第二十八話 夜の雑談
Atlasが最後に話をしたのは、Bladeだった。
その日の夕暮れ、Bladeは森から戻ったばかりだった。黒い短外套の裾には、濡れた葉が数枚張りついている。
新たに描いた巻物状の略図を一つ、机へ置いた。西渓谷で見つけた二か所の獣の痕跡と、近頃危険になった狩猟路が記されている。
Atlasは地図を開き、ひととおり眺めた。
「斥候組へ六人追加する。お前が率いてくれ」
「断る」
Atlasが顔を上げる。
Bladeは机の脇に立ったまま、座るつもりもない。
「理由は?」
「疲れる」
前置きも説明もなかった。その一言で、すべて答えたつもりらしい。
文書を抱えた鈴音が入口へ来たところで、この会話を聞いた。たちまち眉根を寄せる。
「皆が仕事を分担しているのよ。あなただけ――」
「鈴音」
Atlasが遮った。
鈴音は口を引き結び、それ以上言わなかった。ただ、Bladeを見る目だけがさらに冷える。
Atlasは略図をしまった。
「分かった。今までどおり一人で動け。新人はほかの斥候に交代で見させる」
Bladeは一度頷き、踵を返した。
足音が消えてから、鈴音は抱えていた文書を机へ置く。
「それで終わり?」
「ほかにどうしろと?」
「毎日どこへ行っているのか、せめて聞くべきよ」
Atlasは椅子へ背を預け、彼女を見上げる。
鈴音は声を落とした。
「最近のことを、知らないわけじゃないでしょう」
確かに、近頃は不審な出来事が重なっていた。
ドーンバナーも、巨獣の森外縁へ巡林拠点を築いている。
鉄山砦で長時間活動できる戦闘職を募り、現地の巡林人と接触する。まず外縁の魔獣記録と定期巡回を引き受け、最後に独立した駐屯地を申請した。
公開された戦闘班の構成まで、第二遠征団が使い始めた方式と酷似している。
同じプレイヤーギルドなのだから、それだけで何かを断定はできない。
だが鉄山砦では、ドーンバナーの団員が第二遠征団内部の具体的な編成を話していた。
斥候を担当する者。高台へ常駐する者。最近になって周が幾つかの戦闘班のシフトを組み始めたことまで知っている。
事務所の前に数日立っていれば分かる情報ではない。
団内でも、すでに噂になっていた。
そしてBladeは、誰より行動を説明しづらい。
一人で拠点を離れ、暗くなってから戻る。時には二日続けて姿を見せない。
どこへ行ったか尋ねても、持ち帰った地図と情報を机へ置くだけで、途中のことは何一つ語らなかった。
疑っているのは鈴音だけではない。
それでもAtlasは言った。
「根拠なく団員を疑うな」
「彼だと決めつけたわけじゃない」
「もう、その方向で考えている」
「なら、せめて調べるべきよ」
Atlasは机の別の文書を手に取った。
「俺が処理する。出る時に周を呼んでくれ」
鈴音はその場を動かなかった。
二秒後、結局何も言わずに出ていった。
その晩、Atlasは遅くまで仕事を続けた。
高台から届いた木材の損耗記録。鉄山砦の事務所から二通の手紙。レイモンドが届けさせた翌日の巡回変更。
仮設事務室の机は、すぐ紙に埋もれた。互いの角が重なり、インク壺の脇には食べかけの硬いパンが半分残されている。
Atlasは一枚ずつ目を通した。
途中で、手が止まる。
何の変哲もない一通だった。
紙も折り方もほかの文書と同じ。高台から届いた雑多な記録の下へ紛れ込んでいる。
違いは、右下の小さな印だけだった。
一滴の墨を、爪先で外へ引っ掻いたような跡。
Atlasはしばらく印を見てから、封を開いた。
中身は短い。
初めから終わりまで読み、もう一度読み返す。紙を元どおりに折ると、懐へしまい、残りの文書へ戻った。
翌朝、二人の団員が別々に仮設事務室へ呼ばれた。
中で何が話されたのか、誰も聞いていない。
昼までに二人は荷物をまとめ、巡林拠点を去った。
Atlasは会議を開かず、事情も公表しなかった。鈴音へ命じたのは、各班の名簿から二人の名を消し、未支給の物資を清算することだけだった。
個人的に理由を尋ねた者にも、答えは一つ。
