潮騒の港
「――我望む、陽だまりの如き暖かさを。我が望み、陽光の輝きを以て全てを照らし尽くせ!!」
こうして、アンネローゼはエフィムとして歩む道を選んだ。
アンネローゼとしての自分は死んだのさ。
今ここに居るのはエフィムなのだから、ね。
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本作品には、登場人物の発言や作中の状況により、一般的に差別的と受け取られる可能性のある表現、また性的表現が含まれる場合があります。
これらは物語上の演出および人物描写の一環であり、特定の思想や差別等を肯定する意図はありません。あらかじめご了承のうえお読みください。
1
ナァダリ区の新名物、マリンライトレールは、南へ向かう。
車体はスァンディアの海を模したエメラルドグリーン。
波しぶきが軽やかに踊り、色取り取りの魚が泳ぐように描かれていた。
朝の光を受けて車両全体が輝き、まるで海を渡る船のように生き生きとしている。
その列車は、百年単位の歴史を刻む石造りやレンガ造りの建物が軒を連ねるメイン通りを縦横無尽に駆け巡る。
古い街灯や木製の看板、石畳の道をすり抜ける光景は、静と動のコントラストを際立たせ、通りを歩く人々の足音や笑い声を未来の風に乗せていた。
「……エフィムさま、本当によろしかったのでしょうか」
「もちろん。いいに決まってるよ」
笑みを浮かべるエフィムの横顔を見て、少女はそれ以上言葉を出せなかった。
胸の奥が、ひそかに震えているのを感じる。
ナァダリ区の朝は、すでに活気に満ちている。冴えた一月の冷たい風が街路を吹き抜け、通勤客で混み合うマリンライトレールの磁歪音がそれを縫うように響く。
光と音、冷気と歴史の香りが混ざった世界のすべてが、少女の胸を微かに揺らした。
やがて列車は終着駅に着き、二人は砂浜に降りる階段へ向かう。まだ冷たく澄んだ朝の空気と、海から運ばれる潮の香りが二人を迎えた。
「……寒いですね」
少女は肩をすくめ、身体を抱きしめるようにして立つ。
「そうだね、海風が強い」
エフィムも息を吐くと、白い霧のように空気が震えた。波打ち際に足を踏み入れると、予想以上に冷たく、思わず小さな声が漏れる。
少女はくすりと笑った。
「……何笑ってんのさ」
エフィムの不満げな声に、少し和らぐ顔。
寒さと笑顔が、どこか心地よい緊張感を作り出していた。
波は高く、テトラポットに打ち付けるたびに飛沫を散らす。
冷たい水が二人の足元に迫るたび、真冬の海の厳しさを改めて感じた。
「でも……ここで練習するしかないんですよね」
少女が小さく問いかける。
「そうだね、ここはようやく地元の人達を説得して整備した訓練場だからね」
エフィムの視線が遠浅の海へ向かう。
潮風に長い髪を遊ばせながら、彼の瞳には、冬の海を越えてさらに深く、遠くにある何かが映っているようだった。
少女はその視線を追い、自分の心臓が速く打つのを感じる。
彼の存在が、遠くても確かにここにあることを実感する瞬間だった。
「君もいつかは魔術師になるんだろ?」
エフィムの問いに、少女は小さく頷く。
「はい。それが命令なら」
微笑むエフィムに、胸の奥が温かくなる。
だが同時に、ただの知り合いでしかない自分を突きつけられる現実もあった。
「命令じゃない。君の本心が聞きたいんだよ」
その言葉に、少女の緊張は少し緩む。
言葉の温度が、海風よりも確かに近くに届いた。
二人は砂浜に立ち、基礎的な術の確認を始める。
少女の動きは流麗だが、まだぎこちなさが滲む。
一方のエフィムは自然体で術を繰り出す。
水の中を泳ぐように滑らかで、何一つ力を無駄にしていない。
「少し力が入りすぎてるね。肩の力を抜いて」
指摘に慌てる少女。焦る自分を自覚しながらも、指示通りに修正を試みる。
「焦らなくていいよ。少しずつ慣れていけばいい」
芯のある優しい声に、自然と肩の力が抜ける。
少しずつ、心も身体も呼吸を取り戻すように整っていった。
しばらくすると日差しが高くなり、海辺に温もりが広がる。
冷たい風も幾分和らぎ、二人の汗が光を受けて輝いた。
こうして、また一日が静かに始まる。
2
ゴトリ、と硬い音がして、湯気が静かに立ち昇った。
ほのかな香りが事務室の空気を満たす中、エフィムはペンを置き、視線を手元の書類に落とす。
ページの隅には、昨日の慌ただしい筆跡がまだ乾ききらぬまま残っていた。
「……どうですか、メイリア――いえ、娘の様子は」
声をかけたのは、秘書のアルキンドラネスだった。
抑えた声音の奥に、わずかな焦りが滲む。
「ん、ああ。少なくとも筋は悪くない方だと思うよ」
「……そうですか」
短い応答。
しかしその裏に何かを探るように、アルキンドラネスは湯気の向こうからじっとエフィムを見据えていた。
その視線に気づき、エフィムはわずかに眉をひそめる。
「何か言いたい事があるなら、どうぞ」
促すように言うと、アルキンドラネスは息を整え、低く呟くように続けた。
「会長、失礼ですが――きちんと休息を取っておられますか? ここ数日は協会の内部も騒がしく、まともな時間が取れていません。それに……」
「――またその話?」
エフィムの声は穏やかだったが、どこかで扉が閉まるような音がした。
有無を言わせぬ響きに、アルキンドラネスは一瞬言葉を飲み込む。
「まだ若いとはいえ、子供の身では――」
「わたしの体調に口を出す権利は、君にはないはずだよ。それに、“子供”って言葉はやめてって言ったよね」
言葉の刃は冷たく、だが痛みはどこか自分にも返ってくるようだった。
沈黙が、時計の針の音を浮かび上がらせる。
アルキンドラネスは目を閉じ、長く息を吐いた。
「……立場を弁えてください。幾ら会長の貴方様でも、組織には規律と節度が必要です。この先を生き抜くために、もっと大切なものがあるはずです」
言葉は諫めではなく、ほとんど祈りのようだった。
エフィムは無言で紅茶のカップを手に取り、軽く傾ける。
揺れる琥珀の液面に光が差し込み、一瞬だけ部屋の景色が歪んだ。
「……ちゃんと休んではいるさ。ただ――どっかのバカが遊び歩いてるせいで、皺寄せがこっちに向かってるのは事実だけどね」
苦笑とも嘆息ともつかぬ声でそう呟くなり、エフィムは窓辺へと視線を移す。
外では、冬の陽光が街を薄く染めていた。
古い建造物が並ぶ大通りを、マリンライトレールが滑るように通り過ぎる。
その車体は青緑の光を帯び、古い石畳の街並みに現代の線を描いていく。
そして――その軌跡の端、ビルの影の中に、ひとりの男の姿があった。
艶やかなジャケットの裾を風に揺らしながら、こちらを見上げている。
笑っているのか、それともただ眩しそうにしているのか。
判然としないその目元に、エフィムはほんの僅かに瞼を鋭くした。
湯気がゆらりと揺れ、ふたりの間を隔てる。
冬の光は冷たく――けれどどこか、遠い熱を孕んでいた。
まるで、ガラス越しに立つ男の気配が、こちらへ届いたかのように。
「魔術師育成協会の会長が、明け方から街をうろついてる――なんて話が広まったらどうなさるおつもりですか」
アルキンドラネスが、首を僅かに傾けながら皮肉げに笑う。
「世間は案外、権威に敏感ですよ」
「……何それ、いきなり脅しかな?」
「警告ですよ。これも愚鈍な秘書の務めですから」
「愚鈍って、自分で言う?」
「言わせないでください」
その軽口の裏で、彼の瞳だけがわずかに冷たくなる。
エフィムは肩をすくめ、再びカップに手を伸ばした。
だが、すでに中身は冷めきっていた。
「エフィム会長、冗談抜きでお気をつけください。今は特に、反魔術師勢力の動きが――」
「……そんなに活発?」
「ええ。昨日もヤイロダ支部で襲撃未遂が。子供とはいえ、あなたはこの協会の顔です」
「顔、ね」
小さく笑って、彼は視線を窓に戻す。
その向こう、冬の光を背にした男の姿はもう見えなかった。
「……そう言われれば、そんな立場なのかぁ。この前まで学生だったのにさ」
呟きは、湯気の消えた空気に溶けていった。
無防備なその声音に、アルキンドラネスは眉を寄せる。
彼の無関心の裏に、何が潜んでいるのか――それを知る者は、この街にまだいない。
3
廊下に、革靴の硬い音が控えめに響く。
幹部会議の始まる十数分前、誰もいない幹部棟の西翼。
フェイルツィーオ・マクシミリアン・チェンは、一枚の報告書を手に、廊下の中ほどで足を止めた。
「名家という後ろ盾がある訳でもなく、まして功績を積んだ訳でもない――」
独り言のような呟きの中に、冷たい棘が滲む。
「エフィム=ゾーラ、十七歳。魔術師育成協会・現会長。最年少にして組織の頂点――」
ページを指で叩き、眉を寄せる。
“最年少会長”の見出しの下には、やけに空白の多い経歴欄。
本来あるべき推薦状、評価記録、戦績――どれも、丁寧に抹消されていた。
「やはり、おかしい。おかしすぎる……!」
声がわずかに熱を帯びる。
それでも抑えきれない苛立ちが滲むように、息が漏れた。
「これで、よく――……通ったものですね」
その灰青の左目には、疑念と僅かな苛立ちが宿っている。
己の努力で地位を掴み取ったフェイルツィーオにとって、“誰かに押し上げられた”であろう存在は、喉の奥に刺さる小骨のようだった。
「功績――ゼロ。推薦者――不明。前任者の辞任理由――機密扱い、か。……それにしても、十七歳、ね」
報告書に記された数字を見下ろし、フェイルツィーオは小さく笑う。
――どう見ても、十にも満たない。
細い首筋、声変わりすらしていない澄んだ声。白く、細く、小さな手――そして何より、長く艶やかな烏珠の黒髪。
まるで“作り物”だ。
あれが十七歳だと言われ、信じろという方が無理がある。
“年齢を偽っている”という噂も、まんざら作り話ではないのかもしれない。
報告書の文字一つ一つが、逆に“意図的な隠蔽”の証拠に見えてくる。
唇がわずかに歪む。
「実力主義とは聞こえがいいですが……結局は、利権と派閥の産物か」
金具が擦れる音が、無人の廊下に大きく響く。
報告書を閉じ、右目を覆う眼帯を押さえる。
――まだ二十代前半に過ぎない自分が、若き会長閣下の存在に苛立ちを覚える。
「――もし彼が本当に、“次代を導ける器”だというのなら」
一拍の沈黙。
やがて、皮肉とも諦念ともつかぬ笑みが浮かぶ。
「認めたくはありませんが……いずれボクは、その若き会長閣下に膝をつくのかもしれませんね」
吐息のような言葉。
それは敗北ではなく、まだ名もない感情――羨望と焦燥の狭間で揺れる青年の影だった。
「さて……お手並み拝見といきましょうか」
4
「うぅぅん、疲れたぁ……!」
各支部を迎えての定例会議を終え、特等席に座ったまま、エフィムは欠伸と伸びを同時に繰り出した。
机上には議事録が重なり、議長席の周囲にはまだ会議の残り香のような疲労感が漂う。
「エフィム会長」
呼びかけに顔を上げると、そこに立っていたのは幹部の一人――ジャンパカダ支部のフェイルツィーオ・マクシミリアン・チェンだった。
若くして支部長の地位にある彼の佇まいには、冷静さと端正さが滲む。
「はい、チェンさん。どうされました?」
「先日、貴殿に提出した件について、返答を頂いておらず――直接お伺いに参りました」
エフィムはわずかに目を細め、息を吐く。背もたれに体重を預け、天井をぼんやりと仰ぐ。
「あぁ、それのことですか……正直なところ、迷っているんです。合理性は分かるんですけど、でも、合理だけで進む世界ってちょっと怖く感じません?」
「恐怖心など不要。論理的に考えれば、最善策であることは明白でしょう」
フェイルツィーオの声に、エフィムは小さく頭を下げ、机上のペン立てを弄びながら言葉を続ける。
「合理的に進むのも必要でしょうけど……選んだ先が必ず正解とは限らない気がしませんか?それって、魔術と似てると思うんです」
「どういう意味でしょう」
