隙間から、ぬるりと顔が覗く。


 老獪で、自信に満ち、どこか歪んだ光を宿した瞳。

 ラヒナーは満足そうにエフィムを見下ろし、ベッド脇へ椅子を引き寄せると、ゆっくり腰を下ろした。

 その姿を見た瞬間、エフィムは悟ってしまう。


 ――これは夢ではなく、逃げ場のない現実なのだ、と。


 頭が真っ白になりながらも、口をついて出た言葉は。


「……なんで、ここに」


 自分でも情けなくなるほどの、気の抜けた問いだった。


「ん~~? おやおや。ワシとの甘い時間を忘れてしまったとは……いけない子だねぇ」


 ラヒナーの穢らわしい指が、赤子をあやす仕草をなぞるように頬へ伸び、やがて首筋に咲いた幾重もの鬱血痕を撫で下ろす。


 指先の温度が、逃げ場を塞ぐように生々しく、皮膚に張りついたまま離れなかった。


「これからワシとエフィム君だけの、濃密な日々が始まるというのに。そんなにつれなくされると……寂しいじゃないか」


 背筋に冷たいものが走り、エフィムは反射的に天蓋布を掴んで身を縮める。


 素肌に触れる布の冷たさと、シーツの感触。

 手首の鎖がジャラリ、と鳴る。恐怖は、目に見える形となってすぐそばにあった。


「なんで、こんな事……ここはどこ」

「君の“新しいお家”さ」


 即答だった。迷いの欠片もない声。


「いや、言い方が悪かったね。今日から――君がワシと過ごすための空間、だ」


 あまりにも優しい調子。

 だからこそ、恐怖が際立つ。

 エフィムは震える拳を握りしめ、言葉を絞り出した。


「意味が分からない。どういうつもりか説明しろ!! これは……これは、監禁ではないのか!」

「監禁、か」


 ラヒナーは喉の奥でククと小さく笑い、肩をすくめる。


「君がどれだけ叫んでも、助けを求めても――ここでは何の意味もない。ヤイロダ支部でも最もセキュリティが高く、防音性に優れた部屋だからね」


 そして、慈愛にも似た声音で告げる。


「安心しなさい。君のことは、生涯ちゃんと大切に……飼ってあげるから」


 その言い方は、まるでペットを扱うようだった。


「さぁ、まずは腹ごしらえといこうか、エフィム君」


 ラヒナーが持ち込んだトレーの上には、色鮮やかな料理が整然と並んでいた。

 焼きたてのクロワッサン。湯気を立てるスープ。瑞々しいサラダ。宝石めいた果物と、磨き上げられた銀のカトラリーが、照明を受けて静かに光る。


「ふふ……どうだい。美味しそうだろう」


 ラヒナーはスプーンを取り、ゆっくりとスープを掬った。

 黄金色の液体が揺れ、艶やかに光を返す。

 そのまま、何のためらいもなくエフィムの口元へ運ばれた。


「ほら、あーん。――ちゃんと食べて、元気を出してもらわないとね。……どうした? 食べたくないのかな」


 食べたくないわけではない。

 昼から何も口にしておらず、空腹は確かにある。

 それでも、喉が拒んだ。胃の奥が、きしむように冷えていく。


「食べないと痩せてしまうよ。それに、毛艶も悪くなる。君には、綺麗なままでいてもらわなくてはならない。何故なら――」

「……何故、なら……?」


 不安と恐怖が胸の内で膨れ上がり、その先を聞きたくなかった。


「ワシが“飽き”ないために、だよ」


 言葉は、あまりにもあっさりと落とされた。


「飼い主が飽きてしまえば、ペットなんてものは捨てられる。だからこそ君は、ワシに媚び、尽くし、美しく在り続ける必要がある」


 エフィムの頬が、わずかに引き攣る。

 その変化を味わうように、ラヒナーの口角が、ねっとりと吊り上がった。


「ふふ……その怯えた顔。実に、美しいな」


 そう言いながら、今度は小さくちぎったクロワッサンを、口元へ差し出す。

 だがエフィムは、震えながら、ほんのわずかに首を横に振った。


「……どうしてだい。何故、口にしない? さっきの言葉は嘘じゃない。ほら……」


 ラヒナーはクロワッサンをトレーに戻すと、上着の懐から一枚の書類を取り出した。


「忘れたとは言わせないよ、エフィム君。ここにサインした以上、契約は成立している」


 内容なんて、今さら読まなくとも大体は想像がつく。

 それでも目を逸らせなかったのは、自分がどれほど浅はかだったかを、否応なく突きつけられるからだ。

 恥と後悔が、遅れて喉の奥に絡みついた。


「これが、君の選択した結果だよ」


