第九話 嵐のあと
食事を終え、椅子にもたれてぼんやりしていると、急に疲労が押し寄せてきた。
「はあ。また魔力切れか」
先ほどの死闘と、円盤が引き起こした空間嵐。思い返すだけで、まだ血が沸き立つ。
あれで綺麗に終わっていれば最高だったのだが、最後に現れたあの大猫が問題だ。
見間違いでなければ、背鰭まで生えていた。
「黒豹、成長して復讐を遂げる。かつての宿敵を虫けらのように葬り去る――ってか。へへっ」
劉は長く息を吐き、椅子の上で脚を伸ばした。全身が溶けてしまいそうなほど、だらりと背もたれへ沈み込む。
この二日間は、さすがに冒険の密度が高すぎた。
今度こそ、あの大猫に殺されるだろう。
幸い、値の張る持ち物はほとんどない。辺境の村も安全地帯になったため、復活場所には困らなかった。
あとは、死体まで戻る途中で、あの二人組と鉢合わせしないことを祈るだけだ。
このゲームの死亡ペナルティは単純で、しかも重い。
一部の希少品を除き、所持品はすべてその場へ落とす。さらにゲーム内時間で七十二時間――現実では丸一日、復活できない。
ただし遊びやすさへの配慮として、【魂を損なった放浪者】になることはできる。
その状態では戦闘不能、重要情報の取得不能、所持重量の大幅低下、非公開区域への進入禁止といった制約があり、ほかのプレイヤーから姿を非表示にされることもある。
復活後に急いで死亡地点へ戻り、装備を回収する。それが、いわゆる死体回収だ。
もちろん、誰かに奪われたり、獣に食われたりしていなければの話だが。
復活まで三日という時間も痛い。長期戦の戦場や、緊急性の低い事件ならまだしも、普通のイベントでは丸三日も介入できなければ高評価など望めない。事件そのものが終わり、予想もしない展開へ転ぶ可能性さえある。
ともかく、一度ログインして状況を確認しよう。今日はそれで休む。
辺境の村へ死に戻ったら、アンナはきっと驚くだろう。
「大猫め。今日からお前は、俺の宿敵だからな!」
*
見慣れた読み込み演出が終わる。
視界は真っ暗だった。頭は重く、全身が痛む。特に背中と脚の傷がひどい。
――待て。
なぜ痛い?
死んでいないのか?
負傷した脚に、ざらついた湿ったものが触れている。棘のある何かが傷口を繰り返し舐め、温かな息を吹きかけていた。
劉は重い瞼をどうにか持ち上げた。
まだ焦点の合わない視界に、巨大な黒い影が映る。
すぐに目を閉じた。
尻尾を切られた恨みは、もういいのか?
それとも、ざらざらの舌で傷を苛めてから殺すつもりなのか?
劉はそのまま死んだふりを続けた。
だが黒豹は、とっくに目覚めたことに気づいている。生臭い鼻息が顔にかかり、続いて、あの湿った舌が頬を舐めた。
「待て待て! 起きた、もう起きたから!」
劉は黒豹の頭を押し退け、上体を起こした。
視界が次第に澄んでいく。
漆黒の毛皮。背から突き出した骨鰭。そして見間違えようのない短い尾。
黒豹は押された勢いのまま地面に座り、家猫のように前脚を舐め始めた。
やがて何かに気づいたように耳を震わせる。空間を裂くと、慌てる様子もなく、その中へ跳び込んでいった。
以前より一回りどころではなく大きい。もはや、普通の黒豹と呼べる範囲を完全に外れていた。
しかも、本当に背鰭が生えている。
一度に入ってきた情報が多すぎるうえ、身体もひどく疲れていた。劉は呆然と座り込み、黒豹がどこへ行ったのか考える気にもなれなかった。
周囲の森は、見えない巨大な刃に薙ぎ払われたようだった。
樹木も灌木も岩も、不自然な形で断ち切られている。切断面はひどく滑らかで、木屑一つ見当たらない。
樹冠だけが地面へ落ち、切り株と寸分違わず重なる木もあれば、中ほどを空間ごと失い、ぞっとする空白だけを残した木もあった。