フェイルツィーオの声が少し低くなる。怒らせたか、とエフィムは内心で思う。
「え……ですから……反魔術師組織『イル・マット』のアジトを直接叩く案は、少し無謀に思えるんです。情報が錯綜していて、構成員の数も定かじゃないですし、下手に手を出したら、勝ち目がないかもしれないですし」
「それは」
「もちろん協会としては全力で支援します。でも、犠牲を減らす努力は惜しみたくないです」
エフィムの視線は、机上でも天井でもなく、どこか宙をさまよっている。
「――でも、命を賭けるほどの価値があるか問われれば……うーん、わたしには答えられないかも」
エフィムは机上のペンを回しながら、静かにため息をついた。
「なるほど……そう来ますか。……へえ、そういうお考えでしたか」
フェイルツィーオは目を細め、口元にわずかに笑みを浮かべた。
「……実は、先日ちょっと小耳に挟みまして。どうにも、レナワ区のダワイカ市場を拠点に荒らし回る集団が『イル・マット』を名乗っているようですよ――エフィム会長?」
その言葉に、エフィムは特等席の革張り椅子を蹴り上げ、勢いよく立ち上がった。
机の上の議事録やペン立ても、微かに震える。
「――な、なんですって!?」
身体全体が反応するのを感じながら、彼の目は鋭く光った。
若さゆえの直感と、責任感からくる焦燥が混ざり合い、会議室の空気まで引き締める。
フェイルツィーオは、わずかに眉を上げ、冷静に観察している。
「……なるほど、これが会長閣下の“本気”というやつですか」
エフィムの小さな拳が机の縁を握る。目には、幼い顔立ちとは裏腹な決意の光が宿っていた。
「それ、どこ情報です?……場所はレナワ区、どの辺なんですか?」
「今さっき、合理的な判断で進むことは否定されたばかりですが?」
フェイルツィーオの口元に薄笑いが浮かぶ。その微笑は挑発にも似ていて、エフィムは胸の奥に小さな違和感を覚えた。
「んぐぐ……そもそも、『イル・マット』程の組織がダワイカ市場程度を荒らし回るなんて、ちょっと変……かも、しれないです。でも、でもぉ……」
「ほう」
フェイルツィーオの視線が僅かに柔らかくなる。少年の葛藤を興味深く、少し楽しむかのように見つめている。
「もし『イル・マット』がダワイカ市場を根城にしているのなら――そこを潰せば、大きな一歩です。でも、組織の規模によってはリスクが高すぎます……わたしには、判断できません……」
机の縁を掴む指が僅かに震えた。瞳には困惑と責任の狭間で揺れる光が宿る。
フェイルツィーオは腕を組み、一歩下がった。冷たく、けれど興味深げな眼差しには、微かな驚きが混じっていた。
「やはり貴方は……面白い。ただの“置き物”というには、あまりにも芯が強い――迷いながらも自分の意志で考え、動こうとしている。見ていて興味が尽きませんね」
「……チェンさん、お願いです。情報提供者を教えてください。それだけでも、お願いします!」
その声は、純粋で迷いの中で必死に手を伸ばす子供のようだった。フェイルツィーオの表情が微かに和らぐ。
目の前の少年が持つ意外な“芯”に触れ、心の奥で何かが揺れ動くのを感じた。
「ええ、構いませんよ。では、まず――情報提供者の素性については保証いたします。現在、特定の人物との接触を図っています」
フェイルツィーオの言葉は淡々としているのに、妙な重みがあった。
“特定の人物”――その曖昧な言い回しの裏には、まだ明かせない何かが潜んでいる気がしてならない。
「……分かりました。今後も共有をお願いしますね」
「もちろん。会長閣下の“信頼”を裏切るような真似は致しませんよ」
その声音には、どこか愉しげな響きが混じっていた。挑発でも皮肉でもない――ただ、少年の“誠実さ”に本気で面白みを感じている。
フェイルツィーオが軽く一礼し、足音を響かせて去っていく。
エフィムはその背を見送り、深く息を吐いた。静まり返った会議室に、時計の秒針だけが響く。
5
真冬の冴えた空気を切り裂くように、継ぎ目のないレールの上を高周波のざわめきが響く。
クロスシートに深く腰を下ろすと、足の先は床にすら届かない。
床を伝う微かな振動と、窓外を流れる街灯の光が、車体の揺れに合わせて静かに踊る。
それでも無意識に背伸びをして、向かいの座席の端に手を伸ばす――。
小さな身体には少し大きすぎるスーツが、きゅっと肩を引き攣らせた。
車内は人影もまばらで、耳に届くのは自分の呼吸と、ライトレール特有の軋む金属音だけ。
誰と会う時も、どんな場面でも――癖のように背伸びしてしまう自分を、少年はふと冷めた目で見つめる。胸の奥に、じわりと焦燥が滲んだ。
「――『イル・マット』、か」
思わずこぼれた声は、小さな身体に似合わず重く響く。
首頭――ウィリディアス・ルカ・グレイス率いる反魔術師組織。
名前こそ知られているが、その目的も規模も、霧の中のように掴めない。
「ここで、何か掴めるのなら……」
呟きと同時に、指先が膝の上でぎゅっと拳を作る。
液晶端末の画面には、『ダワイカ市場まで』の文字。
期待と不安が胸の内でせめぎ合い、心臓の鼓動が列車のリズムに重なった。
まだ力も経験も足りない自分が、未知の敵に立ち向かわねばならない――。
その現実を、少年は小さく息を吸い込んで、ただ前を見据えることで受け止めた。
***
ダワイカ市場は、レナワ区随一の繁華街だ。
日用品から主婦向けのブティック、学生に人気のカフェまで立ち並び、夕暮れの帰宅客で溢れ返っている。
人々の話し声と屋台の呼び込みが入り混じり、冬の空気に雑多な熱を生んでいた。
エフィムは人ごみを避け、商店街の入口で歩幅を落とす。
人の流れが交錯するダワイカ市場の入口。
喧噪の中に漂う焼き菓子の甘い匂いと、冬の空気の冷たさが入り混じる。
エフィムはコートの裾を軽く握りながら、雑踏の隙間から周囲を見渡す。
「――エフィムさん、二分遅刻です」
呼びかけに顔を上げると、商店街入り口のカフェ、そのテラス席にフェイルツィーオの姿があった。
黒のロングコートを羽織り、片手に紅茶を傾けながら、この寒空の中、人の行き交う通りを眺めている。
指先の動きに一片の無駄もなく、湯気の立つカップを唇に運ぶ様は、まるで舞台の一幕のように洗練されていた。
エフィムは、眉をひとつ寄せる。
「……先に来てるなら、そう言っておいてくれればいいのに」
「あなたの通信は切れていましたから。――任務中に電波を遮断する癖、いい加減直した方がいいですよ」
涼やかな声とともに、フェイルツィーオは微笑んだ。
その表情に敵意はない。だが、どこか見透かすような眼差しが、エフィムの胸に小さな棘を残す。
「情報源とは、もう接触しました。『イル・マット』に関する有用な断片をいくつか……あなたが来る前にね」
「……勝手に進めないでくれます? わたしにも手順くらいあるんですけど」
エフィムは頬を僅かに膨らませると、フェイルツィーオの向かいの席に腰を下ろした。
紅茶の香りが微かに鼻をくすぐる。冷えた身体に温度が戻るより先に、胸の奥に広がったのは――小さな苛立ちだった。
「寒いでしょう、何か飲みますか? 勿論、ご自分で支払って下さいね」
フェイルツィーオが店員を呼ぶ。
エフィムは視線を逸らしながら、ぼそりと呟いた。
「……ケチだな」
「わかりました」
「まだ何も言ってないんだけど」
フェイルツィーオは何も答えず、静かにカップをコースターに戻す。
紅茶の表面が小さく波打ち、彼の長い睫毛に街灯の光が反射する。
「あなたの行動は、いつも予測可能なようでいて、不可能だ。だからこそ……追いかけてみたいと思ってしまうのかもしれませんね」
軽く笑う声。だが、その奥に一瞬だけ、測れない温度の静けさが滲んだ。
店員がエフィムの分の温かいカップをテーブルに置く。
片方にはホットココア、片方には紅茶。
湯気が交錯し、互いの間に曖昧な境界を描く。
エフィムがココアを一口含んだとき、フェイルツィーオの端末が短く震えた。
画面を一瞥した彼は、顔を顰め、すぐに通話を拒否する。
「チェンさん、出なくて……」
「……え、ああ。ゴリ――おっほん、リヒェンツァです。気にしなくても大丈夫です」
相変わらず部下の一人に振り回されているのかと思うと、こんな奴でも人間なんだな――と、エフィムは心の中で小さく笑った。
「情報提供者はこの近辺の店主。近頃、強盗集団のリーダー格が『ウィリディアス』を名乗り、店を荒らし回っているそうです。――まあ、『イル・マット』を名乗っているのも箔付けのつもりでしょうね」
フェイルツィーオは紅茶を口に運び、わずかに微笑む。
「本物の“首頭”がそんな真似をするわけがない。彼らの名を騙る者が現れるほどには……この街にも、少しずつ“影”が染み込み始めているということです」
「影、ね」
エフィムはココアを啜りながら、視線を落とす。
「そんなの、この街ならいつものことじゃないですか」
「ええ、ただ――」
フェイルツィーオは言葉を切り、カップの縁に指を添えた。
「今回は少し違う。情報提供者曰く、奴らはただの窃盗団ではなく、“術式”の残滓を残していたそうで。わざと自分の居場所を掲示しているのかも……少なくとも、素人の仕業ではない」
エフィムの瞳が一瞬、鋭く揺れた。
「術式……? まさか、本当に魔術師が関与してると?」
「可能性は否定できません」
フェイルツィーオの声は穏やかだが、どこか冷たかった。
「ただ、興味深いのは――その“偽ウィリディアス”が、中々の実力者である事でしょうか。荒々しさはあるものの、コントロール性能が高い――つまり、訓練を受けた魔術師の可能性が高いのですよ」
「そんな人が……なんでまた、こんな辺境で?」
「それがわからないのが問題です。偽の『首頭』、本物の技量を持つ魔術師、そして混乱に乗じた商売……まるで誰かが街全体を盤面にして遊んでいるようだと思いませんか?」
彼の言葉は、どこか楽しげにすら響く。だが、その目は冷たく研ぎ澄まされていた。
「で、次はどうするんです?」
「決まっているでしょう――罠に仕掛けるか否か。あるいは、罠そのものを暴くか。どちらを選ぶか――それはあなたの役目です」
その言葉に、エフィムはココアを飲み干し、目を細めた。
フェイルツィーオの視線を正面から受け止め、ゆっくりと立ち上がる。
「わかりました。とりあえず――行きます」
「ほう……?」
フェイルツィーオがカップを持ったまま、意外そうな表情を浮かべる。
「意外です? こういうのは地道に足で探るのが一番確実ですし」
「……いいでしょう。ただし――」
フェイルツィーオが言い終えるよりも早く、エフィムは椅子を蹴るように立ち上がった。
「じゃ、行ってきます!」
コートの裾を翻し、少年は雑踏の中へ駆け出していく。
冬の冷たい風が、ココアの温もりと紅茶の香りを一瞬で攫っていった。
残されたフェイルツィーオは、スプーンで残りの紅茶を軽く掻き回しながら、静かに息を漏らす。
「……やれやれ。やはり、ただの子供でしたか」
呆れを含んだその声に、かすかな笑みが混じった。
「とはいえ――ああいう衝動こそ、時に奇跡を引き寄せるのかもしれません」
紅茶の表面に映る街灯の光が、ゆらりと揺れる。
その瞳には、若き魔術師への微かな興味と、読み切れぬ思惑が交錯していた。
6
――術式の“残滓”。
三流の魔術師や半人前の新米ならともかく、熟練した魔術師が残滓を残すことは、通常ならあってはならない愚行だ。
魔力というものは、指紋と同じく特徴も一人一人異なる。
残滓があるということは、術者個人の痕跡を辿られることを意味する。
エフィムは一瞬、息を詰めた。手が微かに震む。
しかし――もし、それを敢えて残したのだとすれば。
それはすなわち、自身の力への絶対的な自信、あるいは、追跡者への挑発に他ならない。
雑踏を抜け、人気の薄い市場の外れへと足を運んだ。
露店の光が遠ざかるたびに喧騒は薄れ、代わりに、夜気の鋭さと埃の匂いが肌にまとわりつく。
