第十話 フェス
フェス西門守備隊。
【睡眠王217】が『ガイア・クロニクル』を始めてから、しばらく経つ。
彼も発売前からこのゲームへ憧れ、圧倒的な現実感と自由度に心を奪われた一人だった。
初めて降臨し、鳥の声と音楽を耳にした瞬間、興奮のまま叫んだものだ。
必ず胸躍る壮大な冒険へ旅立ち、伝説を残してみせる、と。
鉄山砦へ入り、戦闘技術を磨く。未知の地を存分に探索し、唯一無二の品を手に入れる。そして序盤最大の事件であるスタンピードへ加わり、その名を叙事詩に刻む。
実に素晴らしい。しかも、十分実現できそうな計画に思えた。
ただし、ほかのプレイヤーも同じことを考えていた。
旧サーバーで経験を積み、新世界サーバーで今度こそ名を上げようとする古参なら、なおさらだ。
連邦中央星域のプレイヤーは、通常エノクス大陸へ割り当てられる。
この大陸では人族の勢力圏が広く、主要な物語の多くも人族を中心に動いていた。
プレイヤーがまだ世界へ決定的な影響を及ぼせない序盤において、鉄山砦を襲うスタンピードは重要な分岐点となる。
その結末を境に、エノクス大陸の歴史は異なる方向へ枝分かれする。
同時に、プレイヤーにとっては一躍名を上げる絶好の戦いでもあった。
そんな重要な場所に、組織へ属さない完全な初心者――睡眠王217の居場所などあるはずもない。
一緒に始めた友人は、すでに戦闘を諦め、鉄山砦で鍛冶師になっていた。
それでも睡眠王の伝説への夢は消えなかった。
そこで、大手ギルドや最上位プレイヤーが見向きもしないフェスへ移った。ここなら自分にも、経験を積む機会がある。
今は街の守備隊へ入り、部隊とともに訓練している。時には討伐依頼を受け、ほかのプレイヤーと遺跡を探索する機会もあった。
少しずつだが、確かに成長している。
あと一か月あまりで訪れるスタンピードで活躍できるかどうかは、また別の話だった。
その夜も睡眠王217は欠伸をし、何事もなく勤務が終わると思っていた。
だが遠い地平に、奇妙な一組が現れた。
ぼろぼろの狩人服をまとい、半分に折れた木の棒を杖にする、東方系の顔立ちの男。
傷だらけにもかかわらず、その目だけは異様なほど輝いている。
そして傍らを歩くのは、獅子や虎より大きな身体を持ち、背から不気味な骨鰭を生やした――危険な気配を放つ、漆黒の巨豹だった。
「と、止まれ! 何者だ!」
睡眠王217は槍を握り締めた。声の震えを抑えられない。
あれほど望んだ「胸躍る冒険」は、まったく予想もしなかった形で彼のもとへやって来たらしい。
ほかの衛兵も一斉に警戒し、武器を構える。脇門がゆっくりと下ろされ始めた。
「待ってください! そう身構えないで!」
男は人好きのする声で呼びかけた。
ただし、顔中が血に汚れているせいで、穏やかな口調までひどく怪しく聞こえる。
頭上に【狂想の主】の名が現れた。
隣の黒豹は冷たい光を瞳に映し、睡眠王217をじっと見つめている。
背筋が凍った。
「お、お前……どこから来た!」
一人と一頭の圧力に呑まれ、ようやく口から出たのは、そんな妙な質問だった。視線は何度も黒豹へ吸い寄せられる。
「辺境の村からです! ウィリアム村長なら知って――」
「その黒豹は何だ?」
守備隊長が駆けつけ、最も重要な点を問いただした。
【狂想の主】は意味ありげに笑うと、黒豹へ顔を寄せ、何かを囁いた。
「何を話している!」
隊長が警戒の声を上げる。
そのとき睡眠王は初めて、隊長も長剣を強く握り、額に汗を浮かべていることに気づいた。
男が黒豹の首筋を軽く撫でる。
黒豹は衛兵たちから視線を外し、何もない地面へ向き直った。
身を低く伏せ、背の骨鰭を一本ずつ逆立てる。後脚が力強く地面を蹴った。
「防御――!」
隊長が叫び終えるより早く、漆黒の亀裂が開いた。
黒豹は虚空へ飛び込む。
直後、裂け目は縫い合わされるように閉じ、跡形もなく消えた。
城門前が、死んだように静まり返った。
黒豹が跳躍してから亀裂が閉じるまで、わずか二秒。
隊長は剣を掲げたまま固まり、睡眠王217は呼吸すら忘れていた。
沈黙を破ったのは【狂想の主】だった。
