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誰も導かなかった世界で、俺たちは答えを与えなかった 救わない勇者たちが世界を変えた理由  作者: 慈架太子


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誰に従えばいい

男は、そこに立っていた。


体は動く。目も見える。耳には街の喧騒が届いている。

それなのに、足が地面に縫い付けられたかのように、一歩も動くことができなかった。

目の前では、かつてこの街を支配していた静止が嘘のように、人々が絶え間なく動き回っている。

土を耕す不器用な背中、リズムを狂わせながらも鳴り続ける織機の音、瓦礫を運ぶ足音。

世界は回り始めている。それなのに、彼一人だけが、取り残された歯車のように止まっていた。


「……誰に従えばいい」


小さく漏らしたその言葉は、誰に聞かせるためでもなく、己の心に空いた巨大な穴を確かめるためのものだった。

答えは、どこからも返ってこない。

男は縋るような思いで周囲を見渡した。

しかし、そこにはかつて自分たちに命令を下していた「強い誰か」の姿はなかった。

声を張り上げて指示を飛ばす監督官も、怠慢を許さず鞭を振るう兵士も、今日生きるための対価を命じる支配者もいない。

それでも、人々は動いている。まるで、見えない指揮者がそこにいるかのように。


「……」


男の足が、痙攣するように少しだけ動いた。

だが、すぐに止まる。

恐怖が、あるいは長い間染み付いた習慣が、彼の動きを封じ込めていた。


「……勝手に、やっていいのか」


誰に聞くでもない問いが、虚空に溶けていく。

彼の中に残っているのは、あまりにも強烈な「命じられていた日々」の記憶だった。

あれは、ある意味では楽だったのだ。

従えば、それだけでよかった。

考えなくてよかった。迷わなくてよかった。

命じられたことだけをこなし、その報酬として一欠片のパンを得る。その単純な等価交換の中に身を置いていれば、自分という人間が空っぽであっても、生きていくことはできた。