路地の先には、いくつかの裏通りへと続く分かれ道。
その中で、ひときわ古びたレンガ壁に沿って、少年は歩みを進めた。
街灯の光も届かぬ細道には、湿った土と錆びた鉄の匂いが混じり合っている。
頭上の空は細く裂け、濁った闇が建物の狭間を満たしていた。
舗装の剥がれた地面からは枯れた草がのぞき、使い古された木箱の残骸が無造作に転がっている。
「……確かに、ここなら人目に付かないかもね」
自嘲気味に呟き、エフィムは慎重に歩を進めた。
そして、角を曲がったその瞬間――唐突に、“それ”は現れた。
「……これが、“残滓”」
エフィムは足を止め、壁際の空間に目を凝らした。
そこには、現実がわずかに“捻じれて”いる箇所があった。
まるで熱気の揺らめきのように、空気が薄く震えている。
しかし、その中心では、光が吸い込まれるように沈み、音さえも歪んでいた。
指先で触れようとした瞬間――空気が、悲鳴を上げた。
「っ……!?」
足元の石畳がずるりと滑る。そこには確かに“穴”があった。
だが、目に映るのは“影”だけで、底は見えない。
転移術の残滓。
本来なら即座に封鎖・消去されるべき危険物だ。
魔術師育成協会では、こうした禁術の痕跡を“瘤”と呼び、徹底して取り締まっている。
だが、これは――“意図的に”放置されたものだった。
「……やっぱり、誰かが誘ってる」
エフィムは小さく息を呑み、片手を掲げた。
淡い青光が手の甲に浮かび、周囲の空気をわずかに震わせる。
簡易結界が展開され、路地に漂う魔力の残滓が浮かび上がった。
歪んだ空間の向こうに、誰かの“影”が見えた気がした。
それは視覚の錯覚ではなく、確かにそこに“気配”として刻まれている。
「ここを通過した“何者か”は……相当な使い手みたいだね」
転移術の残滓にこれほど鮮烈な魔力を残せる者は、ごく限られている。
下手を打てば術式に呑まれ、帰還すら叶わない。訓練中の新米が扱える代物ではない。
「だけど――誰が、何のために?」
独りごちるように呟き、少年は慎重に歩を進めた。
残滓は、残り香のように路地の奥へと流れている。
やがて、古びたレンガ壁の先に賑やかな裏通りが見え始めた。
若者に人気の古着屋やカフェが軒を連ね、香ばしいコーヒーの香りがかすかに鼻をくすぐる。
その香りに導かれるように、エフィムは足を止めた。
目の前には、小さな喫茶店――『パライソ』。
磨き込まれた木製の扉は、古めかしいが手入れが行き届いている。
そして、魔力の流れは確かに、その扉へと続いていた。
「……まさか、ここに!?」
エフィムは一瞬の逡巡もなく、ノブに手を掛けた。
そして勢いのまま、扉を開け放つ。
「――魔術師育成協会の者です! すみませんが、調査させていただきます!!」
カランカラン、と軽快なドアベルの音が静かな店内に響いた。
焙煎した豆の香りと、柔らかな橙の照明。
カウンターでは店員が穏やかにレジを打ち、客たちは談笑の最中。
突然の宣言に、数人の女性客が目を丸くした――が、次の瞬間。
クスクス、と抑えた笑いがあちこちから漏れた。
「……はっ、え? なんで……笑われてんの、わたし」
視線のやり場を失い、エフィムはきょとんと立ち尽くす。
サイフォンから芳醇な雫が滴る中、彼の存在だけが異物のように浮いていた。
奥の席で、マスターらしき女性が静かに微笑んだ。
その笑みは親切にも見えたが――どこか、含みを持っているようにも見える。
「いらっしゃいませ。一名様でしょうか?」
「い、いえ! 間違えました!! すみません!!」
エフィムは踵を返すと、慌てて店の外へ飛び出した。
その背に、再び軽やかなベルの音が追い縋る。
***
――魔力の“残滓”は、確かにあの店へと続いていた。だが、異常は見当たらない。
それどころか、穏やかな空気と珈琲の香りに包まれて、逆に気が抜けるほどだった。
「でも……気配はあったはず」
エフィムは額に手を当て、記憶を掘り返す。
“残滓”というものは、通常ならほんの一瞬で霧散し、あとには何も残らない。
特に、熟練の魔術師であれば尚更だ。
――なのに、あの“残滓”は妙に濃く、輪郭すら保っていた。
まるで誰かがわざと“嗅がせるために”置き去りにしたかのように。
「……まさか、わたしを試してる?」
浮かんだ考えを振り払うように、首を横に振る。
それでも胸の奥のざわめきは、どうにも収まらなかった。
「とにかく今は、一旦戻ろう。報告しないといけないし、それに……」
フェイルツィーオはきっと、「またですか」と冷ややかに言うだろう。
彼の笑みは優雅だが、毒もある。
その皮肉の刃を避けるすべを、エフィムはまだ持ち合わせていなかった。
7
「――つまり、手掛かりは何も得られなかった、と」
フェイルツィーオは資料ファイルをわざとらしく音を立てて閉じ、淡々とした口調で告げた。
その声には怒気も落胆もない。ただ、静かな水面のように冷たい。
ここは魔術師育成協会・中央棟――各支部を繋ぐ回廊の要であり、魔術師たちが行き交う中継点でもある。
外観は無骨なコンクリートの棟だが、内部は意外にも穏やかだ。
外部の脅威に備えて幾重にも結界が張られ、中央の吹き抜けには正方形の中庭が広がっている。
噴水の水音と柔らかな陽光が、穏やかに空間を満たしていた。
魔力の波動が揺らぐたび、淡い光が宙に設けられた魔力菅を走る――常に結界が“生きている”ことを示している。
「まあ、そんなものです。最初から上手くやろうなどと考えるから、転ぶのです」
フェイルツィーオは指先でオールバックの後れ毛を払う。
その仕草は律儀で丁寧――彼の性格をよく表していた。
「……別に転んでません。ちょっと、空振っただけですし」
エフィムは頬を膨らませ、そっぽを向く。
噴水の向こうでは、訓練を終えた魔術師たちが談笑し、軽やかな笑い声が広がっている。
その平和な光景が、少年の空振りをより際立たせた。
「空振り、ですか。では、その“空振り”に費やした時間と移動費の帳尻は、どこで合わせるおつもりで」
「うっ……そ、それは……」
言葉を詰まらせるエフィムを見て、フェイルツィーオはくすりと笑った。
その笑みには冷たさの裏に、ほんの僅かな温度がある。
「次は報告ではなく、成果を見せてください。あなたの“嗅覚”は確かです。無駄に終わるはずがない」
立ち上がると、彼はコートの裾を翻す。
ジャンパカダ支部へ戻るらしく、扉の前で振り返りもせず、言葉を落とした。
「それではボクはこれで。……焦らずに。焦ると“魔物”に呑まれますよ」
静かに去っていく背を、エフィムは目で追う。
手にしたカップの中を覗き込むと、冷めた紅茶に映る自分の顔が、少し悔しそうに歪んでいた。
「……魔物に、呑まれる……か。ふんっ、誰に言ってるんだか」
立ち上がり、軽くコートの裾を払う。
失敗を笑われるのは慣れている。けれど、見返したいという気持ちも、胸の奥で確かに燃えている。
「もう一度……行こう。あの喫茶店に」
夕刻の光が噴水を優しく照らし、少年の背を押すように揺れていた。
まだ終わっていない。まだ、“残滓”の正体は掴めていないのだから。
8
翌日、調査のため再びダワイカ市場へ向かう。
目指すは、もちろん件の喫茶店だ。
「……むぅ、早すぎたかな」
扉の下には『closed』の看板が下げられ、まだ店内は静まり返っている。
腕を組み、少し首を傾げるエフィムの額には小さな皺が寄った。
すると、後ろから声がかかった。
「あれ、エフィムさま?」
振り返ると、そこには少女と、付き添いの初老の男性が立っていた。
少女は背筋をピンと伸ばし、きらきらとした瞳を輝かせている。
男性は穏やかな笑みを浮かべ、手には手提げ袋を持っていた。
「あれ、メイリア……それに、アルキンも……どうしてこんな所に」
まさか辺鄙な市場の一角で知り合いと出会うとは思わず、エフィムは思わず声を上げた。
「……今日は一日、娘の付き添いです。何でもこの辺りに流行りの洋品店があるとかで。エフィム会長は……ああ、これは仕事の邪魔になってしまいますね」
アルキンドラネスは普段は多忙だが、今日は休暇を取っている。
だからこそ、娘のメイリアと一緒にこうして街に出られるのだ。
その言葉を聞いたエフィムは、慌てて眉を上げた。
「まあまあ、少し付き合ってってよ! ……あ、そうだ、この間の魔術の基礎練の続きもしようよ!」
理由は自分でも定かではない。けれど、二人が少年に向ける視線は温かく、どこか懐かしく、心地よい安心感を与えていた。
「基礎練習……え、いいんですか!」
メイリアは年相応の屈託のない笑みを浮かべ、目を輝かせてエフィムの提案に食いついた。
「勿論だよ。どうせ午後までは書類仕事だし。……それより、今日は平日だけど、学校は?」
問いかけにメイリアは少し俯き、口元をきゅっと引き結ぶ。
「……すみません、エフィム会長。あまり責めないでやって下さい。実は……学年が変わってからクラスに馴染めなくて」
アルキンドラネスが代わりに答える。その言葉を聞き、エフィムは眉をひそめた。
「そう、なんだ」
どう励ませばいいか言葉が出ない。どんな言葉も上辺だけに感じられ、思わず小さく息を吐く。
話題を変えようと、自然に声をかける。
「折角なら、ここの喫茶店で少しお茶していこうか」
彼の目配せでアルキンドラネスも察し、三人は店の扉前に並ぶ。まだ開店前の時間、少しだけのんびりと待つことにした。
しばらくして、ギィィ……と扉が軋む音と共に開く。出てきたのは、枯れ草色のワンピースに丸い眼鏡をかけた若い女性だった。
「いらっしゃいませ〜。あら、あなたは昨日の……?」
「んんっ、おっほん! わたくしは魔術師育成協会の会長をしております、エフィム=ゾーラと申します」
胸を張り、芝居がかった礼をするエフィムに、店主は一瞬困惑しつつも落ち着いて返す。
「まあ、会長さんでしたか。それはそれは」
店主の女性は大げさな態度に一瞬眉をひそめたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべ、カウンターの席に三人を迎える。
「さて、今日は我々三人、少々小腹が空いておりまして」
「あら、ちょうど新作のスコーンが焼けておりますよ」
店内は珈琲とバターの香りで満たされ、外の冷たい空気を忘れるほど温かい。
エフィムはコートを脱ぎつつ、無意識に周囲を観察する。
「あ、あのエフィムさま。魔術師育成協会って、どんな所なんですか……? メイリアもいつかはエフィムさまみたいな魔術師になりたいので……」
メイリアの真剣な瞳を前に、エフィムは少し目線を逸らす。
「ん? 協会かぁ……そうだね……」
少年は小声で独り言を混ぜつつ、コートを椅子の背もたれにかけつつ店内の様子を見回す。
静かな店内に流れるJAZZの音色に、店主の所作、カウンターの上の小物の配置、壁に飾られたカレンダー――すべてが“何か”を探る手掛かりになるかもしれない。
「魔術は生活の基盤にもなるから需要も高い。それに、人間は誰しも魔力を持って生まれてくるとはいえ、量は個々で違う。だから、魔術を使える人間は意外と少なくてね……」
ごにょごにょと独り言めいた説明を続ける。相手に伝わっているのかはさておき、エフィムは静かに周囲の気配を探り続ける。
「……ここ、何か妙な気配はないかな」
カウンター越しに差し込む光や香り、微かに揺れる棚の影に注意を向ける。心なしか、昨日よりも残滓の痕跡が濃く漂っているように感じられた。
だが、少年の“嗅覚”は警告を発していた――この静けさは、逆に怪しい、と。
「いえ、特には。エフィム会長、何か気になることが?」
アルキンドラネスがコーヒーカップを置きながら尋ねる。
声には落ち着きがありつつも、気遣いの色が滲む。
休暇とはいえ、普段の秘書としての気配りが柔らかく滲んでいるのが分かる。
