第二十七話 拡張
サンダーウルフが残した血痕は雨に洗われた。巡林拠点の外で踏み荒らされた泥にも、再び草の芽が顔を出している。
木壁脇の覆いは二度張り替えられ、壊れた盾は鉄山砦へ修理に出された。一度死んだ新人たちも次々に復活したが、誰もがひどい顔をしていた。
第二遠征団は、日に日に忙しくなっていく。
軍師たちは鉄山砦から慌ただしく巡林拠点へ戻った。金樹花も同行し、Atlasや団員へ紹介され、そのまま団の運営方針を決める場に加わることになった。
会議は朝から始まり、午後まで続いた。
砕岳槌は途中で二度眠り、鈴音に筆の柄で三度叩き起こされた。最後に軍師が残したのは、整理し直した編成案、物資一覧、訓練日程だった。それを置くと、金樹花を連れてまた鉄山砦へ戻っていった。
日々はそうして動き出した。
三日後、Atlasは巡林拠点を離れ、鉄山砦北東にあるローランド城を訪れた。
城は山稜から突き出た黒い岩盤の上に築かれている。鉄山砦の主城から遠くはないが、独自の城壁、厩、守備兵を備えていた。
正門へ続く山道には粗い石板が敷かれ、その両脇には風に色褪せた古い旗が並ぶ。旗に描かれた銀角の雄鹿は、ローランド家の紋章だった。
アルヴィス・ローランド辺境伯は、星界の旅人を歓迎する大仰な式典など用意していなかった。
第二遠征団を迎えたのは、城の脇にある一室である。
Atlasが入った時、伯爵は軍議を終えたばかりだった。長机には巨獣の森北縁の地図が広げられ、西渓谷付近には巡林哨塔を示す木の駒が幾つも立っている。その一つが、第二遠征団の望む高台をちょうど押さえていた。
伯爵は四十代半ばほど。大柄な男で、椅子に座ってなお、脇に立つ書記官より頭一つ近く高い。
礼装ではなく、濃色の内甲に銀縁の短い外套を羽織っていた。
Atlasの説明を聞き終えて最初に尋ねたのは、討伐した魔獣の数ではない。高台から水場までの距離。木材の調達先。拠点が落ちた時、退却する星界の旅人が巡林兵の防衛線を乱さないか。
Atlasは一つずつ答えた。
斜め後ろに控える鈴音が、適切なタイミングで地図、前線記録、守備隊の印を受けた建設案を差し出す。
普段の刺すような口調は影もない。敬称、礼、文書を渡す順序まで、非の打ち所がなかった。初めから眉間に皺を寄せていた老書記官さえ、後半の頁に差しかかると顔を上げ、彼女を見た。
「この記録をまとめたのは、お前か」伯爵が尋ねる。
「集約は私が。各隊の記録担当者にも協力してもらいました」
「死亡、失策、命令違反まで記してある」
「戦果だけでは、次の巡回計画には使えません」
伯爵は指の節で文書を叩いた。
「星界の旅人で、ここまで書き残そうとする者は少ない」
鈴音は礼儀正しく頭を下げた。浮かれることも、これを機に余計な売り込みをすることもない。
隣に立つAtlasの口元だけが、わずかに緩んだ。
会見は一時間もかからなかった。
ローランド伯爵は、高台を第二遠征団の領地として認めたわけではない。署名したのは、あくまで初期建設の許可証だった。
西渓谷南側の土地を切り開き、木壁、倉庫、仮設兵舎を建てる。巡林拠点と結ぶ運搬路を拓くことも許された。
その代わり、第二遠征団は周辺の日常巡回を担い、魔獣の活動記録を定期的に提出し、鉄山砦守備隊の検査を受けなければならない。
「まず建てろ」
伯爵は羽根ペンをインク壺のそばへ戻した。
「ひと冬守り抜いてから、誰の土地かを話そう」
Atlasは許可証を受け取り、笑った。
「それで十分だ」
帰路、鈴音は文書を収めた革張りの箱を抱え、いつもより少し軽い足取りで歩いていた。
Atlasが横目で見る。
「よくやった」
「当然の仕事をしただけよ」
「伯爵も感心してたな」
鈴音は歩調を変えない。ただし声には、いつもの冷たさが戻った。
「団長が文書へ思いつきの修正を書き込む回数を減らしてくれれば、もっと上手くできます」
Atlasは声を上げて笑った。
許可が下りると、高台の景色はすぐに変わり始めた。
真っ先に形になったのは道だった。
刈った灌木が両脇へ積まれ、湿った泥には毎日、車輪と靴と木材運搬用の橇が跡を残す。木工のできるプレイヤーが現地の雇い人を率い、高台の縁へ杭を打った。
最初の木壁はまだ腰ほどの高さしかなく、遠目には不揃いな木の歯が並んでいるように見える。
兵舎には屋根もないのに、倉庫だけは先に完成した。
軍師が手紙にはっきり書いていたからだ。
――人間はしばらく詰め込める。食料、薬、乾いた材木は雨に濡らせない。
同時に、第二遠征団は最初の組織再編へ踏み切った。