連続していた風景はばらばらに砕かれ、どこか現代美術めいた有様になっている。
「物語の流れから考えると、あの大猫は――」
独り言で分析を始める前に、また空間が揺れた。
先ほどの嵐で神経が過敏になっていた劉は、反射的に両手をつき、後ろへ身を引く。
現れたのは、やはり黒豹だった。
口には野兎をくわえている。
血に濡れた獲物が、劉の目の前へ落とされた。黒豹は明らかに「お前にやる」と言いたげな顔をしていた。
「気持ちはありがたいんだけどな、豹の兄貴。俺はこれ、食べられないんだよ。せめて焼いてくれないか?」
両手で炎の形まで作り、加熱調理の素晴らしさを伝えようとする。
当然、黒豹には通じない。前脚で野兎を劉のほうへ押しやった。
困った。
ここは大事な場面だ。豹の兄貴をがっかりさせるわけにはいかない。
火の魔法は使えない。なら、鼻を摘んで一口だけでも食べるべきか。
劉は二本の指で兎の耳を摘まみ上げた。
しばし葛藤し、決死の覚悟で脚へ噛みつく。
「ぺっ、ぺっ!」
口へ入った毛を、すぐに吐き出した。
「俺たち二本脚は、これじゃ食えないんだ!」
困り果てた顔で首と手を横に振り、兎を黒豹の前へ戻す。
「それに怪我をしてる。治療薬が残ってないか探さないと!」
口実を並べ、長槍を杖にして立ち上がった。
黒豹が腹を立て、やはり殺すと言い出さないことを祈る。
だが心配は無用だった。黒い大猫は劉を気にも留めず、地面の野兎を食べ始めている。
劉は右脚を引きずりながら、暴走の跡をのんびり見て回った。
「すごい威力だな。攻撃にも移動にも使える。普通の元素魔法なんかより、ずっと強いじゃないか!」
自分が普通の魔法を使えないことへの僻みも、少しばかり混じっていた。
記憶を頼りに探すと、ほどなく背嚢の残骸が見つかった。
背嚢そのものは残っている。ただし、三分の一ほどしかない。地面へ並べた品々も、切れ端となって周囲に散らばっていた。
幸い、治療薬は半瓶残っていた。瓶口はひどく滑らかに切れており、気をつけなければ唇まで切りそうだ。
さらに奥には、【澄んだ魔晶石】が無傷で転がっていた。
普通の魔晶石は淡い青色に光り、透かしても向こう側はぼやけ、色も形も歪んで見える。
だがこの石は、名のとおり本当に澄み切っていた。
角張った結晶なのに、まるで薄いレンズのように、その向こうの景色がはっきり見える。
用途が分からなかったため、劉は戦いの前も身につけず、背嚢へ残していた。失ったのではないかと心配していた品だ。
ほかにも、思わぬ拾い物――あるいは、見たくないものがあった。
二つのモザイク状データ塊のそばに、一本の曲刀が落ちている。
数時間前、劉を苦戦させた、あの刀だ。
モザイクは、おそらく徐の腕の「残骸」だろう。
不快表現の遮断設定を上げておいてよかった。野兎の死骸は傷口しか隠されていない。
世の中には、こうしたものを見たがるプレイヤーもいる。すべて表示する設定にして楽しむらしいが、できれば関わりたくない人種だった。
黒豹がゆっくり近づき、徐の残骸へ迷わず噛みついた。
「おい! それは食べちゃ駄目だ!」
劉は慌てて、その頭を押し退けようとする。
言うことを聞いたのか、単に不味かったのか。手が届く前に、黒豹はそれを吐き出した。
だが劉の手は、すでに黒豹の頬へ触れている。
猫の頭は不用意に撫でるものではない。
気づいた瞬間、背中に冷たい汗が流れた。急いで右手を引っ込める。
黒豹は何の反応も示さず、劉を無視して残骸の匂いを嗅いでいた。
本当に、敵意はないのか。
友人の家の茶トラなど、触るどころか、手を伸ばしただけで威嚇してくる。
黒豹の威嚇は、家猫とは違うのだろうか。
