第十二話 鉄山砦
睡眠王は槍を握ったまま、口を開けて立ち尽くしていた。
今の動きには、呆れるほど無駄がなかった。
特に最初の一撃。湿った土が、自分から猪の顔へ飛びついたように見えた。
「こ、これで終わりですか?」
ようやく出たのは、それだけだった。
「ほかに何をするんだ?」
劉は逆に不思議そうな顔をした。
「誰かの飼ってる猪かもしれないだろ。追いかけて丸焼きにするのか?」
睡眠王は口を開きかけ、昨夜抱いた疑いがひどく馬鹿らしく思えてきた。
普段の言動は軽い。
だが戦い始めると、まるで別の生き物だ。
ようやく我に返った農夫二人が、急いで礼を言いに来た。
一人は水路を塞ぎ、もう一人は落ちた縄を拾って断面を確かめる。
「野生じゃないな。荷物を運ぶために飼われていた獣が、逃げ出したんだろう。最近は外から来る者が多くて、妙なことばかり起きる」
劉は縄の切れ目を見たが、何も言わなかった。
睡眠王は隣で、先ほどの動きを頭の中で三度繰り返した。
とうとう我慢できなくなる。
農夫が離れたあと、声を潜め、劉の腰の刀を見つめ、どう呼ぶか迷っていた。
「先...?先輩、一つ聞いていいですか」
「劉でいいよ、で、何?」
「劉さん!その刀……二人組のプレイヤー強盗から手に入れたんじゃないですか? 一人はレイピア、もう一人は曲刀。装備がよくて、街道で初心者を襲う奴らです」
劉の足が止まった。
振り向いた顔には、まず驚きが浮かび、次に何かが繋がったような表情が現れる。
「ああ――知り合いだったのか?」
睡眠王の口元が引きつった。
「知り合いどころか、身ぐるみ剥がされましたよ」
劉は途端に笑顔になった。
「それは奇遇だな」
刀の鞘を軽く叩く。
「こいつは曲刀を使ってたほうの置き土産だ。もう一人は……運が悪くてな。装備ごと空間の裂け目へ落ちた! はははは!」
劉は身振りまで交えて語っている。どうやら自分の武勇伝を話すのが、相当好きらしい。
だが睡眠王は、背筋が冷えるのを感じた。
「本当に、あなたが倒したんだ……」
「何だ? まさか俺が仲間だと思ってたのか?」
劉は傷ついた顔を作った。
「俺がそんな人間に見える?」
睡眠王は頷きそうになった。
先ほどの戦いを思い返し、首を激しく横へ振る。
「見えません! 全然見えません!」
心からそう答えた。
劉は満足そうに頷く。
「それならいい」
街へ戻る道で、睡眠王の足取りは軽くなっていた。
胸のつかえが取れたあと、【狂想の主】はひどく不思議な人物に見えた。
想像していた伝説の達人らしくない。だが、本当に強い。
腹に一物ある大物にも見えない。なのに、あり得ない事件へ次々と巻き込まれていく。
二人が大通りへ戻る頃には、街はすっかり賑わっていた。
北から来た荷車が道端へ並び、車輪には山道の灰がこびりついている。
頑丈な服を着た旅人たちは酒場の壁へもたれ、これ以上ないほど意味ありげに囁き合っていた。
「前にも言っただろ。大物を狙うなら、城壁で大部隊に混じっちゃ駄目だ……」
「そうそう。旧サーバーにいた友人が言ってた。本当にいい物は山の中だ」
「スタンピード前夜に側面から入り、先に遺跡を……」
そこで先が思いつかなかったらしく、曖昧に手を振って終わらせた。
睡眠王は感心しかけたが、劉が小声で言う。
「あの二人も、たぶん知ったかぶりだな」
「どうして分かるんです?」
「本当に大事件を経験した奴は、攻略記事の見出しみたいな喋り方をしないよ」
睡眠王は一瞬黙った。
本人も新米のはずなのに、こうしたことを言うときだけ、妙な確信がある。
そのとき、通りの向こうを見知らぬ旅人二人が歩いていった。
一人は鍛冶屋の前で武器の値札を確認し、もう一人は守備隊の掲示板へ目を走らせる。二人とも素早く見て、そのまま立ち去った。何かを記録しているようだった。
劉も視線で追い、ふと尋ねる。
「鉄山砦って、本当にそこまで人を惹きつけるのか?」
「もちろんです」
睡眠王は即答した。