 ラヒナーは穏やかに、しかし逃げ道を塞ぐように言った。


「――だから、この状況も含めて、すべて受け入れるしかないんだ」


 反論の余地はない。

 正論の形をしていながら、そこには一切の道理がない。

 だがそれを言葉にするだけの力は、もう残っていなかった。


 ラヒナーは書類を懐に戻すと、説明は終わったと言わんばかりに、再びスープのスプーンを手に取る。


「さあ。もう一度、口を開けなさい」


 震える唇に、無機質な金属が触れた。

 恐怖と空腹、理性と本能が、胸の内で激しくせめぎ合う。

 そして――ほんのわずかに、口が開いた。


 その隙に、スープが捩じ込まれる。

 温かく、やさしい味。

 だからこそ、それがひどく恐ろしかった。


「ふふ……いい子だ」


 微笑みとともに落ちたその一言で、胸の奥がきゅっと締め付けられる。

 苦しさなのか、安堵なのか、自分でも分からない。


「これからも、ずっと一緒だよ。ワシだけの、可愛い子」


 鎖が擦れる冷めた音。

 そして、スプーンが皿に戻る、乾いた小さな音。

 それだけが、部屋の静寂を満たしていた。


 15


「――おっと、失敬」


 声と同時に、アルキンドラネスの姿がふっと消えた。

 横合いから突っ込んできた男の軌道を、紙一重で外す。


 次の瞬間、その足元が静かに払われていた。

 男は自分が倒されたことすら理解できないまま、前方の職員へ突っ込む。


 衝突。悲鳴。

 連鎖するように、数人が巻き込まれて床に崩れた。

 一連の動きに、無駄は一切ない。


「……まったく、キリがありませんね」


 フェイルツィーオが肩をすくめる。

 視線の先では、ヤイロダの連中が次から次へと押し寄せてくる。まるで巣を荒らされた蜂だ。


「どうやら――エフィム会長は、この奥にいると見てよさそうですね」


 ヤイロダ支部。閉鎖的で、古びた組織。

 情実で固められた人員は、命令ひとつで同じ方向へ雪崩れる。

 善悪の判断すら、上に預けている。

 だからこそ――これだけの数が、躊躇いもなく敵に回る。


「……とはいえ、時間が惜しい」


 アルキンドラネスは一歩踏み出し、ゆっくりと腰を落とす。

 空気が、わずかに張り詰めた。


「少々、手荒くいきますか」

「その必要はないよ」


 ぱち……ぱち……と、乾いた拍手が場違いに響いた。


 振り返る。


 廊下の奥――影がひとつ、ゆっくりと近づいてくる。


 でっぷりと肥えた腹。張り付いたような笑み。

 だが、その足取りに淀みはない。


 まるで、この場すべてを自分のものだとでも言うように。


「よくもまあ、ワシの大事な部下達を痛めつけてくれたね」


 ラヒナーの声が落ちる。


 その瞬間、ヤイロダの連中が一斉に道を開けた。

 左右へと割れる人の壁。

 用意された舞台の中央を、男は悠然と進む。


 誰も逆らわない。逆らえない。

 ――この歪んだ組織の体現者には。


「フェイルツィーオ殿」


 ラヒナーは足を止める。


 声音に、感情の色はない。

 侮りも、嘲りも、ただの一滴も混じっていない。


 だからこそ、不気味だった。


「……これは、一体何事ですかな」


 フェイルツィーオは構えを崩さないまま、静かに問う。


「会長はどちらですか」

「はて?」


 ラヒナーは、わざとらしく眉を上げる。

 肩をすくめ、口元だけで笑った。


「何のことやら。……本部で、何かあったのかな?」


 その一言で、場のざわめきがすっと消えた。


「あっれれぇ? まだ否定しちゃうんだ〜。意外と頑張るねぇ」


 間を置かず、ヴォルーツォが踏み込む。


「それとも――まだ、シラを切り通すつもりなのかなぁ?」


 声音に、隠す気のない怒気が滲む。

 張り詰めた空気の中で、その一線だけが鋭く浮き上がった。


 ラヒナーの目が、わずかに細まる。


「……はぁ……」


 吐き出された溜息が、温度を一段下げた。


「若いな」


 ぽつりと落ちる。


 次の瞬間、笑みが形を変えた。

 呆れと――露骨な嘲り。


「世間知らずが、大人に向かって物を言うんじゃない」


 空気が、きしむ。


「さあ、おいで、エフィム君。君の大切な部下達に――“大人の世界”というものを、よく見せてやろうじゃないか」


 一瞬の沈黙。やがて、背後の扉が軋むように開いた。

 その場にいた全員が、息を止める。


