ナオミ・ブレッツ
6月下旬の月曜日。
第一貿易部に来客があった。
美濃坂部長が外国人の女性を連れて来た。
黒の光沢のあるスーツに真っ白なシャツ。
スーツは麻のシルク混、シャツは多分総シルクだろう。
シャツのボタンはよく見ると真珠だった。
「ナオミ・ブレッツさんだ。この度ロックハート貿易の日本担当になられた方だ。ロックハート貿易とはうちも親しく交流しているのでみんな知っていると思う。今日はわざわざご挨拶と日本市場の視察のためにいらっしゃった」
「ナオミ・ブレッツです。お忙しい中にお邪魔しますが、どうぞよろしくお願いします」
「ああ、聞いての通りブレッツさんは日本語が堪能だ。ご本人もここでは日本語で会話したいと望んでおられる」
みんなが拍手する。
流ちょうな日本語で、ブレッツさんは頭を下げて挨拶した。
日本語も、日本の文化もよく知っていらっしゃるようだった。
それよりも俺は驚いた。
先日伊勢丹で会った、あの女性じゃないかぁ!
ブレッツさんが俺に気付いて近寄って来た。
驚いていながら笑顔を浮かべていた。
美濃坂部長が戸惑っている。
「先日デパートでお会いしましたね」
「はい、ソウザ・カグラザカです。まさかこんなところでお会いできるとは思いませんでした」
「あの時は本当にすみませんでした」
「こ、こちらこそ! 連れの女性がとんでもないことを!」
「いいえ、私が悪いのです。どうもあの方を怒らせてしまったようですね」
「とんでもない!」
俺たちが言い合っているので、驚いた美濃坂部長が聞いて来た。
「おい、神楽坂。まさかブレッツさんをご存知なのか?」
「はい、先週偶然に新宿で。連れが失礼な態度を取ってしまって」
それを聞いた美濃坂部長が慌てた。
「そうなのか! ブレッツさん、何か部下がとんでもないことを!」
「いいえ違います。私が本当に無礼だったのです。私は少し武道の心得があり、カグラザカさんの恋人の方がお強そうだったので、つい悪戯心で刺激してしまいました」
「そうなのですか?」
「はい。ですから本当に失礼だったのは私の方です」
「それは、でも申し訳ない」
「カグラザカさんが取り成して下さって。お陰で助かりました」
「そんな、お詫びもせずに立ち去ってすみませんでした」
他の先輩方も驚いて俺たちを見ている。
俺もちょっとしたことで顔を知っていただけだし、しかも大変に失礼なことをしていた立場に過ぎない。
だがブレッツさんは気さくに俺に話し掛けてくれ、むしろ再会できたことを喜んでいる様子すらあった。
我々への顔合わせが終わり、ブレッツさんは美濃坂部長が連れて出て行った。
先輩方にいろいろ聞かれ、困ってしまった。
「またお前、ブレッツ女史を知ってたのかよ、驚いたぜ!」
「いえ、本当に偶然ですよ」
「運も実力の内だからな。神楽坂はやっぱりスゴイよ」
「そんなことないですよ! 本当に偶然ですって!」
先輩たちは「ロックハート貿易」について、新人で何も知らない俺に教えてくれた。
「ロックハート貿易」は巨大コングロマリットのロックハート・グループの一角であり、世界中で様々なものの調達・売買をしている。
ロックハート・グループは銀行業と軍事産業を中心に、不動産業、建設業、自動車や電化製品などの製造業、流通業、鉱業、化学工業、貿易業などの他に教育関連や慈善事業まで幅広く活動している。
貿易業はもちろん「ロックハート貿易」が中心であり、アフリカからのダイヤモンドや鉱物資源の採掘から石油や天然ガス、ウランなどのエネルギー資源も取り扱っている。
もちろん食糧や工業製品の流通も担っており、以前から頭角を顕わして来た和田商事とは友好的な関係を続けて来た。
和田商事よりも規模も歴史も上だが、先輩たちの果敢に市場へ挑んで来る様子に一目置かれたようだ。
和田商事は日本のトップの商事会社の築いたパイプの他に新たな市場を開発して来たのだ。
研修の時にもその一部の功績を教わったが、本当に誇り高い人たちの業績だった。
世界最大の商事会社である「ロックハート貿易」も認め、協調的な関係を築いて来たのだ。
だからその「ロックハート貿易」の人間が本社に来るというのは、それほど不思議なことではない。
これまでも何度もあり、和田商事の人間が「ロックハート貿易」に赴いたことも多々ある。
もちろん競合する関係ではあり市場がかち合ったこともあるが、険悪な関係になったことは無いそうだ。
しばらく後で俺は榊常務に呼ばれた。
榊部長の秘書として冴姫も一緒にいる。
「神楽坂君、君はナオミ・ブレッツ氏と面識があったようだね」
「はい、偶然に伊勢丹の食料品売り場で」
「冴姫から聞いた。それでブレッツ氏は君に東京の視察の案内をして欲しいそうなんだ」
「え、私にですか!」
「そうだ、我々も驚いているが、どうしても君がいいと言っている。君はまだ経験が浅いし我々としても別な人間を考えていたのだが、どうにも強硬でね」
「そんな、私なんて無理ですよ」
「私も反対です。あの女には危険な雰囲気があります」
冴姫も横から口を出した。
俺に関することでは冴姫は一切の遠慮が無い。
「待ってくれ。危険というのは本当かね?」
「はい、あの女は並大抵ではない戦闘の専門家です。動きで分かります。それに私の殺気にも反応しなかった。普通の人間であれば脅えるか構えるかするはずです。あいつからは一切の反応が無かった。攻撃を無効化する術を持っているからです」
榊常務が考え込んでから言った。
「冴姫が言うのならば確かなのだろうな。分かった、神楽坂君には近づけないようにしよう」
俺が言った。
「待って下さい。冴姫、ブレッツさんはココロちゃんが言っていた人なんじゃないか?」
「なに!」
冴姫が驚いた。
そうは考えていなかったのか。
「宗ちゃん、あなたはそう思うの!」
「ああ、何となくだけど。何かとんでもなく凄い人だと感じたよ。何となく冴姫に似てる」
「あたしに……」
「うん。何ていうのかな、体内に嵐がある人だ」
「……」
冴姫が考え込んでしまった。
「宗ちゃん、ブレッツが近づいたのは宗ちゃんのことを知っているからだと思う?」
「いや、それは無いと思うよ。伊勢丹でのことは本当に偶然だと思う。でも、あそこで出会ったのは偶然でも必然だ」
「どういうこと?」
「運命が魅かれ合ったんだよ」
「!」
俺は思っていたことを口にした。
ココロちゃんが言っていた「スターズ」の人間ではないかと思った。
《聖女》と呼ばれる人らしいが。
もちろん伊勢丹ではそこまで思わなかったが、今日ここで再会したことは意味がある。
全くの俺の勘に過ぎないことだが、どうしても口にしておきたかった。
「宗ちゃんはそう感じるのね?」
「うん、でも俺のただの勘だから信用しなくてもいいよ」
「そうは行かない。これは周一郎さんにも話さなければならない」
「そう?」
榊常務は一切の口を挟まなかった。
自分の領域を出たことを優れた頭脳で判断したのだろう。
冴姫はそのまま兄貴の所へ行った。




