仁桜
出勤のためマンションを出ると、離れた場所から呼ばれた。
女性の声だ。
「宗三!」
姿は見えなかったが、その声は随分と遠くからだということは分かった。
冴姫がすぐに周囲を警戒する。
「宗三!」
二度目に呼ばれ、その時、俺は聞き覚えのある声だと気付いた。
それを思い出した瞬間、突然誰かに後ろから抱き上げられる。
冴姫が反応しなかったので驚いた。
誰であっても、俺に対してそんなことを冴姫がさせるわけがない。
俺が慌てて抵抗しようとすると、顔中にキスをされた。
冴姫が呆れた声で言う。
「仁桜さん、おふざけが過ぎますよ」
「冴姫じゃん、やっぱお前が本当に宗三のガードに就いてるんだな?」
「ええ、そうです」
真っ赤なジーンズに大き目のカラフルなペイズリー柄のシルクのブラウス、その上に赤の薄手の革ジャンを着ている。
そして物騒なことに腰に日本刀を提げていた。
俺は抱きかかえられながら言った。
「仁桜姉!」
「よう、宗三、久し振り!」
俺の姉貴だった。
周一郎兄貴、仁桜姉貴、そして俺だ。
三人兄弟の末っ子が俺だった。
仁桜姉は剣術の達人で、今は傭兵会社を設立して世界中の戦場を駆け巡っている。
しかも仁桜姉貴は銃火器を使わずに、日本刀で戦うのだと聞いている。
俺もよくは知らないが、軍関係の業界では相当恐れられている存在だそうだ。
まあ、聞いたのは本人からなので実際は知らないのだが。
でも以前に見せてもらった姉貴の剣技は、50メートル離れたトラックを両断していた。
どういう理屈かさっぱり分からん。
「冴姫、しっかり宗三を守れよ!」
「すいません。仁桜さんだと分かってましたので」
「誤魔化すんじゃねぇ! 万一敵だったらどうすんだよ!」
「絶対に宗三は守ります」
「ふん! 口だけなら何とでも言えるぜ!」
姉貴が冴姫と知り合いなのは知らなかったが、姉貴も裏稼業と言ってもいい仕事だ。
何らかの接点があったのだろう。
周一郎兄も二人の共通点だし。
姉貴は俺の身体を地面に降ろして、改めて抱き着いて来た。
身長2メートル10センチの巨漢で、筋肉の発達が凄まじい。
体重は聞いたことが無いが、優に100キロを超えているだろう。
仁桜姉の大きな胸の中に顔が埋まり、太い両手で背中や顔を撫でられまくる。
そしてまた顔中にキスをされ、唇から舌を入れられる。
俺のファーストキスは、とっくに仁桜姉に奪われている。
「ちょ、ちょっと姉貴、勘弁してくれぇ!」
「なんだよ、恥ずかしがるなよ! 兄弟じゃねぇか!」
「だから不味いんだろうがぁ!」
まあ、ひ弱な俺に抵抗出来るわけもなく、いつも姉貴のされるがままだった。
数分も姉貴にいいようにされ、ようやく話が出来た。
「姉貴、日本に戻ってたんだ」
「ああ、周一郎兄から聞いてな。やっぱり宗三がとんでもないことになったんだな」
「うん、そうらしいよ」
《特異点》という単語は使われなかった。
当然姉貴も分かっているのだろう。
「だからあたしが来た。それに先週は「関東旧車會」とモメたんだろ?」
あれは世間には出回っていない事件だ。
中野坂上の激しい戦闘も、単にテロ組織が事件を起こしたということになっている。
テロ組織については現在調査中だと。
公表ではもう全員が捕まり、もう安全だと言われている。
でも姉貴は正確な情報を掴んでいるようだ。
「よく知ってるな。でも大丈夫だよ。冴姫たちが万事片付けてくれた」
「他にもあったら言えよ。速攻でぶっ潰してやる」
「いや、別にねぇから!」
姉貴は冴姫に向いて言った。
「おめぇ、宗三を危険な目に遭わせたんだってな?」
そんなことまで知っているのか。
「申し訳ありません」
「違うよ! ちゃんと冴姫の仲間が助けに来てくれたって! ココロちゃんに俺は助けられたんだよ!」
「こころ? ああ、あの気味の悪い不死身の化け物か。まあ、あいつが幾ら死んでも問題ねぇけどな。でも宗三を守れなければ意味はねぇ」
「おい、仁桜姉貴! ココロちゃんは命懸けで俺を守ってくれたんだぞ!」
「ふん、まあいい。あたしはお前が無事ならそれでいいからな。冴姫がトロいことやってるから、あたしがお前を連れて行くぜ!」
「待てよ、姉貴!」
出社の時間が迫っている。
「とにかく俺は大丈夫だから。姉貴はいつまで日本にいられるの?」
「まあ1週間だな。ちょっと用事を片付けてその後は宗三、あたしと一緒に来い」
「えぇ!」
「あたしがこれからずっとお前を守ってやる。絶対だ、安心しろ」
「おい!」
慌てて俺は冴姫を見た。
冴姫は平然としている。
てっきり冴姫が爆発するかと心配したが。
「姉貴、俺は冴姫と一緒にいるんだよ。何言ってんだ」
「こんなわけの分からん奴に大事なお前を任せられねぇよ」
「何言ってんだ。この件は周一郎兄貴からも言われてるんだぞ!」
「周兄はあたしが説得する。うちの《仁王会》に来れば誰も手が出せねぇよ」
「無茶苦茶だぜ!」
姉貴は笑っている。
この人は昔から決めたら動かない。
そして堅い意志もあるが、実行力も十二分にある人だ。
「仁桜さん、勝手は困りますよ」
「あ? お前、口出すんじゃねぇよ」
姉貴が恐ろしい顔をして冴姫に言った。
物凄い威圧で、向けられていない俺まで身体が強張る。
「宗三のことに関しちゃ黙ってられません。私が宗三を守るって決めてるんで」
「お前何言ってんだ? おい、誰にもの言ってんだよ!」
姉貴の雰囲気が変わった。
瞬間に刀が抜かれ、俺が気付いた時には冴姫の首に刃先が伸びていた。
何故かちょっと鼓膜が痛んで耳を押さえた。
ガシャンカシャン
日本刀が粉砕して破片が地面に落ちた。
「仁桜さん、じゃあ、これから会社に行くんで失礼します」
「……」
冴姫が何もなかったかのような顔で、俺の手を引いて歩き出した。
姉貴を振り返ると右手を押さえて黙って立っていた。
そのまま冴姫に連れられ離れて行く。
「おい、大丈夫なのか!」
「うん、手加減はしたよ。宗ちゃんのお姉さんだからね」
「そうじゃねぇよ、冴姫のことだ!」
「え? あ、ああ、私は大丈夫。超震動で対処したからね。仁桜さんの剣技はあんなものじゃないけど、あの人も手加減してくれたんだよ」
「姉貴の剣技は化け物じみてるからな。気を付けてくれ」
「うん、ありがと!」
姉貴は追っては来なかった。




