第二十四話 巨月の下
日没間際の森ほど、目を欺くものはない。
空はまだ完全な闇ではなかった。
頭上には鉄灰色の明るさが残り、遠い稜線にも淡い残照が沈んでいる。その一方で、巨月はすでに巨獣山脈の背後から姿を現していた。
残照と月光が入り交じり、灌木は輪郭の曖昧な影の塊となる。足元では石も根も枯れ葉も見分けがつかない。一歩ごとに、何かの開いた口へ足を踏み入れそうだった。
隊列は往路よりさらに密になっている。
二人の剣盾役が後衛を挟み、槍兵は左右の斜め前。Atlasは先頭のやや左を歩く。大剣は背負わず、ずっと手にしていた。
誰も口を開かない。
終焉の竜槍使いさえ黙っていた。
森は静かすぎた。
風に押された枯れ枝が小さく折れるたび、全員の目が反射的にそちらを向く。遠くでは鴉が数度鳴いた。夕闇の中で細長く引き延ばされた声は、この森が星界の旅人のものではないと、見えない何かが告げているようだった。
新人の剣盾役が唾を呑む。
晴れ晴れは彼を一瞥したが、何も言わず、短杖を握り直した。
弓手が木々の間を進んでいる。
目が利き、身も軽い。隊の大半より、この薄暗さに慣れていた。だからこそ、ほかの者ほど緊張していなかったのかもしれない。
何度か前方の安全を確かめた後、斜めに伸びた幹を蹴り、低い枝へ飛び乗った。枝の上へ身を沈め、後ろへ手を振る。
「この感じ、いかにも決戦前って――」
張り詰めた空気を和らげようとした笑いは、最後まで続かなかった。
頭上の樹冠が動いた。
風ではない。
より高い枝の間から、灰黒い影が落ちてくる。森の闇そのものが、突然重さを得たようだった。
弓手の反応は速い。音がした瞬間には後方へ身を翻し、短弓を盾代わりに構えていた。
それでも一拍遅い。
魔獣の顎が腕を捉えた。
悲鳴の奥で骨の砕ける音がする。
弓手は枝から力ずくで引きずり落とされ、落ち葉と泥を跳ね上げて地面へ叩きつけられた。身動きできない彼の喉へ、牙が食い込む。
息の根を止めると、魔獣は後ろ脚で地を蹴り、隣の幹へ跳んだ。
「敵襲!」
Atlasの声がほぼ同時に響く。
大剣が薙ぎ払われたが、切っ先がかすめたのは残像だけだった。
想像を超える速さだ。
巨大な狼型魔獣だった。
肩の高さは大人の胸元に迫り、灰黒い毛皮の下で分厚い筋肉がうねる。背筋に沿って、棘にも見える長い毛が何房か逆立っていた。
幹へ着地した爪が樹皮を掻く。爪の間から青白い電光が細かく跳ね、ぱちりと空気を弾いた。
Atlasの大剣をかわした巨狼は、幹を蹴って後衛へ角度を変える。
古参の剣盾役が真っ先に割り込んだ。
盾と爪がぶつかった瞬間、その腕が大きく強張る。
力に負けたのではない。
痺れだ。
青白い電弧が盾面から籠手へ走り、肩が目に見えて痙攣した。足が半拍遅れる。新人が反射的に横を埋めたが、巨狼の尾に盾を打たれ、二歩押し戻された。
「雷だ!」古参が歯を食いしばる。「攻撃に麻痺が乗ってる!」
晴れ晴れが図鑑の記述を思い出し、叫んだ。
「B級魔獣、サンダーウルフです! 傷を受けると麻痺が残ります! 噛まれないで!」
Atlasが前へ出た。
今度は追おうとせず、巨狼と後衛の間へ体を差し込み、大剣を立てて突進を正面から受け止める。
狼爪が剣身を打つ。
青白い光が幅広い刀身を走り、鍔からAtlasの籠手へ食い込んだ。指が強張り、肩が片方沈む。
