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誰も導かなかった世界で、俺たちは答えを与えなかった 救わない勇者たちが世界を変えた理由  作者: 慈架太子


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命令が届かない

紙が、届いていた。


それは、かつてのこの街において、天啓てんけいと同義の重みを持つものだった。

上層部から、あるいはかつての支配階級から放たれる、白い沈黙の圧力。

その薄い紙一枚に記された数行の言葉が、人々の生死を左右し、誰を殺し、何を奪うかを決定づけてきた。


封は、まだ切られていない。

埃っぽい机の上に、それは不自然なほど白い四角形として置かれている。

かつてなら、届けられた瞬間に震える手で封を切り、額を畳にこすりつけるようにして内容を確認していたはずだ。

だが今は、誰も急がなかった。


男は、その紙をじっと見つめていた。

右手を伸ばしかけて、指先が紙の縁に触れる直前で止まる。

恐怖で動けないのではない。

ただ、その紙が自分に何をもたらすのか、その予測が今の自分にはひどく無価値なものに思えたのだ。


「……」


開けば、分かる。

そこに記されているのは、揺るぎない「命令」だ。

何をすべきか。どこの土地を誰に明け渡し、どの資源をどこへ運ぶべきか。

秩序という名の、逆らうことのできない強制。

それでも、男の心は波立たなかった。


「……開けるか」


誰に言うでもなく、男は低く呟いた。

隣で別の作業をしていた男が、手を止めてこちらを見る。


「……どうする」


同じ言葉が返ってくる。

問いの形をしているが、そこには「従わなければならない」という悲壮な決意は一分子も含まれていない。

沈黙が、古い部屋の中によどみを作る。


やがて。


「……いいか」


短く断ち切るように言って、男は封を切った。

紙を引き出し、記された文字を追う。

男の目が、ある一点で止まる。


「……」


言葉が、続かない。

それは、あまりにも典型的な「命令」だった。

かつて幾度となく目にしてきた、冷徹な書体。いつもと同じ形式。

いつもと同じ、傲慢な響きを持つ言葉たち。

そこには、ただ一言、

「直ちに従え」

と、そう記されていた。


男は、紙を持ったまま微動だにしない。

かつての自分なら、この文字を目にした瞬間に膝が震え、全身の血が凍りついていただろう。

命令は絶対だった。従わなければ、腹を満たすどころか、明日を拝むことさえ許されなかったからだ。


しかし。

しばらくして、男は静かに紙を閉じた。

感情を揺らすこともなく、元の机の上に、無造作に置く。


「……やるのか」


隣の男が、感情を読み取れない声で聞いた。

返事は、すぐには返らない。

男は窓の外に目を向けた。そこには、自分たちの手で耕し始めた、不揃いだが瑞々しい土の色が広がっていた。


「……違うな」


小さく、確信を込めて言う。

男は椅子を引き、ゆっくりと立ち上がった。

机の上に残された紙には、もはや一瞥いちべつもくれない。

「従え」と書かれた文字は、開かれたまま、空虚に天井を見つめていた。


別の場所でも、同じことが起きていた。

古い役所の入り口。同じように届けられた紙の封が、無造作に引きちぎられる。

中身が読まれる。


「……」


読んだ者は、しばらく動かなかった。

命令の内容を理解できなかったわけではない。

そこに記された、強大な権力を背景にした威圧も、十分に読み取っている。

やがて、その人物は短く吐き捨てた。


「……やめとくか」


それだけだった。

紙を机の隅に置き、別の書類――自分たちが今日、どれだけの肥料を撒いたかの記録――を手に取る。

命令を無視したことに対する罰を恐れる様子もない。

誰も、その紙を取り上げようとはしなかった。

誰も、命令を無視したことを叱り、糾弾しようとはしなかった。


広場には、今日も人が溢れていた。

畑を耕す者。織機を動かす者。

そこに届いたはずの「命令」とは、何の関わりもない動きが街を支配している。


一人の役人が、広場の縁に立っていた。

その手には、先ほどと同じ白い紙が握られている。


「……従え、か」


彼は、周囲に聞こえるような声でそれを読み上げた。

だが、誰一人として反応しなかった。

土を掘る手は止まらず、織機の音は途切れない。

人々にとって、その紙に書かれた言葉は、吹き抜ける風のざわめきよりも意味を持たないものになっていた。


しばらくして。

役人は自嘲気味に鼻を鳴らすと、手にした紙を無造作に丸めた。

石畳の上に、それを置く。


「……どうする」


彼の口から出たのは、紙に書かれたこととは全く無関係な、新しい問いだった。

近くで作業をしていた男が、顔を上げて答える。


「……決める。この場所の、次のことを」


会話は、それで終わった。

紙の上の言葉ではなく、自分たちの間の対話。

それが、この街の新しい「律動」になっていた。


カイは、その光景を遠くから見つめていた。

何も言わない。

ただ、人々の魂の中から「命令」という名の呪縛が、霧が晴れるように消えていくのを見届けていた。


ミーナは、静かに、深く息を吐き出した。

紙という形をした、かつての亡霊たちが、もはや誰の心をも縛ることができない。

その事実に、彼女は言いようのない安堵あんどを覚えていた。


マーガレットは、動きを止めなかった。

彼女のもとにも、かつての自分を知る者からの「命令」が届いたかもしれない。

だが、彼女はそれを見ることさえせず、ただ目の前の瓦礫がれきを運び続けた。


アリアは、目を細めて丸められた紙を見つめていた。

統治とは、言葉によって人を動かすことだと思っていた。

だが、今、言葉は届いているのに、人は動かない。

命令という名の「力」が、ここでは通用しないことを、彼女は改めて突きつけられていた。


ユークスが、医療鞄を提げて通り過ぎる。


「……届いてるな。形としては」


一拍。


「……でも、誰も動かない。もはや、別の言語のように聞こえているんだろう」


低く漏らしたその声は、驚きよりも、必然を受け入れた者の響きがあった。


リーヴは、何も言わずに揺れる木々を見ていた。

ガルドは、相変わらず無造作に新しい道具を置き、去っていく。


時間は、静かに、重厚に過ぎていく。

机の上に。石畳の上に。丸められたり、放置されたりした紙が残っている。

それらは、かつての「絶対的な命令」の残骸だった。

文字は消えていない。意図も理解されている。

それでも。


動かない。


命令は、物理的には届いていた。

一人ひとりの目の前まで、確かに。


それでも。

心には、届いていなかった。

腹を満たし、自分の足で立ち、自分の手で明日を耕し始めた人間にとって、「従え」という他者の意志は、もはや生存を左右する力を持ってはいなかった。


その日。

命令は、決定的に意味を失った。

どれほど鋭い言葉が連ねられようと、どれほど力強く「従え」と命じられようと、人々はもはや、それを自分の行動の理由に選ぶことはなかった。


命令は、従われなくなった。

それは、反抗という名の激しい拒絶ですらない。

ただ、必要のないものとして、静かに無視されたのだ。


そして。

カイも、ミーナも、誰一人として。

その失われた「命令の重み」を、再び取り戻そうとする者はいなかった。

自分たちの意志で動く。その不自由で、しかし瑞々(みずみず)しい自由の中に、人々は静かに留まり続けていた。

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