「鉄山砦のスタンピードは今、第十サーバー最大の機会です。一戦で有名になりたい人、物資を買い占めて稼ぎたい人、大手ギルドのおこぼれを狙う人。それに、あんな場所で自分がどこまでやれるか、試してみたい人もいます」
話すうち、その声が少しずつ遅くなった。
「俺も迷ってたんです。フェスは悪くない。安全で、安定していて、少しずつ強くなれる。でもずっとここにいたら、スタンピードが終わっても城門を守ってるだけかもしれない」
劉は、通りの先にある北を見た。
ちょうど荷獣の一隊が、ゆっくり城外へ向かっている。
「なら、行けばいいだろ」
「え?」
「ゲームなんだからさ。格好よく言えば、誰だって自分の旅を歩いてるんだ」
劉は笑った。
「俺も元から鉄山砦へ行くつもりだった。フェスを見て、その気持ちはもっと強くなったよ。鉄山砦で面白いのは、スタンピードだけじゃない。まだこの先に本番が待ってる」
睡眠王は劉を見た。
金がないと嘆き、依頼の報酬が安いと文句を言い、キノコのスープが薄いと愚痴をこぼす。
それでも進路を選ぶ分かれ道へ立つと、少しも迷わない。
「分かりました」
睡眠王は、自分を鼓舞するように強く頷いた。
「俺も、いつまでも迷っていられない。せめて劉さんが鉄山砦で活躍するまでに、フェスのことをもっと分かるようになっておきます!」
劉は親指を立てた。
「いい心がけだ! 将来大物になったら、貧しい友人の俺を助けてくれよ」
「何が貧しい友人ですか……」
睡眠王は苦笑した。
二人は星界会館で別れた。
睡眠王はその場に立ち、劉の背中を見送る。
ひどく貧相な軽装、腰の名刀、気の抜けた歩き方。
昨夜、頭の中で膨らませた「隠れた大物」「強盗の黒幕」「謎の達人」という想像を思い出す。
どれも違う。
だが、この男を伝説的でないと言うのも、やはり違った。
少なくとも睡眠王は知っている。
自分なら、ぼろ布一枚で黒豹を連れ、城門へ現れることなどできない。
ゲームを始めて数日で、二人の強盗と空間魔法を使う怪物を、自分の旅へ巻き込むこともできない。
睡眠王は槍を握り、深く息を吸った。
そして守備隊へ向かって駆け出す。
あと一か月あまり。
せめてこの街の、まともな前哨くらいにはなってみせる。
*
翌日。城門の外。
劉は昨日、用事を終えたあとで街を見て回った。
プレイヤーが開いたパン屋でパンを食べ、酒場で薄いビールを二杯ほど飲み、最後は宿屋へ入った。
定番で、満足のいく「冒険序盤の街体験」だった。
今朝は光が差し始めるなり荷物をまとめ、宿を出た。
フェスから鉄山砦までは、決して近くない。
城外へ出ると、足取りは自然と軽くなった。
昨日、睡眠王と話してから気分がいい。
ようやく顔見知りと呼べるプレイヤーの友人ができたからかもしれない。
フェスを一巡し、この先どちらへ進むべきか、少し見えてきたからかもしれない。
それに何より――留置所、登録所、つまらない依頼、旧サーバー経験者を名乗る連中から、ようやく解放された。
劉は大きく伸びをし、北へ延びる土の道を眺めた。
「入城、審査、登録、安仕事、猪退治、交流、ほら話、パン、酒、宿屋」
一つずつ指を折る。
「特に入城だな。豹の兄貴が言うことを聞かなかったらどうしようと思ってたのに、あんな派手な演出をしてくれるとは! 最高だった!」
「ははは。これぞ王道の冒険、その序章って感じだ!」
「ただ、普通の物語なら、そろそろ乗り物が手に入ってもいい頃じゃないか?」
咳払いをし、誰もいない原野へ真面目な声で呼びかける。
「豹の兄貴!」
「漆黒の支配者!」
「漆黒の支配者様!」
返ってくるのは、草の斜面を渡る風の音だけだった。
「……黒豹さん?」
やはり反応はない。
劉は腰へ手を当て、舌打ちした。
「フェスへ来る前は、並んで街を見下ろした仲じゃないか。今日は知らないふりか。冷たい大猫だな」
しばらく待っても空間の揺らぎはなく、仕方なく一人で歩き始める。
北へ向かう道は、フェスへ来たときよりずっと広かった。
深い轍が土へ刻まれ、道端には捨てられた焚火跡や、休憩用の石造りの小屋が点在している。
進むほど旅人や隊商が増えた。