「んー……いや、なんでもない。ただ……少し気になっただけ」
少年は誤魔化すようにカップに手を伸ばす。温かな香りが鼻腔を満たしても、胸の奥にある小さなざわつきは消えない。
この温かな喫茶店の片隅――柔らかな光に包まれたその何処かに“何か”が潜んでいる。
エフィムの視線が無意識に棚や窓際の陰へ向く。
その細やかな動きには、微かに息を潜める緊張が宿っていた。
9
世間的には、魔術師育成協会の評価は分かれる。
人間は誰しも多少の魔力を持って生まれるが、それをどう使うかは本人次第だ。
魔術を悪用する者は当然ながら存在し、協会はそういった者を取り締まるためにも存在している。
だが、中には協会を快く思わない者もいる。
組織としての在り方や体制、そして何よりも、魔術師の育成に重きを置き過ぎているという評価が理由だ。
――だが、エフィムは知っている。
魔術師を育てることが、どれほど困難なことかを。
どれだけ優れた術を身に着けようとも、それを悪用してしまう者は必ずいる。
それを止めるには、強い力が必要だ。それこそが、魔術師育成協会に求められるものだと。
「……人間って、何なんだろうね」
ぽつりと呟き、エフィムは唇を少し噛む。
大人になるということは、どういうことなのか――母と生き別れになってから、ずっと模索してきた問いだった。
「エフィムさま?」
時刻は正午を過ぎたところ。
アルキンドラネスに無理を言い、メイリアと二人きりになったエフィムは、魔術の練習を終え、彼女を家まで送り届ける道すがらだった。
「ん? 何かな?」
声をかけられ、エフィムは咄嗟に何でもないように振る舞う。
「いえ……エフィムさま、何か悩んでいらっしゃるのかもと思って……」
少女は不安げに眉を下げながらも、真っ直ぐな瞳で少年を見据えている。
「ん、ああ、別に気にしなくていいよ。大したことじゃないし」
カラッとした笑顔で答えるが、少年の心には一抹の不安が残る。
この平穏な日常の中にも、介入すべきではない“何か”が潜んでいる――そんな予感が、胸の奥でざわめいた。
「……エフィムさま、今日はありがとうございました。とても楽しかったです」
「別に礼を言われる立場じゃ――っ! メイリア、ゆっくり後ろに下がって。わたしより前に出ないで」
背の高いメイリアを庇うように右手を翳し、後ろへ隠す。
その瞬間――三、四……いや、それ以上の影が迫ってくるのに気付く。
後を付けられていたことに、全く気付かなかった自分を恨みたくなる。
「――よう、お嬢ちゃん達。俺らと遊ぼうぜ」
現れたのは、柄の悪い男たち六人。
見た目だけでは戦闘能力はそれほど高くはなさそうだが、何より数が多すぎる。
そして、彼らの背後に微かに漂う、魔力の残り香……昨日の残滓の香りと奇妙に重なる気がした。
「知っているぞ、エフィム=ゾーラ。最年少で魔術師育成協会の会長に抜擢される程の実力者だってな」
一人の男が挑発的に言うと、他の男たちも下卑た笑みを浮かべ始める。
「へぇ〜ぇ〜、俺は男って聞いてたんだがなぁ? どう見ても『お嬢ちゃん』って感じじゃねぇか。本当に男かぁ?」
男は舐め回すような視線を送る。
エフィムは眉間にシワを寄せ、ズボンを握る手に力を込める。
「……男に決まってるだろう。このスーツが目に入らないのか」
嫌悪を隠さず言い放ち、一歩前に踏み出す。
だが相手たちは怯むどころか、逆に色めき立ち、ボルテージを上げていく。
「おうおう、こんだけ可愛いツラしてりゃ男でも構わねえなぁ!!」
リーダー格の大柄な男が腕を掴もうとした瞬間、エフィムはサッとかわし、右ストレートをその顔面に叩き込む。
「――いってぇ!? 何しやがる!!」
油断していた男はもろに食らい、尻餅をつく。
周囲の連中は一気に殺気立つ。
エフィムは動じず、次の左フックを狙うが――メイリアがしがみついているせいで、立ち回りが制限されてしまう。
「クソっ!」
加えて体格差は圧倒的で、比べ物にならない。
舌打ちをし、エフィムはメイリアの手を取り、走り出す。
後ろから怒声と足音が迫る。
二人は息を切らしながらも、狭い通りを必死に駆け抜ける。
やがてメイリアの自宅が視界に入ったところで、エフィムは急に立ち止まった。
「――メイリア、走って!! ここはわたしが食い止める! 早く家に入って鍵をかけて!!」
必死の形相で訴えるエフィムを見たメイリアは、小さく首肯し、一目散に駆け出す。
それを確認したエフィムが振り返ると――鬼のような形相の男たちが迫っていた。
「――おい、クソガキ、調子に乗るのも大概にしろよ! こちとら『イル・マット』の名を騙って荒稼ぎしてんだ。それを嬢ちゃん一人に台無しにされてたまるか!!」
「だーかーらー! 嬢ちゃんじゃないってば!」
叫びながら、エフィムは男たちの足元を狙って魔術を放つ。
しかし、この人数差ではいかんせん分が悪い。
メイリアを逃がす事には成功したが、エフィム自身、逃げ回るのが精一杯だ。
「そらそらどうした、会長さんの実力ってのは、その程度か!?」
連日の徹夜もあり、体力は既に限界に近い。
このままでは、捕まるのも時間の問題だ――。
──そのとき、疾風が吹き抜けた。
「いやー、セールで買いすぎちゃった〜! ネギこんなに要らなかったのに、詰め放題で白熱しちゃってさぁ!」
吹き飛ばされたリーダーの首に、長ネギが不自然に添えられる。
そしてその背後には、中世風の派手な衣装を纏った青年――。
「エフィムくん、ネギ好き? 良かったら少しあげるよ〜!」
エフィムは呆然としながらも、どうにか言葉を絞り出す。
「ヴォルーツォさん……何してるんですか……」
青年、ヴォルーツォは満面の笑みで、大量のネギの入った買い物袋を掲げる。
――渾名は『給料泥棒』。
普段は遊び歩いてばかりで、魔術師としての真剣味は疑わしい。
「……よりによってコイツかよ。くじ運悪すぎ」
ぼやくエフィムに、ヴォルーツォは飄々と笑い肩を竦める。
「何それ酷くなぁい!? っていうか、これってどういう状況ぉ?」
その目は軽薄さから一転、鋭く真っすぐに変わった。
「――ヴォルーツォさん、早く逃げて!!」
この昼行燈では太刀打ちできるはずもない。
目の前の男たちは全員、魔術の心得があり、肌に刺すような魔力の香りを漂わせていた。
ここは撤退が賢明だ――誰がどう見ても。
だが、ヴォルーツォはニヤリと笑い、胸を張って言い放つ。
「ハハッ。君がそう言うなら――僕もやるっきゃないね!!」
リーダー格の首に添えたネギに魔力を集中させ、次の瞬間、フルスイング。
まるで――「ナイス、ショット!」
乾いた音がした。
それは確かに見事なフォームだった。
だが、相手はびくりともしない。
反動で手首が痺れ、骨の芯がじんじんと痛む。
「いやあ……やっぱゴルフクラブ持ってくりゃ良かったかなぁ……って、うわぁ!」
返す刀で五人が同時に飛びかかる。
空気が裂ける音。
ヴォルーツォの笑みが一瞬、引き攣った。
「――この、役立たず! 木偶の坊! 独活の大木!!」
エフィムの喉が凍り付いた。
戦場の空気が重くなる。
体格差、人数差。魔術を放つ暇もない。
この状況で生き延びられる保証など、どこにもなかった。
「……いやぁ、さ。なんも報酬がないんじゃ――タダ働きは嫌いでね?」
軽口。
だがその瞬間、ヴォルーツォの身体が滑るように動いた。
殴打の合間を縫い、足音もなく潜り抜け、五人の死角を渡り歩く。
その軌跡は、まるで風。
「――っ、なっ、はや……!」
次にエフィムが気づいたとき、自分の足が地面を離れていた。
「ちょ、な、何して――っ!?」
視界が回転し、ヴォルーツォの横顔が目前に迫る。
息が触れるほどの距離。
香るのは、焦げた魔力と、どこか涼やかな甘い香り。
暴れようとした瞬間、彼の声が低く落ちた。
「大丈夫、落とさないよ」
穏やかすぎて、怖い。
次の瞬間、拳が迫る。
ヴォルーツォは身をひるがえし、わずかに傾くだけでそれをかわす。
拳風が頬を掠め、エフィムの髪が宙に散った。
蹴りが振り上げられれば、彼の体はまるで踊るように沈み込み、ジャケットに付いたフリルがふわり風を裂く。
静かに、しかし確実に、空気が震えていく。
「――何、この人……」
心臓が跳ねた。
恐怖か。
それとも――。
目の前の“道化”は、今やまるで別人だった。
軽薄な笑顔の奥に、獣じみた殺気が潜んでいる。
「……っ、ふざけてる場合じゃないでしょ!? 相手は――!」
「ンッフフ、知ってる。だから、落ち着いて」
彼の声が低く響いた。
その腕を伝って、脈打つような魔力が流れ込む。
冷たく、けれど熱い。
怒りと歓喜の境界を踏み越えるような――危うい力。
「エフィムくん、ちゅーってしてくれない? いや、口じゃなくていいんだよ、ほっぺでいいからさぁ」
「はああ!? なに言って――」
ふざけた声が響いた直後、空気が弾けた。
世界が、音を置き去りにする。
突風。圧。魔力が爆ぜ、五人が同時に身構えた。
ヴォルーツォはエフィムを抱え直し、そのまま一回転。
地面が悲鳴を上げる。
亀裂が走り、瓦礫が跳ね、風圧が頬を切った。
「――あ、捕まっちゃう?」
軽口とは裏腹に、その動きは美しく、恐ろしく、致命的。
背後から迫る一撃を紙一重で躱し、反動で相手の顎を蹴り上げる。
息を呑む間もなく、次の瞬間には二人目が崩れた。
抱えられたままのエフィムは、思わず目を閉じ――開けたとき、すべてが静まり返っていた。
風も、音も、動かない。
ただ、ヴォルーツォの笑みだけが、闇の中で鮮やかに輝いていた。
立っているのは、エフィムを抱えたままのヴォルーツォ一人。
白目を剥いた男たちが、地面を舐めるように倒れている。
「……これが……コイツの本気……?」
喉が鳴った。頭が理解を拒む。
だが、その一瞬だけ、胸の鼓動が痛いほど跳ねた。
「降ろしてください! 降ろせ、この変態っ!!」
暴れるエフィムに、ヴォルーツォはいつもの調子で笑う。
「えぇ〜、抱き心地悪かった? お兄さん、意外と繊細なんだけどなぁ〜」
「黙れぇぇぇぇ!!」
――昼行燈の仮面の下に、静かに“異物”が眠っていた。
10
それから数日後のこと。
エフィムは秘書のアルキンドラネスを伴い、魔術師育成協会の理事長――バライバ・ララミデシアの執務室へと向かっていた。
硬い床を踏みしめる足音が、静まり返った廊下に吸い込まれていく。
職員たちがすれ違うたび、どこか落ち着かない様子で会釈を返していった。
「……なんか最近、協会もピリついてるわよね」
「“イル・マット”が鳴りを潜めてるって話、本当かしら」
「何か……起きるのかもな」
囁き声が、石壁に反響する。
エフィムは歩みを緩め、ちらりと横目でアルキンドラネスを見た。
彼の顔にも、わずかに影が差している。
――無理もない。
今朝方、エフィム宛に届いた一通の手紙。
それは、“イル・マット”の首頭を名乗るウィリディアスからの挑発的な招待状だった。
内容は至極簡素なものだ。
『本日正午までに、ダワイカ市場の倉庫へ来い』
罠であることなど、子供でも分かる。
けれど、それでも放置するわけにはいかない。
――あの強盗団は、前回の襲撃で取り逃がした連中だ。
この機を逃せば、再び市民が巻き込まれるかもしれない。
「会長、あまりこう言いたくはありませんが……」
歩調を合わせながら、アルキンドラネスが口を開く。
その声音は柔らかいが、底に確かな緊張があった。
「無茶はしないでください。何分まだ若いですから、どうしても……勢いに任せがちでしょうが」
エフィムは苦笑した。
――まただ。彼は何度も、同じことを言ってくれる。
まるで兄のように、そして父親のように。
「だからって、見過ごせないじゃん」
立ち止まり、窓の外に広がる協会の塔群を見上げる。
「取り逃がしたのは事実だし、ダワイカ市場の人たちも不安がってる。それに……」
唇を噛みしめ、拳を握る。
「わたしだって、いつまでも守られてばっかりじゃ嫌なんだ」
