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誰も導かなかった世界で、俺たちは答えを与えなかった 救わない勇者たちが世界を変えた理由  作者: 慈架太子


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徴税官が来た日

馬車が、止まった。


その音は、かつてのこの街においては、死神の鎌が地を叩く音と同じ響きを持っていた。

乾いた車輪の音、ひづめの音。

土埃を上げて止まったその馬車の側面には、見慣れた紋章が刻まれている。

権力と、吸い上げられる命の象徴。

かつてその紋章を目にした者は、残されたわずかな食糧を隠すために血眼になり、あるいは絶望とともに膝をついたものだった。


人々が、視線を向ける。

だが、その視線はかつての恐怖に彩られたものではなかった。

ただ「何かが来た」という事実を確認するための、乾いた、それでいて静かな眼差し。

誰も、駆け寄らない。誰も、蜘蛛の子を散らすように逃げ出さない。

ただ、それぞれの場所で、それぞれの「仕事」を続けながら、その異物を見つめていた。


徴税官が、降りる。

その服は、塵一つなく整っている。

手には、徴収すべき物品を書き留めるための、上質な道具が揃っている。

彼の振る舞い、傲慢な顎の上げ方、すべてが「いつもと同じ」だった。

彼にとって、この街は依然として、搾り取るべき果実の一つに過ぎなかった。


「……」


徴税官は、鼻に突く土の匂いを嫌うように、眉間に皺を寄せた。

周りを見る。

人はいる。それも、かつてのように泥を啜る亡霊のような姿ではない。

畑では、力強く土を穿つ男たちの背中があり、作業場からは、不器用ながらも一定のリズムを刻む織機の音が響いている。

活気。あるいは、自分たちの足で立つ者たちの熱量。

それは徴税官が知る「被支配者」の姿とは、根本から異なっていた。


「……集まれ」


徴税官は、訓練された、威圧的な声を放った。

その声は広場の石畳に跳ね返り、空へと消えていく。

だが、誰も止まらない。

土を掘る手は休まず、布を織る音は途切れない。

まるで、彼の声だけが、この街の周波数とは違う場所から発せられているかのようだった。


誰も、来ない。


徴税官は、苛立ちを隠そうともせずに、もう一度声を張り上げた。


「……集まれ! 命令だ!」


少し強く。今度は、拳を握りしめて。

それでも、誰も来ない。

一人の男が、作業の手を止めることなく、ふと顔を上げた。

徴税官を、一瞥する。

そこには憎悪すらない。ただ、路傍の石を眺めるような、透き通った無関心があった。

男は何も言わず、また自分の目の前にある土へと、視線を戻した。


徴税官は、広場の真ん中で、立ったまま動けなくなった。

彼の知る世界では、言葉は力であり、命令は絶対だった。

「……聞こえていないのか」

誰に言うでもなく、彼は掠れた声で呟いた。

彼は混乱していた。自分の持つ「権威」という名の刃が、目の前の人間たちを、一分子も傷つけることができていない。


彼は、近くで杭を打ち込んでいた男に、大股で歩み寄った。


「……徴税だ。収穫の三割を出せ」


短く、叩きつけるように言う。

男は、ようやく手を止めた。

ゆっくりと腰を伸ばし、徴税官の顔を真っ直ぐに見る。


「……何に対して、だ」


静かな声だった。

徴税官は、そのあまりにも根本的な問いに、言葉を止めた。

「……義務だ。この土地に住み、生を享受するための、当然の代価だ」

それだけを、マニュアルをなぞるように言う。


男は、少しだけ、土のついた指先を見つめて考えた。

そして、徴税官ではなく、遠くで回り続ける織機の音に耳を傾けるようにして答えた。


「……誰の、義務だ」


答えは、出なかった。

徴税官は、口を開き、そして閉じた。

彼の持つ書類には、土地の所有権や過去の徴収実績が記されている。だが、今のこの街を動かしているのは、その紙の上に書かれた論理ではない。

人々が自ら腹を満たし、自ら選び、自ら土を弄っているという、剥き出しの現実。

そこには、他者に命じられ、他者に捧げるための「余分な義務」など、どこにも存在していなかった。


周りを見る。

誰も、彼に従っていない。

だが同時に、誰も彼を拒絶し、石を投げようともしていない。

ただ、彼を「いないもの」として、自分たちの時間を生きている。

暴力的な拒絶よりも、その静かな無視の方が、徴税官にとっては遥かに恐ろしいものに感じられた。


