終演 part.6
「――僕のエフィムくんに、何してんのさ」
その一言で、場の温度が僅かに下がった。
エフィムが掴んでいたのは、ウィリディアスの臙脂色の上着。
そして当のウィリディアスは――エフィムの尻を、しっかりと揉みしだいていた。
「ンッフフ。何って、見て分からないわけぇ?」
挑発するように口角を吊り上げる。
それだけでは飽き足らず、ウィリディアスはエフィムをさらに強く抱き寄せた。
まるで恋人。
それも、かなり深い関係にあるように。
「……汚い手で触るな。エフィムくんを離せ」
男の声は、静かだった。
だが――その声音には、隠しきれない怒気が滲んでいる。
右手が、僅かに動く。瞬間。
「――ッ!」
鋭い音と共に、氷柱がウィリディアス目がけて飛来した。
避けようと思えば、避けられたはずだ。
それでもウィリディアスは、敢えて身を引かなかった。
氷の矢が、腕へ足へ深々と突き刺さる。
「わあ!」
ウィリディアスは、楽しそうに声を上げた。
「暴力振るうんだぁ!」
血の滲む腕を見下ろし、それから男へ視線を戻す。
「可愛い弟に向かって、暴力振るうんだぁ!?」
「……ンッフフ、“可愛い”?」
ヴォルーツォの視線は、氷よりも冷たく、鋭い。
「冗談は良しなよ〜。僕に“可愛い”弟なんか居やしないから」
冗談とも、本気とも取れる言葉。
「――へぇ、そうなんだ」
ウィリディアスの笑みが、初めて消えた。
次の瞬間、エフィムを抱き締めていた腕が、するりと解ける。
「なら――いつぞやの続きでも、しようじゃないか」
その直後だった。
二人の姿が、同時に掻き消える。
――そして。
「ヴォルゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥツォォォォォォォォォォォォォオ!!」
号砲の如く絶叫が響き渡った。
「肉片一つも残らないくらい、グッシャグシャのギッタンギッタンにしてやんよォ!!」
その宣言と、ヴォルーツォの詠唱はほぼ同時だった。
「――風よ、刃となりて切り裂け」
鋭い風の刃が、ウィリディアスへ殺到する。
「あは♡」
避けるどころか、ウィリディアスは真正面から突っ込んだ。
風の刃が肉を裂き、衣服を切り刻む。
それでも――止まらない。
「ンッフフフフフフッ!」
血を撒き散らしながら、なお笑う。
そして次の瞬間には、無数の傷が音もなく塞がっていく。
「もう、終わりぃ? もしかしてぇ――」
ウィリディアスは止まらない。逃げない。
「――魔力切れかなぁ!?」
次の瞬間、彼の姿が掻き消えた。
「――水よ、礫となりて打ち据えよ」
ヴォルーツォの手から無数の水滴が生まれ、弾丸となって撃ち出される。
しかし――当たらない。
水の礫が空を穿つたび、ウィリディアスは紙一重で躱し、さらに距離を詰めていく。
まるで、わざと攻撃を避けさせているかのように。
「……っつ!」
ヴォルーツォの肩に、小さな裂傷が走った。
続いて腕。頬。そして――頭。
どれも致命傷には程遠い、取るに足らない傷。
だが、それは一つではない。
二つ、三つ、四つ、五つ――小さな傷が、確実にヴォルーツォの身体を蝕んでいく。
「……速い」
エフィムは息を呑んだ。
早い――いや、早すぎる。もはや、目では追えない。
黒煙を吐き出す焔を背に、エフィムはただ二人の姿を追い続ける。
そして気づく。
ウィリディアスは、ヴォルーツォを傷つけることよりも――ヴォルーツォに、小さな傷を負わせ続けることを狙っている。
「ヴォルーツォさん!」
そんなに大声を出したつもりはなかった。
ヴォルーツォとウィリディアス、二人の視線が同時にエフィムへ突き刺さる。
「……えへ♡ そ〜れ!」
ウィリディアスが指先を掲げた。
次の瞬間。エフィムの頭上に、紫電が走る。
「――ッ!」
一直線に落ちてきた雷撃。
咄嗟に障壁を展開する。轟音と衝撃。揺らぐ足場。
「――きゃっ!」
辛うじて直撃は防いだ。
だが――障壁が砕ける。
その一瞬を、ウィリディアスは見逃さなかった。
「きゃっ! だって……♡ ンッフフ。エフィムくんてば、女の子みたいな声出しちゃってさぁ……はぁはぁはぁはぁはぁ!」
姿が消える。
回り込む。滑り込む。するりと、ぬるりと。
「――そぉれ!」
視界が一気に揺れた。
気づいた時には、エフィムの小さな身体はウィリディアスに抱え込まれていた。
「離せ――!」
抵抗する間もない。
視界が、遮られる。
そして――唇を、熱く柔らかな感触が塞いだ。
「――ウィリディアス!!」
初めて、ヴォルーツォが声を荒らげた。
ウィリディアスの狙いは明白だった。
エフィムを餌にすることで、ヴォルーツォの注意を引き、隙を作り出している。
「やめろ」
低く、鋭い声。
「エフィムくんに、汚い手で触るな」
「へぇ?」
唇を離したウィリディアスは、ペロリと舌なめずりをする。
「だってさぁ。僕のエフィムくんを寝取った挙句、暴力まで振るうような酷い兄なんて――いらないよねぇ?」
「黙れ」
静かな声だった。怒鳴りもしない。魔力を膨れ上がらせもしない。
ただ、その一言だけで空気が張り詰める。
完全に囮にされている。
自分の意志とは裏腹に、エフィムは戦場の真ん中で、為す術もなく晒されていた。
「ンッフフ――ねえ」
ウィリディアスが、楽しそうに笑う。
「なら、賭けでもしようか。ヴォルーツォ」
その腕の中で、エフィムは必死に身を捩る。
「もし僕が負けたら――エフィムくんには、もう二度と近寄らない」
一拍。
ウィリディアスの口角が、ゆっくりと吊り上がった。
「だけど――お前が負けたら」
「いいだろう」
「……およ?」
パチクリ。
ウィリディアスが、素っ頓狂な声を上げる。
まさか、ここで即答されるとは思っていなかった。
「だけど……お前が約束を守るとは思えない」
ヴォルーツォの視線は、ウィリディアスから逸れない。
「それでも構わない。僕は、エフィムくんさえ無事ならば、それでいい」
「へぇ……」
ウィリディアスが瞬きをする。
そして――「そっか、そっかぁ」
その顔に、再び嫌らしい笑みが戻った。
「ンッフフ、それが愛ってヤツなんだねぇ……。うわぁ、僕、感動して泣けてきちゃったよぉ……およよよよ」
芝居がかった動作で、嘘泣き。
どこまでも不遜で、どこまでも傲慢な男だった。
「離せ……! 降ろせっての!」
エフィムが、ウィリディアスの腕の中でもがく。
迫る黒い焔。対峙する、同じ顔を持つ兄弟。そして、その腕の中で必死に足掻くエフィム。
一触即発――その間にも、漆黒の炎は音もなく忍び寄っていた。
すべてを呑み込まんと、静かに、しかし着実に蠢きながら。