劉は曲刀を拾い、丁寧に検分した。
材質は上等。柄は手に馴染み、刃も鋭い。
戦いで木の柄を正面から受けに使わなかったのは正解だった。二、三度も打ち合えば、槍は断たれ、そのまま頭へ刃が落ちていただろう。
俺様最強のレイピアが、持ち主もろとも虚空へ落ちたことだけは惜しい。あちらこそ、本当の上物だったはずだ。
劉は残念そうに首を振り、曲刀をゆっくり構えた。
刃が滑らかに舞い始める。
一つひとつの型に淀みはなく、切っ先が空気を裂くたび、小さな風が起きた。
数年前、劉は地球時代のある年代を舞台にした武侠ゲームを遊んでいた。冷兵器の扱いは、ほとんどそのゲームで身につけたものだ。
当時、一人の宿敵がいた。
劉は義賊、相手は捕吏。何度も戦い、勝敗は五分。喧嘩を重ねるうち、いつしか仲も良くなった。
この刀法も、彼女から教わったものだった。
「もうずいぶん連絡してないな。最後に来たのは、引退して別のゲームへ行くって話だったか」
「ちょうど『ガイア・クロニクル』が出た頃だ。まさか、これじゃないだろうな。今度聞いてみるか」
周囲を探し、使える品をまとめる。
残った治療薬を慎重に飲み、干し肉で空腹を満たすと、再び旅立つことにした。
武器は徐の曲刀へ持ち替えた。長槍はもうぼろぼろだったため、途中から折り、杖代わりにする。
木弓は一度も使わないまま虚空へ落ちた。曲刀が手に入ったのは、まさに渡りに船だった。
豹の兄貴が何を望んでいるのかは、相変わらず分からない。
ともかく劉は、元の街道へ戻り、フェスを目指して歩き出した。
今度は大猫が一頭、旅の連れになった。
それでも道のりは、疲れるうえに退屈で――。
突然、一つの考えが稲妻のように閃いた。
劉は目を輝かせ、黒豹を横目で盗み見る。
滑らかな漆黒の背には、しなやかな筋肉が浮かんでいる。背の骨鰭も、疾風のような――いや、亜空間暗黒物質のような速さを象徴しているようだった。
豹の兄貴が乗せて走ってくれたら、楽なのにな。
焦りは禁物だ。道はまだ長い。
劉は暇に任せて、道中ずっと黒豹へ話しかけた。
ついには「漆黒の支配者」という名前まで提案する。【狂想の主】と互角に渡り合うなら、それくらい格好いい名でなければならないらしい。
黒豹が気に入ったかどうかは分からない。
相変わらず劉をほとんど無視し、時折立ち止まって辺りを窺っては、空間の裂け目へ消えていく。
最も長いときは、三十分も戻らなかった。
劉が距離を縮めようと、恐る恐る頭へ触れた直後だったため、機嫌を損ねて去ったのかと思った。
後悔の言葉を口にしかけた頃、何事もなかったように裂け目から出てきた。
出発からさらに二時間あまり。
空は暗くなり、周囲には人の営みの痕跡が増えていた。フェスはもう遠くない。
突然の襲撃を受け、現実でもゲームでも考え事を重ね、傷ついた身体を引きずってここまで歩いてきた。
劉は今、心身ともに限界だった。
野外でのログアウトが危険でなく、黒豹の真意も分かっているなら、今すぐゲームを切ってベッドへ倒れ込みたい。
わずかに温かな風が吹く。
前方の視界が、一気に開けた。
巨大な月が空に掛かっている。
劉は折れた槍へ身体を預け、血に汚れた顔を夜風へ向けた。
その隣には黒豹が静かに座り、漆黒の毛皮が冷たい光を返している。
地獄から来た二人の使者が、遠い地平を見下ろしているかのようだった。
フェスは、灰色の建物が集まっただけの街に見える。
城壁が平野を横切り、灯りはまばら。何本かの煙突から、白い煙が立ち上っていた。
あまりにありふれたその街は、一人と一頭が作る野性味溢れる影を前にすると、壮大な叙事映画へ突然挟まれた、退屈な日常劇の一場面のようだった。




