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誰も導かなかった世界で、俺たちは答えを与えなかった 救わない勇者たちが世界を変えた理由  作者: 慈架太子


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盗まなくなった子供

子供は、袋を持っていた。


その中には、茶色いパンの塊と、わずかに塩気の残る干し肉が入っている。

ずっしりとしたその重みは、この街において「生命」そのものの重さだった。


昨日までの世界なら、その袋は子供の手に一分いちふんたりとも留まってはいなかっただろう。

足音が聞こえるたびに、子供は獲物を狙う小動物のように鋭く振り返り、誰かが数歩近づけば、全神経を逆立てて袋を抱え込んだ。

常に逃げる準備をしていた。常に、背後から振り下ろされる暴力の影に怯えていた。

それが、この街で生きるための唯一の「姿勢」だった。


今日は、違う。


子供は、大通りを真っ直ぐに歩いている。

逃げるために走ることも、物陰に身を隠すこともなく、ただ歩を進めている。

その腕には、無造作に抱えられた袋がある。

誰が見ても、そこには食糧が入っていると分かる。


子供は、人々の間を縫うようにして歩いていく。

通り過ぎる大人たちの肩や腕が、子供のすぐそばを掠めていく。

だが、誰一人として、その小さな腕から袋をひったくろうとする者はいない。

いくつかの視線が、確かに袋に向けられる。

それはかつて、欲望と飢えに濁った、略奪者の目だった。

だが、その視線は子供を追いかけることなく、数秒後には別の場所へと流れていく。

視線だけで終わる。


子供は、何度か不安そうに振り返った。

誰かが自分の後をつけていないか。誰かがナイフを抜いて、自分の背中を狙っていないか。

だが、誰も来ない。

人々は座り込み、あるいは自分の「仕事」に向き合い、他人の持ち物に干渉することさえ億劫おっくうであるかのように振る舞っている。


少しずつ、子供の歩く速度が落ちていった。

全速力で逃げる必要がないという事実。

その当たり前の平穏を、自らの肉体が理解するまでには、あまりにも長い時間がかかった。


広場の端。

かつては血の匂いが漂っていた古い噴水の跡地で、子供は足を止めた。

背後に誰もいないことを再度確認し、おそるおそる、袋の口を開ける。

暗い袋の中を覗き込むと、香ばしい匂いが鼻を突いた。


また、すぐに閉じる。

周囲を見渡すが、誰もこちらを気にかけていない。

もう一度、開ける。

中から、一番小さなパンの端を千切り取り、取り出した。

それは子供の手のひらにすっぽりと収まる、小さな欠片かけらだった。


口に運ぶ。

誰かが叫んで飛びかかってくることも、汚れた手が伸びてくることもない。

止められない。

子供は、それをゆっくりと、何度も噛み締めた。

飲み込む。喉を通る温かさが、腹の底まで届く。


誰も来ない。


近くの石柱にもたれかかっていた一人の男が、その様子をじっと見ていた。

男の頬には古い傷跡があり、その腕は人を殺めることに慣れきった太さをしていた。

男は何も言わず、ただ子供の食事を見つめている。


子供は、その視線に気づいた。

背筋に冷たい戦慄が走り、一瞬、身体が硬直する。

反射的に、残りのパンを袋に詰め込み、路地裏へ逃げようとした。


だが、止まった。


男が、一歩も動かなかったからだ。

男の瞳には、かつてのような「奪う側」の飢えがなかった。

ただ、静かに、そこに存在しているだけだった。


「……食え」


男の口から漏れたのは、ひどく掠れた、短い言葉だった。

それ以上、何も言わない。

奪いもしない。施しさえしない。

ただ、その子がそこで食べることを許容した。


子供は、しばらく男の顔を盗み見るように観察していた。

やがて、迷いながらも、再びパンを口に入れた。

噛む。飲み込む。

男は動かない。


最後の一口を飲み込んだ後、子供は袋の口を固く結び、持ち直した。

そして、今度は振り返ることなく、再び歩き出した。

逃げるためではない。どこか「行きたい場所」へ向かうための、確かな足取りだった。


道の途中、角を曲がったところで、別の子供とすれ違った。

自分よりも一回り小さく、痩せこけた子供だ。

二人の目が合う。

相手の子供の視線が、自分の抱えている袋に吸い寄せられた。


袋を持っている子供は、少しだけ足を止めた。

身体が強張る。相手が飛びかかってくるのではないかという疑念。

同時に、かつての自分ならそうしたであろうという記憶が、頭をよぎる。

一瞬、拳を握る。


だが、何も起きなかった。

相手の子供もまた、袋を見つめたまま、手を出すことはなかった。

その子の腹も、朝の配給で満たされていたからだ。


二人は、言葉を交わすこともなく、ただすれ違った。

袋は奪われず、暴力も振るわれなかった。

そのまま、通り過ぎる。

当たり前のことが、当たり前に成立する。

昨日までは空想の中にさえなかった光景が、現実としてそこに横たわっていた。


少し離れた場所で、さっきの男がその様子を見届けていた。

男は何も言わない。

ただ、子供たちが互いに奪い合わずにすれ違った事実を、その濁った瞳で肯定するように見つめていた。


カイは、時計塔の影から、その光景を遠く眺めていた。

何も言わない。

一人の子供が袋を持って歩き続ける。その小さな移動が、街の何を変えていくのか。

彼には分かっていた。


ミーナは、その横で息を止めていた。

子供たちがすれ違う瞬間、彼女は祈るように拳を握っていた。

最悪の事態が起きなかったことに安堵し、彼女は深く、長い呼吸を吐き出した。


マーガレットは、目を逸らさなかった。

子供の心に芽生えた「奪わない」という選択。

それがどれほど脆く、かつ強固なものであるか、彼女は冷徹に見極めようとしていた。


アリアは、微動だにせず立っていた。

命令は出さない。

規律で縛り付ける必要もなかった。

満たされた腹が、どんな法典よりも正しく、人々に「他人のものを奪わない」という理性を与えていたからだ。


子供は、袋を抱えたまま、迷路のような街を歩いていく。

その足取りは、次第に軽くなっていった。

途中で、また一つ食べ物を取り出す。

今度は、周囲を振り返ることもしなかった。

ただ、空を見上げながら、歩きながら、食べる。


盗まなかった。

盗られなかった。


それだけの出来事だ。

歴史に残るような事件でもなければ、誰かを救う高潔な物語でもない。

だが、それは昨日までのこの街には、一分子いちぶんしたりとも存在し得なかった奇跡に近い日常だった。


その日。

一人の子供が、自らの意志で「奪わない」ことを選んだ。


誰にも命じられていない。

誰にも教えられていない。

「奪わないことが正しい」などという倫理さえ、誰も語っていない。


それでも、選ばれた。

腹を満たした一人の人間が、自分と他人の境界を認め、奪うことをやめた。


そして、その静かな変化は。

音もなく、街の隅々へと広がり始めていた。

誰の命令でもなく。

ただ、満たされた者たちの、当たり前の行動として。

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