第二話 運命の出会い
ーーーーーーーーーー
【現在地および種族に基づき、エノクス大陸が割り当てられました】
【啓明城】人類圏を代表する都市の一つ。新人冒険者が旅を始める街としても知られ、活気と繁栄に満ちています。
【鉄山砦】ドワーフとともに、巨獣の森から押し寄せるスタンピードを防ぐ南部前線。戦いのなかで己を鍛えたいプレイヤーに最適です。
【暮雲村】朝風高原の果てにある、景観の美しい村。ここなら、のんびりした暮らしを送れるかもしれません。
……
【ランダム】人類勢力圏内のいずれかに出現します。運が悪い場合、ゲーム進行が極めて困難になる可能性があります。
ーーーーーーーーーー
「ランダム……」
劉の視線は、その一語に釘づけになった。
攻略情報によれば、ランダム地点の大半は人里離れた山野だという。希少鉱脈や宝の隠し場所に出られたとしても、たいていは強敵が待ち構えている。
まれに特殊イベントを引き当て、高評価を獲得した者もいる。だが、初心者が同じ幸運に恵まれる可能性はほとんどない。
それでも劉は、結局【ランダム】を選んだ。
面白そうだったからだ。
光を帯びたデータの鎖が全身を取り巻く。視界が狭まり、輪郭が溶け、やがて白一色に塗り潰された。
次の瞬間、光が薄れていく。
聞き覚えのある鳥の声。風に撫でられた落ち葉が、さらさらと音を立てた。頬に触れる空気はわずかに冷たく、湿り気を帯びた土と木々の匂いが胸いっぱいに広がる。
劉は身体を動かしてみた。手にした木杖を掲げ、跳び、走る。
どれも現実と区別がつかなかった。
「すっげえ! マジかよ、『ガイア・クロニクル』!」
腕を振り回し、跳ね回り、仮想でありながら紛れもなく本物である身体を存分に味わう。
ひとしきり騒いだ頃には、ゲーム内の身体にもかなり慣れていた。
改めて周囲を見る。
森と丘しかない。ログイン画面で見た風景の、どこか一角なのかもしれない。
「本当に、とんでもない僻地だな……」
笑いながら地面へあぐらをかき、これからどうするか考える。
このゲームには生存要素がある。食事も水も睡眠も必要で、現実の身体が求めるものは、こちらでもほぼ同じように求められる。
所持品を確認すると、携帯食と水のほか、魔法書、魔晶石、初級ポーションがいくつか入っていた。
戦闘。そして魔法。
安全にここを抜けるには、まず戦い方を覚えるべきだ。
劉は操作画面をすべて閉じ、目を閉じた。長く息を吐き、思考と身体を静めていく。
鳥は鳴き、風は絶えず森を抜けている。意識を研ぎ澄ませると、落ち葉の下や茂みの奥に、何かが潜む気配があった。遠くからは、ときおり獣の声も聞こえる。
だが、いくら待っても何も起こらない。
「おかしいな……魔力を感じ取るんだったよな」
瞑想し、心を空にし、外界の情報や空気の流れへ意識を向けてみる。それらしい感覚はまったく得られなかった。
不意に、劉は額を叩いた。
「違う。先に体内の魔力を引き出すんだった!」
呼吸。思考。鼓動。
意識を内側へ沈めていく。
やがて体内に、よく知っているはずなのに、初めて触れる奇妙な感覚を見つけた。
それは呼吸や鼓動と同じように、この身体がもともと備えている力だった。けれど現実の身体には存在しないことを、劉は知っている。
あえて言葉にするなら、冷たく、同時に熱い奔流が全身を巡っているようだった。
「これが、内なる魔力か」
一度掴んでしまえば、周囲を満たす魔法エネルギーもすぐに感じ取れた。
