《特異点》の深淵
冴姫と周一郎兄貴が明らかに焦っていた。
俺は単にワガママを言った程度のことだと自分では思っていたのだ。
理屈は分かってはいるけど、仁桜姉のために反対せざるを得なかっただけだ。
俺が周一郎兄貴に何を言おうと、兄貴が気に掛けるとも思っていなかった。
兄貴は俺なんかと違って国の中枢におり、また《トリポッド》でも重要な役割を持っていると思った。
それに昔から兄貴の意志の硬さはよく知っているので、俺なんかの言葉が兄貴を左右するはずもない。
その兄貴が俺の反攻を無下にしないばかりか、焦っている。
自分でも少々これまでになく興奮している自覚はあったが、俺なんかの言葉に対する反応にしては過剰すぎる。
「宗三、分かった! 仁桜へ生体チップは使わない、約束する!」
突然の周一郎兄貴の言葉に、最初は俺の理解が追いつかなかった。
「え? あ、ああ、頼むよ……えーと、そうなの?」
どうして兄貴は前言を翻した?
俺のワガママが何故通じたのだ?
あまりにも簡単に片付いてしまったので、俺の方が驚いた。
冴姫が口を開いた。
「周一郎さん、ヤバかったですね」
「ああ。宗三が本気になっていたな」
本当にどうしたんだ?
「宗ちゃん、落ち着いてね。仁桜さんに悪いことはもう決して起きない。もう大丈夫だから」
「ああ、それは良かったけど、どうしたの?」
「宗三、お前が本気で願うことは特別なのだ」
「え?」
「お前はまだ自分の力を知らない。まあ、私たちもそれは同様なのだが、我々が考えていることは、お前が途轍もない運命の回転を生み出すということなのだ」
「なんだよ、どういうこと?」
周一郎兄貴が深呼吸をした。
どうやら俺を宥めるための言葉を選んでいるようだった。
自分が多少取り乱した自覚はあるが、そんなに気を遣わせるようなことだったか?
「いいか宗三、よく聞いてくれ。お前は昔から本当に優しい人間だった。本当に幼い子供の頃からそうだった」
「いや、そんな」
冴姫が大きくうなずいている。
いや、お前とはついこないだ会ったばかりだろう。
「でもそんなお前が一度怒りを爆発させるととんでもないことが起きる」
「え?」
「お前は覚えていないだろうがな。何度も無いのだが……とにかく落ち着け」
「どういうこと?」
なんか恐ろしい感じがする。
確かに俺は他人に怒りをぶつけることは無かったと思うが。
優しいというより、自分では大人しいのんびりな、むしろ争いを好まない気弱な人間なのだと考えていた。
「恐らく、今の場合は仁桜や我々にとってとんでもないことが起きた可能性が高い」
「おい、なんだよそれ!」
「分からない。でも生体チップが仁桜に多大な予想外の影響を及ぼし、もしかしたらとんでもない災厄を起こした可能性もある」
「だからどうしてぇー!」
全然分からん!
「仁桜はお前も多少は知っているように、途轍もなく強い。その戦闘力が解放されれば人類の存続にすら関わる災厄ともなり得る」
「まさか! 冴姫だって強いんだろう! 他の《能力者》だっているんだし! それに姉貴は優しい人だぞ!」
「それはその通りだが、それにしても仁桜は決して軽くは考えられない程に強大だ。止める前に多大な犠牲者と膨大な破壊が起きる。それが起きる可能性が先ほど生まれたのだ。何よりも重大なことは、お前が言ったことなのだ。それは我々の想像を超えた途轍もない事態に発展する」
「なんだよ、俺のせいなのかよ!」
「その通りだ」
「おい!」
バカなことを!
俺はただの大人しい気の弱い人間だぞ!
