第二十一話 契約
本題がまとまり、評議堂を満たしていた、胸に石を載せられたような緊張もようやく緩んだ。
真っ先に動いたのは補佐役だった。
持参した羊皮紙を広げ、アンヴィル一族の書記官から紙質の粗い羊皮紙に向いたペン先を借りると、文言を低い声で確認していく。炉背の地下道、探索経路、入退場記録、持ち出し品の検分、五点の優先選択権。どの条項も曖昧にはできない。
ドワーフは口約束を軽んじているのではない。
約束を重んじるからこそ、後世の者にも見える形へ刻み、受け継ぐのだ。
ずっと口を閉じていた砕岳槌は、もう誰にも睨まれていないと分かると、盛大に息を吐いた。
「話が終わったなら、酒をもらってもいいか?」
杯を石卓へ置く。直立していたブローンの口元が引きつった。
周には、砕岳槌が今月分の自制心をすべて使い果たしたように見えた。
だが中央の長老は手を上げた。
「一杯やれ。話がまとまった日の酒は、しきたりに背かん」
長老の名はハドレン・アンヴィル。
契約書の起草が始まり、ブローンがそう呼ぶのを聞いて、周もようやく名を知った。
軍師は石卓を離れなかった。
交渉が終わってから、むしろ忙しさを増している。ハドレンが口を開いたからといって、一族が何もかも明かすわけではない。だが軍師には厄介な特技があった。問い詰めもせず、尋問めいた聞き方もせず、合意した協力関係の穴を前もって塞ぐように、一つずつ質問を繋げていく。
「五年前のスタンピードで、地下道周辺に現れた魔獣の種類は記録されていますか」
「持ち帰ったルーン器物に異常は? 技術の詳細ではなく、危険性だけで構いません」
「今後、資材や職人を手配し、一部通路を封鎖する場合、どの組織へ先に申請すべきでしょう」
急いではいない。だが明確に拒まれない限り、聞けることはすべて聞く。
周には、新しい事業が決まるなり現地調査を始めた男にしか見えなかった。
その応酬の中で、ドワーフ三大氏族の姿も見えてきた。
ブラックビアード、アンヴィル、モーニングウィンド。
ブラックビアード一族は坑道、輸送、砦下層に根を張る。坑長、隊商長、倉庫管理者を多く輩出し、武装組織も有していた。守備隊のみならず、鉄山砦一帯に大きな影響力を持つ。
アンヴィル一族は言うまでもない。鍛造、武具、ルーン器物、旧工房の技術は彼らを抜きに語れない。
意外だったのはモーニングウィンド一族だ。神殿と共議堂、砦内の通路設備を維持し、外部連絡、使者、斥候、各勢力との人脈を握る。人間の王家やエルフ、伝説の竜族とさえ今も繋がりがあるという。
「モーニングウィンドって、ドワーフの氏族名らしくないな」砕岳槌が小声で言った。
「人間の言葉に訳した名だ」ブローンが睨む。
「ああ」
砕岳槌は顔より大きな酒杯を抱え、素直に俯いた。
鉄山砦はドワーフだけの都市ではない。
軍師も事前に知ってはいた。だがハドレンから勢力関係を聞き、初めて砦の全体像が繋がった。
名目上、鉄山砦は北境辺境伯アルヴィス・ローランドの領地だ。
人間の貴族としても異色の領主だった。王国と巨獣の森に挟まれ、常にスタンピードへ備える領地ゆえに、自治権は強い。王都の命令も、前線が耐えられるかを見てから実行される。アルヴィス自身は武を尊び、規律を重視し、賞罰に情を挟まない。三大氏族へ自治と伝統を認める一方、軍備と砦の防衛には明確な責任を求めていた。
つまり鉄山砦には、人間領主の軍政、ドワーフ氏族の工房と古い掟、守備隊が負う前線の重圧、そして流入したばかりの星界の旅人という変数が、同時に詰め込まれている。
軍師はしばし黙り、心から言った。
「手続きが多いわけだ」
女性長老は、それが愚痴なのか判じかねる顔をした。
軍師は続いて、第二遠征団について公開できる情報も差し出した。
村での失態と教訓。賦役中の狩猟班。巡林記録、事務所での選抜。中核団員、新人、生産職の人数。そして西渓谷南側の高台に独立拠点を築く計画。
新人の多さ、戦力層の薄さ、膨らむ物資消費まで隠さなかった。
