第二十五話 夜の帰還
サンダーウルフの体は勢いのまま半歩ほど進み、落ち葉の中へ重々しく崩れ落ちた。
青白い電弧が背を何度か走る。断ち切られた細い糸のような光は、湿った冷気の中ですぐに消えた。断面から溢れた血に、電熱で焦げた臭いが混じり、林床の腐葉臭へ溶けていく。
終焉の竜槍使いが一歩後ずさった。
槍はまだサンダーウルフの脇腹に刺さっている。だが両手は痺れ、ほとんど感覚がない。柄を放した途端、膝から崩れかけたところを弩手に支えられた。
Atlasもすぐには口を開かなかった。
ただ、晴れ晴れには分かった。口元がわずかに上がっている。
大剣を振り抜いた姿勢のまま、胸が激しく上下していた。肩も腕も脇腹も、小刻みに震えている。恐怖ではない。麻痺と電撃、それに限界まで力を振り絞った反動だった。
数秒後、ようやく地面から大剣を引き抜く。
刃は血に濡れていた。
鎧も同じだった。
晴れ晴れは真っ先に駆け寄り、Atlasの腕と肩へ治癒光を注いだ。そのまま終焉の竜槍使いの手を診る。古参の剣盾役は、魔獣の死体が二度と動かないことを確かめてから盾を地面へ突き立て、長い間俯いて息を整えた。
「勝った……んですか?」術師が尋ねる。
誰もすぐには答えなかった。
視線は倒れたサンダーウルフへ集まり、やがて隊の脇へ移る。
半透明の人影が三つ浮かんでいた。
弓手、槍兵、新人の剣盾役。
遺体は地面に残され、そばにいるのは「傷ついた魂の彷徨者」となった三人だけだ。何か言いたそうにしていたが、誰も最初の一言を見つけられない。
やがて弓手が口を開いた。
「さっきの決戦前って台詞、ちょっと当たりすぎました?」
古参の剣盾役が顔を上げる。
弓手はすぐ黙った。
Atlasが吹き出した。
顔を手で拭ったせいで、手の甲についていた血が頬へ一筋伸びる。先ほどよりも、魔獣の腹を裂いて這い出してきたような姿になった。
「久しぶりに、たっぷり戦えたな」
晴れ晴れが睨む。
「団長、今それを言うと殴りたくなります」
「ははは。分かってる」
Atlasはもう一度、サンダーウルフの死体を見た。
B級魔獣。
晴れ晴れの判断が遅れていたら。終焉の竜槍使いの一突きが半拍遅れていたら。陣形が最も崩れた時、古参の剣盾役と二人の弩手が踏みとどまらなかったら。
この戦いが、ここで終わったとは限らない。
勝ちはした。
三人を死なせてもいる。
Atlasは外した兜と肩当てを拾った。身につけず、そのまま片手に提げる。
まず落とした装備を回収させ、忘れ物がないか確認した。術師には周囲の土を軽く掘り返させ、目立つ血痕を覆わせる。
サンダーウルフの死体も捨ててはいけない。
B級魔獣ともなれば、全身が素材になる。皮、爪、牙、骨、魔力を濃く残す背の剛毛。雷属性の痕跡を宿した心臓さえ、武器、防具、薬、付与素材、あるいは鉄山砦守備隊への大きな貸しに変わり得る。
問題は重さだった。
太い枝を何本か切り、急ごしらえの橇を作って死体を縛りつける。終焉の竜槍使いは「強敵の首級、終焉を見届けし槍の担い手が持ち帰ろう」と譲らなかった。
古参の剣盾役は無表情のまま縄を一本押しつけた。
「いいから、お前は頭のほうを引け」
一行は帰路についた。
高く昇った巨月から、白い光が樹冠の隙間を抜けて降り注ぐ。
先頭には血まみれのAtlas。その後ろには、巨大な狼の死体を引く臨時討伐隊。脇には半透明の彷徨者が三人浮いている。
遠目には凱旋する討伐隊どころか、山脈の奥からさまよい出てきた亡者の群れにしか見えなかった。
だが歩き始めてほどなく、Atlasはもう戦いを振り返っていた。
「一つ。追跡自体は問題なかったが、撤退の判断が遅い」
足を止めずに話す。
「俺が最後に撤退を命じた時刻のことじゃない。血痕を見つけて、遺体が運ばれたと判断した時点で、相手がこちらを狩り返す可能性まで考えるべきだった。今までの魔獣とは違う。襲う時も、襲う相手も選んでいた」
古参の剣盾役が頷く。
「二つ。急造した十人班の訓練が足りない」
Atlasは隣を漂う新人の剣盾役へ目を向けた。
半透明の顔が、さらに白くなる。
だがAtlasは叱らなかった。
「お前が死んだ一歩は、後ろの誰かが穴を埋めると信じきれなかったせいだ。半歩退いた。それで盾の線が開いた。『怖がるな』の一言では直らない。訓練が要る」
「分かりました」
「三つ。後衛が崩されやすすぎる。これまでのゲームなら、前衛がヘイトを取って、後衛は動かず攻撃と回復。指示された時だけ攻撃を避ければよかった。だが、ここでは通じない。俺が大剣を持っているからといって、魔獣が必ず俺を狙うわけじゃない。お前が回復役だからといって、詠唱が終わるまで待ってもくれない」
晴れ晴れが小さく頷いた。
今夜、それをはっきり見た。
サンダーウルフは、技の一覧から飛び出してきた敵ではない。