「今はまだ詳しくは話せない」
「またそれかよ!」
冴姫が俺の背中を抱いた。
冴姫の大きな胸が背中で圧し潰される。
その時、ようやく自分自身で荒れ狂うものが渦巻いていたことを自覚した。
俺には到底似合わない激情だ。
そんな経験が無かったので、自分でも気付かなかったのだ。
その激情が冴姫が抱き締めてくれたお陰で鎮まって行くのを感じた。
「宗ちゃん、分かって。宗ちゃんが乱れると本当に不味いの」
「冴姫、俺は……」
「宗ちゃんが自覚したらどうなるのかも分からない。だからお願い、いつもの優しい宗ちゃんでいて」
「あ、ああ……」
冴姫の温もりが俺の心を急速に落ち着かせて来た。
不思議な感覚だが、今のことで冴姫の存在は俺の中で本当に大きなものとなっていたことを感じた。
冴姫を心から愛おしく思う。
周一郎兄貴がハンカチを出して額の汗を拭っていた。
そんな兄貴も初めて見た。
「良かった、宗三。本当に済まないが、今はまだ話せないのだ。ただ、お前が《特異点》として特別な存在であることだけは分かってくれ。お前の言動は周囲に多大な影響を与える」
「俺は感情を乱してはいけないってことか?」
「そうではないと言っておこう。人間として感情は誰にでもある。だがある種の事柄に対してお前の影響力が向くと、とんでもないことになるかもしれない」
「宗ちゃん、感情は止められない。だから宗ちゃんに無理は言わないよ。宗ちゃんは自由にしてていい。私が傍にいて、宗ちゃんを支えるから」
「冴姫……」
納得は出来ないが、理解は出来た気がする。
人間として感情を抑えることは無理だ。
だけど、これからは精一杯に考えるようにしようと思った。
周一郎兄貴は仁桜姉貴を許可なく俺に近付けないこととした。
俺には、万一姉貴が俺に接近した場合に俺が罰則を与えることにしろと言われた。
よくは分からないがそれで姉貴が酷いことにならないのならばと承諾した。
その「罰則」については、その時に兄貴が決めて俺が告げるということになっている。
俺がもしも納得しなければ話し合おうとも。
後に姉貴とも会い、姉貴も承諾し、俺に何度も感謝していた。
「宗三、感謝する。本当にありがとう。あたしは絶対に忘れない」
「何言ってんだよ。俺は姉貴にこれまで散々可愛がってもらって来たじゃないか。こんなの当然だよ」
「いや、宗三、お前のお陰だ。これからもお前のために生きて行くからな。絶対にお前を守る」
あの仁桜姉貴がまた泣いていた。
「ああ、宜しく頼むぜ。俺も姉貴のことが大好きなんだ。それに時々は顔を見せてくれよ、忙しいだろうけどさ」
「本当か、宗三! お前に会いに来てもいいのかぁ!」
「当然だろう。俺はいつでも姉貴に会いたいよ」
「宗三ぁ!」
姉貴に抱き締められた。
強かったが優しい抱き方だった。
背の高い姉貴の涙が俺の頭に降った。
俺も姉貴を抱き締めた。
俺は自分が《特異点》として、本当に特殊な人間であることを少し自覚した。
姉貴は俺が自分と二度と関係を持てなくなることを恐れた。
だから自分がどんな罰を受けようとも甘んじて受けるつもりだったのだ。
脳にチップを埋め込まれることですら納得していた。
そして周一郎兄貴は俺がそれを「許さない」と言ったことを恐れた。
俺が許さないことで、何かとんでもない大問題が発生する可能性を恐れたのだ。
もちろん俺は兄貴に対しても何か酷いことをするつもりなどは無い。
兄貴だって大事な兄弟だと思ってる。
ただ、俺が自覚しても思ってもいない所で、非常に不味いことが起きると感じたのだ。
周一郎兄貴は本当に優秀で、俺などには想像もつかないことを理解している。
だから俺には兄貴の恐怖が分からない。
でも、あの兄貴が相当恐れていたことは忘れないようにしようと思う。
《特異点》というのは、どうやらとんでもない派生をするということだ。
取り敢えず仁桜姉貴の問題は納まったようだ。
《仁王会》は存続し、これまで通りに姉貴が運営して行く。
ただ、幾許かは周一郎兄貴が関わってコントロールしては行くのだろうが。
姉貴とも周一郎兄貴とも今度も良い兄弟としての関係を続けたい。
何しろ俺は二人のことが大好きなのだ。
そして冴姫のことも。
冴姫が俺の中でどんどんと大きな存在になり、俺の深い所に入って来るのを感じている。
俺はこれからもずっと冴姫と一緒にいるのだ。
その喜びに震える自分を感じた。