それでも退かない。
重装の体重を乗せて押し返し、巨狼を正面から遠ざけた。
受け止めることはできる。
追いつくことはできない。
巨狼はAtlasと打ち合おうとしなかった。着地するのは一瞬だけだ。爪の下で電光が弾けるたび、木陰と灌木の間を折れるように駆け抜ける。
Atlasの大剣は重い。一撃当てれば深手になる。だが剣先が押し寄せる頃には、相手はすでに半身分外へ逃れていた。
二人の剣盾役は、後衛をさらに密に囲むしかない。
攻撃の主軸は槍兵二人になった。
終焉の竜槍使いともう一人が左右から詰め、穂先を肩口、脇腹、前脚へ絶えず差し向ける。仕留める必要はない。一突きごとに、襲撃の向きを変えさせればいい。
晴れ晴れの半歩前に立つ術師は、すでに額を汗で濡らしていた。
だが、もうこの程度の緊張で術を失敗することはない。
足元から魔力を泥へ流し込み、落ち葉の下から土壁、土の畝、泥の罠を次々に起こす。後衛を守る低い壁。巨狼の着地点を邪魔する盛り土。跳躍の踏み切りを一瞬鈍らせる、柔らかな泥。
どれも大した威力はない。見栄えさえしなかった。
それでも、そのわずかな遅れが何度も牙を食い止めた。
「左!」
晴れ晴れの声が飛ぶ。
古参の剣盾役と弩手一人が同時に振り向いた。
直後、巨狼が左の木陰から飛び出す。爪が弩手の肩をかすめた。電光が炸裂し、弩手の半身が一瞬で麻痺する。手から落ちた弩が地面へ転がった。
晴れ晴れの治癒光がすぐに降り注ぐ。
裂けた傷口は塞げても、筋肉を駆け回る痺れまでは消せない。弩手は歯を食いしばって後退し、上がらない左腕を庇いながら右手で短剣を抜いた。どうにか持ち場に踏みとどまる。
陣形が乱れ始めていた。
十人一組でまともに訓練したことがない。
普段なら、一班も二班も仲間の呼吸を知っている。誰が誰の穴を埋め、誰の半歩後ろに立つか。それは長い時間をかけて体へ馴染ませたものだ。
急造の混成隊では、古参が経験で取り繕えても、新人は必ず半拍遅れる。
巨狼は、その半拍へ牙を立てた。
もう一人の槍兵が、追撃の後に戻りきれなかった。
穂先が巨狼の前脚をかすめた直後、爪先で青白い光が弾ける。魔獣は槍の柄を押しのけて突っ込み、胸甲へ爪を叩き込んだ。電弧が金属の留め具を一瞬で這い回る。
槍兵の全身が硬直した。
次の一噛みで、喉を断たれる。
視界の端を死亡通知が流れた。
確認している暇はない。
「散るな!」
Atlasが怒鳴り、大剣を振り下ろす。ついに巨狼の背へ一条の傷が走った。
だが相手は退かない。血の臭いに猛り、もう一度後衛へ回り込んでくる。
新人の剣盾役が怯んだ。
槍兵の死を目にした瞬間、無意識に半歩下がった。
たった半歩。
サンダーウルフは土壁の裂け目に沿って低く飛び込み、盾へ激突する。今度は力で吹き飛ばされなかった。だが盾面で電光が炸裂し、握る手から感覚が消えた。
盾が傾く。
その上から狼の顎が伸びた。
晴れ晴れの治癒光が灯った時には、死亡通知がすでに彼女の術を遮っていた。
戦線が崩れかける。
前へ出たのは、二人の弩手だった。
半身の痺れが残る一人は、新人の落とした盾を拾い、右肩だけで古参の隣へ押し立てた。もう一人は死んだ槍兵の武器を掴む。握り方も立ち方も拙い。それでも巨狼が後衛へ食い込もうとした瞬間、穂先を力任せに突き出した。
深くは刺さらない。
それでも巨狼の軌道がずれた。
