第十話 倒木坂の危機
その日は、昼を少し回った頃だった。
第二班は倒木坂の外側を巡回していた。
編成は教本どおりだ。大盾が先頭を進み、砕岳槌が左を固める。Bladeは十数歩先を遊弋し、弩手が後方を警戒。その最後尾には、実戦へ出始めたばかりの土と水の元素術師がついていた。
斜面を吹き下ろす風には、湿った土と腐葉の匂いが混じっている。
倒木坂の名に違わず、折れた木々が斜面を縦横に塞いでいた。苔に覆われた古い幹もあれば、淡い木肌を覗かせる新しい裂け目もある。
Bladeの足取りは軽い。湿った落ち葉を踏んでも、靴音一つ立てなかった。ときおり立ち止まって地面を調べ、手振りだけで柔らかな泥濘を迂回させる。
巨大な槌を担ぐ砕岳槌は、早くも退屈そうだった。
「魔獣が隠れるには、うってつけの場所だな」
先頭の大盾が声を落とす。
「だから静かにしろ」
砕岳槌は口を尖らせたが、声量は抑えた。
斜面の下から叫び声が聞こえたのは、その直後だった。
短い声。
何かにぶつかり、途中で叩き折られたような。
Bladeの姿が、倒木の陰へ瞬時に消える。
大盾は盾を構えた。
「進むぞ」
五人は二列の倒木を抜けた。途端に視界が開ける。
斜面の下に、巡林兵が三人いた。一人は泥の中に倒れ、一人は片膝をついて盾を構えている。最後の一人は、あまりにも若い人間の槍兵だった。長槍を横に構えたまま立ち尽くし、血の気の失せた顔で、周囲の音さえ聞こえていない。
木立の影から、一頭の魔獣が兵士たちへ迫っていた。
苔をまとった巨鹿に似ている。だが角はなく、頭蓋の前面には幅広く分厚い骨板が張り出していた。細長い四肢は関節が逆向きに折れ、駆け方には獣らしい律動がまるでない。
頭を低くし、片膝をついた兵士の盾へ突っ込む。
鈍い衝撃音。盾がへこみ、兵士の身体が後ろへ跳ね飛ばされた。
「C級だ」弩手が息を呑む。「ラムホーン・ディアか?」
「角がない」大盾が返す。
「なら別の何かだ!」
魔獣が頭を上げる。虚ろな眼窩が、若い槍兵へ向いた。
槍兵は動かなかった。
恐怖に縛られたのか。身体は逃げ方を知っているのに、足だけが泥に埋まり、命令を拒んでいるかのようだった。
「おい!」
砕岳槌が叫ぶ。
魔獣はすでに駆け出していた。
間に合わない。
砕岳槌は地面を蹴り、斜めから飛び込んだ。槌を振るう余裕もない。肩から体当たりして、若い槍兵を突進の軌道から弾き飛ばす。
直後、骨板がその脇腹へ突き込まれた。
耳を刺す音を立て、骨板が鎧を擦る。
砕岳槌の身体は横ざまに吹き飛び、背中から倒木へ叩きつけられた。巨大な槌が手を離れ、泥の中を転がっていく。
激痛が弾けた。
「砕岳槌!」
大盾が前へ出る。
盾の下端を泥へ斜めに突き立てた。
魔獣の二度目の突進が盾面を直撃し、その巨体が大盾を半歩後ろへ押し滑らせる。砕けた木片と泥が飛び散った。大盾は歯を食いしばり、肩で盾を支え、両足を深く泥へ食い込ませる。
「撃て!」
弩手が引き金を引く。
短い矢が魔獣の首へ刺さった。貫通こそしなかったものの、動きが一瞬だけぶれる。
本来なら、それで十分だった。
大盾が正面を受け止め、弩手が牽制し、Bladeが側背面の影へ回り込む。陣形さえ崩れなければ、このC級魔獣は斜面の下で確実に削り切れる。
だが、最後尾の術師が焦った。
両手を地面へ押しつけ、指先を湿った泥へ沈める。
