表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰も導かなかった世界で、俺たちは答えを与えなかった 救わない勇者たちが世界を変えた理由  作者: 慈架太子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/61

織機が鳴る、誰の命令でもなく

音が、鳴っていた。

乾いた木と鉄がぶつかり合い、摩擦で軋む音。

それは決して、心地よい音楽ではなかった。

一定のリズムを刻むこともできず、不意に途切れては、また不器用に再開される。

乱れ、震え、もがきながらも、その音は止まっていなかった。


織機だった。

かつて富裕層のために美しい布を産み出していたはずのその機械は、長い間、埃と絶望に埋もれていた。

だが今、その沈黙は破られた。

誰かが号令をかけたわけではない。

広場に鐘が鳴り響いたわけでも、統治者が生産を命じたわけでもない。

それでも、機械は動いている。


女が一人、踏み板に足をのせ、体重をかける。

ぎこちない動きだ。

慣れない労働に、彼女の膝は小刻みに震えている。

経糸たていと緯糸よこいとが交差するたびに、彼女は不安そうに手元を見つめる。

その速度は、熟練の職人が見れば失笑するほどに遅かった。

それでも、彼女は足を止めなかった。


「……これでいいのか」


誰に聞くでもない、独り言のような問いが漏れる。

視線は手元の糸に釘付けになったままだ。


「……分からない」


隣の織機に向かい合っていた別の女が、短く答える。

彼女の手もまた、慣れない作業に赤く擦れていた。


一拍。


「……でも、止める理由もない」


それだけだった。

昨日までなら、止める理由はいくらでもあった。

疲れるから。腹が減るから。誰かに奪われるから。明日死ぬかもしれないから。

だが今日、彼女たちの胃の中には、朝に配給された食糧が確かな重みを持って留まっている。

「飢え」という名の、人間を縛りつける最強の枷が外れた時、人はただ「止める理由がない」というだけの動機で動き続けることができるのだ。


糸が、絡まった。

摩擦に耐えきれず、細い糸が毛羽立ち、絡み合う。

機械が沈黙する。

女は焦ることなく、その細い指を糸の隙間に入れた。

一本ずつ、丁寧にほどいていく。

かつて誰かの財布を盗むために使われたその指先が、今は、一本の糸を救うために繊細に動かされる。

ほどき終えると、再び踏み板を蹴る。

音が、少しだけ続く。


少し離れた場所。

不恰好な、それでも確かに織り上げられた布が、無造作に積み上げられていた。

それらはまだ、何かの服になるわけでも、幕になるわけでもない。

使い道は決まっていない。

それでも、音に急かされるように、布の山は少しずつ高くなっていく。


男が一人、その布の山に近づいた。

彼はかつて、街の用心棒として拳一つで食い繋いできた荒くれ者だ。

男は一番上の布を一枚持ち上げ、その重さを確かめるように指先で触れた。

表面は粗く、均一ではない。

だが、そこには人間が時間をかけて介在したという、抗いがたい熱量があった。


「……これ、どうする」


誰に問うでもなく、男が呟く。

織り続けている女たちは、振り返りもしない。


一拍。


「……使うだろ」


誰かが、曖昧な答えを投げ返す。

それで十分だった。

必要だから作るのではない。作ってしまったから、いつか使う。

生存のための因果律が、ここでは静かに逆転していた。


別の男が、ふらりと近づいてくる。

彼は布の山を見つめ、男の手にある一枚を指差した。


「……欲しい」


短い言葉。

そこには略奪の意志も、交渉の打算もなかった。

ただ、目の前にある「形あるもの」への純粋な欲求だけがあった。


最初に布を持っていた男が、相手の目を見る。

少しだけ考え、彼は無造作にその布を相手に差し出した。


「……持ってけ」


やり取りは、それだけで終わった。