本来なら、これほど簡単な過程ではない。
人間という種族には一定の魔力親和性があり、初期技能に魔法使いを選んだことで基礎熟練度も得ている。加えて劉には、他のゲームで似た感覚操作を経験した蓄積があった。
ドワーフやオークを選んだ初心者なら、その場で干からびるまで座っていても、この感覚には辿り着けなかったかもしれない。
問題は、ここからだった。
内なる魔力で外界の魔法エネルギーへ働きかけ、現象を起こす。それが魔法だ。
では、どうやって魔力を動かすのか。
荷物の魔法書を読むのが正解なのは分かっている。
しかし劉は今、ゲームを遊びたかった。ゲームのなかで本を読み始める気には、どうしてもなれない。
まずは想像してみた。
頭に炎を思い浮かべる。何も起こらない。
ならば呪文か。
「ファイアボール!」
「ウインドカッター!」
「凍てつけ、絶対零度!」
「魔法の精霊よ、我が召喚に応えよ!」
効果などないと知りながら、あえて思いつく限りを叫んでみる。
魔法は一つも発動しなかった。
代わりに、森の様子が変わっていた。
静かすぎる。
自分の呼吸さえ、やけに大きく聞こえた。
周囲を見回す。
茂みがかすかに揺れ、その奥の暗がりで凶悪な光が瞬いた。
黒い獣が飛び出した。
鋭い牙が、一直線に喉元へ迫る。
劉は木杖を両手で握り、腰をひねって野球のバットのように振り抜いた。
魔力伝導用の太い螺旋が刻まれた杖頭が、獣の右顎を強打する。突進の軌道が逸れ、黒い巨体が劉の脇を抜けていった。
振り返って初めて、その姿をはっきり捉える。
劉とさほど変わらない大きさの黒豹だった。
息を整える暇など与えない。
一気に間合いを詰め、頸椎を狙って杖を振り下ろす。
その瞬間、低い唸りが響いた。
地面に黒い輪が開き、黒豹が飛び込む。杖は消えきらなかった尻を叩いただけで、黒い穴は跡形もなく閉じた。
考えるより先に、劉は杖を持ったまま背後へ大きく回転した。
手応えがあった。
いつの間にか背後の宙に現れていた黒豹の左顎を、杖が正確に捉えていた。黒豹は空中で半回転し、地面へ激しく叩きつけられる。
「入った!」
劉は追撃しようと杖を振り上げた。
だが黒豹は起き上がらない。四肢をこちらへ向け、顎を外した無惨な姿で劉を睨みつけていた。
それを見て、かえって攻めあぐねる。
仰向けになった大型の猫へ迂闊に近づけば、どの脚からでも爪が飛んでくる。魔法使いの薄い防具など、簡単に切り裂かれるだろう。
一人と一頭は、互いを睨んだまま動きを止めた。
――魔法だ。魔法が要る。
生死を懸けた対峙のさなか、劉は杖を動かし、筋肉へ力を込め、どうにか魔力を引き出そうとした。
意識を集中して内なる魔力を探るべきなのだろう。だが、この状況で注意を逸らす余裕などない。
黒豹もまた、野生の本能で劉の迷いを嗅ぎ取ったらしい。警戒を解かないまま起き上がり、一歩ずつ後ろへ下がっていく。
劉には、黒豹を確実に仕留める手段がなかった。背後への一撃も、運よく顎へ当たっただけだ。もう一度空間を抜けられれば、次は自分が殺される。
それでも気迫だけは崩さず、間合いを保ってじりじりと前へ出た。弱みを見せるわけにはいかない。
二度も殴られた黒豹は、凶悪な顔つきとは裏腹に、再び飛びかかる気配を見せなかった。
やがて背後の巨岩へ追い詰められる。
黒豹は後脚で地面を踏みしめ、警告の咆哮を放った。
劉も退かない。杖を構え、負けじと吼える。
「来い! やってみろ、子猫ちゃん!」
咆哮とともに黒豹の四肢が地を蹴った。