「第二遠征団へ残すには、もう不適格だ」
修正後の名簿を手に、鈴音は長い間Atlasを見た。
Atlasは手紙の出所を説明しなかった。
鈴音も、それ以上Bladeについて尋ねなかった。
この一件が、拠点に大きな波紋を広げることはなかった。
今の巡林拠点は、あまりに狭く、あまりに賑やかだったからだ。
日が落ちれば、兵舎はたちまち人で埋まる。後から来た団員は壁際に簡素な寝床をしつらえるしかなく、寝返りを打てば隣の武器を蹴るほどだった。
毛布を抱え、高台へ行く者もいる。新しい兵舎は隙間風こそ入るが、数十人分の鼾を聞かずに済む。
夜間巡回に当たっていない者たちは、拠点の外へ座った。
焚き火が幾つも並び、昼の雨で濡れた靴や外套を乾かし、干し肉を炙っている。巡林兵も時折輪へ加わった。意味の分からない「星界」の話をプレイヤーから聞き、代わりに鉄山砦の古い物語を酒と交換する。
その夜、木壁近くの焚き火にも六、七人が集まっていた。
初めは鍋の湯が沸くのを待っていただけだった。
誰かが昼間に物資を届けた金樹花の話を出し、気づけば第二遠征団で誰が一番美人かという話になっていた。
「選ぶまでもないだろ」弩手が火をつつく。「鈴音だ」
隣の男が息を呑んだ。
「度胸あるな、お前」
「口説くとは言ってない。あの冷たい目で見られる感じ、完璧な年上美女だろ」
「あれは冷たいんじゃなくて、刺さるんだよ」
「刺さるからいいんだろ」
輪の外側では、人間の兵士が木杯を抱えていた。しばらく聞いてから、ようやく何の話か理解したらしい。
真面目な顔で言う。
「いつも記録板を持っている、書記官の女性か。あの方は、お前たちの団長に忠実だな」
焚き火の周囲が一瞬静まった。
誰かが咳払いする。
「忠実とか、そういう話じゃないんだ」
別の者が声を潜めた。
「あれ、絶対団長のこと好きだろ。晴れ姉さんが団長に近づいた時の目、見たことないのか?」
「だから口説かないって言ってるだろ」弩手が両手を広げる。「鑑賞だよ。純粋な鑑賞」
「俺は晴れ晴れだな」若い剣士が言う。「どこが特別ってわけじゃないけど、一緒にいると安心する。この前怪我した時も、薬を塗り直した後、濡れた靴を履くなって覚えててくれた」
「倉庫を仕切ってるから、機嫌を取りたいだけじゃないのか?」
「うるさい」
「笑った顔は確かに綺麗だ」人間の兵士が言った。「親切でもある」
プレイヤーたちが一斉に彼を見る。
「傷薬をこっそり一本多く持っていけば、考えも変わるさ」
兵士は意味が分からないまま、木杯の湯を一口飲んだ。
「金樹花は?」
誰かが薪を放り込んだ。
「数日前、初めて拠点へ来た時、やたら大勢が荷運びを手伝いに走ってただろ」
「軍師の指示だ」
「普段、軍師に言われても、あんなに素早く動かないくせに」
笑いが起こる。
あの日、金樹花は仕立ての良い淡色の短い上着を着て、髪も丁寧に整えていた。
木箱と泥水の間を行き来して品物を確かめる。汚れを嫌がらず、気取った素振りもない。誰にでも物怖じせず話しかけた。
泥のついた鎧と灰色の外套ばかり見慣れた巡林拠点では、確かに眩しいほど目立っていた。
「美人ではある」最初の弩手が顎を撫でる。「でも何だろうな。俺たちが口説ける種類じゃない気がする」
「身の程を知ってるじゃないか」
「そうじゃなくて……見られた瞬間に、人ごと値踏みされてる気がするんだよ」
「いいじゃないか。少なくとも見てもらえる」
また笑いが広がった。
「軍師とは釣り合いそうだな」
「分かる。軍師ぐらいじゃないと受け止められない」
「顧先生と金樹花さん? 学校みたいだな」
「本人には聞かせるなよ」
「行雲もいるだろ」
それまで黙っていた盾役が、突然口を開いた。
「新しく入った格闘型の前衛か?」
「そう。二日前に砕岳槌の兄貴と手合わせしてただろ。正面から力比べをせず、一歩入って崩して、転ばせたんだ。兄貴の腕を極めて、しばらく反撃させなかった」
「兄貴は、手加減したと言ってたぞ」
「信じるか?」
「信じない」
盾役は焚き火へ少し身を寄せ、ますます熱っぽく語る。