「一班」「二班」といった仮の呼び方を廃し、斥候、前衛、遠隔、魔法、治療に分けて登録し直す。
決まった時刻にログインできる者は固定班へ。プレイ時間が安定しない者は機動要員の名簿へ入れた。各戦闘班には必ず予備の人員を置き、隊長が死亡、あるいは指揮不能になった時の代理も決める。
訓練も変わった。
拠点外の切り開かれた空き地では、朝から晩まで木盾のぶつかる音が響く。
新人はもう、木人を相手に技を放つだけでは済まない。実際の荷を背負って泥の上を走り、側面から襲われても陣形を保ち、最後は石を満載した担架を引いて戻る。
砕岳槌は大いに気に入った。
殴られてもへこたれず、力仕事も嫌がらない新人を何人か子分にした。昼は肩の入れ方、突進の受け止め方、腰を痛めず槌を振る方法を教え、夜は全員を連れて拠点外の材木を運ぶ。
もっとも、何を教えても最後は喧嘩の話になった。
「それでいいだろ?」
空き地の中央で大槌を担ぐ。
「勝てるなら行く。無理なら退く。前衛で一番大事なのは、真っ先に倒れないことだ」
Atlasは訓練表をめくった。
「一理ある」
砕岳槌が、ほら見ろと言わんばかりの顔をする。
「だからお前が敵役だ」
「何?」
前衛組へ配属されたばかりの新人五人が、木盾を構えて近づいてきた。
「正面から突っ込み、馬鹿力で、定石どおりに動かない訓練相手が要る。お前の戦い方は魔獣に似てる」
場が静まり返った。
砕岳槌がゆっくり振り向く。
「褒めてんのか、それ?」
「もちろん」
「何か引っかかるんだが」
「準備」Atlasは取り合わず、手を上げた。「第一回。五人同時。こいつに倒された者は今夜二周追加だ」
木盾が一斉に重なる。
砕岳槌は悪態をつきながらも、大槌を麻布で幾重にも巻いた訓練槌へ持ち替えた。肩を二度回し、新人の列へ牙を見せるように笑う。
次の瞬間、怒れる雄牛さながらに突進した。
一枚目の木盾が、たちまち数歩先へ吹き飛んだ。
見物人から悲鳴と歓声が同時に上がる。
周は、それ以上に忙しかった。
午前は戦闘班の訓練。午後は高台の工事を監督し、夜には巡林拠点へ戻って翌日の巡回予定を確かめる。
鉄山砦から物資が届けばAtlasと一緒に確認し、レイモンドが担当区域を急に変えれば、各班への説明も周の仕事だった。
初めのうち、団員は何かあればAtlasを捜した。
だが十件のうち六件は結局周へ回ると分かると、最初から彼のところへ来るようになった。
「周隊長、高台で鋸が二本足りません」
「周隊長、明日の午後、三班は三人来られません」
「周隊長、砕岳槌の兄貴が訓練盾をまた割りました」
巡回記録の束を抱え、木壁の外から戻ってきた周は、最後の報告を聞いても足を止めなかった。
「修理代は本人の勘定につけておけ」
「払わないって言ってます」
「子分たちにつけろ。あいつらなら払わせる」
新人は納得した顔で走り去った。
仮設の文書机にいた鈴音が、顔を上げる。
「すっかり命令するのが上手くなったわね」
周は記録を机へ置いた。
「全員、君のところへ行かせてもいいんだぞ」
「私が担当するのは登録、記録、手順。誰かさんたちが起こす突発事態の後始末ではないわ」
「奇遇だな。俺の担当でもない」
二人は積まれた木板と紙を挟み、二秒ほど見つめ合った。
そこへAtlasが外から戻ってきた。後ろには編成の確認を待つ新人が三人ついている。
彼は二人を見ると、手にしていた図面を周へ押しつけ、鈴音の机から名簿を一枚抜き取った。
「二人とも担当だ」
そのまま新人を連れ、高台へ向かってしまう。
周は図面へ目を落とした。
鈴音も消えた名簿の場所を見る。
「あなたのせいよ」
「これまで俺のせいになるのか?」
鈴音は冷たく鼻を鳴らし、筆を取り直した。
外から見れば、周はすでに第二遠征団の三番手らしくなっていた。
戦えて、人を率いられる。Atlasがこぼした仕事も自然に拾う。
鈴音は元々、自分が扱うべき領分に周が入り込みすぎていると感じていた。新人たちが二言目には「周隊長」と呼ぶようになれば、面白くないのも当然だった。
晴れ晴れは、前線の固定戦闘班を離れた。
新しく入った治療役の中には、彼女より魔力の変化に敏く、術の発動も速く安定している者がいた。初めての合同訓練で、晴れ晴れが状況を見切った時には、相手の淡緑色の光がもう降り注いでいた。
しばらく眺めていたが、特に落ち込んだ様子はない。
翌日にはAtlasへ頼み、固定戦闘名簿から自分の名を外して、前線の兵站を引き受けた。
傷薬の配分。使った包帯を煮沸する場所。出発する班に持たせる食料。負傷者の寝台。死亡による行動制限がまだ明けていない者。鉄山砦へ修理に出したまま三日戻らない革鎧。
