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誰も導かなかった世界で、俺たちは答えを与えなかった 救わない勇者たちが世界を変えた理由  作者: 慈架太子


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最初の満腹

腹が、満ちていた。


たったそれだけの、あまりにも単純な事実だった。

だが、その一点が、この街に流れる空気の密度を決定的に変えていた。

空の色は昨日と同じ灰色で、吹き抜ける風には相変わらず瓦礫の埃が混じっている。

それなのに、すべてが違っていた。


一人の男が、広場の中心に立ち、ゆっくりと肺の奥まで空気を吸い込んで、吐き出した。

立ったままで、何をするでもなく、ただそこにいる。

誰からも追われず、誰の喉笛も狙っていない。

その立ち姿には、かつてこの街の住人が持ち得なかった「余裕」という名の、ひどく場違いな静謐が宿っていた。


昨日なら、こうはならなかった。

目が覚めた瞬間から、視線は獲物を探して路地を這い、足は自然と奪うべき場所へと向かっていた。

目の前に動くものがあれば、それが食えるか、あるいは食い物を持っているかを瞬時に判断し、反射的に手を伸ばしていた。

それが、この街における「生きる」という行為の全容だったからだ。


今日は、違う。


男は何もしていない。

誰とも争わず、誰からも奪っていない。

それでも、内側から突き上げてくるあの不快な、内臓を焼き切るような空腹はなかった。

足りている。

その確信が、彼の全身から刺々しい警戒心を削ぎ落としていた。


「……どうする」


背後から、誰かが掠れた声で言った。

かつて同じ略奪団で背中を預け合っていた男だ。

だが、その問いに、先ほどの男は答えなかった。

返事をする必要も、急ぐ理由もなかったからだ。

「次の一手」を考えなければ死ぬという恐怖の縛鎖から、彼らは今、解き放たれていた。


視線を落とした先。

一人の子供が、剥き出しの地面に座り込んでいた。

その手には、まだ半分以上残ったパンの塊がある。

子供は、まるで宝物を確かめるようにそれを一度見つめ、それから一口、小さくかじった。


ゆっくりと、顎を動かす。

口の中に広がる穀物の甘みを、時間をかけて味わう。

その間も、子供の視線は絶えず周囲を泳いでいた。

だが、誰も近づいてこない。

かつてなら、食べ物を持った子供など、格好の獲物でしかなかったはずだ。

屈強な大人たちが群がり、その小さな手から無慈悲に奪い去っていたはずだ。


もう一口。

子供は、今度は少し大きめにパンをかじった。

誰も止めない。誰も声を荒らげない。

子供は少しだけ戸惑ったように動きを止めたが、誰の邪魔も入らないことを確認すると、また静かに食べ進めた。


少し離れた場所で、一人の女がその様子をじっと見つめていた。

彼女の目は、かつてのようにギラついた欲望に染まってはいない。

ただ、そこに「食べている子供がいる」という、当たり前の光景を不思議なものを見るように眺めていた。


「……いいの?」


女が、独り言のように呟いた。

その問いの矛先が自分であることに気づいたのか、子供は咀嚼を止め、女を真っ直ぐに見上げた。

少しだけ考え、そして子供は、短く、しかしはっきりと言い切った。


「……いい」


その言葉は、自分に言い聞かせているようでもあり、世界の新しいルールを宣言しているようでもあった。

奪われずに、自分のペースで食べていい。

その、あまりにも当たり前の権利を、子供はこの日、初めて手に入れたのだ。


遠くの瓦礫の山では、別の男が腰を下ろしていた。

彼はただ、自分の手を見つめている。

血に汚れ、泥にまみれた、奪うことしか知らなかった手。

今は、何もしていない。


「……暇だな」


ぽつりと漏らしたその言葉は、静寂に満ちた空気に溶けていった。

誰もその言葉に反応しない。

同情も、嘲笑もない。

暇。それは、かつての彼らにとって死と同義だった。

動いていない時間は、死へと近づく時間だったからだ。

だが今は、その暇さえもが、胃の中にある満足感によって保護されている。


しばらくして、男はゆっくりと立ち上がった。

歩き出す。

どこに行くか、何をするか、目的は決まっていない。

それでも、足は止まらない。

獲物を探すためではなく、ただ「動くことができるから動く」という、生物としての純粋な欲求に導かれていた。


視界の端では、昨日から始まった畑で、今も誰かの手が動いている。

遠くの建物からは、織機の音がたどたどしく、しかし絶え間なく鳴り響いている。

場所は同じだ。人も同じだ。

違うのは、誰も他人の成果を奪っていないこと。

誰も、隣人の持ち物を自分のものにしようと画策していないこと。

たったそれだけのことが、街を巨大な生命体のように鼓動させていた。


「……取らなくていいのか」


また、誰かが同じ問いを口にした。

それは、昨日までの古い世界の残響だった。

奪わなければ失う。その恐怖を完全に拭い去るには、一回の満腹では足りないのかもしれない。


だが、返事はすぐに返ってきた。


「……いらない」


短い、突き放すような言葉。

それは拒絶ではなく、確信だった。

自分の腹は満ちている。だから、他人のものを奪う必要がない。

あまりにも論理的で、あまりにも単純な理由。

それで会話は終わる。

争いの火種は、その一言で踏み消された。


カイは、高い塔の影から、そのすべてを視界に収めていた。

表情は読めない。何も言わない。

ただ、人々の中に芽生えた小さな「変化」を、逃さず見届けていた。


ミーナは、その隣で何度も口を開きかけ、その度に喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

「良かった」と言うにはまだ早く、「信じられない」と言うには目の前の光景が瑞々しすぎた。

彼女はただ、拳を握りしめて、震えるような高揚を抑えていた。


マーガレットは、目を細めて地平線を眺めていた。

彼女が見ているのは、目の前の人々だけではない。

この変化が、これからどれほどの歪みを生み、どれほどの未来を拓くのか。

その冷徹なまでの洞察は、今も止まっていない。


アリアは、微動だにせず立っていた。

王としての命令を出す必要は、もうない。

彼女が導かなくても、人々は勝手に生きるための場所を探し、手を動かし始めている。

それは、指導者が必要だった「群れ」から、一人ひとりが自分の足で立つ「人間」へと戻るプロセスだった。


誰も、彼らを導かない。

誰も、正しい生き方を説いたりはしない。

それでも、人は止まらない。

足は前に進み、手は土を掴み、耳は世界の音を拾う。


一人の男が、ふと足を止め、空を見上げた。

何も考えていない。

いや。

考えなくてもよくなったのだ。

次の瞬間に自分を殺そうとする者の影や、飢えに狂う仲間の視線を気に病む必要がなくなった。


腹が満ちている。


たったそれだけのことが、奪わなくていい、最大の理由になった。

それは、天から降ってきた奇跡ではない。

ましてや、聖者の祈りが通じた結果でもない。


ただ、食糧が行き渡り、条件が揃った。

その物理的な充足が、人々の精神を根底から作り変えた。


そして、その日。

街に暮らす人々は、初めて、自分に問いかけ始めた。


「……次は何をするか」


生存のための反射ではなく、意志に基づいた選択。

不器用で、遅く、混乱に満ちた、本当の「人間の歴史」が、満腹の静寂の中から始まった。

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