土。
水。
斜面を泥濘へ変え、魔獣の足を沈ませる。
そのつもりだった。
泥の冷たさが指先から這い上がる。水気が少しずつ引き寄せられ、落ち葉の間へ細かな光が浮かんだ。
だが手応えがあまりにも滑りやすい。掴んでいた糸が、手の中で不意にほどけるように。
土は沈まなかった。
代わりに、大盾の足元から不格好な泥壁が盛り上がる。
「ずれた!」
大盾の視界が、一瞬だけ塞がれた。
魔獣が泥壁の脇を擦り抜け、骨板を盾の縁へ叩きつける。
均衡を失った大盾が、片膝をついた。
砕岳槌は無理やり手を伸ばし、槌を取り戻そうとした。その動きで脇腹の傷が引きつれ、目の前が暗くなる。弩手は二射目を狙うが、兵士が射線を塞いでいた。傍らへ弾き飛ばされた若い槍兵は泥まみれのまま、まだ起き上がれない。
魔獣が頭を低くした。
三度目の突進。
倒木の上から、一片の影が落ちる。
Bladeが、ついに動いた。
無駄な動作は一つもない。
外套が空中で一度だけ広がり、すぐに畳まれる。その姿は、木陰から滑り落ちる薄刃のようだった。
短剣が、弩の矢で裂けた首筋の傷へ吸い込まれる。手首を返し、もう一方の刃を顎の下の柔らかな部分へ突き上げた。
魔獣の突進が止まった。
Bladeはその勢いを借りて身を翻し、地面へ降り立つ。靴底が泥の表面に浅い軌跡を引いた。
魔獣はなおも二歩進んだ。
そして、轟音とともに倒れ伏す。
泥水が砕岳槌の顔へ跳ねた。
辺りが急に静まり、何人もの荒い息遣いだけが残る。
若い槍兵がようやく我に返った。四つん這いで泥をかき、砕岳槌のそばへ駆け寄る。
「だ、大丈夫か?」
砕岳槌は倒木にもたれて座り、少し青ざめた顔で眉をひそめた。
「何ともねえよ」
「今、俺を助けてくれた」
「誰が助けたって?」脇腹の痛みにこめかみを引きつらせながら、口だけは鉄のように強情だった。「お前が邪魔な場所に立ってたからだ。どかさなきゃ、魔獣が突っ込んできて陣形が崩れるだろ」
槍兵は呆然と見つめる。
砕岳槌は、ますます苛立った。
「何だよ。NPCのくせに……」
途中で声が小さくなる。
槍兵の顔は泥に汚れ、目は赤く、長槍を握る指は震えていた。
プログラムが、あんな表情を浮かべるだろうか。
少なくとも、そうは見えなかった。
砕岳槌は目を逸らす。
「もう泣くな。帰ったら隊長に怒鳴られろ。戦場の真ん中でぼうっとしやがって、死にたいのか?」
槍兵は力いっぱい頷き、途中で口を開いた。
「ありがとう」
砕岳槌は苛立たしげに手を振る。
「礼はいい。気持ち悪い」
Bladeは魔獣の死体から短剣を抜き、濡れた草で血を拭っていた。
術に失敗した元素術師へ、一度だけ目を向ける。
「次は、もっとゆっくりやれ」
術師の顔は青ざめていた。
「俺は……助けようと」
Bladeは短剣を鞘へ収める。
「まず掴め。それから助けろ」
そう言い残し、周囲の痕跡を調べに行った。先ほどの一撃など、ついでに済ませた雑事でしかないように。
その夜、拠点はいつにも増して賑やかだった。
第二班が持ち帰ったのはC級魔獣の素材と、負傷した兵士二名。それから脇腹の鎧を裂かれた砕岳槌だ。
晴れ晴れが傷を処置する間、痛覚設定を下げていても、彼の顔は痛みに強張った。それでも「こんなものか」と言い張る。隣で大盾が、昼間の人助けは格好よかったと囃し立てると、砕岳槌はすぐさま「もう一度言ったら、明日は俺の槌まで背負わせるぞ」と怒鳴り返した。