宙で鋭い爪が振り上げられる。
劉は一歩踏み込み、木杖を反転させた。杖頭を地面へ突き、細い末端で腹を貫くつもりだった。
だが次の瞬間、空間に黒い裂け目が走る。
黒豹はその中へ真っすぐ飛び込んだ。
「まずい!」
一瞬で、劉は意識を自分の身体へ集中させた。
十五分ほど前に感じた魔力の流れ。その記憶を頼りに、精神で魔力と肉体をまとめて引きずるように、黒い亀裂へ押し出す。同時に、木杖を裂け目へ限界まで近づけた。
異変が起きた。
黒い亀裂が激しく揺らぎ、何度も収縮する。周囲の空気と土埃が、狂ったように吸い込まれていった。
そして亀裂は唐突に閉じ、収まりきらなかった黒豹の尾の先を切り落とした。
それで終わりではなかった。
裂け目が閉じたのと同時に、杖の先にも新たな黒い亀裂が生まれた。
深淵の巨獣が虚無の口を開いたかのような力で、木杖が引き込まれていく。
劉はすぐ右手を離し。
木杖が、亀裂の向こうへ消えた。
猛烈な眩暈が襲い、視界がぼやけ、身体が崩れるにつれて景色が沈んでいく。必死に意識を繋ぎ止め、どうにか片膝をついた姿勢で耐えた。
振り向くと。
別の亀裂から飛び出した黒豹が、森の奥へ逃げていく。
それを見届けたところで、糸の切れた人形のように意識を失った。
【魔力枯渇により、昏睡状態へ移行しました】
【ゲーム内時間で約三時間後に覚醒する見込みです】
*
「参ったな……始めたばかりで気絶か」
視界は真っ暗で、身体も動かない。
「このまま待つか。一度ログアウトするか……」
生命維持カプセルのカバーが開く。
劉は頭部デバイスを外して起き上がり、時刻を確認した。
現実では、まだ二十分しか経っていない。
ゲーム内では一時間近く過ごしていたというのに。
『ガイア・クロニクル』の神経接続型時間加速こそ、本当の最先端技術だと聞いたことがある。何年も前には、軍の訓練に使われていた技術らしい。
黒豹との戦いの余韻は、まだ身体に残っていた。
あれを単なるゲームとは思えない。まさしく生死を分ける戦いだった。一歩でも判断を誤れば、爪と牙で引き裂かれていただろう。
「木の杖で黒豹にどうとどめを刺せっていうんだよ……それに、あの亀裂。絶対に空間魔法だよな?」
黒豹の術へ干渉し、自分でも亀裂を開いた瞬間の感覚は、あまりに奇妙だった。
手を伸ばして星空へ触れようとしたら、遥か彼方にあるはずの宇宙すべてが揺らぎ、自分の手まで星へ変わっていく――無理に表すなら、そんな感覚だ。
神秘的で、現実の人間には決して備わっていない知覚だった。
本当は攻略情報を断ち、自分の力だけで世界を味わうつもりだった。
だが、あの遭遇への好奇心には勝てない。
空間魔法。黒豹。黒い穴。転移する黒豹。
思いつく限りの言葉で検索を重ねると、それなりの情報が見つかった。
空間魔法は極めて希少で、習得も困難。
著名な使い手として、終末サーバーと呼ばれる第二サーバーの【多元宇宙探究者】、覇権サーバーこと第五サーバーの【グリフィス】が挙げられていた。
どちらも屈指の実力者であり、なかでも【多元宇宙探究者】は、第二サーバーが終末へ向かった元凶の一人だという。
彼らの活動記録を見る限り、空間魔法は戦闘、移動、日常生活、集団支援と、あらゆる場面に応用できる。
劉が選んだのは、一年ぶりに開設された第十サーバーだ。稼働開始からまだ三か月余りで、ゲーム内では一年、大きな世界変動も起きていない。そのため通称は「新世界サーバー」。