盾を背負う者。荷獣を引く者。三人、五人と集まり、先に鉄山砦へ行くか、巨獣の森の外縁で鍛えるか、地図を示しながら言い争うプレイヤーもいる。
劉は一人、少し寂しくなった。
「やっぱり豹の兄貴がいたほうが、見栄えがいいな」
歩きながら、爪先で道端の小石を蹴る。
そのうち前方の空間が、微かに歪んだ。
漆黒の裂け目が音もなく開く。
黒い大猫が中から歩み出た。
着地の音すらほとんどない。まるで最初からそこにいたようだった。
劉は足を止め、二秒ほど呆然としたあと、満面の笑みを浮かべた。
「お前って奴は!」
黒豹は無視した。
短い尾を一度振り、道の端を勝手に進んでいく。
ただ偶然、同じ方向へ歩く冷淡な旅人のように。
「はははは!」
劉はすぐ後を追った。
「その登場は満点だ。次は俺が呼んだとき、少しくらい応えてくれないか?」
黒豹の耳が一度動いた。
返事かもしれないし、単にうるさがっただけかもしれない。
黒豹がいれば、道中もそれほど退屈ではなかった。
時折どこかへ消え、しばらくすると前方や斜面へ音もなく現れる。
劉のすぐ隣を悠然と歩き、自分の領地を巡回しているようなときもあった。
行き交う旅人は、一人と一頭の姿を見ると、たいてい道端へ避けた。
驚き、畏れ、羨望の視線が向けられる。
劉は表面上平静を装い、内心ではすっかり得意になっていた。
「いいぞ、いいぞ。これこそ冒険物語の主人公らしい風格だ」
ただ、背に乗せてくれそうな気配だけはない。
溜息をつき、また歩く。
そうして進み続けるうち、太陽は少しずつ西へ傾いた。
また一日を、ほとんど移動だけで使った。
途中では隊商の馬車へかなり長く乗せてもらったが、正直なところ、歩くより楽とは言い難かった。
街道は、さらに賑わっていく。
鉄山砦へ通じる大路には、四方から来た人と車が集まっていた。
やがて地形が持ち上がり、山脈の輪郭が少しずつ見えてくる。
最初は灰青色の細い線。
それが、天地を塞ぐ壁のような巨大な影へ変わった。
風も冷たく、硬くなる。岩と鉄錆の匂いを帯び、北から吹きつけてきた。
もう一つ高い丘を越えたところで、劉の足が止まった。
視界の果てに、ついに鉄山砦が姿を現す。
それは、ただの都市ではなかった。
山そのものへ埋め込まれた、巨大な鋼鉄の要塞だった。
高層建築は山肌に沿って幾重にも立ち上がり、巨人が盾を積み重ねたように見える。
城壁の外には重厚な角楼が張り出し、篝火と旗が風の中で揺れていた。
さらに上では、太い昇降軌道と吊橋が岩壁へ食い込み、巨大な戦争機械の骨格を剥き出しにしている。
夕陽の残光が鉄と石の稜線へ落ち、冷たく硬い赤色を返した。
城外の街道を、隊商、兵士、プレイヤー、荷獣が、すべてその巨体へ向かって進んでいる。
まだ遠いのに、外壁の下を埋める無数の人影と、行き交う炎の光まで見えた。
山中の巨城を前にすれば、劉も、隣の黒豹も、あまりに小さい。
劉は丘の上に立ち、天を衝く壮大な鉄山砦を仰ぎ見た。
戦いに備え、息を潜めるその姿を、しばらく言葉もなく見つめる。
やがて、長く息を吐いた。
「すっげえ……」
黒豹も隣で足を止めた。
厳めしい巨城と、山中に揺らめく火を見上げている。
風が背の骨鰭を抜け、漆黒の毛並みを波打たせた。
遠くの要塞は、目覚めを前に力を蓄える鋼鉄の巨獣のようだった。
劉の口元が持ち上がる。
「本当の冒険は、ここから始まるんだ!」
――第一章 完
劉と黒豹の旅は、ここでひとまず一区切りとなる。
だが、彼らが見上げた鉄山砦では、すでにいくつもの冒険が動き始めていた。
第二章では時を一年前へ遡り、物語の視野を一人の旅人から一つのギルドへと広げる。名も実績もなかった第二遠征団が、失敗を重ねながら、鉄山砦の過酷な前線に自分たちの居場所を築いていくまでの物語だ。
仲間を集め、役割を分かち、強敵へ挑み、未知の地下へ踏み込んでいく。勝利も失敗も糧に変えながら、彼らはやがて、寄せ集めではない本当のギルドになっていく。
一人では辿り着けない『ガイア・クロニクル』の冒険が、ここから始まる。