その言葉に、アルキンドラネスの眉がわずかに揺れた。
彼は深く息を吐くと、観念したように微笑んだ。
「……はぁ。会長は一度決めたらがんとして曲げませんからねえ、誰に似たのやら」
「ふん!」
「分かりました。ならば――お供します」
「いや、アルキンは来なくていい。わたし一人で十分」
「会長……!」
アルキンドラネスの声が一段、強くなる。
「たまには、私のことも頼ってください。貴方様お一人では、背負いきれないものもあるでしょう」
その言葉に、エフィムは思わず目を逸らした。
胸の奥で何かがちくりと刺さる。
――分かってる。本当は、誰かに支えてもらいたい。
でも、そう言ってしまえば弱さを認めることになる気がして、素直になれない。
照れ隠しのように笑いながら、エフィムは頭を掻いた。
「もう……アルキンってば、ほんと過保護なんだから」
アルキンドラネスは小さくため息をつく。
それでも、口元に浮かんだ微笑みは優しかった。
――まるで、「子供の我が儘をわざと見逃してやる」ような、そんな微笑。
「いいんです。守らせてください。貴方様は、私にとって……」
そこで彼は言葉を止めた。
代わりに、すっと前を向く。
「……理事長室は、この先です」
廊下の突き当たりに、荘厳な両開きの扉が聳える。
エフィムは無意識に喉を鳴らした。
深呼吸を一つ。胸の奥に残る迷いを無理やり飲み込み、エフィムは扉をノックする。
「どーぞ」
くぐもった声の向こうから、古い時計の針が刻む音が微かに響く。
室内に入ると、正面の大机の向こうにバライバが座っており、その傍らには見慣れた――いや、見たくもない――人物が立っていた。
「わぉ、エフィムくん! この前ぶりかな〜? いや〜、今日も可愛いね〜!」
ご存じ、ヴォルーツォの糞野郎である。
膝まで届く茶髪をゆるく結び、どこか芝居じみた笑顔を浮かべながら、ひらひらと手を振ってくる。
「……ヴォルーツォさん、何故あなたがここに」
「呼ばれたからだよ〜。バライバの雑用兼話し相手って奴ぅ?」
「……雑用?」
「ま、アタシが暇なときにしか入れないけ〜どね〜〜〜!」
バライバが小さく鼻で笑う。
軽やかな音が室内に響き、重厚な机や壁の雰囲気と微妙に不釣り合いだった。
「あはは、勝手に言ってなよぉ」
軽い調子で答えるヴォルーツォの横で、バライバがわずかに眉を動かした。その瞬間だけ、室内の空気が一段階、沈み込むように重くなる。
ただの経理係に過ぎない下っ端職が、魔術師育成協会の最高顧問であるバライバと軽口を叩き合う――無礼を通り越して、どこか異質にさえ映る。
それでいて、ヴォルーツォの表情には緊張や畏怖は微塵もなく、むしろ居心地良さそうに胸を張っている。
エフィムはその光景に、思わず言葉を失った。
なぜ、下っ端が理事長とこんなに自然に、しかも親しげにやり取りできるのか――。
不思議と恐怖にも似た違和感が、胸の奥でざわついた。
「……で、アルキンから話は聞いてるだろうけどねえ。アンタ一人をご指名だとさ」
バライバは淡々と告げ、机の上に一枚の封筒を置いた。
赤い封蝋が、蛇の紋章を象っている。
「アタシとしては――若造にこんな危険な仕事、任せたくはないんだけど」
エフィムは無言でそれを受け取り、封を切った。
中に入っていたのは、異様に香水の匂いが染みついた手紙一通。
『親愛なる愛しの君へ。元気にしているだろうか。
私は相変わらず仕事に追われている毎日を送っている。
ところで最近、面白い話を聞いた。
何でもお前の協会の魔術師が、私の可愛い部下たちを脅してくれたらしいじゃないか。
そんな優秀な部下を持つお前の勇姿を、是非とも一度この目で拝みたい。
共に食事でもどうだ?良い店を知っている。もちろん二人きりで、だ。
それではまた。
ウィリディアス・ルカ・グレイス』
読み終えた瞬間、エフィムのこめかみに青筋が浮かんだ。
次の瞬間、手紙はくしゃりと音を立てて握り潰される。
「――何が『愛しの君』だぁぁぁぁぁぁあっ!?」
叫んでから、慌てて咳払いをする。
「……理事長、ご覧の通り、わたしを指名してるようです。ということで、行かせてもらいますよ」
机越しにバライバがじろりと睨む。
その双眸は冷たくも慈悲深く、まるで“親”が“子”の無鉄砲を見守るようだった。
「アンタって子はほんと、怖いもん知らずだねぇ。ま〜いいわ。止めても行くんだろから。なら――好きにしな」
手をひらひらと振る。
その仕草は軽いが、その裏に含まれる「自己責任」の重みは冗談ではない。
「泣いても喚いてもアタシは助けてなんかやらないからね〜」
「ハイ!ありがとうございます!」
「あはは、エフィムくんってば、“おつかい”みたいだねぇ」
「お黙りになって頂けますか」
割って入ってきたヴォルーツォの軽口に、エフィムの喉から思わず辛辣な声が出る。
「……ってか、何で、アンタまだいるわけ?」
「まぁまぁ落ち着いて〜。お兄さんはね、ちゃんと意味があって呼ばれてるの」
エフィムがさらに言い募ろうと口を開いた時、バライバがぴしゃりと言い放った。
「文句あるならアタシに言わないと意味無いんじゃないかい?コイツを呼んだのはアタシなんだから」
ぴたりと固まったエフィムを見て、ヴォルーツォが肩を竦めながら笑った。
「エフィムくんのお尻、叩かれる寸前じゃない? あはは」
「……ホント黙ってくれませんかね」
バライバの目は笑っていない。
「ま、そ〜いう訳。よろしく頼むわ」
その視線は、エフィムだけでなくヴォルーツォにも向けられている。
軽く頷いた彼の目は、いつになく真剣だった。
「では……行ってまいります」
「……はい。行ってらっしゃいませ」
アルキンドラネスの声は少し震えていた。
だが、彼はそれ以上何も言わず、ただ祈るような眼差しでエフィムの背を見送る。
背中には、幾重にも絡みつくような気配があった。
――何かを失うかもしれない恐怖と、託されたものの重さ。
それが全て、胸の中に沈殿していく。
11
ダワイカ市場は、今日も喧騒に包まれていた。
例の強盗団集団のお陰か、客足は最盛期の半分程度に落ち込んでいる。
だが、それでも市民にとっては唯一の買い物場所――その事実は変わらない。
客の間を縫うように歩きながら、エフィムは隣のヴォルーツォをちらりと見た。
「……あのさ」
「ん?何ぃ?」
「なんでついて来てるわけ?」
「え?だってバライバに言われたんだも〜ん、心配だから監視してってぇ」
飄々とした返答に、エフィムは思わず眉を顰める。
「……あのさぁ、そういうのって普通もっと隠れてするもんじゃん」
考えれば考えるほど、苛立ちが胸の奥で膨らんでいく。
「今回は、一人で十分だから。アンタは帰れ」
「えぇ〜!? せっかく来たのに、僕を置いていくだなんて……」
「……うざ」
呟き、視線を逸らすエフィム。
だが、ヴォルーツォはさらに食い下がった。
「ちょっとぉ〜! 待ってよ! エフィムくんってばぁ〜!!」
「ウザい! キモい! 二度と話しかけんな!」
「ヒ、ヒドい! お兄さん泣いちゃうよぉ!?」
涙混じりの声に、通行人の視線がちらほら向く。
怒りと苛立ちで、エフィムは足を速めた。
右へ左へ路地を縫い、ようやく人通りの少ない場所に出る。
汗が額を伝い、息が荒くなる。
端末を取り出し、倉庫の位置を確認する。
――目的地までは、もうすぐだ。
「……全く、どいつもこいつも」
周囲を注意深く見渡し、商人たちの喧騒を背にして歩を進める。
葉の落ちた欅の影を抜け、埃混じりの冷たい風を感じながら、古びた煉瓦造りの倉庫へ近づく。
鉄柵の門は錆び付き、蝶番の軋む音が不規則に響いた。
エフィムは余ったコートの袖をまくり、拳に力を込める。
「……まだ、時間はあるな」
時刻は十一時を少し過ぎたところ。正午前、約束の時間までは余裕がある。
だが、目の前の倉庫が告げるのは、何かが確実に待ち構えているという予感だけだった。
駐車場の中央に立ち、エフィムは深く息を吸い込む。
「……ここからは、自己責任だ。誰にも頼れない。わたしだけで――やるしかない」
その言葉が喉を震わせた瞬間、空気がざらりと変わった。
遠くの喧噪が霞み、かわりに“何かが擦れる音”が、足音のように近づいてくる。
カツ、カツ、カツ――。
エフィムは反射的に振り返り、体内の魔力を展開させた。
細胞が緊張にきしむ。肌の下で魔力脈がざわめく。
そして、倉庫の角から現れた影がひとつ。
その姿を見た瞬間、喉がひゅっと鳴った。
「……ようこそ、我が城へ」
低く通る声。
厚手のパーカーにジーンズ、だがその輪郭はどこか曖昧で、まるで陽炎が人の形を取ったようだった。
フードの奥、覗く瞳だけが確かな色を帯びている。
紫でも紅でもない――金属を溶かしたような、狂気の光。
「おっと、そんなに殺気を放つとは。警戒しなさんな。オレ達は同志じゃないか」
ゆっくり両手を上げる仕草は穏やかだ。
だがその背後――壁に落ちる影が、二つあった。
ひとつは彼自身。もうひとつは、逆さまに這う“別の何か”。
「……お前が、かのウィリディアスなのか」
「ああそうさ。ウィリディアス・ルカ・グレイス。悪名ばかり先行してるが、ま、実際ロクでもないのは認めるよ」
男は笑った。その笑いには温度がない。
空気が軋む。視界が歪む。
ほんの一瞬、エフィムは自分の心臓が握り潰される錯覚を覚えた。
「お前のような奴が、この街にいて堪るか」
「はっはっはっ! 確かに! オレがいれば、いずれこの街は火の海になるだろうな!」
――その言葉に、冗談めかした響きはなかった。
ウィリディアスの足元から、黒い線が地面に広がる。
まるで影が燃えているようだった。
エフィムは奥歯を噛み締めた。
怖い。逃げたい。
それでも、任務はここからだ。
「……怖気づいてなんか、いられない」
小さく息を吐く。魔力が再び巡り、瞳が光を帯びる。
「誓ったんだ。もう二度と馬鹿にされたくないって」
ウィリディアスが、嗤った。
「いいねぇ。そうでなくちゃ、退屈だ」
風が吹き抜け、埃が舞う。
倉庫の鉄扉が――ひとりでに、軋みを上げて開いた。
そしてウィリディアスが、一歩、音もなく踏み出す。
その動作だけで、倉庫の空気がわずかに沈む。
エフィムは反射的に後ろへ一歩下がり、呼吸を整える。
差し出された右手は――あまりに大きく、無骨だった。
まるで触れた瞬間に、骨ごと握り潰されそうな錯覚を覚える。
「友好の証として、握手でもしようじゃないか。……エフィム=ゾーラ」
声は柔らかく、けれど圧があった。
「仲良くしよう。お前にとっても悪い話じゃないはずさ」
ウィリディアスは、もう一歩、距離を詰める。
まるで逃げ道を測りながら、相手の呼吸を楽しむように。
「……わたしは裏社会と繋がる予定はないし、貴様と手を組むつもりもない!」
強がるように吐き捨てた声に、ウィリディアスはわずかに口角を上げた。
「ほう。それは残念だなぁ」
その言葉には、落胆の色も興味もない。
ただ淡々と――“予定調和の拒絶”を聞いたという風に。
エフィムは油断なく相手の手元を見張りながら、足を半歩ずつ下げていく。
距離を取ろうとしても、ウィリディアスの存在は空気ごと押し寄せてくるようだった。
男は、差し出していた手をゆっくり下ろし、正面からエフィムに向き直る。
その瞳には、熱ではなく“研究者の好奇”が宿っていた。
「お前はいい子だな、エフィム=ゾーラ」
「……何のつもりだ」
「実に賢明で、慎重で、冷静で、冷徹で、冷酷で、残虐で、残忍で、残酷で、非情で、無慈悲で、無感情で、無機質で、無味乾燥で――」
ひとつひとつ、語を刻むごとに空気が冷えていく。
ウィリディアスはまるで詩を朗読するように、恍惚とした表情で続けた。
「……とても、美しい」
その言葉には、歪な慈愛の響きがあった。
「まるで“ヒト”のようだ。だから俺はお前のことを気に入っているんだよ」
静寂。
蝋燭の炎が消えるように、周囲の音が途絶える。
