第一話 事務所
鉄山砦の中層は、いつも下層より静かだった。
外壁や昇降機、鉱車の軌道、無数の倉庫が集まる下層では、昼夜を問わず車輪の振動が鉄路を伝ってくる。炉区からはドワーフ職人の槌音が絶え間なく響き、荷運びの獣が街角で白い息を吐く。その間を縫って、プレイヤーたちが仲間を募り、値を争い、声を張り上げて情報を交換していた。
砦全体が、火を落とすことのない巨大な戦争機械のようだった。
だが中層まで上がれば、その喧騒も分厚い石壁と幾重もの坂道に削られ、遠い地鳴りに変わる。
第二遠征団の事務所は、中層西側の広い石室に置かれていた。もとは鉄山砦守備隊が使わなくなった資料庫で、天井は低く、窓は矢狭間のように細い。机も椅子もドワーフの倉庫から譲り受けた中古品だ。
唯一、真新しいものが入口の脇にあった。
【第二遠征団 鉄山砦事務所】
磨き上げられた銅板は、角にまだ削りたての跡を残している。
Atlasは事務室の西側にある執務机で、書類に目を通していた。
机の上には三つの山がある。左は処理済み、中央は未処理。そして右端は鈴音が選り分けた重要案件――言葉にするなら「団長が自分で見なければ、あの役立たずどもがいつか必ず台無しにする」といったところだ。
卓上のランプは明るく調整され、黄橙色の光が石の机を照らしていた。羊皮紙の縁にある細かな繊維までよく見える。
Atlasは物資支出書の末尾へ短い注記を書き込み、紙を裏返して次の一枚を取った。
フェスから届いた情報の要約だった。
一行目を読んだところで、眉がわずかに動く。
【フェス近郊において、過去半月の間に空間魔法の異常現象が複数回目撃された。】
【東部森林では、大規模な魔法行使の痕跡を見たとの猟師の証言あり。現場では樹木が折れ、地面が鋭利に切断されていた。】
【守備隊の記録によれば、星界の旅人一名が“ブラックシャドウ”と見られる黒豹を伴い、フェスへ入城。フェス―鉄山砦間の街道でも複数の目撃証言があり、当該魔獣は旅人に使役されている、あるいは一時的に同行している可能性がある。】
Atlasのペン先が止まった。
「ブラックシャドウ?」
部屋の脇では、鈴音が背の低い書類棚を整理していた。濃い色の長衣は袖口まできっちり絞られ、長い髪も隙なくまとめられている。作業は速く、正確だった。
声を聞くと、すぐに振り返る。
「フェスからの補足報告です。守備隊員が、その黒豹が裂け目へ飛び込むところを直接見たと」
「ブラックシャドウを従えた空間魔法使いか」
Atlasは小さく笑った。
「このサーバーが始まって、まだ十か月だぞ。もうそんな奴が育ってるのか?」
「誤報の可能性もあります。フェスの守備隊は新人が多いので。何を見ても大げさに話す者はいます」
Atlasは答えず、もう一度その数行へ目を走らせた。
空間魔法の異常。大規模な魔法の痕跡。ブラックシャドウらしき黒豹。
一つずつなら、錯綜した情報として片づけられる。だが同じ地域で、ほぼ同じ時期に重なっているとなれば、ただの偶然とは考えにくい。
あとで読み返すため、報告書を右端の山へ置く。
そのとき、扉が叩かれた。
「入れ」
石扉が開き、紐で綴じた報告書を抱えた周が入ってきた。
外の冷気をまとい、肩当ての端には灰が付いている。下層を半周して上がってきたばかりらしい。入室するなり鈴音を見て、ほんの一瞬、足を止めた。
鈴音も見逃さなかった。
「周、いえ――改心コーヒーすじ肉。ようやく事務所の入口を思い出したのね」
声に、ごく薄い笑いが混じっている。
周の口元が引きつった。
「周でいい。おととい巡回表を出しに来ただろ」
「休みの二人が記載されておらず、休暇中の人間が一人余計に入っていた、あの巡回表?」
鈴音は紙の端を揃え、まるで抑揚なく続けた。
「あれで提出したことになるなら、今月の事務仕事もすべて終わったことにしてあげられるわ」
「……分かった。俺の負けだ」
周は片手を上げ、Atlasへ向き直った。
「団長、頼まれてた調査報告」
Atlasはペンを置いた。
「お前と老陳で調べたのか?」
「ほとんど老陳が」
周はあっさり認めた。
「俺、こういうの苦手なんだよ。人を率いて戦え、見張れ、急いで移動しろっていうならいい。でも絡み合った情報を調べるのは、三行読んだら眠くなる。かなりの部分は、別のギルドの奴に教えてもらった」
「自分の不得手を把握していたなんて、驚きね」
鈴音の冷たい一言に、周は深く息を吸った。ここで言い返すな、と自分へ言い聞かせているのが丸分かりだった。
二人を眺めていたAtlasが笑う。
「要点を言え」
周は報告書を差し出した。
「言われたとおり、最近この辺りで動いている出所の知れない物資や人、それから急に進路を変えた小規模ギルドを調べた。結果は、あんまりよくない。団長、本当に裏で何かの勢力が動いてるかもしれない」
Atlasは受け取り、指先で結び目を押さえた。だが、すぐには解かない。
