第八話 運命の再会
黒い魔晶石は、空間魔法を放った後に報酬として与えられた品だ。
ならば、空間魔法と無関係なはずがない。
『元素魔法入門』によれば、魔晶石の主な用途は魔導器の製作である。内部に、極めて濃密な魔法エネルギーを秘めているためだ。
そして、もう一つの使い道がある。
魔晶石そのものを使い、直接術を放つ方法だ。
ただし、密度の高い魔力は暴走しやすい。実践するなら、小さく質の低い魔晶石が推奨されていた。
俺様最強は円盤を革で覆い、攻撃を止めていた。さすがに消耗が惜しいらしく、徐へ目配せし、岩の向こうを見てこいと顎をしゃくる。
徐は劉の魔法を警戒していた。薬で止血はできても、右手にはもう刀を握る力がない。
危険を冒す気はなく、身振りで「神盤を使え」と返す。
二人とも、大岩の脇に生えていた草が、数本だけ途中から千切れたことには気づかなかった。
その短い間に、劉は念動力を遠くまで伸ばそうとしていた。限界はおよそ三メートル。そこでようやく、草を引き千切ることができた。
「おや、どうしたんです? もうおしまいですか?」
二人が小声で言い争うなか、劉は何事もないような顔を作り、大岩の陰から立ち上がった。
「その安物の円盤、大した威力じゃないんですね」
続けて、挑発するように指を曲げる。
「来ないなら、こっちから行きますよ?」
俺様最強の顔が、一瞬で赤くなった。
「てめえ……! もう荷物なんかどうでもいい! 今日こそ炭になるまで焼いてやる!」
円盤を再び取り出し、熱を集め始める。
劉はその瞬間を狙っていた。
背に隠していた右手を振り抜き、黒い魔晶石を円盤へ投げつける。
腕へ力を込めると同時に、魔力で石を包んだ。
あの感覚が蘇る。
掌に、一つの星を握っているような感覚。
今度は抗わず、自分の意識が星へ少しずつ溶け込むに任せた。
腕は弧を描いているはずなのに、その速さも距離も感じ取れない。意識ははっきりしている。それでも、このままでは自分そのものが消えてしまうような、ひどい違和感があった。
魔晶石が手を離れた瞬間、すべてが元へ戻る。
しかし石は、狙いどおり砕けなかった。
起動したかのように黒い光を放ちながら、空中を飛んでいく。
まずい。
劉は焦って魔力を伸ばし、遠ざかる石へ念動力を叩き込もうとした。だが、もう届かない。
同時に、力を集め終えた神盤が、灼熱の光線を放った。
光は魔晶石のそばを通り過ぎる――はずだった。
吸い寄せられたように軌道が曲がる。
放たれたすべての光が、空中に浮かぶ黒い魔晶石へ注ぎ込んだ。
接触した瞬間、漆黒の亀裂が光線を逆流した。
ファスナーを開くように空間を裂き、俺様最強の立つ場所まで一息に走る。
光線が消えた。
一瞬、何も起きない。
周囲は不自然なほど静まり返り、迫りくる災厄を待っているようだった。
次の瞬間、魔晶石が砕け散った。
不安定な空間エネルギーが、完全に暴走する。
数十メートル四方の空間が、ガラスのように割れた。
無数の黒い裂け目が虚空に生まれ、何の規則もなく広がり、縮み、触れたものを切断していく。
暴風が吹き荒れた。土石も落ち葉も巻き上げられ、裂け目の奥へ呑み込まれる。
異界の軍勢が空間を引き裂き、今にも雪崩れ込んでくるような光景だった。
俺様最強は驚く暇さえなかった。
上等な装備も、手にした光輝神盤もろとも、空間の裂け目へ消えていた。
我に返った徐は、呆然と数歩後ずさる。その足が、地面に開いた亀裂へ落ちた。
裂け目は小さく、どうにか身体を支えられた。
だが脚を引き抜こうとした瞬間、亀裂が閉じる。
徐の膝から下が、音もなく切断された。
*
数キロ離れた森。
灰色の野兎は、顎が閉じた瞬間に動かなくなった。
漆黒の毛皮から覗く牙がゆっくりと開き、獲物をキノコの生えた木の根元に落とす。
背に骨鰭を生やした、尾の短い黒豹だった。