「心配しないでください! 俺たちは善良な旅人です。ほら、あいつも……ちゃんと言うことを聞くでしょう?」
なぜか、言い終えると小さく溜息をついた。
衛兵たちは、まだ警戒を解かない。
だが睡眠王217は、ようやく重要な事実に気づいた。
【狂想の主】は、明らかにプレイヤーだ。
しかも、間違いなく伝説級のプレイヤーに違いない。
恐怖が一瞬で興奮へ変わった。
これは、とんでもない実力者だ。
睡眠王は槍の石突きを地面へ置き、隊列の先頭へ小走りで出た。
「先輩! その強そうな魔獣、どこで捕まえたんですか? あんな魔法、見たこともありません!」
【狂想の主】は肩をすくめる。
「捕まえたわけじゃないですよ。完全に事故です」
睡眠王は愛想笑いを浮かべ、険しい顔の隊長へ向き直った。
「隊長、見てくださいよ、この傷! どう見ても激戦の後です。それに、これだけの腕がある人です。本当に何か企んでるなら、あの魔獣がいるうちに仕掛けてますって。そうでしょう?」
隊長もようやく、【狂想の主】が睡眠王217と同じ星界の旅人であることに気づいた。
裂けた布の服と、脚の焼けた傷を見て、強張っていた顎をわずかに緩める。
手を上げ、部下に戦闘態勢を解くよう命じた。
それでも眉間の皺は消えない。
無防備に立つ【狂想の主】を間近で見直し、黒豹が消えた方向へ目をやる。
しばらくして、硬い声で告げた。
「お前の魔獣も、先ほどの魔法反応も危険すぎる。フェスの安全のため、まず武器を預けろ。荷物も開けてもらう。一つずつ確認する」
【狂想の主】は素直に頷き、腰の曲刀を外した。背負っていた、同じくぼろぼろの荷物も下ろす。
金属音を立て、曲刀が検査台へ置かれた。
鋼は上質で、鍛えも見事だ。柄頭にはアンヴィルの印がはっきり刻まれている。
鉄山砦のドワーフ職人が打った、立派な刀だった。
続いて荷物がひっくり返される。
台の上へ転がり出たのは、わずかな食料、大量の野生のキノコ、一部を綺麗に切り取られた『元素魔法入門』、そして小さな魔晶石が数個。
黒い巨豹を従えて現れた「大物」の全財産が、これだった。
隊長は手順どおり、がらくたを調べていく。
隣で見ていた睡眠王は、目を疑った。
見るからに安物の初心者向け技能書。
男が着ているのも、防御力など皆無に等しい軽装だ。
隠れた上級者どころか、作りたての初心者より貧しいのではないか。
隊長は一通り品を確認した。
透明な魔晶石だけは見覚えがなかったものの、強い魔力は感じられない。問題なしと判断し、すべてを【狂想の主】へ返した。
「フェスへようこそ、狂想の主。魔獣の仲間については、明日の昼、星界会館で記録を取る必要がある。だから今夜は……兵舎で過ごしてもらう」
「ログアウトできない――じゃなくて、星界へ帰れないんですか?」
【狂想の主】は、見るからに疲れきった顔をした。
「帰れますよ、先輩!」
睡眠王は一度引っ込めた疑念を、とりあえず脇へ置いた。
きっと何か、特殊な縛りプレイでもしているのだろう。
「ただ、次に降臨する場所は留置所です。結局、星界会館には行ってもらいますけど」
「それならよかった。睡眠王217……今回は、あなたがいてくれて助かりました」
声にはまだ疲れが滲んでいたが、【狂想の主】は心から礼を言っているようだった。
「いやいや、先輩! 大したことじゃないですって!」
睡眠王は満面の笑みを浮かべ、急いでプレイヤー画面を開いた。
「フレンドになりません? 今度、面白そうな事件があったら俺も呼んでくださいよ!」
すぐに申請が飛ぶ。
【狂想の主】は荷物をまとめながら、何気なく承認した。
そして曲刀を持ち上げた瞬間、睡眠王の笑顔が固まった。
刀身の曲線。
柄に刻まれた鉄床一族の印。
刃にある、小さな欠け。
数か月前、二人組の追い剥ぎに全財産を奪われたとき、自分の首へ突きつけられていた刀と同じものだった。
睡眠王の唇が動く。
何か尋ねようとしたときには、【狂想の主】はもう荷物をまとめ終え、こちらへ手を振っていた。
「今日はもう限界です。また今度」
その身体が無数の青いデータ列へ分解され、その場から消える。
あとに残された睡眠王217は、ただ呆然と立ち尽くしていた。




