第五話 巡林拠点への道
隧道は、周が想像していたより長かった。
ただ人を通すために掘られた洞窟ではない。鉄山砦という巨大な身体を支える、一本の骨のようだった。
両側の岩壁は平らに削られ、黒鉄の補強梁が埋め込まれている。一定の間隔で重い隔壁、狭間、小さな詰所が置かれ、高所の足場ではドワーフ兵が警戒に当たっていた。
火鉢の明かりが鉄鎖と岩肌を揺らめき、行き交う人々の影を長く引き伸ばしている。
第二遠征団に同行する兵士は、五人だった。
先頭を歩くのは、三十歳ほどの茶髪の人間兵。山風に晒され続けた顔は、乾いて荒れている。名はホーン。この小隊の指揮役だった。
残る四人は、ドワーフ兵が二人、人間の弩兵が一人、それから若すぎるほど若い槍兵が一人。
彼らは第二遠征団を罪人のように縛りはしなかった。ただ前後を挟み、途中で逃げる者が出ないようにしている。
ホーンは短剣の柄へ手を添えて先頭を進み、ときおり振り返って一行が遅れていないか確かめた。
出口へ近づくほど、風が強くなる。
やがて隧道を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
鉄山砦の反対側には、まるで別の世界が広がっていた。
居住区側にあるのは、山腹の道、鍛冶炉、鉱車、幾重にも積み重なる石造家屋だ。
だが巨獣の森へ向いたこちら側は、本物の戦場だった。
高い城壁が山の起伏に沿って連なり、灰黒色の巨大な歯列のように稜線を走っている。城壁の間には斜めに走る石段、吊橋、物見櫓、岩壁から張り出す射撃台。斜面には黒鉄の逆茂木が並び、遠くには山肌へ半ば埋め込まれた砲塔が、沈黙したまま森を睨んでいた。
さらに向こうでは、巨獣の森が大地を埋め尽くしている。
普通の森林ではない。
黒に近い深緑の海だった。
風を受けて巨木の梢が波打ち、樹冠の間から霧がゆっくり昇る。森の奥で、何か途方もなく大きな生き物が息をしているように見えた。
第二遠征団は、揃って足を止めた。
先ほどまで不満を顔に出していた砕岳槌さえ、背負った大槌を無意識に握り締める。
「こっちが、本当の前線だったのか……」
周が呟いた。
ホーンは聞きつけ、笑う。
「初めてこちら側へ出た者は、だいたい同じ顔をする」
Atlasは森を見た。
「スタンピードは、あの森から来るのか?」
「大半はな。山谷から来ることも、地下の裂け目や川を通ることもある。巨獣の森は広すぎる。すべて知っているなんて、誰にも言えん」
一行は城壁の外側から延びる石道を下っていった。
道の両脇には古い塹壕と杭が残り、あちこちに補修の跡がある。砦正面の喧騒は少しずつ遠ざかり、風音と、靴底が小石を踏む音だけになる。
ときおり、遠い森から獣の声が届いた。
誰かが、とうとう尋ねた。
「スタンピードって、どのくらいの頻度で起きるんだ?」
ホーンはすぐには答えなかった。
頭の中で数えてから、口を開く。
「大規模なものは、もう五年起きていない」
「五年?」
周は意外に思った。
「ああ。俺がここへ赴任して三年になるが、主城壁まで押し寄せる規模は経験していない。一番多かったのは二年前だ。西南の林から、百頭ほどの魔獣が出た。あれだけでも大変だったがな」
「百頭でも大規模じゃないのか?」
団員の一人が舌を巻く。
ドワーフ兵が鼻を鳴らした。
「本当の大氾濫で最初に聞こえるのは、咆哮じゃない。大地の震える音だ」
ホーンも頷く。
「古参兵は皆そう言う。百頭程度なら局地的な襲撃だ。ただ、あのときはA級魔獣が一体混ざっていた。スコーピオンテイルだ」
晴れ晴れが顔を上げた。
「A級?」
「鎧をまとった大蜥蜴のような体に、蠍の尾がついている。毒針は盾を貫く」
ホーンが手で大きさを示す。
「横の斜面から突っ込まれ、守備隊は十数人失った。最後は重弩の射程まで引きずり込んで仕留めたよ」
賦役を単なるシステム上の任務だと思っていた団員たちも、顔つきを改めた。
「NPCも、死ぬんだな……」
一人が思わず口にした。
言った本人も、すぐ不適切だったと気づく。
ホーンは怒らず、ただ妙な顔をした。
「当たり前だろう。首を噛みちぎられて、それでも立って歩ける奴がいるか?」
団員は気まずそうに咳払いした。
周には、鉄山砦の告示を読むより、この道中の会話のほうがよほど強く響いた。
兵士たちは巡林拠点の飯が不味いと愚痴をこぼし、雨のあとはどの道が崩れやすいかを話し、森で色鮮やかな茸には触れるなと忠告した。
若い槍兵など、星界の旅人の世界には本当に魔獣がいないのかと、周へそっと尋ねてきた。声には羨望と、わずかな疑いが混じっている。
初め、周は彼らを「道案内をするNPC」として見ていた。
しかし話しながら歩くうちに、その考えは少しずつ削り落とされていった。
人間に似すぎているのではない。
彼らは人間なのだ。
この世界に生きる、人間だった。
「ところで」
ホーンが不意に尋ねた。
「星界の旅人は、本当に死なないのか?」
隊列が少し静かになった。