獲物へ頭を下げようとしたとき、不自然な気流が森を抜け、耳先の毛を揺らした。
黒豹の動きが止まる。
縦長の瞳孔が鋭く縮み、顔は南東の空へ向けられた。
助走もなく、眼前の空間へ飛び込む。
空が幕のように引き裂かれ、黒豹の姿を呑み込んだ。
百メートル先の中空に亀裂が開く。
黒い身体が飛び出し、また次の裂け目へ潜る。
広大な緑の樹海を、黒い残像が連続して駆け抜けていく。
黒い針が、物理法則を無視した直線軌道で森を縫うように。
その先にあるのは、空間嵐の中心だった。
*
光線が曲がってから魔法が暴走するまで、二秒もなかった。
劉は一瞬たりとも立ち止まらず、背を向けて走っていた。
焦げた脚を引きずり、長槍を杖代わりにして、嵐の外へ必死に進む。
不思議なことに、裂け目が生まれる前兆を感じ取れるようになっていた。
空気に奇妙な震えが走る。
本能的に頭を下げると、黒い細線が頭皮すれすれを走り、髪を数本切り落とした。
続いて無様に横へ転がり、腰の高さに突然開いた半メートルほどの亀裂を躱す。
それでも劉は、必死に地を這う徐と、すでに消えた俺様最強を嘲ることを忘れなかった。
「はははは! その程度で追い剥ぎなんかやってたのか? 出直してこい! 今日お前たちを倒したのは――うおっ!」
目の前にまた亀裂が走る。
予感に従って横へ踏み、紙一重で避けた。
「よく覚えとけ! 大空間魔法使い――【狂想の主】だ! はははは!」
いったい、あの二人は何人の初心者から品を奪ってきたのだろう。
特に俺様最強が最初の一撃を防いだ障壁は、おそらく希少な使い捨ての護身具だ。
それにしても運の悪い男だった。劉自身、もう終わりだと思っていたのに、あの円盤が魔晶石を起爆してくれた。
まさに自業自得である。
空間嵐は荒れ狂っている。
劉は片脚を引きずりながら、裂け目の予兆を追って左右へ身を躱した。一度でも反応が遅れれば命を失う。
それなのに、その顔は興奮に輝いていた。
「残念だったなあ。装備は全部、虚空の底だ! 誰にも拾えないぞ! ははは!」
転びそうになりながら六、七十メートルほど進むと、空間魔法の勢いが目に見えて弱まり始めた。
劉は少しだけ足を緩め、息を整えようとする。
その瞬間、胸の奥が強く脈打った。
左上の空間が歪む。
また亀裂が――いや、今度は整然とした裂け目が開いた。
虚空から、黒い影が飛び出す。
その巨体が陽光を遮り、逆光の中で輪郭が途方もなく大きく見えた。
暴走する空間嵐さえ切り裂き、すべてを滅ぼす黒い稲妻のように迫る。
劉が顔を上げた、その瞬間。
冷たい縦長の瞳と、真正面から目が合った。
琥珀色の眼球には、獲物を追う冷気が宿っている。
一秒が無限に引き延ばされ、口元にこびりついた乾いた血まで見えた。
終わった。
戦闘の本能に突き動かされ、右手を上げる。
あの日、黒豹の尾を切断した空間の揺らぎを再現しようとした。
意識はほとんど集中できない。腕は引き千切られそうに軋み、残り少ない魔力が、黒い底なし穴へ貪欲に吸い込まれていく。
だが裂け目は暴走するどころか、むしろわずかに安定した。
それだけだった。
黒豹の軌道は、ほんの少しも変わらない。
劉の視界が急速に暗くなる。
魔力枯渇による目眩が意識を断ち切り、糸の切れた人形のように、仰向けに倒れた。
【魔力枯渇により、昏睡状態へ移行しました】
【ゲーム内時間で約二時間後に覚醒する見込みです】
「ふざけんな! こんなのありかよ! 勝った直後に、どうしてこいつがまた出てくるんだ!」
「応答機能を有効にしろ!」
「おい! しばらくは黒豹に遭遇しないって言ったよな? これはどういうことだ!」
「お客様と類似するプレイデータがデータベース内に極めて少なかったため、予測に誤りが生じました。お詫び申し上げます」
劉は言葉に詰まった。
こいつが、素直に謝った?