エフィムの背筋に、冷たいものが走った。
“美しい”――その一言が、称賛にも呪詛にも聞こえる。
ウィリディアスの瞳が細められる。
そこにあるのは、憎悪でも敵意でもなく、ただ“所有欲”に似た光。
「――なあ、エフィム」
「……はっ」
「君は知らないだろう。君みたいな“造形”が、どれほどの価値を持つか」
囁くような声。
エフィムの指先に力が入る。
魔力の流れが再び脈打つ――まるで心臓が逃げ道を探して暴れているようだった。
「……何を、言ってる……」
絞り出した声は震えていた。
自分でも気づかぬほど、喉の奥が乾いている。
ウィリディアスの瞳が細くなる。
その奥に灯るのは――理性の欠片もない、愉悦の光。
いや、“陶酔”と言っていい。
「造形」
低く呟いたその言葉を、エフィムの脳が理解するまでに数秒かかった。
「つまり――お前は『作品』だということだ」
ゆっくりと、男の右手が持ち上がる。
まるで透明な糸で操られた人形を操るかのように、指先が空をなぞる。
その仕草一つで、空気が歪んだ気がした。
「俺が初めてお前を見た時――あの魔術師育成協会の前でな」
ウィリディアスの声が、酷く穏やかに響く。
「お前の顔を見た瞬間、何かがおかしいと直感した。――整いすぎた輪郭、無垢を装った稚い肢体。魔力の脈さえも、まるで機械仕掛けのように均一だった。どこにも“ゆらぎ”がない。呼吸の乱れも、血潮の熱も。それが、あまりにも人間離れして見えてな……まるで、彫刻家の最高傑作だと思った」
エフィムの全身を冷たいものが走る。
胸の奥――心臓の辺りに、無意識の拒絶反応が生まれた。
ぞっとするほど静かな“評価”だった。
称賛でも、侮辱でもない。
それは、“観察”だ。
まるで人間ではなく、展示品を見ているかのような口調で。
「……お前は、一体何が目的なんだ」
喉の奥からやっと絞り出した問い。
ウィリディアスは、微笑を深めた。
その笑みは陽だまりのように柔らかく、それゆえに恐ろしかった。
「単純だよ」
「……何?」
「オレはお前が欲しいんだ」
その言葉が空気を裂いた。
一瞬、すべての音が止む。
風さえも、呼吸を忘れたように。
「だから――手始めに散歩でも楽しみたいと思ったんだ」
「……は?」
エフィムが固まる。
理解が追いつかない。
それは脅迫でも誘拐宣言でもなく、まるで友達を誘う言葉のように自然だったから。
ウィリディアスはゆっくりと歩み寄る。
足音が乾いたコンクリートに響く。
「そんな顔をするなよ、エフィム=ゾーラ」
「く、近寄るな……」
「怖がらなくていい。オレは優しい。痛い思いはさせない。――たぶん」
その“たぶん”が、決定的だった。
ウィリディアスの声は甘く、どこまでも柔らかい。
けれど、その笑みの奥には――何を切り捨てても構わないという確信が見える。
彼は「狂人」ではなかった。
『目的のためなら倫理を踏み越えることを当然とする人間』
――その静かな恐怖。
エフィムの掌が汗で湿る。
魔力の循環が過剰に高まり、視界の端が白くちらつく。
ウィリディアスが小さく笑った。
「いいね。その目だ。恐怖と理性の境目で揺れてる。……やっぱり君は、芸術品だ」
その囁きの直後、空気が――裂けた。
ウィリディアスの姿が視界から掻き消えたかと思うと、次の瞬間にはもう、エフィムの眼前にいた。
「――ッ!?」
掴まれた。
その指先は、肉体を“捕らえる”ためのものではなく、“支配する”ためのものだった。
感覚が追いつくより先に、身体が無理やり前へと引き寄せられる。
風が唸り、視界が反転する。
「なっ……何するつも――!?」
つんのめったエフィムが必死に体勢を整えると、ウィリディアスは軽やかに笑って言った。
「だから、ただの散歩だと言っているだろう。さあ、行こう!」
掴まれた腕が軋む。
力そのものは人間の範疇にあるはずなのに、抗うほど“内部から締め上げられる”ような痛みが走る。
それは、物理ではなく魔術的な束縛のようでもあった。
「離せ! わたしはまだ何も許可していないぞ!?」
「ああ、そうだったな。じゃあ――今から許可をもらおうか。……な?」
まるで子どもが気まぐれに誘いをかけるような口調。
だがその笑みの奥にあるものを、エフィムは本能的に理解した。
――この男は、拒絶を楽しんでいる。
「おいっ! こらっ! 話を聞け! 手を離せったら!?」
必死の抵抗も虚しく、指一本動かせない。
まるで空間そのものがウィリディアスの意志に縫いとめられているかのようだった。
「ははは、元気だな、エフィム=ゾーラ」
声は軽やかに響く。
だがその響きが通り過ぎたあとの空気は、異様なほど冷えていた。
「そう怒るな。いいものを見せてやる。……君なら、きっと“理解”できる」
その声音は甘やかで、しかし刃よりも冷たい。
そして、ウィリディアスの背後でゆらめく景色が――歪んだ。
見慣れた街の景色が、いつの間にか異界のように霞んでいく。
エフィムは息を呑んだ。
未知と不安が、音もなく足元を呑み込んでいった。
12
エフィムはウィリディアスに腕を掴まれたまま、ダワイカ市場を――散策……いや、連れ回されていた。
「君はどう思う? エフィム=ゾーラ。この街には魅力があるのに、活かしきれていないと思わないか?」
「……うるさい。わたしは何も言うことはない」
「ほほう、黙するタイプか。無口なのは嫌いじゃないが――退屈だな」
ウィリディアスの声は陽気に弾んでいるのに、音の底では何かが腐っているようだった。
その気配にエフィムは無言で前を向き、とにかく早く解放されることだけを考える。
――本当に、今のところは“散歩”にすぎない。
だがその実、腕を掴まれたままの“監視付き”の自由であり、皮肉なことに、二人の姿はまるで友達か親子に見えた。
焼き菓子を試食し、骨董品店を冷やかし、屋台の匂いを嗅ぎ分けながら歩く。
その日常的な風景の裏に、異質な緊張が流れている。
エフィムの表情は次第に険しさを増していった。
何度も腕を引き剥がそうと試みたが、ウィリディアスの指はまるで鋼鉄の枷のようにびくともしない。
“力”の問題ではない。
それは、掴まれた瞬間から空間そのものが凍りついたかのような拘束感だった。
ウィリディアスはそんなエフィムの抵抗をまるで気にも留めず、市場の人々に気さくに声をかけて回る。
たじろぐ者、逃げ出す者、そして――面白がって近づく者。
それら全てを、彼は“観察”して楽しんでいる。
エフィムは苦虫を噛み潰したような顔で、その光景を眺めるしかなかった。
そして、不意にウィリディアスが振り返る。
真っ赤な瞳が、まっすぐエフィムを射抜いた。
「……何か言いたそうだな、エフィム=ゾーラ」
「貴様のような輩がいるから、街は治安が悪化するんだ」
「ふむ、なるほど。――お前は俺が嫌いか」
「……当たり前だろう。好きになる要素0だというのに」
「なぜ?」
「何故? そんな事聞かれないでも分かるだろう。お前のせいで、皆が怯えているからだ」
「それは違うな」
ウィリディアスは淡く笑った。
まるで、誰かの愚かさを愛おしむように。
「人が幸福を感じるのは、悪があるからだ。善と悪が拮抗して初めて、均衡が生まれる。悪が消えれば、人は“善である自分”を実感できなくなる。つまり――悪こそが、善の証明なのだよ」
「……何を言っているのか分からない。結局は、お前みたいなのがいると面倒が増えるだけだ」
「ならば聞こう、エフィム=ゾーラ」
ウィリディアスの声が、風を裂くように低くなる。
「お前にとっての“善”とは、何だ?」
エフィムは一瞬、言葉を探した。だがすぐに、迷いなく答える。
「――魔術師育成協会の邪魔をしないことだ」
その答えを聞いたウィリディアスは、鼻で笑った。
「やはりな。お前もまた、常識の檻に閉じ込められた哀れな人間だ」
その一言に、エフィムの眉がぴくりと動く。
喉の奥まで出かかった反論は、言葉にならずに飲み込まれた。
沈黙の間、二人の間を風が抜ける。
香辛料の匂いと、焦げた鉄のような匂いが入り混じり――そのどちらが“人間らしい”のか、もはや分からなくなっていた。
ウィリディアスからは、未だ敵意を感じなかった。
むしろ、真意を見せないことが――何よりも不気味だった。
奴は終始、穏やかに笑っている。
だが、その目は一度たりとも笑っていなかった。
……この目、覚えがある。ヴォルーツォもそうだった。
口角は上がっているのに、隙がひとかけらもない。
笑っているのに、こちらを値踏みしているような目――。
……その思考は、唐突に中断された。
ウィリディアスが立ち止まったからだ。
エフィムが顔を上げると、彼の視線の先に木製の看板があった。
古びた筆記体の文字が、まるで血のように赤く塗られている。
「……『パライソ』?」
エフィムが小さく読み上げる。
看板に刻まれたその名は、見覚えがあった。
ウィリディアスがゆっくりとこちらを振り返る。
笑っているのに、声だけが異様に冷たい。
「――この店を知っているか?」
唐突な問い。
なのに、全身が泡立った。
まるで、心臓の鼓動を指でなぞられたような感覚だった。
ただの質問に過ぎないはずなのに。
ウィリディアスが一歩、近づく。
「まあいい。オレは博愛主義者なんでな――お前にも教えてやろう」
唇の端がゆっくりと吊り上がる。
「“パライソ”とは、スペイン語で“天国”という意味だ」
「……それで、何が言いたい」
「ここは、表向きはただの喫茶店さ」
一拍置いて、彼は言葉を噛み潰すように続けた。
「――だが、裏の事情までは知らないだろう?」
エフィムの胸が一瞬、強く鳴る。
“喫茶店・パライソ”――つい先日、自ら魔術の痕跡を探した場所。
「……まさかとは思うけど……」
「そうさ」
ウィリディアスの声が低く、滑らかに落ちる。
「ここはオレの店だ。そして――」
その双眸が、微かに爛々と輝いた。
「我々の目的に沿う“存在”が、ここにいる」
金属のように冷たい声。
扉に手をかけると、ゆっくりと軋む音が響いた。
開いた瞬間、店内から暖かな空気が流れ出す。
甘い。けれど、どこか棘のある匂い。
――その境界は、“現実”と“異界”の狭間のようだった。
「いらっしゃいませ〜! あら……?」
カラン、カラン、とドアベルが鳴る。
その軽やかな音は、あまりにも平和すぎて――
この場の緊張を、より一層際立たせた。
「……オレだ、帰ったぞ」
まるで自宅の玄関を開けたかのような調子で、ウィリディアスは店の扉を押し開けた。
エフィムの手はまだ彼に握られたまま。
抵抗する隙など、最初から与えられていない。
「まあ! ウィリディアスさん、連絡くださればお茶の用意をしましたのに!」
迎えたのは柔らかな笑顔の女店主――だが、その瞳の奥は、笑っていなかった。
艶の下に鉄の光を秘めている。
エフィムが視線を逸らすと、ウィリディアスが軽く首を振る。
「挨拶はいらない。“本題”だけでいい」
「承知致しました」
女はすぐに笑みを浮かべ、カウンターの奥――厨房の陰に身を隠した。
まるで舞台が整えられた合図のように。
沈黙が落ちる。
ウィリディアスがゆっくりとエフィムの前に立ち、瞳を細める。
「さて――エフィム=ゾーラ。呼び出したのは他でもない。……“先日の件”だ。もう、何の話か分かるな?」
声は低く、笑っているのに、冷たい。
エフィムの背筋を汗が伝う。
ウィリディアスはすでに全て知っている。
それを分かっていて、あえて“偶然の再会”を演じたのだ。
「“探偵ごっこ”とはいい趣味だ。けどな――」
ウィリディアスは一歩近づき、エフィムの顎を指で持ち上げた。
その指先は、熱い。
「お前の芝居は、開幕と同時に幕が下りた。観客はオレだけで充分だったからな」
ぽん、と。
背中を叩く音が、妙に優しかった。
それが慰めなのか警告なのか、エフィムには分からない。
ウィリディアスの唇がかすかに動く。