多くのNPCが、形を変えて投げかけてくる問いだった。畏敬を込める者も、警戒する者もいる。ホーンの場合は、実用的な情報を確かめているようだった。
Atlasが答える。
「傷つくし、痛みもある。死ねば所持品を失い、しばらく満足に動けなくなる。ただ、一般的な意味では、君たちのように完全に死ぬことはない」
ホーンは考え込んだ。
「それなら危険な仕事をお前たちへ回すのも、まったく理にかなわないわけではないな」
「褒められた気がしないな」
周が言う。
「褒めているさ」
ホーンは笑った。
「少なくとも、お前たちには帰ってくる見込みがある。俺たちは森へ入るたび、帰りに一人減っていれば、本当に一人いなくなったということだ」
軽い口調で口にされた言葉に、誰も返事をしなかった。
森の方角から吹く風は湿った草木と、かすかな獣臭を含んでいる。
さらに半時間ほど歩くと、道が狭くなった。
石畳は踏み固められた土へ変わり、両側の木々も密度を増す。頭上で枝葉が交差し、陽光は細かな斑点となって地面へ落ちていた。
ホーンが突然、片手を上げた。
五人の兵士が、ほぼ同時に止まる。
周も足を止め、武器へ手を置いた。
前方の茂みから、何かを引きずるような音がする。
やがて影の中から、低く身を伏せた魔獣が現れた。
鬣犬を何倍も膨らませたような姿をしている。盛り上がった背には骨の棘が並び、口元から粘液を垂らしていた。前脚は後脚より長く、地面を踏むたび、爪がかすかな擦過音を立てる。
ホーンが声を落とす。
「D級、ボーンバック・ハウンドだ。腕を噛まれるな。こいつは食らいついたあと、頭を振って肉を引き裂く」
「ずいぶん細かい設定だな」
砕岳槌が呟いた。
ホーンは眉をひそめる。
「設定?」
砕岳槌は聞こえなかったふりをした。
昨夜からずっと、腹に怒りを溜めていた。
鈴音に罵られ、執行隊にやり込められ、システムには人前で嘲笑され、おまけに恥ずかしい称号までついた。
今、目の前にいるのは一体のD級魔獣だ。
失った面子を取り戻すには、格好の相手に見えたのだろう。
「雑魚が一匹だろ」
背から大槌を抜き、そのまま飛び出した。
Atlasが止めるより速い。
「砕岳槌!」
鈴音が叫んでも、男は振り返らなかった。
ボーンバック・ハウンドも動いた。
地を這うように身を沈め、側面から一気に跳ぶ。見た目以上の速さだった。
砕岳槌は退かない。両手で柄を握り、右へ一歩ずらすと、大槌を地面すれすれに薙いだ。
槌頭が魔獣の前脚へ当たり、鈍い骨折音が響く。
悲鳴を上げて転がったボーンバック・ハウンドは、それでも倒れなかった。地面で身体を捻り、砕岳槌の脛へ噛みつこうとする。
砕岳槌は悪態をつき、柄を押し下げて首筋を止めた。牙が脚当ての寸前で空を噛む。
次の瞬間、全身の重みを前へかけ、魔獣を地面へ押さえつけた。
大槌を高く振り上げる。
轟音。
地面がわずかに揺れた。
ボーンバック・ハウンドの頭は泥へめり込み、数度痙攣したあと動かなくなった。
周囲には、葉の擦れる音だけが残る。
認めるべきところは、認めなければならない。
砕岳槌は戦える。
性格が悪く、頭に血が上りやすく、昨夜あれほどの面倒を起こしたとしても、前衛としての動きは熟練していた。
派手な技も、複雑な判断もない。堅実に、重く、容赦なく。力と経験だけでボーンバック・ハウンドを正面から叩き潰した。
ホーンが一度、男を見た。
「悪くない。だが次は、説明を最後まで聞いてから行け」
砕岳槌は大槌を肩へ担ぎ、鼻を鳴らす。
「倒したんだからいいだろ」
ホーンは地面のボーンバック・ハウンドを指した。
「これはD級だ」
一行は、また歩き始めた。
一度の戦闘で、空気も少し変わった。
道中に漂っていた重苦しさと羞恥、債務に追い立てられるような圧迫感が、戦いの生々しい刺激によって薄れていく。
団員たちは改めて森を見た。その目に、サービス開始初日の熱気が少し戻っていた。
さらに進むと、巡林拠点が緩やかな斜面の下へ姿を現した。
小規模な木造防御施設だった。
外周を先の尖った丸太柵が囲み、入口には簡素な見張り台が立つ。塔上には、鉄山砦領の山の紋章を染め抜いた旗が掲げられていた。
内側にあるのは二列の低い兵舎、薪と矢を置く小屋、井戸。それに、最近補修したばかりと分かる柵の継ぎ目がいくつか。
詰めている兵士も多くない。
人間兵は見張り台近くの火鉢へ集まり、ドワーフ兵は井戸と道具小屋の周辺で話していた。水を渡し、火を借り、巡回経路を確かめる様子はごく自然で、仲が悪いわけではなさそうだ。
それでも立ち位置と雑談の輪を見れば、二つの集団へ分かれていることは明らかだった。
鉄山砦と比べれば、あまりに粗末で貧しい。
だが、だからこそ冒険物語の始まりらしく見えた。
一人が見張り台を眺め、声を潜める。
「見ろよ。何か、それっぽくなってきたぞ」
隣も頷く。
「確かに。こうして見ると、悪くないな」
周も丸太柵と、塔上から目を細めて一行を見下ろす兵士を眺め、思わず笑った。
処罰で押し潰されかけた第二遠征団の冒険心に、いつの間にか、もう一度火がついていた。




