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誰も導かなかった世界で、俺たちは答えを与えなかった 救わない勇者たちが世界を変えた理由  作者: 慈架太子


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騎士が剣を抜かない理由

騎士は、そこに立っていた。


いつもの場所だ。かつては略奪と殺戮が日常であり、秩序という言葉が空虚な響きしか持たなかったこの街の、中心的な広場。人が集まり、物資が動き、そして最も頻繁に血が流れる場所。


その日も、声が上がっていた。

一人は開墾に使っていた杭の所有権を主張し、もう一人はそれを自分が研ぎ直したのだと言い張っている。言い合いは激しさを増し、周囲の空気は瞬時にして数日前までの、あの刺々しい緊張感に包まれていく。

二人の距離は、極めて近い。一歩、踏み込めば拳が届き、あるいは懐のナイフが相手の喉元を裂く、そんな距離。


騎士は、その様子を冷静に見ていた。

彼の右手は、無意識のうちに腰の剣の柄に触れている。

それは長年の戦場での暮らしと、この街を暴力で統治してきた日々が彼に刻み込んだ、絶対的な反射だった。


止めるために。

抑えるために。

秩序という名の静寂を、無理やりにでもこの場に強いるために。


「……」


抜ける。

その確信があった。今の彼が柄を握り、鋼を引き抜けば、その鋭い金属音だけでこの諍いは凍りつくだろう。それでも止まらなければ、峰で打ち据え、あるいは刃を突きつければいい。そうすれば、混乱は一瞬で終わる。

いつもなら、迷わずそうしていた。それが、この街で「力」を持つ者に許された、唯一かつ最短の解決策だったからだ。


だが。

彼の手は、そこから動かなかった。

親指がつばを押し上げ、わずかに銀色の刃が覗きかけたところで、彼の動きは石化したように止まった。

理由は、彼自身にも分からなかった。臆したわけでも、腕が鈍ったわけでもない。

ただ。


「……違う」


自分にしか聞こえないほど小さな声が、唇から零れた。


言い合いは続いている。罵声はさらに高く、激しくなり、周囲で見ていた者たちが不安げに身を引く。

それでも、剣は抜かれなかった。

騎士は、剣を帯びたまま、ゆっくりと一歩だけ踏み出した。


彼は二人の男の間に、割って入るようにして立った。

何も言わない。説教をするわけでも、法を説くわけでもない。

ただ、そこに立つ。

そして、かつてのように獲物を射抜くような鋭い目つきではなく、ただ静かに、一人の人間として二人を交互に見据えた。


それだけだった。


不意に、重苦しい沈黙が広場を支配した。

男たちは、自分たちの間に割り込んできた騎士の、その抜かれない剣の存在感に圧倒されていた。

剣が抜かれていれば、彼らは恐怖によって沈黙していただろう。だが、抜かれないままそこに佇む騎士の姿は、彼らに「恐怖」以外の何かを突きつけていた。


沈黙。

やがて、一人が深いため息とともに肩の力を抜いた。


「……やめるか」


もう一人も、握りしめていた拳を解き、視線を地面へと外した。


「……ああ。……時間の無駄だ」


それで、終わった。

血が流れることも、誰かが地を這うこともなく、諍いはただの「対話の終わり」として霧散していった。

騎士は、動かない。

剣は、依然として鞘の中に収まったままだ。


別の場所。路地の入り口で、荷車の進路を巡って男同士が押し合っている。

肩がぶつかり、火花が散るような小競り合い。

騎士は、またその光景を見る。

彼の右手は、またしても剣に触れた。

そして、また止まった。


「……」


今度は、声を出した。


「……やめろ」


低く、しかし芯の通った短い言葉。

それだけだ。

激昂しかけていた男たちは、その声の主が自分たちに向けて剣を抜こうとしていないことに気づき、拍子抜けしたように手を離した。

騎士は、最後まで剣を抜かない。

それでも、場は止まっている。暴力に頼らずとも、彼の存在そのものが一つの抑止力として機能し始めていた。


遠くの路地、織機が並ぶ建物の前でも、別の騎士が同じように直立していた。

彼は何もしていない。近づく者たちを威嚇するわけでも、巡回して目を光らせるわけでもない。

それでも、そこでの争いは、決して大きくはならない。

騎士が「剣を抜かずにそこにいる」という事実が、人々に自分たちで解決すべき境界線を自覚させていた。


カイは、時計塔の影からその光景を静かに見つめていた。

何も言わない。

力が抑制され、意志によってその発動が踏み止まられる瞬間。それは、この街が単なる「満腹の集団」から「文明」へと歩み出すための、最も困難なハードルであることを彼は知っていた。


ミーナは、その横で少しだけ胸を撫で下ろしていた。

騎士の柄にかかった手が離れるたびに、彼女は心の中で安堵の息を吐く。


マーガレットは、街の隅で土を運びながら、その騎士たちの背中を静かに見守っていた。

かつての自分たちが、どれほど安易にその力を振るい、どれほど多くのものを壊してきたか。

抜かれない剣の重みを、彼女は誰よりも痛切に感じていた。


アリアは、石柱に背を預け、目を細めて広場を眺めていた。

「統治」とは、本来、圧倒的な武力によって成されるものだと彼女は教わってきた。

だが、今目の前で起きていることは、その真逆だ。

力を持っている者が、その力を使わないという選択。

それは、彼女の知る王道とは違うが、それ以上に強固な何かを築き上げようとしているように見えた。


ユークスが、薬草の詰まった鞄を提げて通り過ぎる。


「……抜かないか。手間の省けることだ」


皮肉めいた、しかしどこか感心したような声を低く漏らした。

騎士は、その言葉に答えない。

しばらくの沈黙の後、彼は自分自身に言い聞かせるように、ぽつりと漏らした。


「……抜けば、終わる」


一拍。


「……だから、抜かない」


それが、彼の見つけた答えだった。

剣を抜いて相手を制圧すれば、その瞬間の問題は解決するだろう。

だが、それは同時に、相手が自ら考え、自ら解決する機会を永遠に奪うことになる。

恐怖による統治は、恐怖が消えれば終わる。

今のこの街は、違う。

終わらせないために、この不器用で、遅くて、危うい自律を、終わらせないために。

彼は自分の剣を、自分自身の意志という鎖で鞘に繋ぎ止めていた。


騎士は、剣を抜かなかった。


それは、敵を恐れているからではない。

ましてや、王や上官から不殺を命じられているからでもない。

自ら考え、自ら判断し、自分の力を律すると決めたからだった。


その日。

街から、暴力の音が一つ消えた。

最強の力が、行使されないという意志によって「選ばれなかった」。


それだけで。

世界は、昨日までとは決定的に違う、穏やかで重厚な色へと塗り替えられていた。

鞘の中で眠る鋼は、抜かれたどんな刃よりも雄弁に、新しい時代の幕開けを告げていた。

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