「次は、台本なしで演ってもらうぞ――“友達”として、な」
「――お前の目的はなんだ? わたし個人への報復なのか? それとも……」
逃げ道は既に無い。握られた腕が熱を帯び、ジンジンと痛みを放つ。
冷汗が額を伝い、こめかみに滴る。
だがエフィムは怯まない。必死に爪を立て、視線を逸らさぬように耐える。
ウィリディアスは微笑んだ。口元は柔らかく上がるが、瞳だけは冷たく光る。
「ふふっ。エフィム=ゾーラよ。“目的”か、“報復”か――どちらも面白い解釈だ」
その言葉の裏側にある感情を、エフィムは掴めない。
だが声音が一段暗く、厚くなるとき、それはまるで底無しの泥が這い上がるように重たく、粘ついた冷たさを帯びた。
「だが、“目的”という言葉では――少々生ぬるいな」
ウィリディアスの瞳がさらに爛々と輝く。
そして、低く、はっきりと一語を落とした。
「これは――“革命”だ」
唐突な単語に、エフィムの思考は一瞬凍る。
「革命」――そんな抽象的で大仰な響きが、この男の唇から出るとは思えなかった。
「この腐った世界を変えるために必要なのは、暴力でも権威でもない。“美”と“秩序”による、創造的な破壊だ」
エフィムは眉を寄せ、言葉を呑み込む。
その言葉の端に、理屈があるようで、しかし真意は刃のように隠されていた。
「何を言ってるんだ……」
「ふん、無知蒙昧な小僧めが」
ウィリディアスは鼻で嘲る。口調は冷ややかで、侮蔑を含んでいる。
「お前のような凡俗には、到底理解できない崇高な理念さ」
その断言に、一切の妥協も緩みもない。
言葉は狂気と正義が奇妙に混交した響きを持っていた。
エフィムは問い返す。核心へと迫ろうとする。
「お前は魔術師育成協会を潰すのが目的なのではないのか?」
それが最も分かりやすい動機に思えたからだ。
「――あんなもの、どうでもいいわ!」
ウィリディアスの表情が一瞬、激昂で裂ける。声が凍て付くほど尖った。
「……ああ、すまない。驚かせてしまったな」
だが、次の瞬間には嘘のように平静を取り戻し、いつもの妖艶さで耳元に囁く。
「オレはな……君を迎えに来たんだよ」
その言葉が、エフィムの背筋を走った。
反射的に距離を取ろうとするが、ウィリディアスの腕はますます強く締まり、身体は逃げ場を失っていく。
必死に暴れれば暴れるほど、拘束は食い込み、効果がないどころか深まるばかりだ。
「や、やめ——っ」
弱々しい悲鳴が喉から漏れるが、ウィリディアスには届かない。むしろ、それを愛でるかのような微笑が返るだけだ。
「なあに、怖がることはないさ。オレは博愛主義者だ。魔術師育成協会を滅ぼそうなどとは、考えたこともない」
声は穏やか。だが、その穏やかさは刃物のように研がれている。
「確かに、警察だろうと協会だろうと、こちらを排除しようとするなら対抗手段は講じる。だが――それは手段の話にすぎない」
ウィリディアスの吐息が、耳元を撫でる。
熱と冷たさが混ざる感触に、エフィムの肌が震えた。
「君は“造形”だ。世界の欠陥を整えるための、神が創りし最高傑作だ」
言葉ごとに、彼の手がさらに強く締まり、支配の意思を刻み込む。
エフィムの内側で、何かが針を打つように弾ける。恐怖。怒り。そして――理解を超えた孤独。
だが、胸の奥の小さな灯はまだ消えていない。掠れた声で、エフィムは震えながら言った。
「――そんな子供騙しで揺動を誘おうとしても無駄だ。わたしは屈服などしない」
声は擦れていた。だが、その芯は鋼のように通っていた。
ウィリディアスの手がわずかに止まる。驚き――その色が瞳に一瞬、滲む。
だがすぐに、いつもの余裕ある笑みを浮かべ直した。
「ははっ。よく吠える犬ほど、躾け甲斐があるというものだ」
そう言って、彼はさらに力を込めて抱き寄せた。
エフィムの喉から、押し殺したような喘ぎが洩れる。それでも視線は逸らさない。
その瞳に宿っているのは、屈辱への憤りと――己への矜持だけだった。
「ふぅむ……可愛い顔をしているくせに、随分と強情だな」
ウィリディアスの声は甘く柔らかい。だがその底には、静かな苛立ちが混じり始めていた。
「強情さは嫌いじゃない。だが、過ぎれば愚かさに変わる」
低く呟くと、彼の唇がゆっくりとエフィムの頬をなぞる。
親指が頸の動脈を軽く押さえ――血流を遮るように、微かな圧迫を与えた。
「なあ、エフィム。素直になれよ。オレと来れば、いい暮らしができる。あんなボロアパートなんか、もう帰らなくていいんだぜ?」
「う、ぐ!い、いやだっ……! 助けて、ヴォルーツォさんッ!!」
それは、反射的な叫びだった。
名を呼べば――誰かが来てくれる。そんな淡い願いが、声になって溢れ出た。
ウィリディアスの眉がわずかに跳ね上がる。不快の色が露骨に浮かんだ。
「――その名前を出すな」
低く、鋭い声。腕に力がこもる。
その瞬間、エフィムの中で何かがぷつりと切れた。
怒りとも、哀しみともつかぬ熱が胸を灼き、身体が勝手に動く。
「――雷よ、憤怒は空を裂き、地を穿つ。今こそ、我が名と我が意志に従えッッ!」
なけなしの力を振り絞り、ウィリディアスの胸を突き飛ばす。
その反動で距離を取り、両の掌を天へとかざした。
一拍――世界が静まり返る。
そして次の瞬間、閃光。
轟音とともに、幾筋もの稲妻が天井を貫き、床を裂いた。
眩い光が店内の窓を震わせ、空気が焼ける。
鼻を刺す焦げの匂い。舞い上がる白煙。
空間そのものが軋むような熱と光が、二人の間に弾けた。
「……やってくれる」
ウィリディアスの声が、煙の向こうから低く響く。
口元は微かに吊り上がっていたが、瞳には笑みがない。
その瞳は、獲物を値踏みする猛禽のように冷ややかだった。
「雷撃術とはな。……久々に見たぞ。随分、派手じゃないか」
彼は崩れた椅子を蹴り払い、焦げた袖を軽く払う。
煤が舞い上がる中、その身には致命傷ひとつ見当たらなかった。
「――なっ……!?」
あの雷撃で仕留めたはずだった。
上級魔術の詠唱、あれほどの威力。だが目の前の男は、平然と立っている。
エフィムは息を詰まらせ、思わず後ずさった。
「な、何で生きてるの……!ま、さか、不死身……?」
「バカを言うな。オレだって人間だ。――ただ、少しばかり壊れにくいだけでな」
ウィリディアスが肩をすくめる。
まるで今の一撃すら、軽い冗談のように。
「とはいえ、惜しいな。威力不足だ。狙いも甘い。だが――このオレに少しでも傷を負わせたその勇気だけは、褒めてやる」
エフィムの呼吸は荒く、肩で息をしている。
それでも、その眼差しにはまだ炎が残っていた。
「ふん……まだ抵抗するか。いいだろう、何度でも相手をしてやる」
ウィリディアスが一歩、前に出る。
掌の上で光が生まれ、きらめきながら収束していく。
空気が唸り、静電気が髪を逆立たせる。
「――光よ、我が命に従いて敵を討て」
詠唱とともに、ウィリディアスの掌から奔った光が空気を裂いた。
細く、鋭く、音もなく。だが確実に世界の輪郭を削り取るほどの密度を持つ。
閃光は一直線にエフィムを貫かんと走り――床を穿ち、白い余光を残して消えた。
何のことはない、初級魔術だ。
だが、その操作性、魔力の練り上げ、制御の精度――すべてが常人の域を遥かに超えていた。
まるで光そのものに意志を宿らせているような、圧倒的な完成度。
「――ふっ!」
ウィリディアスの拘束から逃れたエフィムは、身をひねりながら跳躍する。
ステップを踏むように、床を蹴り、滑り込む。
光の矢が髪を掠め、遅れて空気が震えた。
だが、攻撃は止まない。
ウィリディアスの指先がわずかに動くたび、次の光条が生まれ、次々と交錯した。
刹那ごとに放たれる光線は、直線ではなく、軌跡を描くように空間を舞い、まるで剣舞のような流麗さでエフィムを追い立てる。
「おいおい、どうした、エフィム=ゾーラ!回避ばかりじゃ、オレを倒せやしないぞ!」
嘲るような声が、白い閃光の中で響いた。
光は次々とエフィムの周囲を掠め、壁に穿孔を刻む。
焦げた木片と光の残滓が宙に舞う。
防戦一方のエフィム。
衣の裂け目から細かな血が滲み、肌を焦がす熱が襲う。
それでも、彼は歯を食いしばり、なんとか踏みとどまっていた。
――だが、それは勇気というより、わずかな猶予にすぎない。
「――風よ、刃となりて切り裂け」
短い詠唱が店内に響く。
初歩の風魔術だ。だが、狭い空間を走り回りながらの魔術行使では集中が途切れ、詠唱のリズムも狂う。
作り出されるはずの刃状の風は、かすかに舞うだけで、すぐに霧散した。
「――ふふっ」
耳元で、嘲笑混じりの溜息が弾ける。
次の瞬間、エフィムの体がぐらついた。足元が崩れ、膝が地を打つ。
小型ナイフ――その刃先が右大腿を捉えていた。
血管の集中する箇所。激痛が全身に走り、顔を歪める。
膝を折り、思わず声が漏れる。
「おっと、動かない方が身のためだぞ、エフィム=ゾーラ。コイツは元錬金術師だ。毒の調合ならお手のものだからな」
ウィリディアスの嘲る声を聞きながら、エフィムは自分の迂闊さを噛みしめるしかなかった。
視線を正面に戻すと、店主の女性がナイフを逆手に構え、冷ややかな眼差しを向けていた。
「……なるほど……その人も、裏社会の、一員……か……」
絞り出す声は震え、頬を伝うのは涙ではなく、大粒の汗。
エフィムは全身から嫌な脂汗が噴き出るのを感じ、思考がまとまらない。
「エフィム=ゾーラよ。お前の実力、測らせてもらった。……よくもまあ、この程度の能力で会長まで登り詰めたな」
ウィリディアスは静かに歩み寄り、腰を折って目線を合わせた。
彼の顔がわずかに微笑む。だが、その底に狂気が潜むのを、エフィムは直感した。
「“あの方”には悪いが、やはり“オレの理想郷”は、お前とオレだけで築くべきだ」
ゆっくり立ち上がり、エフィムを見下ろすその目は、選択肢など不要だと告げていた。
「エフィム=ゾーラ。これからは、オレのために生きろ――いや、オレがお前を生かしてやる。これ以上、苦しみたくないのなら……」
答えられず、エフィムはうつむく。
全てが崩れ去った虚無の中、震える身体をどうにか起こした。
その時だった。
「……やあ、エフィムくん。君はすばしっこいから、探すのに骨が折れたよ」
声が落ちた瞬間、場の空気がひきつれたように止まった。
視線が一斉にそちらへ吸い寄せられる。
長身で、痩せた青年が立っていた。
長い髪は緩く束ね、色彩だけがやけに浮いた服。
片手の袋は破れ、足元には転がったジャガイモ。
だが――本人だけは、落としたそれに微塵も注意を払わない。
整った笑みを貼りつけたまま、まるで別の世界に立っているかのようだった。
ウィリディアスの表情が、かすかに歪む。
いつも纏っている余裕が、薄氷のように音もなく崩れ去る。
「お前……」
「……ヴォルーツォさん……?」
エフィムの呟きに呼応するように、ウィリディアスの口元が強張った。
その一秒、空気がぴしりと揺らぐ。
――まるで最初からそこにいたのに、誰一人として“気づこうとしなかった”かのように。
ヴォルーツォは、ただ静かに存在していた。
歩み寄るたび、手さげからジャガイモがぽとりと落ちる。
それでも一切気にする気配がない。
ただ、その瞳だけが凍りつくように澄みきっている。
静謐で、底がなく、どこまでも冷たい。
「エフィムくん。そのお兄さんと、どういう関係だい?」
柔らかい声色。
けれどその奥底に、砂粒ほどの苛立ちと、異常なほど整った平静が混ざっている。
ウィリディアスは眉をひそめ、一歩退いた。
彼がこうして“間合いを取る”ことなど滅多にない。
明確な警戒――いや、拒絶だ。
「――ヴォルーツォ、遅かったじゃないか。待ちくたびれたぞ」
ウィリディアスの声には、隠そうともしない嫌悪。
その視線は鋭く、氷刃のようにヴォルーツォへと突き刺さる。
エフィムは二人の間に張りつめる気配を肌で感じていた。
なぜヴォルーツォはここに来たのか。