術師がその一瞬を掴む。地面からせり上がった土壁が、巨狼の前脚を縁へ挟み込んだ。
電光が土塊を砕き、飛び散った欠片が顔を打つ。術師は止めない。さらに泥を盛り上げ、捕らえた一点へ押し込んでいく。
「団長!」晴れ晴れが叫んだ。
Atlasは一剣で巨狼を遠ざける。
「何だ!」
「そいつ、団長とは戦いたくないんです!」
声は切迫しているが、乱れてはいなかった。
晴れ晴れはAtlasと、巨狼の動きを交互に見ている。
「団長を噛んでも割に合わないと分かってる。ずっと団長を避けて、ほかの人の隙を待ってます」
「それで?」
「団長を選ばせてください」
古参の剣盾役が思わず振り返る。
「正気か?」
晴れ晴れはそちらを見なかった。
「もう傷を負ってます。槍も剣も当たったし、土壁にも二度引っかかった。魔力だって無限じゃない。もう逃げたがってるように見えます。団長がわざと孤立して、襲える隙を見せれば――」
巨狼は少し離れた場所で身を低くしていた。
背の傷から血が滴り、土の畝へ何度もぶつけた前脚にはわずかな硬さがある。それでも暗黄色の双眸は鋭く、喉の奥で唸り声を転がしていた。爪の間には、時折青白い電弧が跳ねる。
確かに退こうとしている。
だが、まだ退いてはいない。
Atlasがふっと笑った。
「やってみよう」
そう告げると、隊列からゆっくり離れていく。
合図を受けた一行は反対側へ固まった。古参の剣盾役と二人の弩手が、晴れ晴れと術師を守る。負傷した弩手は足元をふらつかせながらも、拾った盾を前へ向けた。
終焉の竜槍使いは何も言わない。Atlasの目配せ一つで、右手の濃い影へ音もなく退いた。
Atlasは隊列の斜め前に一人で立つ。
そして兜の留め具を外した。
落ち葉の中へ、重い音を立てて投げ捨てる。
次は肩当て。
一枚。
もう一枚。
腕を上げ、身を捻るのに邪魔な防具を外し、汗を吸った下衣を晒した。雷による麻痺は、金属鎧と相性が悪い。厚い鎧は爪を防いでも、電流を体へ導いてしまう。
サンダーウルフの目には、突如として晒された隙に映っただろう。
Atlasはさらに隊から距離を取る。
頭、首、肩、半身。そのすべてが薄闇の中に剥き出しとなった。
両手で大剣を握り、右脚を半歩引く。構えが間に合っていないようにも、麻痺と重装に動きを奪われたようにも見えた。
サンダーウルフの爪が、地面を軽く掻いた。
電光が瞬く。
後ろ脚が地を蹴り、Atlasの頭へ一直線に飛びかかった。
その瞬間、森の音がすべて遠のいた。
巨月はすでに梢の上にある。
冷たい白光が、投げ捨てられた兜と肩当てを照らす。灰黒い獣の背も照らす。爪先で電弧が燃え、青白い火花となって散った。
Atlasは退かない。
両手で剣を握り、右脚を大地へ打ち込んでいる。
巨狼が最後の半歩へ飛び込んだ時、右の闇から槍が走った。
余計な気迫も、叫びもない。
月光を押し分けて伸びた穂先が、正確に脇腹を貫く。
サンダーウルフの体が宙で止まった。
電流が槍の柄で炸裂する。終焉の竜槍使いの両手から力が抜けかけた。それでも歯を食いしばり、さらに半寸、穂先を押し込む。
激痛に身をよじり、魔獣が横へ逃れようとした。
その一瞬。
巨月の下で、Atlasの大剣が頭上から落ちた。
刃が走る。
首が肩口から断ち切られ、消え残る青白い電光をまとったまま宙を舞った。