だが、誰も怖がりはしない。
営内には、至るところから声が溢れていた。
焚き火を囲んで昼間の戦闘を振り返る者。木机のそばにしゃがみ込み、あの魔獣は図鑑に載っているラムホーン・ディアだったのかと言い争う者。支給された革鎧を着たり脱いだりして、肩が引っかかると文句を言う者。
兵士も団員も入り交じって麦酒を飲んでいる。若い槍兵は椀を手に、砕岳槌から少し離れたところへ座っていた。何度か話しかけようとするたび、砕岳槌に睨まれて口を閉じる。
Bladeは火のそばにいなかった。
少し離れた木の上で、幹に背を預けて半ば寝そべっている。片脚を垂らし、外套で身体の半分を覆っていた。焚き火の光は届かず、ときおり短剣の柄が鈍く光るだけだ。
熱いスープを手に通りかかった晴れ晴れが、彼を見上げた。
「下りてきて食べないの?」
Bladeが一瞥する。
「あとで」
「今日、C級魔獣を一撃で倒したんだって?」
「ああ」
晴れ晴れは少し待った。
本当にそれだけで答えを終えるつもりらしい。
「いつもそんなに口数が少ないの?」
Bladeは考えた。
「楽だからな」
晴れ晴れは一瞬言葉に詰まり、それから笑った。
「分かった。楽してるところを邪魔しないでおく」
スープの椀を木の根元へ置き、焚き火のほうへ戻っていく。
Bladeはその椀を見つめ、しばらくしてから音もなく地面へ降りた。
反対側では、鈴音がAtlasへ最近の状況を報告していた。
「周辺で、ほかのプレイヤーも見かけるようになりました」記録をめくる。「大半はソロか小規模なパーティーで、目的は不明です。外縁部で採集するだけの者もいれば、巡回路へ近づこうとして、こちらが追い返した者もいます」
「注意すべき相手は?」
鈴音は、離れた木の下にいるBladeへ目を向けた。
「装備の整った三人組がいたそうです。移動が速く、警戒も怠らず、拠点へは近づかないまま巨獣山脈方面へ向かったと」
隣で帳簿をつけていた軍師の筆が止まる。
「巨獣山脈?」
「ええ。Bladeは遠くからしばらく追跡しましたが、それ以上は追っていません。相手にも、尾行を察知する術があったそうです」
Atlasが軍師を見る。
軍師は帳簿を閉じた。
「記録しておけ。第十サーバーで前線を狙っているのは、俺たちだけじゃない。山脈へ向かう連中が、ありふれた魔獣を目当てにしているとも限らん」
焚き火の向こうでは、酔いの回ったドワーフ兵が胸を叩き、団員たちを相手に大声で吹聴していた。
「お前たちが見ている斜面も、この荒れた森も、昔はこんな有様じゃなかったんだぞ」
木椀を掲げ、声はますます大きくなる。
「数百年前、ドワーフの坑道は周りの山々を隅々まで走っていた。麓にも、山の中にも都市があった! 鉄路はここから巨獣山脈の奥まで延び、炉は炉へ連なり、坑内灯がともれば山脈すべてが目を覚ましたようだった!」
誰かが囃す。
「本当かよ?」
「嘘をついてどうする!」ドワーフ兵は目を剥いた。「当時の山中帝国は、それは壮大なものだった! 後にあんなことさえなければ――」
そこで大きなしゃっくりを一つ。
周囲がどっと笑った。
だが、その言葉を軍師は聞き逃さなかった。
ゆっくりと顔を上げ、ドワーフ兵を見る。
「山中帝国?」




