第十九話 会談
会談の日、鉄山砦には短い雨が降った。
山肌の排水路を駆け下りた雨水は、石壁と鉄管を伝い、薄く煤けた色になって街路へ落ちていく。炉区の熱気は少しも引かず、むしろ湿った空気に押さえ込まれて低く淀んでいた。道端の弁から噴く蒸気に、槌音、鉱車の車輪、人々の声が混じり、狭い通りを幾重にも反響する。
第二遠征団の事務所は、朝早くから開いていた。
帳簿の束を抱えた金樹花は、二階から降りてきた軍師を見て、危うく別人かと思いかけた。
普段から身なりがだらしないわけではない。ただ忙しくなれば、服が一応整っているだけで十分。袖口に墨がついていようが、襟に皺が寄っていようが、まず気にしない男だ。
ところが今日は違った。
深灰色の長衣に着替え、帯はきっちり締められている。裾を縁取る控えめな銀糸は、炉火と窓外の雨明かりが重なった時だけ、細く光を返した。襟を三度撫でつけ、袖口も三度整えている。
軍師は机から書類鞄を取り、紐の結び目を確かめた。
それから鞄を置き、また袖口を直した。
金樹花はとうとう我慢できなくなった。
「軍師、今日はずいぶん正装ですね」
軍師が目を上げる。
「そんなに分かるか?」
「いえ、別に。ただ、その袖を触るのはもう五回目です」
隣の事務補佐が俯いて咳払いし、何も聞いていないふりをした。
軍師はしばらく黙り、手を下ろした。
「今日はアンヴィル一族の長老に会う。裏庭で砕岳槌が人と槌を振り回すのを見るわけじゃない」
裏庭から不満げな声が飛んできた。
「聞こえてるぞ!」
ちょうど脇の扉から、剣を腰に佩き、背に盾を留めた周が入ってくる。軍師と裏庭を見比べ、何とも言えない顔をした。
「軍師、それをアンヴィル一族に聞かれたら、後半のほうが正式だと思われるかもしれないぞ」
「だから今日は、あいつに余計なことを言うなと釘を刺した」
砕岳槌が巨大な槌を担いで裏庭から現れた。身につけているのは、アンヴィル一族から贈られた粗造りの肩当てだ。縁には槌の跡がはっきり残り、精巧とは言い難い。だが彼には妙に似合っていた。厚く、頑丈で、荒っぽく戦う前衛のために作られたようだ。
「俺がいつ余計なこと言ったよ?」
前室が一瞬静まり返った。
周は剣帯を直し、補佐役は帳簿を開き、金樹花は突然、窓外の排水路へ強い関心を抱いたらしい。
砕岳槌の顔が険しくなる。
軍師は話を続けず、机上の小さな木箱を、同行する補佐役へ渡した。
「手土産、帳簿の写し、守備隊への届出受領書、それに公開可能な駐防記録が入っている。なくすな」
「了解です」
続いて、留守を預かる老陳へ向く。
「昨日の打ち合わせどおり、新人登録は通常どおり。裏庭の試験は半日止める。前線拠点について聞かれたら、候補地は決定済み、正式許可は鉄山砦の回答待ちと伝えろ」
「騒ぐ人がいたら?」と金樹花が割り込んだ。
「名前を控えて守備隊へ」
「口が悪いだけなら?」
「先に名前を控え、それから送るか決める」
金樹花の目が輝いた。なるほど、そういう手があるのか。
軍師が彼女を見る。
「乱用するなよ」
「もちろんです。公平、公正、冷静、節度をもって対処します」
周には、その四語のうち少なくとも二つに疑問符がついた。
入団したばかりの金樹花に、正式な会談への同行資格はない。本人も不満には思っていなかった。
それより、この数日事務所を手伝って、第二遠征団と鉄山砦の地元勢力との関係が、依頼を受けて報酬をもらうだけのものではないと分かり始めている。
アンヴィル一族は、ただの鍛冶屋ではない。
軍師は鉄山砦へ戻って以来、そのことを繰り返し調べていた。
砦には多くの氏族、商会、工房、駐軍組織がある。軍令を握って前線を動かすのは守備隊と領主。戦時の物資配分を決めるのは、各級の兵站部門と評議機関だ。そうした名簿の中で、アンヴィル一族の名は目立つ位置にない。
だが、問い方を変えれば答えも変わる。
最も信頼できる盾を直せる店はどこか。十人に聞けば七人がアンヴィルの工房を挙げる。
どの家の鶴嘴が長持ちするか。重鎧の仕事に手抜きがないのはどこか。前線の泥道に耐える車軸を作れるのは誰か。答えはいつも、アンヴィルの名を冠した工房へ行き着いた。
何より一族には、鉄山砦に二人しかいないルーン鍛造の大師がいる。