今は、違う。

命令がない。従う相手がいない。

自由という名の、広大で無機質な空白が目の前に広がっている。

その空白をどう埋めるべきか、彼は一分子の知識も持ち合わせていなかった。


一人の男が、彼の横を通り過ぎようとした。

かつて同じ泥水を啜りながら、飢えを凌いだ覚えのある顔だ。

その男は、かつての卑屈な足取りではなく、どこか確かな目的地があるかのように、迷いなく歩いている。


「……おい」


思わず呼びかけた。

通り過ぎようとした男が、足を止めて振り返る。


「……誰に従ってる」


短い、切実な問いだった。

今の自分には見えない、誰か新しい「主」がこの街に生まれたのではないか。

そうでなければ、この男がこれほど迷いなく動いている理由が説明できない。


呼び止められた男は、少しだけ考え込むような素振りを見せた。

それから、何の衒いもなく、短く答えた。


「……誰にも」


それだけ言うと、男は再び歩き出した。

言葉の余韻さえ残さず、彼は自分の「仕事」へと戻っていく。

取り残された男は、その背中を呆然と見送るしかなかった。


「……」


言葉が続かない。

誰にも従わずに動く。そんなことが、果たして人間に可能なのか。

自分という存在は、誰かの意志を受け止めるための「器」でしかなかったはずなのに。


広場の方へと目を向けると、そこにはまた、意味のない人だかりができていた。

何か重要な決議が行われているわけではない。

誰もが、自分たちの手元にある問題をどう解決するか、その糸口を探しているだけだ。


「……どうする」


誰かが、昨日と同じ問いを投げかける。

沈黙。

その沈黙は、かつての絶望的な思考停止ではない。

どうすればより良く動けるか、どうすればこの不毛な時間を「明日」に変えられるか。

そのための、重厚な沈黙。


「……決めるか」


曖昧な言葉。

何を、どのように決めるのか。

そんな議論さえ飛び越えて、人々は動き出す。

石を運び、土を寄せ、布を整える。

男は、その様子をじっと見ていた。

従う対象は、どこにもない。

それなのに、彼らの動きは確かな熱を帯び、街という巨大な生命体の鼓動を刻んでいる。


「……」


男は、震える右足を一歩、踏み出した。

止まる。

心臓が激しく脈打ち、冷や汗が背中を伝う。

もう一歩。

今度は、止まらなかった。


吸い寄せられるように、彼は新しく開墾された畑の端へと近づいた。

膝をつき、汚れの染み込んだ両手を、ゆっくりと土に入れる。

かつての自分なら、許可なく土に触れることなど許されなかった。

誰かが現れて、勝手なことをするなと怒鳴り散らすのではないか。

背中を蹴り上げられるのではないか。

男は首をすくめて周囲を伺ったが、誰も彼を止めようとはしなかった。


「……いいのか」


また、震える声で同じことを確認する。

返事はない。

隣で無心に土を掘る者さえ、彼に一瞥をくれるだけだ。


しばらくして。

男は、自分自身の内側から湧き上がってくる「納得」を掴み取った。


「……いいか」


自分に言い聞かせるように、言い直す。

彼は、力を込めて土を掻き出した。

たったそれだけの、あまりにも小さな動作。

だが、その一掻きは、彼が生まれて初めて「自分の意志」で世界に干渉した証だった。

手が土を掴み、動かす。

誰の命令でもなく、ただ自分がそうしたいと思ったから。

そのシンプルな事実が、彼の身体に熱を灯していく。


カイは、その一部始終を、少し離れた瓦礫の山から静かに見守っていた。

何も言わない。

一人の人間が、従うという重力から解放され、自らの力で羽ばたこうとする瞬間。

その脆く、不器用な離陸を、彼は一人の観測者として肯定していた。


ミーナは、その横で静かに息を吐いた。

男の手が土を掴んだとき、彼女は心の中で小さな快哉を叫んでいた。

誰かに教えられなくても、人は生きる方法を見つけ出す。

その人間の底力を、彼女は信じたかった。


マーガレットは、街の反対側で、変わらず瓦礫を運び続けている。

彼女の動きに迷いはない。

彼女もまた、誰に従うこともなく、ただ自らが背負った業を果たすために動いている。


アリアは、広場の縁に立ち、無秩序に動き回る人々を冷徹に見つめていた。

彼女がかつて愛した「命令と服従」という美しい対称性は、ここでは完全に崩壊している。

だが、彼女はそれを醜いとは思わなくなっていた。

不揃いで、不格好なその自律の中に、どんな規律も届かなかった「生命の芯」が宿っていることを認めていた。


ユークスが、薬草の袋を整理しながら、ゆっくりと歩いてくる。


「……遅いな。一歩を踏み出すまでに、これほど時間がかかるとは」


低く、突き放すような声。

だが、その視線の端には、ようやく動き始めた男への微かな安堵が滲んでいた。


リーヴは、揺れる草木に目を細め、言葉のない世界との調和を感じていた。

ガルドは、無造作に新しい鍬を地面に突き立て、背を向けて去っていく。


時間は、緩やかに過ぎていく。

男の動きは、依然として遅い。

一回土を掘るたびに立ち止まり、周囲を伺い、自分の行いが許されているのかを確かめるような、おぼつかない動作だ。

迷いも、不安も、完全には消えていない。


それでも。

止まらない。


従う相手は、もういなかった。

縋り付くべき主も、責任を押し付けるべき命令者も、ここにはいない。


それでも。

人は、動き始めた。


その日。

街に暮らす一人の名もなき人間が、初めて「従わずに」動いた。

それは、偉大な英雄の誕生でもなければ、歴史を動かす大事件でもない。

ただ、一人の人間が、自分の足で立ち、自分の手で明日を耕し始めたというだけの、ありふれた、しかし尊い出来事。


そして。

その不器用な一歩が、誰に強制されることもなく。

この街の、新しい「基準」になり始めていた。

自由という名の、最も困難で、最も美しい義務を、人々は静かに背負い始めていた。

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