「かもしれない?」
「決め手がないんだよ。全部、ばらばらの欠片だ。鉄鉱石の副産物を買い集めてる奴がいる。山道の案内人を探してる奴がいる。いくつかのプレイヤーギルドから経路を聞き出そうとした奴も、俺たちとドワーフの関係を探ってる奴もいた。一つなら何でもない。でも並べると、どうも変だ」
鈴音も眉を寄せた。
Atlasは紐を解く。
最初の一枚は整然と書かれていたが、周の字ではない。別の団員が清書したのだろう。冒頭に異常事例が列挙され、細かな文字で情報源、信頼度、未確認事項が添えられている。
Atlasが一枚ずつめくる前で、周はまだ話を続けた。
「もう一つ、書くべきか迷ったことがある」
「言え」
「前に鉄山砦の中で、角の生えた奴を見た……ような気がする」
鈴音の手が止まった。
Atlasも顔を上げる。
「角?」
「亜人の角じゃない」
周は自分の頭の上を指してみせた。
「姿は人間に近かった。外套を羽織ってて、頭巾の端から角が少し出てたんだ。横顔しか見えなかったし、すぐ人混みに隠れた。もう一度見ようとしたときには消えてたよ」
「なぜすぐ報告しなかった?」
「本当に見たのか、自信がなかったからさ」
周は苦笑した。
「今の鉄山砦には何だっている。遠くからオークや亜人のプレイヤーまで押しかけてるし、ドワーフの兜だって相当奇抜だろ。見間違いだと思ったんだ」
鈴音の目は、期待した自分が間違いだったと言わんばかりだった。
Atlasは責めず、報告書の余白へ短く記した。
「不得手な仕事で、ここまで調べたなら十分だ。情報をくれたギルドの人間は?」
「灰炉旅団の斥候、木鴉って奴だ。どこまで知ってるかは言わなかった。ただ最近、中間業者を通して情報を買ってる奴がいるらしい。細かく、広く。普通のギルドが新地域を攻略するときの買い方じゃないって」
Atlasは頷き、さらに先をめくった。
やがて、一つだけ囲まれた記述が目に入る。
【正体不明の勢力が存在する可能性あり。】
部屋が静まった。
外を昇降機が通り、低い振動が響く。山腹の奥で巨獣が寝返りを打ったようだった。
Atlasは囲みを見つめたまま、指先で机を一度叩いた。
この調査は、周が他所から持ち帰った話をまとめたものではない。周と老陳へ調べさせたのは、Atlas自身だった。
もっと以前から、いくつかの出来事に違和感を覚えていた。
誰かが先回りしたような経路。あまりにも都合よく現れる情報。本来なら狭い範囲でしか流れないはずの話が、見えない指で弾かれたように、不意に向きを変える。
疑いは口にしていない。
報告書にも、その名は書かなかった。
ただ周に、調べろと命じた。
「団長?」
長い沈黙に耐えかね、周が遠慮がちに呼ぶ。
Atlasは報告書を閉じた。
「よくやった。引き続き監視しろ。ただし、まだ刺激するな。お前と老陳は周辺の探りだけに留めろ。深追いはするな。灰炉旅団への接触もしばらく控えろ。向こうまで巻き込む必要はない」
「了解」
周はほっと息をついた。
そのとき、ふと思い出した。
劉の奴、もう始めてる頃だよな。
現実では、しばらく話していない。劉が夏休み中ずっと働き、『ガイア・クロニクル』の機材を買う金を貯めていたことは知っている。日数から考えれば、もう届いているはずだ。
どこに降りたのだろう。
運が悪ければ、今頃は森で迷っているかもしれない。もっとも劉のことだから、迷いながら大喜びしていそうだ。
想像すると、口元が勝手に緩んだ。
鈴音は、そのわずかな変化も見逃さない。
「何を笑ってるの?」
「何でもない。友達を思い出しただけだ」
周はすぐ真顔へ戻った。
「仕事中に友達のことを考える。いかにもあなたらしいわね」
「なあ鈴音、今日はどうしても俺に喧嘩を売りたいのか?」
「今日に限った話ではないけれど」
「そこまでだ」
Atlasが二人を遮った。
「仕事へ戻れ。周、あとで老陳を呼んでこい。鈴音、この報告は機密資料へ。通常の回覧には載せるな」
「承知しました」
鈴音が即答し、周も頷いて出口へ向かう。
Atlasは机を二度叩き、細い窓の外を見た。
「正体不明の勢力、か……このゲーム、ますますゲームらしくなくなってきたな」
二人とも答えなかった。
「俺たちが来たばかりの頃も、ずいぶん授業料を払わされたものだ」
鈴音は資料棚の最下段にある古びた帳簿を一瞥する。
「ええ、全員で払いましたね。団長が当時、深く考えずに動いたせいで生じた授業料は、今もあの帳簿に残っています」
周は唇を結んだ。口を挟む勇気はない。
Atlasは気を悪くするどころか、声を上げて笑った。
「ははは、そうだな。そのとおりだ」
笑いながら、椅子の背へ身を預ける。
「あの日は本当にひどかった。全員揃うかどうかまで、運任せだったからな」
また昇降機の轟音が、窓の外を通り過ぎた。
Atlasの意識は、一年前へ遡っていく。
第十サーバーが開かれた、あの日へ。