「何でも話すのだな」右の長老が言う。
軍師は笑った。
「調べれば分かる程度の内情です。長く組むなら、自分から話したほうがいい」
ハドレンは遮らない。
「第二遠征団は、鉄山砦の外で雇われ仕事をするだけの集団では終わりません。まず巡林拠点で足場を固め、独立拠点の許可を取り、安定した駐防と補給線を作る。その先は巨獣の森外縁、巨獣山脈への道、旧坑道、遺跡探索です」
口調はなお平静だった。
「さらに先の目標は、もちろんガイア全土です。星界の旅人が来た以上、いつか誰かが世界の隅々へ足を運ぶ。第二遠征団も無用に謙遜はしません。巨獣山脈がどれほど危険でも、この世界が前へ進む限り、いつか必ず再び踏査されるでしょう」
周の瞼が跳ねた。
別の者が言えば酒場の大言壮語だ。だが軍師が語ると、五年計画の報告にしか聞こえない。
ハドレンの指が肘掛けの上で止まった。女性長老も、右の長老も、やがて静かに聞き入った。
ドワーフにとっては、ただ遺跡へ入りたいと言われるより重い話だった。
星界の旅人は短命で、同時に長命だ。酒一杯で騒ぎを起こし、翌日には谷あいで死に、三日後には星界会館から戻ってまた前へ進む。
旧物を数点欲しがるだけなら、迷惑な連中にすぎない。だが本気で山脈の奥へ道を通し、記録を束ね、危険を一つずつ取り除くつもりなら――それは厄介で、無視できない可能性だった。
話題がルーン器物の保存環境へ移ると、周は扉際へ下がり、外の空気を吸った。
黒鉄の門の向こうで、若い衛兵二人が声を潜めている。
「向こうから魔獣が溢れ始めてるって話だ。このままじゃ封鎖地点も持たんぞ」
「だから星界の旅人に試させる。俺たちも奴らも命は命だが、奴らには予備がある」
「予備があっても勝てなきゃ同じだ。地下道にいるのは、巡林路のボーンバック・ハウンドじゃない」
「それでも俺たちが行くよりましだ。命が十あっても足りん」
周の足が止まった。
口は挟まない。
門内では軍師が経路登録について話し続けている。門外の囁きは小石のように胸へ落ち、浮き立ちかけた気持ちを沈めた。
協力は成立した。
だが交渉で得たものが、安全だとは限らない。
その夜、アンヴィル一族はまた宴を開いた。
軍師は断ろうとした。翌日には事務所へ戻り、文書を保存し、Atlasへ結果を伝え、探索準備、新人訓練、拠点申請を進めなければならない。
だが右の長老に袖を掴まれた。
「さっき俺へ二十七も質問した。今度はお前が二十七口飲め」
軍師は沈黙した。
「公平ではないな」
「ドワーフの公平だ」
実に土地柄のある説明だ、と周は思った。
宴が始まれば、砕岳槌はすぐに水を得た魚となった。補佐役だけは書記官と契約書の写しを照合し、署名、立会順、経路札の番号、検分書式を細筆で確かめてから、防湿革の筒へ大切に収めた。
軍師も初めのうちは体面を保っていた。
ハドレンの隣で遠征団について答え、時には協力の詳細へ話を戻す。周は一時、軍師の酒癖がひどいというAtlasたちの話は誇張だと思った。
自分が若かったと、すぐに知った。
三巡もすれば、軍師の目が妙に輝き始めた。
さらに飲むと、ルーン鍛造師バロン・ロックマークの背を自分から叩き始めた。バロンは正確にはアンヴィルの生まれではなく、婿として一族へ入ったらしい。
やがて軍師は隣のドワーフを抱え、沈痛な声で語り始めた。
「組織で一番恐ろしいのは、戦えない奴でも、表計算のできない奴でもない」
「では何だ?」
「本人はできると思っていることだ」
軍師が卓を叩いた。周の瞼も跳ねた。
「Atlasは団長として頼れる。だが人使いが荒い。鈴音は文書仕事が本当に強い。だが誰かがAtlasへ近づくたび、紙へ穴を開けそうになる。砕岳槌は、槌で片づくことには口を使わない。槌で片づかないことにも、まず槌を試そうとする」
遠くの砕岳槌が振り向いた。
「聞こえてるぞ!」
「聞こえたなら座れ!」
砕岳槌は驚き、本当に座った。
軍師の酔い方と、砕岳槌に効くことの、どちらに驚くべきか周には分からない。