なぜ誰にも気づかれずに、この場へ“紛れた”のか――。
「エフィムくん、帰ろう。遅くなるとバライバに叱られてしまうよ」
柔らかい声。
けれど、その芯は揺るぎなく固い。
胸がざわつく。
投げたはずの賽は、もうどこにもなかった。
「……おっと、その必要はないぞ。エフィム=ゾーラはここで死ぬからな」
ウィリディアスが一歩踏み出す。
掌を掲げた瞬間、周囲の魔力が震えるように集積しはじめた。
光を圧縮し、凝縮し、空間にヒビを走らせるほどの密度。
初級魔術の枠を明らかに逸脱した気配が、重く沈む。
「――光よ、我が命に従いて、敵を討て!」
空気が唸った。
ウィリディアスの掌から鋭く研ぎ澄まされた光の槍が飛び出す。
白い軌跡が、真っ直ぐヴォルーツォを貫こうとした。
「――ンッフフ」
まるで日常の所作のように、ヴォルーツォは軽く頭を傾ける。
避ける気配も、防御の動作もない。
光の槍は、彼の脇をかすめ、床に突き刺さり粉々に砕け散った。
埃と火花が舞う。
エフィムの目が見開かれる。信じられない。
避けたのではない――光自体が逸れたのだ。
「……チッ」
舌打ちとともに、ウィリディアスの掌に再び光が集まる。
今度は二本、三本と増え、四方からの集中射撃となった。
だが結果は同じ。
ヴォルーツォは微動だにせず、悠然と立っている。
まるで運命そのものが、彼を庇護しているかのように。
「ねぇ、前から思ってたんだけど、もしかして君って初歩術しか使えないのぉ?」
挑発にしか聞こえない言葉。
だがヴォルーツォの口調は柔らかく、どこまでも平坦である。
その穏やかさの奥に、理解を超えた圧が潜む。
ウィリディアスの手が微かに震える。
拳を強く握り、憎悪を噛み殺すように呻く。
「――ヴォルーツォッ! お前の存在は、このオレにとって最大の汚点だ……!」
叫ぶと同時に、影に潜んでいた女がエフィムに向かって何かを投げる。
大型のダガーナイフだ。異常な速度で迫る。
「――させると思うのかい?」
ヴォルーツォは動かない。
首を軽く人差し指を傾けるだけ。
エフィムが受けようとした瞬間、ナイフは突如軌道を変え、ヴォルーツォの横を掠め、壁に突き刺さる。
女は動揺を隠せない。
「まさか、貴方……」
「違うよ。ちょっとばかり“幸運”なだけさ」
その声は変わらず柔らかく、しかし意志の重みは否応なしに伝わる。
ウィリディアスの歯が食いしばられ、怒りは焦燥に変わり、顔を歪ませていく。
「さて、エフィムくん。帰ろうか」
囁く声。
歩みを止めずに、彼は間合いを詰める。
ウィリディアスが咆哮とともに、最後の光矢を放とうとする。
だが手が、一瞬、迷いを見せた。
ヴォルーツォの瞳――深い水底のように感情を映さない眼が、静かに彼を見据えていた。
「――ッ!」
光を放つ寸前、ウィリディアスの全身に寒気が走る。
本能が告げる――撃つな、と。
手も伸ばさず、ただ静かに佇むヴォルーツォを前に、ウィリディアスは悟った。
撃てば、取り返しのつかない事態になる――皮膚の内側から湧き上がる不吉な確信。
だが、その凶兆は現実のものとなった。
「――あっ!? ぁ、がぁッ……!」
ウィリディアスの全身を裂く激痛は、唐突に訪れたものではない。
“撃つな”と警告した本能は正しかったのだ。
「ヴォル、ツォ……な、に、を……!」
世界が赤に染まる。
魔力が血管を逆流し、筋肉が裏返りそうなほど軋む。
骨が割れ、肺が燃え、臓腑がひっくり返るような痛みが内側から爆ぜる。
「――ウグァアアアアアアア!!」
人の声とは思えない断末魔が店内の空気を震わせた。
膝から崩れ落ち、床に崩れ込むウィリディアスの口から、鮮血が泡のように溢れ出す。
その姿はまるで、見えない炎で内側から焼かれる罪人のよう。
「……ダージさん!?」
女店主――マリアが駆け寄ろうとした瞬間、
ヴォルーツォがふわりと前に出て、進路を塞ぐ。
「――ああ、思い出したよ」
穏やかな声。場違いなほど柔らかい。
ヴォルーツォは目を細め、名前を思い返すように指をつまんだ。
「君は確か、ロッソファミリーの……マリア=ロッソ。そうだねぇ、十三年振りくらいかなぁ?」
思い出に浸るように、彼は嬉しげに笑う。だがその笑みは温度がない。
あまりにも無邪気で、あまりにも残酷な曲線。
「で、君がダージくんと一緒にいる理由はなんだい? ……ああ、違うか。用済みになって“捨てられた”んだね」
マリアの顔が変わった。
怒りではない。明確な殺意だ。
「黙れぇッ!!」
ダガーを抜き放ち、一気に飛び込む。
刃はヴォルーツォを裂くはず――だった。
だが、刃は空を切る。
「――な……っ!?」
その“隙間”は十秒にも満たない。
だがマリアの感覚が追いつく前に、結果はもう生まれていた。
彼女の腕が宙を舞ったのだ。
「ぎ、ぁあああああああッ!!」
肩口から鮮血が噴き上がる。
床に転がる自分の腕を見て、マリアの表情が絶句に歪む。
「良くないよぉ、マリアちゃん」
ヴォルーツォの声は、まるで近所の子供を叱るような調子だ。
「君はカミハナくんに拾われて、大事に育てて貰ったんだろう? ……だったらさ、ちゃんと“掟”は守らなきゃ。……大事なお義父さんの“お友達”に刃物を向けるなんて良くないよぉ?」
振り返ると、ヴォルーツォはすでにマリアの背後に立っていた。
左手には、何の感慨もなく、マリアのもう片方の腕をぶら下げて。
そして――ぽい、と投げ捨てる。
床に乾いた音を立てて落ちた腕を見て、エフィムが叫ぶ。
「……もう、いいよ……ヴォルーツォさん!!」
震える声。
限界に達した祈りのような制止だった。
だがヴォルーツォは振り返り、穏やかに微笑む。その瞳だけが、底なしの冷たさを湛えていた。
「エフィムくん。覚えておくといいよ」
優しい。優しいのに、あまりにも救いがない。
「この世にはね――死ぬことでしか、人に戻れない類の獣もいるんだよ。……例えば、彼らとかね」
マリアは血の海で倒れ、ダージは体内の魔力の暴走により生き絶えた。
ヴォルーツォはその光景を見渡しながら、あくまで穏やかに、楽しげに微笑み続ける。
「さ、帰ろう、エフィムくん。――ああ、それと。今後は勝手に飛び出すのはやめておいてくれると助かるな〜。……僕だって、毎回こうして駆けつけてあげられるとは限らないんだしぃ」
その声音は優しい。
優しいのに、不思議と“反論する”という選択肢を削ぎ落としてしまうような強さがあった。
「ヴォ、ルーツォ……さん……」
エフィムの声は震えていた。
だが、その震えは恐怖だけではなかった。
胸の奥に、熱のようなものが宿る。
覚悟か、それとも別の何かか。エフィムにはまだ分からない。
「……帰りましょう。後の事は……協会で処理します」
自分でも驚くほど落ち着いた声だった。
ヴォルーツォは満足そうに微笑み、柔らかく頷いた。
「うん、それがいいよ。エフィムくんが無事なら、それで十分だ」
靴音が、静かに店内へ響く。
ヴォルーツォは澱みなく歩き出し、エフィムがその背中に数歩遅れてついていく。
その直前、一度だけ後ろを振り返った。
雷撃により荒れ果てた店内。倒れ伏すウィリディアス。
腕を失い、血の海に沈むマリア。
それから、床に転がるジャガイモの無惨な残骸。
あまりにも急激に、あまりにも理不尽にすべてが変わってしまった場所。
エフィムは喉の奥が締めつけられるのを感じながら、短く息を呑む。
ヴォルーツォの優しい笑みの裏には、抗えない何かがある。
そう思った瞬間、背中にヴォルーツォの声が落ちてきた。
「どうしたの、エフィムくん」
その一言に、エフィムは反射的に返事をしていた。
「……なんでも」
振り返らずに歩き出す。
店内に残されたのは、血と、静寂と、壊れた空気だけだった。
Ending
二月六日。
今日は久しぶりに朝寝坊をした。
どのみち休みだし、たまにしかない休日を持て余すのも悪くない。
起き上がる気力もなく、夢と現実の境目を漂っているうちに、気づけば昼になっていた。
愚行だ――そう思う。
けれど、この数週間、ほぼ連勤で働き詰めだった自分を思えば、少しくらい怠惰でも許されるはずだ。
「……うーん」
いい加減、起きて遅い朝食兼昼食の準備でも――と考える。
だが一人暮らしという現実が、エフィムの背中を重くする。
自分で一から作るのは面倒くさい。けれど、贅沢に外食、と考えて見れば財布は空っぽ。
自炊もしない、服も年に一度買うかどうか。
それでもATMへ行くのも面倒くさくて、宅配を選ぶのも罪悪感を感じるのが今のエフィムだった。
「……まあ、今日は昨日の余り物でいっかぁ」
瞼がだんだん重くなる。
二度寝という名の逃避に身を任せよう――そう思った矢先だった。
ピ〜ンポ〜ン!
間の抜けたチャイムが、薄暗い部屋に響いた。
「んぁあ!……誰だよ!!」
エフィムは顔をしかめ、布団から這い出る。
家に来る相手なんて数えるほどしかいない。
宅配の予定もないし、協会の者ならもっと強めに押すだろう。
チャイムは一度きり。
だが、不気味な余韻だけが残った。
「まさか……」
嫌な予感が背筋を走る。
昨日の光景――振り返ろうともしなかった記憶が、ゆっくりと蘇る。
血の匂い。焼け落ちる魔力。
そして――あの優しい声。
エフィムはドアの前に立ち、そっと覗き穴に目を寄せる。だが、誰もそこにはいなかった。
ドアチェーンをかけたまま鍵を外し、勢いよく開け放つ。
「――新聞なら間に合ってます! 牛乳も間に合ってます!!」
思わず叫んだエフィム。
しかし、目の前にいたのは、見慣れた少女だった。
年の頃は十二、三歳くらいだろうか。
「……エ、エフィムさま、その……こんにちは」
「え、はい、おはよう」
メイリアだった。
厚手のコートに控えめなフリルのスカート。
それに比べ、エフィムは昨日帰宅後、シャワーも浴びずスーツ姿でベッドに倒れ込んだまま。
ワイシャツはシワだらけ、ネクタイは緩んで背中側に回り、長い髪は乱れ放題。
あまりの酷い姿に、慌てて襟元のボタンを掛け直す。
「……い、いや、その、見苦しくて、すまない」
メイリアの横には、アルキンドラネスが気づけば立っていて、暖かくも少し釘を刺すような視線を向けていた。
エフィムは気まずさで固まり、慌てて目をそらすと、咳をひとつ漏らして言葉を探した。
「おっほん。二人ともおはよう。良い朝だね」
アルキンドラネスが小さくため息をついたように見えたが、気にせず進めることにする。
エフィムは気持ちを切り替え、メイリアに向き直った。
「今日は何の用事かな。見ての通り、少し忙しくてね。できればまた今度にしてもらえると助かるんだけど」
少しだけ嘘を混ぜる。
本当は暇なのだが、子供相手に大人げないと思われるのを避け、見栄を張ってみたのだ。
だが、メイリアは首を横に振る。
「エフィムさまに魔術を習いに来たんです……。ほら、この間は天気が悪くて、結局中止になったので」
そう言いながら、メイリアは鞄から折り畳まれた紙を取り出した。
それは、もうすぐ行われる魔術師育成学校の受験案内だった。
「会長、また朝ごはん抜きましたね。まだ起きたてという感じですし。……はあ、手のかかる子供が増えました。これじゃ、私の給料上がりませんよ」
アルキンドラネスがため息混じりに呟く。
エフィムはムキになって言い返そうとしたが、思い直した。
メイリアの前で恥をかきたくはない。
「これから準備するつもりだったのでっ! 別に面倒だったとか、まだ寝てたいとか思ってないですから、本当だしぃ〜っ!」
思わず本音が漏れたが、メイリアは特に気にする様子もなく、ただ静かに微笑んでいる。
こんな休日も、悪くない。
そう思いながら、エフィムはゆっくりと息をついた。
地獄形成しました。
みなさま、ありがとうございます、こんにちは、さよなうなら。
またお会いしましょう。
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