軍師も最初は、それを鍛冶系生産職の上位称号ほどに考えていた。だが守備隊の書記、鍛冶屋の徒弟、古参プレイヤー数人へ当たり、酔ったドワーフの御者から断片的な話まで聞き出して、通常の付与魔法とはまるで違うものだと気づいた。
一般的な付与魔法は、魔力を定着させ、蓄え、発動する。
ルーン鍛造はむしろ、何らかの法則を金属の骨へ一打ずつ叩き込む技に近い。
華やかとは限らない。炎や氷、雷光といった、いかにも高価そうな効果が出るとも限らない。だがルーン装備は、使い手が魔力を注ぎ続けなくても、安定して長く力を発揮する。より鋭く、より強靱に、摩耗しにくく。中には魔法を退けるものさえある。
鉄山砦では、派手な魔法よりよほど重要だ。
前線兵は術を使えなくてもいい。だが三度目のスタンピードを受けても刃毀れしない斧は必要になる。
だからこそアンヴィル一族は、普段こそ政治の表舞台へ出ないが、鉄山砦の肉体へ打ち込まれた鋲のような存在だった。日常では目につかなくとも、砦を本当に動かそうとすれば、どこにでも彼らがいる。
今日の会談には、数え切れない機会が眠っていた。
軍師はそのすべてを口にはせず、周を見た。
「今日はよく聞け。前の試練を越えられたのは、言葉が現実に根ざしていたからだ。それに、本当に戦って勝った。今後もこういう場は増える。Atlasが毎回いるとは限らないし、俺も全員を連れて歩けるわけじゃない」
周は一瞬驚き、すぐに表情を改めた。
「分かった」
軍師は砕岳槌も見る。
「お前も同じだ」
砕岳槌が頷きかける。
「特に、黙っていることを覚えろ」
「……分かったよ」
深く息を吸った砕岳槌の肩を、周が叩いた。
「耐えろ。今日一日耐えきれば、お前は団の対外関係史に名を残す功労者だ」
「喧嘩売ってんのか?」
「ほら」周は即座に軍師へ向き直った。「まだ出発もしてないのに、難易度を証明し始めた」
軍師は、袖口をもう一度整えるべきかもしれないと思った。
ブローンは時間どおりに来た。
今日は巡林拠点で着ている古びた鎧ではなく、一族の正式な場に合う濃色の短衣をまとっている。腰の斧は普段どおりだが、柄は磨かれ、髭も梳かして二つの鉄輪で胸元に束ねていた。
事務所の入口で木札を見上げ、それから軍師たちを見渡す。
「揃ったか?」
「揃った」
ブローンは砕岳槌へ目を向けた。
「今日は評議堂で、槌はでかいほどいいなんて言うなよ」
砕岳槌の顔がまた険しくなる。
「いつまで言うんだよ。今日は信じろって」
周が俯いて笑いを堪える。
軍師は真顔で付け加えた。
「信じている」
事務所からアンヴィル一族の評議堂までは、周が思っていたより遠かった。
前に老ブローンの家へ向かった低い路地には入らず、ブローンの案内で中層西側から上へ登る。街区を跨ぐ鉄橋をいくつも渡り、半ば閉ざされた石廊へ入った。
片側には長窓が続いている。
その外に、鉄山砦の工房と軌道が折り重なって見えた。雨はすでに上がり、濡れた石面が炉の明かりを照り返している。巨大な昇降台が下層からゆっくりせり上がり、張り詰めた鎖と回る歯車が、鉱石を満載した台車を蒸気の中へ引き上げていた。さらに遠い上層の山壁には、古い石門が幾列も埋め込まれている。一族の紋を掲げたものもあれば、鉄格子に閉ざされ、何十年も開いていないような門もあった。
先を行くブローンの足取りは、いつもより確かで、いつもより少し遅い。
緊張しているのだと周には分かった。
巡林拠点では兵士と酒を取り合い、山道では飯がまずいと大声で文句を言うドワーフも、一族の正式な場へ戻れば、無意識に肩を縮めるらしい。
石廊の突き当たりには、重厚な黒鉄の扉があった。
飾り立てた彫刻はない。中央に巨大な鉄床の紋章、その両側に交差する槌と鑿。下には周の読めないドワーフ文字が一周刻まれていた。幾度も磨かれた文字の溝には、なお黒ずんだ古い蝋が残っている。長い年月、人々の指や布、油で守られてきた跡だった。
門前にはドワーフの衛兵が二人立っていた。
ブローンを止めず、頷くだけだった。
「ブローン」
「星界の旅人を連れてきた」
衛兵の一人が砕岳槌を見た。視線が粗い肩当てと巨大な槌で止まる。
「こいつか?」
砕岳槌は反射的に「何がだ」と聞き返しかけ、どうにか呑み込んだ。
衛兵が歯を見せる。
「悪くない。今日は頭も持ってきたようだ」
砕岳槌は鼻を鳴らした。
軍師が彼を見て、満足そうに頷く。
ブローンは咳払いした。
