第二十三話 血痕
十人が襲撃現場へ着いた時、太陽はまだ梢の上にあった。
樹冠の隙間から差し込む光が、湿った草や折れた枝をまだらに照らしている。昨日伐った木は倒れたまま、枝の多くが踏み折られていた。材木を束ねていた太い縄が泥の上に散らばり、何かを引きずった跡を残している。
装備もそこかしこに落ちていた。
斧、短弓、留め具の外れた胸甲。深い牙痕の残る小盾。そして、白桃ソーダが着ていた、やけに鮮やかな色の上着。
だが、遺体はなかった。
団員の何人かは、流血表現の保護設定を強くしている。彼らに見えているのは、システムが処理した無難な光景だけだ。草地はきれいなもので、せいぜい泥の色がところどころ濃く見える程度だった。
だからこそ、散乱した装備の間にある空白が不気味だった。
なくなっているものが、あまりに多い。
Atlasは黙ったまま腰を落とし、小盾を拾った。縁に刻まれた深い牙痕へ目をやる。
「流血保護を切れ」
隣にいた新人の剣盾役が目を瞬いた。
「団長?」
「嫌なら離れていろ。ここから追跡する。痕跡が見えなければ話にならない」
古参はほとんど迷わず設定を変えた。新人も顔をこわばらせながら、それに続く。
次の瞬間、林床は一枚皮を剥がされたように姿を変えた。
草葉にこびりついた黒ずんだ染み。木の根元から延びる大量の血と引きずり跡。踏み荒らされ、泥濘と化した地面。倒木のそばから森の奥へ、深さの違う爪痕が続いている。
鉄錆に似た臭いが、夕暮れ前の湿気に押さえ込まれ、地面近くに残っていた。
誰もが口を閉ざした。
Atlasは立ち上がり、背負った大剣越しに血の跡を追う。
「遺体を運んでいる。襲って逃げたんじゃない。獲物として持ち去ったんだ」
晴れ晴れが小さく息を呑んだ。新人の手にも力がこもる。
「巣があるんでしょうか」弓手が尋ねた。
「かもしれない。ただの餌場という可能性もある。普通の湧きモンスターだと思うな」
Atlasは振り返り、九人の顔を見渡した。
整った編成ではない。
いつもの顔触れでも、慣れた編成でもなかった。二班を急きょ繋ぎ合わせたせいで、頼れる斥候がいない。正面からの圧力を力ずくで押し返す砕岳槌も、乱戦のさなかに指揮を分担できる周もいない。
だが、今使える戦力はこれで全部だった。
Atlasは全員を倒木のそばへ集め、剣先で泥に配置を描いた。
「ここからは一班、二班を分けない。十人で一個の戦闘班として動く」
まず、自分の位置を示す。
「主盾は俺だ。相手は速い。俺が襲われても、合図するまでは助けに出るな」
続いて新人と、以前に周と組んだことのある剣盾役を指した。
「二人は副盾。敵を追うな。後衛だけを守れ。横へ回れば横を塞ぎ、後ろへ飛び込んだら最初の一撃を止める。攻撃は考えなくていい」
古参が頷き、半拍遅れて新人も頷く。
Atlasは終焉の竜槍使いと、もう一人の槍兵へ目を向けた。
「二人は牽制だ。脇腹、前脚、肩を狙え。傷を負わせられるならやれ。無理なら進路を変えさせるだけでいい。前衛から離れすぎるな」
終焉の竜槍使いが槍を肩へ担いだ。
「承知した。我が槍の穂先、闇が降りる前にかの獣の運命を縫い止めん」
Atlasが一瞥する。
「訳せ」
一秒の沈黙。
「勝手に突っ込みません」
「よし」
後衛は弓手一人、弩手二人、水と土を扱う術師一人、そして晴れ晴れだ。
本音を言えば、後衛が多すぎる。
大盾の証言では、相手の速さは尋常ではない。後衛が増えるほど隊列は伸び、誰か一人でも離れたり、反応が遅れたり、恐怖で後ずさったりすれば、ほんの一、二度の襲撃で陣形を引き裂かれる。
だが、まともな前衛はもう選べなかった。
育っていない新人を無理に加えても、死亡記録に名前を増やすだけだ。
幸い、弩手二人は信頼できる。第二遠征団の古参で、普段は弩を使うが、必要なら短剣で接近戦もこなす。少なくとも、退くべき時と退いてはいけない時を知っていた。
「後衛は自分で安全な場所を探すな。安全なのは前衛の後ろだ。十メートル先の木陰じゃない。弓手は偵察のため半歩先へ出てもいいが、視界から外れるな。弩手は副盾のそば。術師は晴れ晴れより半歩前に立て」