それまで何人もの手に散らばっていた仕事が、少しずつ彼女の元へ集められた。
晴れ晴れは巡林拠点と高台を行き来した。腰には鍵と小さな薬入れ。腕にはいつも一覧表を抱えている。
話し方は相変わらず柔らかい。だが記録せずに薬を一本余計に持ち出せば、翌朝には倉庫の戸口に名前が貼り出され、隣に丁寧な弁償方法まで書かれていた。
「晴れ姉さん」
新人が倉庫の小窓越しに、おそるおそる声をかける。
「昨日は本当に、取り違えただけなんです」
「大丈夫ですよ」
晴れ晴れは笑顔で一覧表を渡した。
「この包帯二箱を高台へ運んでください。お手伝いということで」
新人は、持ち上げるのも大変そうな木箱二つを見た。
「二箱?」
「はい」
晴れ晴れの笑みがさらに優しくなる。
彼はもう食い下がらなかった。
一方、古参へ仕事を割り振ろうというAtlasの計画は、思うように進まなかった。
最初は単純に考えていた。
長年一緒に遊んできた。誰が正面突破に強く、誰が班を率いることに慣れ、誰が混乱を鎮められるか、おおよそ分かっている。
第二遠征団が広がるのなら、古参がそれぞれの役目を担えばいい。
だが一人ずつ話してみると、そう簡単ではなかった。
現実では昼間に働き、夜は気持ちよく数戦したいだけで、当番表や記録まで見たくない者。
戦場では仲間を庇えても、三頁の物資一覧を見ただけで頭痛を起こす者。
第二遠征団へ入ったのは巨獣の森の奥へ進むためで、二十人が今日揃っているかを拠点で数える気はない、と明言する者。
団のために働きたくないわけではない。
力を貸すことと、責任を引き受けることは別だった。
Atlasも無理強いはしなかった。
仮設事務室で二日間面談を続け、最後の古参を見送る。椅子の背へ寄りかかり、役職欄に残った幾つもの空白をしばらく眺めた。
そこへ軍師の伝書鳩が窓辺へ降りた。
手紙の半分は、鉄山砦の事務所で新たに雇った人員の名簿。残りは部署案と支出見込みだった。
商取引、倉庫、対外交渉、入団受付。さらに補充が必要な人員まで並んでいる。
読み終えたAtlasはすぐ返事を書いた。
一行だけだった。
――これじゃ、あの頃の起業と何が違うんだ?
翌日、軍師から返信が来た。
――あの頃は、少なくとも客が誰か分かっていた。
Atlasはその一行をしばらく眺め、鈴音に頼んで処理待ち文書の一番下へ挟ませた。
愚痴を言っても、第二遠征団はもう戦闘力だけを求めて人を集めるわけにはいかない。
人数が増えれば、食事、寝床、装備、訓練、当番、現地住民とのやり取りも増える。
十数人だった頃には、手の空いた者が手伝えば済んだ。今では、どの一項目も誰かの半日を奪う。
軍師は鉄山砦での募集を続けながら、武器や魔法の腕だけを見なくなった。帳簿をつけられる者。調整役になれる者。繰り返しの事務を嫌がらない者。そんな人材も事務所へ迎え始めた。
白桃ソーダと終焉の竜槍使いも、Atlasに個別に呼び出された。
白桃ソーダは机の向かいへ座り、魔法職の新人を指導する気はあるかと聞かれると、嬉しそうに引き受けた。
そこでAtlasは、最も基本的な水球を実演させた。
掌に水が集まり、一つの球になりかけたところで、その中心から赤い炎が噴き出す。
水蒸気が、ぼん、と破裂した。
二人とも顔までびしょ濡れになった。
濡れた前髪を額に貼りつかせ、白桃ソーダは二秒黙った。
「団長」
「何だ」
「もう少し成長してからでもいい気がします」
Atlasは顔の水を拭う。
「俺もそう思う」
終焉の竜槍使いの答えは、もっと重々しかった。
「長槍の道を求める者あらば、終焉を貫く我が技、その余すところなく伝えよう」
前半を聞いたAtlasは、すでに名簿へ書き込もうとしていた。
「されど衆を率いること、我が得手にはあらず。戦陣にて命を受けて戦い、技の一端を示すことはできよう。だが日々の行き先、当番の刻、誰と誰を組ませるかを決めよと言われれば……」
一度言葉を切る。
「それは、また別の闇」
Atlasは筆を置いた。
「分かった。前衛組で長柄武器の訓練を手伝ってくれ」
「団長の命、謹んで承る」
「訓練中は、もっと簡単に話せ」
終焉の竜槍使いは少し黙った。
「了解」
彼が出ていくと、Atlasはもう一度、空白だらけの名簿を見た。
拠点の外では、砕岳槌が盾を上げろと新人へ怒鳴っている。
さらに遠い高台では、新しい木柱が綱でゆっくりと引き起こされていた。
槌の音。号令。泥を踏む荷車の軋み。
そのすべてが、仮設事務室の中まで流れ込んできた。