「長老方がお待ちだ」
衛兵が振り返り、黒鉄の扉を押し開ける。
軸が低く擦れ、内側から熱気が流れ出した。
宴席の肉と麦酒の熱でも、工房の赤熱した鉄が放つ熱でもない。もっと重く、古い炉の気配だった。山の奥で幾つもの炉が長い歳月燃え続けている。炎は猛らず、それでも一度として消えたことがない。そう思わせる熱だった。
アンヴィル一族の評議堂は山腹にあった。
高い天井へ向かって石壁が狭まり、そのまま影に沈んでいる。両側に並ぶ太い石柱には、槌、炎、山脈、鉱車、歯車、盾、そしてルーンらしき短線や折れ線が刻まれていた。光を放ってはいないのに、目を逸らしがたい。周が柱の一本を通り過ぎた時、剣の鞘がかすかに震えた気さえした。
中央に長机はない。
入口から一段下がった床には、大きな暗色の石板が敷き詰められていた。継ぎ目を走る細い金属線が、幾重もの環状紋を描いている。その中心には巨大な鉄床が置かれていた。飾りなのか、今も使われるものなのかは分からない。表面には細かな鑿痕が無数にある。それでいて歳月に磨かれた黒い岩のように艶を帯びていた。
周囲には七脚の石椅子がある。
今日、座していた長老は五人。
周は前の宴で最後に口を開いた女性長老をすぐに見つけた。左から二番目。短めの髭を整え、酒杯の代わりに小さな鉄片を指で弄んでいる。鉄片がゆっくり回るたび、その縁が炉火を赤く返した。
中央にいるのは、あの日、宴を開くと宣言した長老だ。
間近で見ると、あの天幕の下にいた時よりも老いて見えた。胸から膝まで垂れた髭は幾つもの銅輪で束ねられ、太い眉は目を覆わんばかりだ。それでも彼が座るだけで、堂内の重心が自然とそこへ落ちる。声が最も大きいからでも、体が最も立派だからでもない。周囲のドワーフは、まず彼が口を開くと当然に考え、彼が黙っていれば誰も先を急ごうとしなかった。
右端の石椅子には、周の知らない長老がいる。
髭はさほど長くない。中央の長老よりずっと短いが、小さな黒鉄の輪で細かく束ねられ、それぞれ異なる文様の金属飾りが先端についていた。広い手、太い指、手の甲を覆う古い火傷と細かな傷。だが最も目を引くのは、傍らに立てかけた短柄の槌だった。
槌頭をびっしりと精緻なルーンが覆っている。
それも光ってはいない。
だが一目見ただけで、周は裏庭にあるどの武器より、その槌のほうが重いと感じた。
軍師の目も、一瞬だけ槌に留まる。
すぐに視線を戻した。
ブローンは一歩進み、ドワーフ式の礼を取った。
「長老方、お連れしました」
中央の長老が頷く。
「ご苦労」
ブローンは下がり、扉の近くへきちんと立った。
軍師は周、砕岳槌、補佐役を連れて一段下りる。
すぐには話さず、道中でブローンに教わったとおり、右手を胸へ添え、長老たちへ軽く身を折った。
「第二遠征団、顧 之遠。お目通りいただき、感謝します」
周も礼に倣う。砕岳槌は半拍遅れたが、どうにか間違えずに済んだ。
中央の長老が軍師を見る。
「お前が、軍師と呼ばれている男か」
「はい」
「槌を振れるようには見えん」
「振れません」
「ならば、何ができる?」
軍師は顔を上げた。
「勘定を合わせ、手続きを通し、槌を振る者に食事と鎧を用意する。そして、彼らが先へ進むための道を探します」
評議堂が静まった。
女性長老の鉄片が指の間で止まり、やがてまた軽く回る。右のルーン鍛造師らしき長老が低く笑った。
中央の長老は髭を撫でる。
「人間が自分をそう語るのは珍しい」
「今日は英雄譚を語りに来たのではありません。少なくとも、今は」
傍らに立つ周は、軍師がなぜ出発前にあれほど袖口を整えたのか、ようやく分かった。
緊張していたのではない。
この会談を、武器を持たずに臨む試練だと本気で考えているのだ。
中央の長老が手を上げる。
脇の扉からドワーフの従者が現れ、入口近くに低い石腰掛けを置き、麦酒と熱い茶を運んできた。麦酒の杯は大きく、茶器は小さい。妙にはっきりとした意思表示に見える。
軍師は茶を選んだ。
周も茶を選んだ。
砕岳槌が麦酒を見る。
軍師は振り返らない。
砕岳槌は黙って茶を取った。
中央の長老は一部始終を眺め、わずかに面白がっているようだったが、何も言わなかった。
「お前たちは試練を越えた。しきたりに従い、アンヴィル一族は話を最後まで聞こう」
こうして、会談が始まった。