 現れたのは――エフィムだった。


 まともに立つことすら許されない。

 猿轡と、無機質な首輪。そこから伸びる鎖が、彼の動きを縛っている。


 視線は虚ろに揺れ、床を這うように進まされていた。

 その首筋には、隠しきれない痕が残っている。

 誰の目にも、それがどういう扱いを受けたかは明らかだった。


 アルキンドラネスの思考が、そこで途切れる。


 理解が追いつかない。

 ただ、何かが決定的に踏み越えられたという感覚だけが、胸を焼いた。


 気づけば、身体は前に出ていた。


 だが――その進路を、ラヒナーが静かに遮る。


「――貴様ぁッ!!」


 怒号が裂ける。


「エフィム会長に、何をした……!」


 言葉になりきらない怒りが、空気を震わせる。

 ラヒナーは、わずかに目を細めた。


 そして、嗤う。


「何を勘違いしているのだ」


 声音は波のように穏やかだった。


「エフィム君は、ワシのものだ。どう扱おうと、ワシの勝手だろう?」


 わざとらしく、軽く肩をすくめて見せる。


「それとも何かね。彼が本部に戻れば――何事もなかったように振る舞えると、本気で思っているのかね」


 その時だった。


 ヴォルーツォの身体が、大きく揺れる。

 次の瞬間――ラヒナーの身体が宙を舞った。


 壁に叩きつけられる、鈍い衝撃音。

 そのまま、力を失ったように床へと崩れ落ちた。


 間髪入れず、アルキンドラネスが動く。

 エフィムを抱き上げ、その場から距離を取る。


 ヴォルーツォは、その場に崩れた。


 自分の身体を抱きしめるように腕を回し、縮こまる。震えていた。


 恐怖と――拭いきれない何かに押し潰されるように。


「――ふふはっ……」


 床に転がったまま、この後に及んでラヒナーは嗤う。


「貴様ら……覚悟せよ。ワシを誰だと思っている」


 声だけが、無様に這う。


「協会を敵に回したのだ……! 必ずや裁きを――」


 もう、誰も聞いていなかった。

 ヴォルーツォは、ただ静かに涙を落とす。


 遠くで、サイレンが鳴り始める。


 彼のポケットの中。

 通話は、まだ切れていなかった。


 ヴォルーツォはふっと笑う。

 涙を頬に残したまま、ゆっくりと立ち上がった。


「ンッフフ、残念だけど、もうおしまいだよラヒナーくぅん?」


 首を傾げる。


「あーあ……遂に言っちゃったねぇ。その発言取り消しきかないよぉ?」


 ラヒナーの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。

 見上げた目が、わずかに揺れた。


「チェックメイトですよ、ラヒナー支部長」


 フェイルツィーオが、スマートフォンを掲げる。

 動画ファイル。それだけで、十分だ。

 もはや、覆るものは何もなかった。




 ending


 傲慢で、主張の強い印象を受ける男だった。


 それなのに――声だけは、明け方の空気のように澄み渡っている。

 そのアンバランスさが、人を惹きつけるのだろうか。


「エフィムくん」


 波間に揺れるような、やわらかな声。

 呼ばれて、エフィムはゆっくりと目を覚ました。

 まだ夢と現の境目で、ぼんやりと目の前の人物を見つめる。


 透明感のある香水。

 その奥に、かすかに混じる体温の匂い。


 ――これが、この人の匂い。


「君が無事でよかった。本当に良かった……」


 ヴォルーツォの手が、何度も髪を撫でる。

 優しすぎるほどに、繰り返し。

 まるで確かめるように。


 ――あるいは、逃がさないように。


 エフィムは、動けなかった。

 何かが、ゆっくりと心に染み込んでくる。

 暖かいのに、寒かった。


 逃げなければ、と頭のどこかで思う。

 けれど、身体は動かない。

 すでに、どこにも行けない気がしていた。


「どこも怪我をしてなくて良かった……君に何かあれば、僕はもう生きていけないから」


 その声が、静かに落ちてくる。

 やさしいまま、何度も。拒む隙もなく、重なっていく。

 エフィムは、そっと目を伏せた。


 ――終わらない青の中に、二人だけが取り残されている。


 そこに、誰かが踏み込んでくる気配は、なかった。

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