人を見ていた。
位置を、反応を、遅れた者を、怯えた者を、傷ついた者を。
「五人、十人なら、まだ古参の経験で支えられる。だが今後、二十人、三十人、五十人で動くようになっても、現場の怒鳴り声だけに頼るわけにはいかない。前衛は一本の線じゃない。後衛もただ後ろに立てばいいわけじゃない。偵察、誘導、足止め、治療、盾役の交代、誰かを失った後の再編成。全部、先に決めておく必要がある」
水土の術師は疲れた足を引きずりながら、顔を引きつらせた。
「団長。僕たち、まだ拠点を建て始めたばかりですよね?」
「だから今考えるんだ。五十人で森に入る日になってからでは遅い」
Atlasは続ける。
「古参は確かに場数を踏んでいる。だが昔のゲームでの経験だ。ガイアで戦った経験とは違う。動かず殴ることも、ヘイトを取ることも、決まった順にスキルを回すことも、まるで無駄ではない。ただし、古い道具の一つにすぎない。新人ならなおさらだ」
漂っていた槍兵が、たまらず口を挟む。
「団長。その言い方だと、俺たちの死に方には教育的価値があったみたいですね」
Atlasが一瞥した。
「実際、あったぞ」
「……」
弓手がぼそりと言う。
「ほら。黙ってるほうが安全だろ」
低い声で反省点を交わしながら、一行は少しずつ森を抜けていった。
巡林拠点へ帰り着いた頃には、もう夜も更けている。
木壁の松明が夜風に揺れ、明滅していた。見張りの兵士は眠そうにしていたが、林の外から重い物を引きずる音が聞こえると、すぐに槍を握り直した。もう一人が灯りを掲げる。
門前の空き地へ伸びた光は、まず地面を引かれる狼の頭を照らした。
暗黄色の目が、まだ半分開いている。
終焉の竜槍使いが槍を背負い、縄を引いて狼の頭を運んでいた。後ろには巨大な胴体。そのさらに後ろから、血まみれのAtlasが歩いてくる。
見張りの顔色が変わった。
「何者だ!」
古参の剣盾役が慌てて答える。
「第二遠征団だ! 討伐隊が戻った!」
兵士はすぐに槍を下ろさなかった。
無理もない。
真夜中に星界の旅人がB級魔獣の死体を引きずってくる。先頭の男は大剣も鎧も血まみれで、隣には死者となった仲間が三人漂っている。魔獣が人の皮を被って拠点を襲いに来たのではないかと、まず疑いたくもなる。
騒ぎを聞きつけ、レイモンドがほどなく兵舎から駆けつけた。上着を羽織っただけの姿で、サンダーウルフの死体を見るなり表情を引き締める。
「サンダーウルフか」
「西渓谷南側の高台付近で遭遇した。討伐済み。こちらは三人死亡。先の全滅で落とした装備も大半は回収した。死体はどこへ置けばいい?」
レイモンドはAtlasと、三人の彷徨者を順に見た。
慰めの言葉は口にせず、拠点脇の空き地を指す。
「井戸のそばは避けろ。素材の処理は明朝だ。今夜は覆いを掛けておけ。血の臭いで余計なものを呼ぶな」
「了解」
第二遠征団はすぐに動き出した。
鈴音はやはり眠っていなかった。
表の騒ぎを聞いて足早に現れる。手には置く暇もなかったらしい記録板まで抱えていた。
Atlasを目にした瞬間、足が明らかに止まる。
血。壊れた鎧。被り直していない兜。治療後も肩に残る焦げ跡。
鈴音の筆先が、紙の上で半秒止まった。
そして、脇に浮かぶ三人へ目を移す。
「また三人、死なせたの?」
銀貨が三枚足りないとでも言うような、冷たい声だった。
弓手が弁解しかけたが、鈴音はもうAtlasへ向き直っている。
「名前」
Atlasが三人の名を挙げた。
鈴音は書き留めた名簿を一度確認し、普段より強く筆を押しつける。
「死亡時刻、落とした装備、回収状況、遺体の処置、魔獣の等級、遭遇地点、帰還時刻。それと団長本人の防具の破損状況。明朝、軍師へ手紙を出す。レイモンド隊長の記録も要る」
「苦労をかけるな」
鈴音は顔を上げない。
「本当にそう思うなら、次からは思いつきで出かけて、死人を連れて帰ってこないで」
周囲が一瞬静まり返った。
終焉の竜槍使いが古参へ囁く。
「この御仁は常より、かくも舌鋒鋭きものなのか?」
「本人の前では絶対言うなよ」
Atlasは怒らなかった。
大剣を武器掛けへ戻し、拠点の外に広がる暗い森を見る。
「軍師を早く呼び戻して、会議を開かないとな」
鈴音の筆が止まった。
「まだ鉄山砦よ」
「ああ。まず知らせてくれ。サンダーウルフは結果であって、問題そのものじゃない。新人の訓練、斥候が抜ける時間、戦闘班の連携、戦団の編成、前線と事務所の役割分担。全部見直す」
一拍置いて、付け加える。
「第二遠征団を、戦える数人だけで支えるわけにはいかない」
鈴音は顔を上げ、Atlasを見た。
今度はすぐに皮肉を返さなかった。
木壁の外から夜風が吹き込み、覆いの端を持ち上げる。灰黒い毛並みと、まだ完全には消えていない電撃の痕跡が覗いた。