術師が戸惑った。
「僕が治療役より前ですか?」
「お前には土壁がある。彼女にはない」
晴れ晴れは静かに頷いた。
短杖を握る顔には、いつもの軽い笑みがない。危険な場所へ入るほど、彼女は戦闘職の多くより落ち着いて見えた。
「状況は見ます。でも、今の治療はそこまで強くありません」
新人の視線が思わず彼女へ向く。
晴れ晴れは一言付け加えた。
「なので、噛まれないでくださいね」
隊は再び歩き出した。
血痕は森の奥へ続いている。
初めのうちは追跡も容易だった。草むらには長い引きずり跡があり、低木には布切れが絡み、柔らかな土には爪痕も残っている。前脚は幅広いが、後ろ脚の着地は軽い。歩幅は不規則で、ただ走り続けたのではなく、何度も足を止め、振り返っている。
後方を窺っていた可能性すらあった。
「追ってくるのが分かっていたんでしょうか」新人が思わず口にする。
古参の剣盾役が低く返した。
「怖くなることを聞くな」
Atlasは振り返らない。
「魔獣は訓練用の木人じゃない。俺たちを理解していなくても、獲物のことは知っている」
血痕を辿って四半刻ほど進んだところで、先行していた弓手が手を上げた。
全員が即座に止まる。
弓手は木の根元へ身を沈め、耳を澄ませた後、右前方を手で示した。
木々の間から、細かな足音が聞こえる。
灰黒い魔獣ではなかった。
数息後、斜面の陰から鹿に似た魔獣が姿を現した。普通の鹿よりはるかに大きく、額の太い二本角が前方へ重い弧を描いている。角の根元には暗赤色の紋が一周していた。
相手も一行に気づいたらしい。前脚で地面を掻き、身を沈める。いつでも突進して逃げ道をこじ開けられる構えだった。
「ラムホーン・ディア。C級です」弓手が囁く。
一週間前なら、並の一隊が長々と身構える相手だった。
だがAtlasは手を軽く上げただけだ。
「訓練代わりにやるぞ」
ラムホーン・ディアは踵を返した。
その進路へ弓手の矢が突き立ち、本能的に横へ逸れさせる。ほぼ同時に二人の弩が鳴った。一射は首をかすめ、もう一射は後ろ脚に刺さる。
魔獣は痛みに身を翻し、角を向けた。だが足元から盛り上がった土の畝に前脚を取られ、よろめく。
終焉の竜槍使いはすでに側面へ詰めていた。
槍を突き出す瞬間、いつもの仰々しい台詞はない。ただ鋭い穂先だけが一直線に走った。もう一人の槍兵が追撃し、古参の剣盾役は断末魔に振り回された角を盾で受ける。
最後にAtlasが踏み込み、大剣を振り下ろした。
戦いはすぐに終わった。
新人だけは盾を上げきれないまま、その場に立ち尽くしている。
倒れたC級魔獣を見つめ、目を丸くした。
「これで……終わり?」
「連携ってやつだ」古参が言う。
木陰から戻った弓手が、刺さった矢を抜いた。
「向こうが戦わず逃げようとしたのも大きいけどな」
Atlasは剣についた血を払う。
「早く倒せたのは、こちらが先に見つけ、先に足を止めたからだ」
新人は頷いた。
盾を握る構えが、わずかに安定していた。
追跡を再開する。
進むほどに血痕は減っていった。
途中で一度、魔獣が足を止めたらしい。その先は引きずり跡も途切れがちになる。湿った泥はいつしか厚い落ち葉に覆われた斜面へ変わり、爪痕も腐葉土の下へ消えた。時折、剥がれた樹皮や、草の先に乾きかけた黒い染みが見つかるだけだった。
時間も過ぎていく。
林の光が灰色に沈み始めた。
太陽が稜線の向こうへ落ちると、一本一本伸びていた木の影が溶け合い、ぼやけた闇になる。谷を抜けた風が、昼より冷たい湿気を運んできた。
弓手はさらに二度先行したが、確かな痕跡を見つけられない。
Atlasは緩斜面に立ち、前方の深い森を見据えた末、手を上げた。
「撤収する」
終焉の竜槍使いが眉を寄せる。
「追跡を断念すると?」
「もう日が暮れる。これ以上進めば、別の危険まで拾う」
反論する者はいなかった。
一行は来た道を引き返す。
往路よりも足は遅かった。
あの魔獣がまだ近くにいるのなら、撤退する隊が背後に晒す隙は、追跡中より少ないとは限らない。




