風の語り部 ending
ロティリス郊外にある国立中央病院。
エフィムは受付を済ませ、静かな病棟へと歩を進めた。
これほど足取りが重くなることがあるだろうか。
意を決して病室の扉を開ける。
そこには、見知った女がいた。
絹糸のような髪。痩せ細った体躯。虚ろな瞳。緩慢な仕草。
「……失礼します。こちら、メアリーさんの病室で間違いありませんか」
部屋は個室だった。
ベッドには、一人の女性が横になっている。
女性はアンネローゼの声に反応し、ゆっくりと身を起こす。
母は、あの頃と何ひとつ変わらぬ姿で、そこにいた。
「おかあさん」
どうして捨てたんですか。
貴女のせいで、どれほどの苦労と苦痛を味わったと思っているんですか。
「……あら、どちら様? ごめんなさい。覚えていないの。どちら様だったかしら?」
その一言が、アンネローゼの胸を深く抉った。
アンネローゼは拳を強く握り締め、血が滲むほど唇を噛み締める。
「貴女の息子です」
母は小さく首を傾げた。
「……あら、ワタシに息子はいないわ。病室を間違えているんじゃないかしら」
「そっか」
一拍置いて、アンネローゼは笑った。
「やっぱり覚えてないんだ」
胸の奥から、どす黒いものがじわりと滲み出す。
「――お前のッ! お前のせいでッ!! お前のせいで!!」
気づけばアンネローゼは、母をベッドから引きずり下ろしていた。
そのまま馬乗りになり、細い首を両手で締め上げる。
「死ね……死ね、死ね死ね死ね死ね……ッ!!」
その声に、自分でも息を呑んだ。
ねぇ。何で?
ねぇ。
「なんで……捨てたの……」
どうして。ねぇ。
「あんたのせいで、父親を名乗る男に犯されたんだぞ……」
何で。何で。どうして。
その瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
不意に、母の手がアンネローゼの頬に触れる。
それは驚くほど自然で、そして温かかった。
「仕方なかったのよ、アンネローゼちゃん。こうしなければ、貴方を守れなかった」
「……守る?」
笑わせるな、と喉の奥で吐き捨てる。
子供を置いて、ある日突然消えたくせに。
「おかあさんおかあさんおかあさん」
アンネローゼの中で止まっていた時間が、音を立てて動き出す。
「……ありがとう。こうしてまた会えた。すごくうれしい。会いたかった。ずっと待ってた」
ああ、そうだ。
会いたかったんだ。
心の奥で燻り続けていた何かが、形を得る。
「ごめんなさい、アンネローゼちゃん」
母の声が、思考を切る。
「ワタシの身勝手で貴方を不幸にしたのは事実。でも、どうしても仕方ないことだったのよ」
「……何が仕方ないんだよ」
本当は、別の男でもできて、どこかへ消えたのだと。
身体の中で、憎悪だけが膨れ上がっていくのを感じる。
「――ああ、もう! 死ね!! 娼婦上がりの薄汚い売女が!」
アンネローゼがポケットに忍ばせていた触媒へ手を伸ばした、その瞬間。
「エフィムくん、それ以上は良くないよ」
背後から抱き止められる気配。
同時に、ふわりとマグノリアの香りがした。
――それは、彼にとって“安心”を意味する匂いだった。
思わず振り向く。
そこにいた彼は、何も言わず、ただ静かに微笑んでいる。
「君の魔力を辿ってきた。随分と遠くまで来ちゃったね」
彼は軽く笑ってから、視線を母へ向けた。
「お母さん、初めまして。僕はヴォルーツォ。エフィムくんと婚約してるんだ」
ヴォルーツォはそう言うと、エフィムをそっと解放し、距離を取らせるように一歩下がった。
「まあ! やっぱりアンネローゼちゃんは立派な女の子じゃない!」
息子を娘として扱うことに、何の疑問も抱いていない声だった。
ヴォルーツォは楽しげに目を細める。
「祝福されちゃったね、エフィムくん。断られたらどうしようかと思ってたけど……これで心置きなく同棲できるね」
ぽん、と軽く頭を叩かれる。
その瞬間、張り詰めていたものがふっと抜け落ちるような感覚があった。
二人は寄り添うようにして、部屋を出ていった。
「ムー・ヌーよ、ハムヤタカの神よ」
メアリーはそっと目を閉じる。
「どうか彼らが、末長く幸せでありますように」
一瞬だけ言葉が途切れる。
「どうか、エフィム=ゾーラをお守り下さい」
第8話 風の語り部 完
第8話完結しました。