代価としての貨幣も、物通交換の契約もない。

昨日までのこの街なら、布一枚を巡って殺し合いが起きていただろう。

だが、今は違う。


渡った。


それは、贈与でも取引でもなく、ただ「物が必要な場所へ移動した」というだけの現象だった。

織機の音が、再び大きく鳴り響く。

誰も、その音を咎めない。誰も、その布の所有権を主張して争わない。


ガルドは、少し離れた柱の陰からその様子を見ていた。

太い腕を組み、不器用な女たちの手つきを厳しい目で見守っている。


「……遅ぇな」


吐き捨てた言葉とは裏腹に、彼は自分の足元に置かれていた、油の染みた布と小さな工具を一つ、広場の隅に置いた。

「これを使って整備しろ」とは言わない。

ただ、そこに置く。それだけだ。


気づいた一人の男が、その工具を拾い上げ、軋みのひどい織機の歯車に油を差し始めた。

少しだけ、音が整う。

不協和音の中に、わずかな調和が混じり始める。


リーヴは、壁にもたれたまま、街の空気を吸い込んでいた。

彼女は何も言わない。

ただ、織機の音が街の死気を追い払っていく様子を、その静かな瞳で肯定していた。


ユークスが、足早に織機の間を通り過ぎる。

彼は一度も足を止めなかったが、すれ違いざまに低く声を落とした。


「……指を挟むな」


警告というよりは、祈りに近い言葉だった。

その言葉を残し、彼は再び自分の持ち場へと消えていった。


ミーナは、激しく上下する踏み板を見つめていた。

彼女の指先が、リズムに合わせて微かに動く。

助けたい。もっとうまくやる方法を教えたい。

その衝動を、彼女は懸命に抑え込んだ。

今ここで彼女が介入してしまえば、この音は彼女の音になってしまう。

不器用でも、遅くても、これは彼女たちが自ら見つけた音でなければならないのだ。


カイは、渡された布を一枚、掌に乗せていた。

何も言わない。

ただ、その布の網目を見つめている。

そこには、絶望の淵から這い上がろうとする人間の、震えるような足跡が刻まれていた。


アリアは、さらに遠い場所から、街全体を見渡していた。

王としての命令は、もう必要なかった。

人々は飢えから解放され、自由という名の、しかし最も過酷な試練の中にいた。

彼女はただ、一人の見届け人としてそこに立っていた。


音が、重なる。

一人の音が止まっても、別の場所で音が上がる。

最初はバラバラで、互いに邪魔をし合っていた不規則な打音。

だが、時が経つにつれて。

今は、少しだけ、揃い始めていた。


誰も「揃えろ」とは言っていない。

指揮者もいなければ、楽譜もない。

それでも、隣の音を感じ、無意識に呼吸を合わせ、人々は一つの流れを作っていく。

揃い始めているのは、技術ではなく、生きようとする歩調だった。


一人の女が、ふと手を止めた。

溜まった汗を拭い、耳を澄ます。

自分が手を止めても、街から音は消えない。

隣で、向かいで、遠くの路地で。

誰かが動かしている織機の音が、絶え間なく響いている。


自分が止まっても、世界は止まらない。

その事実は、彼女に孤独ではなく、奇妙な安堵をもたらした。

小さく、息を吐く。

彼女は再び前を向き、重い踏み板に足をのせた。


織機が鳴っている。

誰の命令でもなく。


それは、偉大な誰かが始めたものではない。

ましてや、高潔な理念のもとに興された事業でもない。


誰も止めなかっただけだ。


腹を満たした人間が、ふと手を動かした。

その動きを、誰も邪魔しなかった。

その結果を、誰も奪わなかった。

ただそれだけの、あまりにも小さな連鎖。


その日。

この街で、不規則な動きは“仕事”という名の流れになった。

誰もその営みに名前をつけない。

意味も、目的も、将来の展望すら語られない。


それでも、音は止まらない。

名前もないまま、誰の命令でもなく。

ただ生きている証として、織機は鳴り続け、世界は動き続けた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