「……」


言葉が、続かない。

彼の手に握られた、権力の象徴であるはずの書類が、不意に、ただの薄汚れた紙切れのように見え始めた。


別の場所。

一人の女が、出来上がったばかりの布を抱えて、徴税官の横を通り過ぎようとした。

徴税官は彼女を呼び止めようと、反射的に腕を伸ばした。

女は一瞬だけ足を止め、彼の顔を見た。

かつてなら、布は奪われ、彼女は地面に這いつくばって許しを請うていただろう。

だが彼女は、ただ、そこにある不自然な障害物を避けるようにして、再び歩き出した。

布の重みを噛み締めるその背中には、徴税官の入る隙間などなかった。


一人の子供が、広場を駆け抜けていく。

徴税官を見る。

何も言わない。かつての子供たちが持っていた、支配者に対する卑屈な笑みも、底知れぬ恐怖もない。

ただ、珍しい生き物を見るような、純粋な好奇心の残滓ざんし

それだけで終わる。


徴税官は、立ったまま。

何もできない。

自分の職務が、自分の存在が、この街という巨大な生命体の中で拒絶反応すら起こさず、ただ静かに「無効化」されていく。


「……命令だ。王の、命令だぞ」


最後に、彼は縋るように叫んだ。

その声は、広場の端で土を運んでいた一人の老人に届いた。

老人は、一瞬だけ足を止め、徴税官を憐れむように見つめた。


「……今は、ない。そんなものは」


それだけをぽつりと返し、老人は再び歩き出した。

それで、終わった。

徴税官の叫びは、街の鼓動の中にかき消され、何の波紋も広げなかった。


徴税官は、動かない。

手に持った書類が、風に煽られて頼りなく揺れる。

彼は、自分が持ってきた「価値」が、ここでは一分子も通用しないことを悟った。

ゆっくりと、彼は手を下ろした。

天高く掲げていた権威は、いまや重い荷物でしかなかった。


カイは、その光景を時計塔の影から静かに見つめていた。

何も言わない。

支配が崩れる瞬間は、いつだって激しい血の匂いがするものだと思っていた。

だが、今起きているのは、それよりも遥かに深い「断絶」だった。

人々が、支配を必要としなくなった。ただ、それだけの。


ミーナは、徴税官の虚ろな瞳から視線を外さなかった。

かつて自分たちを縛り付けていた鎖が、誰に壊されることもなく、ただ錆びて落ちていく。

その事実に、彼女は新しい時代の冷たさと、それ以上の清々しさを感じていた。


マーガレットは、動きを止めなかった。

かつて自分が体現していた「力」の残滓が、そこで途方に暮れている。

彼女はそれを嘲笑うこともなく、ただ、自分の贖罪の仕事を黙々と続けた。


アリアは、石柱に背を預け、徴税官の立ち尽くす姿を見ていた。

「統治」という契約が、ここでは片方から一方的に破棄されている。

否、破棄されたのではない。

契約そのものが、意味をなさない別の言語へと書き換えられたのだ。


ユークスが、薬草の匂いを纏いながら、通り過ぎる。


「……成立してないな。もはや、別の世界の住人だ」


低く、しかし冷徹な指摘。

徴税官にとって、この街はもう、彼が知っている「国」の一部ではなかった。


リーヴは、揺れる木々の音に耳を傾け、何も言わずにいた。

ガルドは、新しい鍬の重さを確かめ、土を穿つ音を広場に響かせる。


時間は、静かに過ぎていく。

徴税官は、まだそこに立ち尽くしていた。

馬車はまだあり、馬は退屈そうに首を振っている。

それでも、何も起きない。

徴収される食糧もなく、暴力による抵抗もなく、ただ、静かな時間が流れている。


徴税官は、来た。

確かに、かつての定刻通りに。


だが。

徴税は、始まらなかった。

彼が求めた義務も、彼が振りかざした命令も、この街の誰の心にも届かなかった。


その日。

支配は、拒絶されなかった。

反旗を翻すような激しい動きも、怒号もなかった。


ただ。

成立しなかった。

人々が「足りている」ことを知り、自らの足で歩き始めた時、古い世界の重力は、その効力を失ったのだ。


そして。

カイも、アリアも、誰一人として。

その成立しなかった支配を、無理に壊そうとはしなかった。

壊す必要すらなかったからだ。

徴税官の馬車が、逃げるようにして街を去っていく背中を、人々は一瞥もくれずに見送った。

彼らが向き合っているのは、過去の亡霊ではなく、自分たちの手の中にある、この不器用で、しかし確かな明日だけだった。



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