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誰も導かなかった世界で、俺たちは答えを与えなかった 救わない勇者たちが世界を変えた理由  作者: 慈架太子


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神官が祈らなくなった日

祈りの時間だった。


それは、この街において、数少ない「絶対」の一つだった。どれほど空腹に苛まれ、どれほど明日への絶望が深くとも、朝の光が瓦礫の隙間から差し込む時、人々は、あるいは人々を導くはずの神官たちは、胸の前で手を組み、定型の言葉を口にしてきた。


それは救いというよりは、習慣という名の呪縛に近かった。そうしなければ、自分たちが人間であることさえ忘れてしまいそうだったからだ。空虚な言葉を空に向かって放り投げることで、かろうじて保たれる精神の均衡。昨日までも、ずっとそうだった。


今日も、同じ時間が訪れた。


一人の神官が、崩れかけた祭壇の前に立っている。

彼はいつものように、深く、重い儀式的な動作で手を組み、胸の高さまで引き上げた。

だが、そこで止まった。


「……」


言葉が出ない。

いつもなら、淀みなく流れていたはずの聖句が、喉の奥で冷たく固まっていた。

考えなくても、意識しなくても、勝手に唇が形作っていたはずの祈り。

それが今日は、どうしても音にならない。


神官は、困惑して周りを見た。

そこには、自分と同じように手を上げたまま、石像のように固まっている他の神官たちの姿があった。

誰も、始めていない。

誰も、沈黙を破ることができない。


一人の若き神官が、意を決したように微かに口を開いた。


「……」


しかし、漏れたのは乾いた呼気だけだった。

彼はすぐに唇を閉じ、俯いた。

沈黙が、重く、どこまでも深く続いていく。


誰も、急がなかった。

かつては、祈りを捧げなければ災厄が降りかかると恐れ、あるいは祈ることでしか現実を直視できなかった。だが今は、急ぐ理由がどこにもない。

胃の腑には、今朝食べたパンの確かな重みがある。

広場からは、争う声ではなく、土を耕す単調な音が聞こえてくる。

「祈らなければならない」という切実な恐怖が、満たされた腹によって、静かに塗り潰されていた。


やがて、一人の老神官が、静かに手を下ろした。

それだけのことだ。

何の作法も、何の宣言もなく、ただ祈ることをやめた。

その動作を、誰も咎めない。不敬だと罵る者も、神の怒りを説く者もいない。


「……祈らないのか」


信者の一人が、ぽつりと呟いた。

その問いに、すぐには返事が返らない。


「……何に」


一人の神官が、小さな、掠れた声で問い返した。

その問いに、答えられる者は一人もいなかった。

慈悲を求めていた対象は、今の平穏をもたらした「満腹」という現実の前で、その輪郭を失っていた。


神官は、ゆっくりと指を解いた。

長年、固く握り締められていた指先が、一本ずつ離れていく。

その皮膚の感覚、血が通い始める温かさを、彼はひどく鮮明に感じていた。

それを見ていた別の神官も、吸い込まれるように手を下ろしていく。

連鎖。

誰かが指示したわけではない。教義が変わったわけでもない。

ただ、空虚な言葉を並べるよりも、もっと確かな何かが、今この場所にあることを、彼らは本能で悟っていた。


祈りの言葉は、最後まで出なかった。

代わりに、一人の神官の口から、別の言葉が漏れた。


「……どうする」


沈黙。

それは、祈りよりも遥かに重く、遥かに現実的な問いだった。

神に預けていた責任を、自分たちの手元に取り戻した瞬間。

その重みに耐えかねて、彼らはしばらく立ち尽くしていた。


そのまま、老神官が一人、ゆっくりと動き出した。

祭壇に背を向け、人々が汗を流す畑の方へ、迷いのない足取りで歩いていく。

止める者はいない。

別の神官は、遠くで響く織機の音の方をじっと見つめていた。

彼は少しだけ迷うように視線を泳がせたが、やがて法衣の裾を捲り上げ、足を動かし始めた。


誰も祈っていない。

誰も、神の名を呼んでいない。

それでも、誰も空を見上げなかった。

天に救いを求める必要がなくなった時、人の目は、自然と自分たちの足元へと、そして共に生きる隣人の姿へと向けられていく。


カイは、その変化を、時計塔の影から静かに見守っていた。

何も言わない。

神という形を失った人々が、何に依存し、何によって自分たちを定義していくのか。その最初の転換点を、彼は瞳に焼き付けていた。


ミーナは、神官たちが手を下ろす様子を見て、息を止めていた。

彼女にとって、それはこの街のどんな物理的な破壊よりも、衝撃的な出来事に見えた。

同時に、その沈黙の後に訪れた彼らの足取りが、昨日までよりもずっと力強いことに、彼女は気づいていた。


マーガレットは、街の端で手を動かし続けていた。

祈りが止まったことも、彼女は気づかないふりをして、ひたすら瓦礫を運ぶ。

彼女にとっては、祈ることよりも、目の前の石を一つ動かすことこそが、唯一の贖罪だったからだ。


アリアは、石柱にもたれて静かに立っていた。

信仰という統治の道具さえもが、今のこの街では機能しなくなっている。

命令がなくても動き、祈らなくても進んでいく人間たち。

その「手に負えない自由」を、彼女は畏怖の念を持って見つめていた。


ユークスが、医療鞄を提げ、神官たちの横を通り過ぎる。


「……変わったな。形だけの神がいなくなった分、生きるのが難しくなるぞ」


皮肉とも予言ともつかない声を低く残し、彼は怪我人のもとへと消えていった。


リーヴは、風にそよぐ古い布の音を聴きながら、何も言わずにいた。

ガルドは、新しい鍬の刃先を確かめ、道具としての矜持をその手に感じていた。


時間は、緩やかに過ぎていく。

祈りの時間は、いつの間にか終わっていた。

誰かが鐘を鳴らしたわけでも、説教を終えたわけでもない。

それでも、その場にいた全員が、その時間が終わったことを理解していた。


一人の若い神官が、泥のついた道具を手に取り、ぽつりと漏らした。


「……祈らなくても、世界は動いている。俺たちが、動かしている」


誰も否定しない。

その言葉のあまりの重さに、人々は一瞬だけ視線を交わした。

別の神官が、力強く続ける。


「……じゃあ」


一拍。


「……やるか」


それだけだった。

その言葉が放たれた瞬間、祭壇の周りにいた者たちは、それぞれが自分の「仕事」へと散っていった。


神官が、祈らなくなった。


それは、信仰という心の拠り所が消えたわけではない。

ただ、見えない存在に縋る役割が終わっただけだ。


その日。

祈りは、唇から放たれる言葉ではなくなった。

土を耕す手の平に、糸を紡ぐ指先に、瓦礫を運ぶ足取りに。

具体的な、確かな「行動」へとその姿を変えた。


誰も、それを命じていない。

誰も、教義として書き記してはいない。


それでも、彼らは自分たちの手の中に宿った力を信じ始めた。

祈ることをやめた彼らの背中は、昨日よりも少しだけ逞しく、明日を掴み取ろうとする意志に満ちていた。

神の沈黙の中で、人間の鼓動が、かつてないほど大きく街に響き渡っていた。



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