「綺麗で格好よくて、殴る時もすごく冷静でさ。一度、あの人にボコボコやられたい」
誰も返事をしなかった。
全員が彼を見る。
盾役の興奮が、少しずつ凍りついた。
「違う違う。格闘訓練で、って意味だ」
「誰も違うとは言ってない」
弩手が無言で少し離れた。
人間の兵士は周囲と盾役を見比べ、自分も外側へずれた。会話を理解していなくても、空気を読むことはできたらしい。
「一番可愛いのは白桃ソーダだ!」
別の側から大声が上がる。
入団したばかりの術師だった。ようやく会話へ加われる話題が来たとばかりに、背筋を伸ばしている。
「彼は可愛くて、明るくて、向こうから話しかけてくれる。青と白の魔法衣に着替えたところ、見たことあるか? 水の魔法を使うと、髪の縁まで光るんだぞ」
「彼は?」
人間の兵士が、その言葉を聞き逃さなかった。
「そうだよ」
「白桃ソーダは男だぞ」隣の者が補足する。
兵士は目を見開いた。
焚き火の周りでも反応は分かれた。
気にもしない者。俯いて笑いをこらえる者。黙ったまま、反対側へ少し距離を取る者が二人。
数秒のうちに、円陣の真ん中へ見えない境界線が引かれた。
術師が周囲を見回す。
「いつの時代の話してるんだよ?」
「時代の問題じゃない」向かいの男が言う。
「じゃあ何の問題だ?」
「俺には無理って問題だ」
「可愛いってものを何も分かってない」
「分かる分からないの話じゃないと思うが」
「白桃は水と火、両方使えるんだぞ!」
「昨日、自分の袖に火をつけてたぞ」
「それも可愛い!」
議論はたちまち熱を帯びた。
その時、背後で鍵が軽く触れ合う音がした。
「楽しそうですね」
焚き火の周囲が凍りつく。
数え終えた空の薬瓶を抱え、晴れ晴れが立っていた。
火に照らされた顔は微笑んだまま。声もいつもどおり穏やかだった。
「は、晴れ姉さん」
若い剣士が真っ先に声を上げる。
「はい」
晴れ晴れは頷いた。
「向こうにいても、鈴音、樹花、行雲、白桃の名前が聞こえましたよ」
誰も返せない。
彼女は輪を見回し、最後に外側で途方に暮れている人間の兵士へ目を向けた。
「巡林隊のお友達まで一緒なんですね」
兵士はすぐに木杯を置いた。
「私は女性たちを論評してはいない。彼らに尋ねられて――」
「裏切り者」弩手が小声で言った。
晴れ晴れの笑みは変わらない。
「団の女の子を陰で並べて、そんなに楽しいですか?」
「ただの雑談だって」
「では明日の訓練で、皆さんのことも雑談してもらいましょうか。誰が一番足が遅いか。誰が一番たくさん食べるか。誰の悲鳴が一番大きいか。順番をつけてもらいましょう」
全員が一斉に首を振った。
晴れ晴れは空瓶を抱え直す。
「まだそんな話をする元気があるなら、今日の訓練は足りなかったんですね。火をきちんと消して、杯を戻してください。明朝、一便目の荷運びには皆さん来るように」
一度言葉を切り、存在感を消そうとしている盾役を見る。
「行雲に痛い目を見せてもらいたいって、私から伝えておきますね」
盾役の顔から血の気が引いた。
周りの者はつい笑いかけたが、晴れ晴れの視線を受けて、必死に飲み込んだ。
「解散」
晴れ晴れは微笑んだまま告げた。
第二遠征団も、いよいよ賑やかになってきましたね。
とはいえ、物語はまだ始まったばかりです。
皆さんもきっと楽しみにしてくださっているであろう、ドワーフの遺跡。新たな冒険が、もうすぐ始まります。
……ただ、残念ながら、私の書き溜めもここまでです。
ここからは更新ペースが少し落ちるかもしれません。これまでのような安定した毎日更新は、難しくなりそうです。
ここまで読み続けてくださっている皆さんなら、きっとこの物語にも少なからず興味を持っていただけているのではないでしょうか。
もし楽しんでいただけているなら、感想やリアクション、ブックマークなどを残していただけると、本当に大きな励みになります。ブックマークしていただければ、次回の更新も見逃しにくくなると思います。
それでは、これから始まる新たな冒険も、どうぞ引き続きお楽しみください!