黒豹についても目撃情報はあったが、詳しい魔獣データは見つからなかった。
プレイヤーたちがつけた呼び名は、なかなか格好いい。
――ブラックシャドウ。
『神出鬼没で、とにかく速い』
『四人パーティーで遭遇して全滅した』
『大型で、空間転移をほぼ間断なく使う』
「いや、そこまでか? 強くはあったけど、書かれてるほどじゃ……」
さらに読み進める。
「背中に鰭がある……?」
おかしい。
劉が戦ったものは、どこから見ても普通の黒豹だった。特別な特徴などなかったはずだ。
話題にもならない下位種だったのかもしれない。本当にネットで語られる怪物なら、自分など最初の一撃で殺されていただろう。
あるいは――幼体か。
「いやいや、変なフラグは立てないぞ。この流れなら、あいつが俺を追ってくるに決まってる」
劉は額に影を落とし、生命維持カプセルを睨んだ。
「殺られる前に殺れ――とある偉人は語り」
とはいえ、【狂想の主】はまだ昏睡中だ。
劉は外へ食事を買いに出た。頭を休め、次の戦いに備えるために。
*
予定より数分早く再ログインすると、キャラクターはまだ昏睡していた。
視界は闇に閉ざされ、身体も動かない。操作画面だけを呼び出し、退屈しのぎに触ってみる。
「倒すって言っても、杖までなくしたんだよな。このひ弱な魔法使いで、どうやって黒豹を倒すんだ?」
杖さえあれば殴り殺せたとでも言いたげな独り言だった。
「使えそうな枝でも拾うか。よく考えたら、今の状況って相当まずくないか?」
「やっぱり魔法だ。魔法しかない!」
ぶつぶつ言っているうちに、身体の感覚が戻り始めた。
強い倦怠感と眩暈。それに空腹。
昏睡中にほかの獣が来なかったのは幸運だった。死のペナルティを受けていれば、今日はもう遊べなかったかもしれない。
荷物から魔力ポーションを取り出し、一気に飲み干す。強いミネラル臭のする水に近い味で、パンと一緒でも行けるかもしれない。
腹を満たすと、気力もいくらか戻った。立ち上がり、軽く走ったり跳んだりして身体をほぐす。
すでに夕暮れが近い。
傾いた陽光が森へ差し込み、木々の密集した場所は奥が見えないほど暗くなっていた。どこかで烏が二度鳴く。森全体が、重苦しい空気に包まれている。
劉は気にした様子もなく、地面に座って瞑想を始めた。
先ほど魔力を動かした感覚を思い出そうとしていた。
精神の力で、体内の魔力を無理やり引っ張る。どう考えても正規の手順ではない。
それでも手放したくなかった。
空間魔法を掴むきっかけかもしれない。ここで忘れてしまうには惜しすぎる。
長い時間をかけ、劉はゆっくり目を開いた。
右手を掲げ、じっと見つめる。
そして再び、精神で魔力を強引に動かした。
腕全体が魔力と溶け合い、身体のほかの部分とのあいだに強い反発が生じる。
次の瞬間、劉は掌で何かを引くような動作をした。
地面が緩み、雑草の根がちぎれる。
さらに力を込めると、目の前の地面が土塊ごと持ち上がった。土、石、草木が一つになって宙を舞い、そのまま反対側へ激しく投げ飛ばされる。
驚いた鳥の群れが、騒がしく空へ飛び立った。
弾かれた小石の一つが、森の奥にある幹へ当たる。
その陰で、何かが人知れず闇の中へ消えた。
劉は疲れたように息を切らしながら、放り投げられた土砂を見つめた。
顔には、抑えきれない興奮が浮かんでいる。
やがて悪役じみた笑い声をあげた。
「ガハハハハっ! できた! 俺にもできたぞ!」
その瞬間、評価システムが視界に現れた。