いつも神経を逆撫でするピクセル・フェアリーが、初めて言い返してこなかった。かえって調子が狂う。
「まあ、誰にでも間違いはある。人なら当然――いや、AIなら当然だ!」
「ご理解に感謝いたします。お客様の遊び方は非常に――特異ですので、データ提供につきましても重ねて御礼申し上げます」
また、何か妙な含みがある。
「俺はいつデータを提供するって言った?」
「サービス利用規約へ同意されています。『ガイア・クロニクル』プレイヤー利用規約、第――」
「待て待て待て。応答機能を切れ!」
やはり、油断してはいけない相手だった。
生命維持カプセルが音を立てて開く。
劉は上体を起こし、大きく伸びをした。
「現在時刻、十八時三十三分。天候、霧」
このゲームで遊んでいると、本当に時間の感覚がおかしくなる。
「ずっと遊んでたら、寿命が三倍に延びたようなものじゃないか?」
もっとも、電子脳や生体脳のデータ化は、数百年前に実現している。ジェダイト帝国の遺伝子技術など、さらに桁外れだ。
当時は不老不死と意識の在り方を巡り、大きな議論が起きたという。
かつて、ある惑星を一族企業が独占支配した事件もあった。創業者にして最大株主の正体は、データ化した意識を使い、たった一人で二百年以上も惑星を統治していた人物だった。
今の連邦には、データ意識や仮想生命に関する法律も専門機関もある。
それでも、寰宇発展理事会には、そんな怪物じみた古参が何人もいるのだろう。
とはいえ、しがない大学生の劉には、ほとんど関係のない話だ。
現実へ意識を戻す。
時刻はちょうどいい。出前を頼み、少し休もう。
季節は初冬。朝から小雨が降り、外は深い霧に包まれていた。
街のネオンは滲んだ色の塊となり、空と地上を走る交通機関の灯りが、血管のように高層建築の間を流れている。
しばらくすると、窓の外から微かな羽音が近づいた。
配送ドローンが霧を抜け、バルコニーの受取口へ静止する。
小さな音とともに荷物が投下され、機械腕が格納された。ドローンは再び、流れる光の海へ消えていく。
「新しい配送物があります」
さすが、コンビニの配達は速い。注文から発送、配送まで完全自動だ。
金さえあれば、一年中家から出ずに暮らせそうだった。
劉はタッチパネルを呼び出し、食事をしながら記録を書き始めた。
一回目:杖。念動力を転移門へ直接ぶつける。暴走。黒点なし。
二回目:杖(空間魔力あり)。念動力の発動中、干渉時の記憶を想起。暴走。転移門なし。黒点あり。
三回目:素手/黒い魔晶石。念動力で魔晶石に触れ、押し出す(非破壊)。効果なし。
三・五回目?:円盤。(起動済み?)魔晶石。高エネルギー光線が誘導され直撃。暴走。転移門あり。黒点なし。
四回目:素手。念動力を転移門へ直接ぶつける。効果なし。
これまでに起きた空間魔法の現象をまとめ、発動の法則を探してみる。
「つまり、放出するための媒介が要る。空間エネルギーも鍵だ。それに、あの感覚……」
だが、見返すほどに顔が引きつった。
「データが足りない! 一度も安定して発動できてないじゃないか!」
まあいい。最悪、もう一度暴走させればいい。
あの二人の末路を思い出し、劉は悪い笑みを浮かべた。
暴走したときの威力だけは、相当なものなのだから。