「周はまだましだ。ただ、まともすぎてこの団では浮いている。終焉の竜槍使いには会ったか? まだ? 今を大切にしろ。それから白桃ソーダ。志望理由を聞いたら、団長が格好いいと聞いたから、だそうだ」
ドワーフたちが大笑いする。周は顔を覆った。
普段は何もかも無表情の下へ押し込めているくせに、酔えば帳簿の化身となって一項ずつ精算するらしい。
ハドレンの目には笑みが増していた。女性長老ブリュンヒルド・アンヴィルも首を振るだけで止めない。
バロンは杯を手に隣へ座った。
「星界の旅人の隊も、そんなに面倒か?」
「とても面倒だ。金を数え、手続きを回し、穴を塞ぎ、尻拭いまでして、現実から団長に引っ張り込まれて社畜をやっている」
「社畜とは?」
「働けるのに、勝手には辞められない生き物だ」
バロンは考え、重々しく頷いた。
「アンヴィルにもいる」
周は笑うしかなかった。
だが、この時ようやく長老たちの態度が変わった理由も分かった。
昼の軍師は、有能で信頼できても、鞘に収まった刃のようだった。今、酒に酔って疲れを漏らし、仲間を一人ずつ罵りながら本気では嫌っていない男のほうが、彼らには生きた人間に見える。
生きた者だけが疲れる。
本当に一団を背負う者だけが、嫌気と諦めの混ざった愚痴をこぼす。
やがてバロンも、一族の手のかかる若者を一緒に罵り始めた。二人はいつしか、成形前の金属にルーン刻線の余地を設けるべきかで議論していた。
鍛造師ですらない軍師は、公開情報と断片的な話から組み立てた知識で三度食い下がり、完敗した。
バロンは満足そうに肩を叩いた。
「悪くない。知らんと分かっていて、まだ聞く度胸がある」
「知らないから聞くんだ」
軍師が真剣に頷いた瞬間、淡いシステム画面が眼前に浮かんだ。
周囲の喧噪が、一瞬だけ遠のく。
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【アンヴィル一族協力イベント・結果集計中……】
戦闘評価
技術:交渉技能・優秀
与ダメージ:なし
演出:交渉卓を戦場と見なすのも、一つの戦い方である
任務評価
第二遠征団の代表として、炉背の地下道探索に関する協力枠組みを締結。
ドワーフの祖先の遺跡に対する一線を侵さず、探索権、経路登録制度、持ち出し品の分配範囲、今後の協力余地を獲得した。
遠征団の組織、前線計画、長期目標を自発的に公開。アンヴィル一族による評価を「使える星界の旅人の一団」から「観察に値する長期的協力者」へ引き上げた。
物語評価
剣も槌も振るわず、山腹の評議堂で、ようやく規則を学んだ星界の旅人たちのために、旧時代へ続く道を勝ち取った。
さらに酒席では、偉大な遠征が英雄の宣言から始まるとは限らないことも証明した。
ドワーフは正直な槌を好む。正直な社畜も、案外嫌いではないらしい。
【最終評価:A+】
【イベント報酬】
称号獲得:『アンヴィル評議堂の契約執行人』[効果:契約の力は、文字の上だけに留まらないかもしれない]
許可獲得:炉背の地下道探索協力許可[説明:アンヴィル一族の立会いと登録規則のもと、限定経路の初期探索を実施可能]
アイテム獲得:アンヴィル一族旧式経路札[説明:鉄床の印が刻まれた重い鉄札。地下道封鎖地点へ入る際の身分証の一つ]
アイテム獲得:契約書写し・炉背の地下道
アイテム獲得:上質な魔羊紙×20
アイテム獲得:基礎契約および地方慣例要録
名声上昇:鉄山砦・アンヴィル一族
名声上昇:鉄山砦・ドワーフ
【集計完了】
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軍師は「正直な社畜」を二秒見つめ、目を閉じた。
「システムめ」
杯を持つバロンが首を傾げる。
「何か言ったか?」
軍師は目を開き、静かに杯を置いた。
「いや。なぜか突然、作っていない予算書を思い出した」
宿酔いより先に仕事が追いついてきたような顔を見て、周はこの評価システムも時には相当に鬱陶しいと思った。




