粉砕
それからたった二度目の冬が着た時、ピエロは公園のステージで芸を披露していた。すでに団員は二十名を上回っており、今日が初めてのステージでの公演である。三カ月に一度の縁日の目玉として市長が出演を依頼してきたのだ。
「続いてお披露目いたしますのはカラスのベティとその主、ガティウスとの芸当でございます。ガティウスの投げる三つの輪っかのすべてを、ベティが上手く空中でくぐってからキャッチすることができた時には、みなさまどうか大きな拍手を!」
それから数秒後には拍手喝采が起き、その裏方でピエロは服を着替えていた。もうすでにピエロの出番は終わっていたので、次にステージに立つのは締めの挨拶の時だ。そしてそこで市長とあいさつを交わし、本日は閉会となる。
筋書き通りに事は進み、市長との握手を交わすと、観客総立ちで拍手が送られた。フラッシュがたかれ、翌日の新聞には堂々とピエロ達の写真が載せられた。“斬新な団員、市長市民も大満足”
その日からピエロ達は一気に軌道に乗った。様々な団体から出演をせがまれ、毎日のように新聞の何面かを飾るのだ。
“サーカスの新星、国内最大の公園で公演”、“カラスの芸当に観客総立ち”、“手品か魔法か、冬の公園に桜を咲かす”、“団員の揃ったダンス、あの世界的ダンサーも認める”
街にはいたるところにポスターが貼られ、テレビのコマーシャルも流れるようになった。あのサーカス団と張り合うことになるだろうとは、誰もが噂していた。
シャンパンの栓が飛びかい、ピエロと青年は団員達と大はしゃぎしていた。ここ数週間で団員はさらに十名ほど増えた。誰もが隠れていても素晴らしい才能を持っていた。
「乗った!波に乗ったぞ!あとはあの団体と張り合うだけだ!そして、あの団体より優れたことを世間が認めた時」
ピエロはシャンパンを一気に飲み干し、空のグラスを突き上げた。
「あの路地で最高のショーを披露するんだ!」
青年はまだそのことを目標の一つにしていたのかと思ったが、頷きながらピエロのグラスにシャンパンを注ぎ足して言った。
「そんなの時間の問題だ」
二人は笑いあいながら酒を飲み、夜が更けるまで団員たちと踊りはしゃいだ。三日後にはまた公演が行われる。波に乗ったとはいえ、まだ全ての道具をそろえて移動させられるわけではないので、ピエロ達は最低限の道具を持って照明や幕、音響はそこの設備で賄っていた。
そしてその日はついに来た。千客万来、期待と興奮の空気で張り詰めた空気を弾けさせたのは青年だった。洒落た紹介や気の利いた挨拶など、ピエロのサーカスにはなかった。ただ一言、青年のこの言葉で幕は上がる。
「ご覧あれ」
その声音とともに照明が勢いよくつけられた。宙から降りてくるのは編隊を組む数羽の鳥たちと踊り子。陽気な音楽を奏でながら一輪車の団体が躍り出る。ステージでも空中でも、迫力満点の芸当が人間と動物たちとで披露される。観客は一人残らずそのひとつひとつに奇跡を垣間見るのだった。美しく、壮大なショーだと誰もが言うだろう。そしていよいよピエロの出番がやって来た。今まで出演していた団員たちが全員舞台裏に下がり、真っ暗な会場の中でピエロが登場する。静かな微笑みを浮かべたピエロは、暗闇の中で一礼をした。顔を上げると同時に、ピエロに一筋のスポットライトが当てられるはずだった。ピエロが舞台に上がると同時にスポットライトの位置を調整し始めた青年の耳に嫌な音がした。ただ、何かが弾ける音だという事はわかったが、暗闇を徹底した今は少しの明かりを使うことも許されないので青年は手探りでその原因を探した。それでも慌てて音のもとを探そうとする青年のうっかり起こした風で、暗幕がふわりと揺れてほんの僅かに月明かりが差し込んだ時、青年はぞっとした。目の前のワイヤーが、老朽化のせいか、ほとんど、切れていたのだ。それはピエロを照らすのとは別のバックライトを固定しているワイヤーだったが、その先を素早く目で追った青年は青ざめた。スポットライトのさらに上、つまりはどちらにせよピエロの真上に設置されていたのだ。青年はすぐさまそのワイヤーを掴もうとしたが、触れると同時にはち切れた。青年はあらん限りの声で舞台に向かって叫んだが、バックライトとその重さに負けたスポットライトが共に落ちる音と、観客の悲鳴にかき消されてしまった。
ピエロが目を覚ますとそこは見慣れぬ天井で、鼻をつくアルコールの匂いがした。そして自分が清潔なシーツの上にいると気づいて、ここが病院だと理解した。そしてベッドから起き上がろうとすると全身に激痛が走り、思わずうめいてしまった。痛む体をさすろうと腕を伸ばし、左側に違和感を覚えた。首筋の痛みに耐えながら左肩を見ると、そこから下が、無かった。
発狂するピエロの声を聞きつけた看護婦たちが慌てて病室に入り、ピエロをなだめ、落ち着かせようとした。しかしピエロがあまりにも暴れ続け、しまいには治りかけた傷が開いて再出血を始めたので、看護婦たちもいよいよ鎮静剤をうとうとしたが、その瞬間に再び扉が開いた。その途端、ピエロはぴたりと動きを止めた。いつの間にか看護婦たちは消えていた。扉から入って来た男はピエロに近寄ったが、ピエロはただ体を震わせていた。
「君はいったい今どこにいるんだ」
そういいながら男が立ち止まると、ピエロは口をパクパクさせながらそれでもやっとの思いで男に言った。
「それはあなたが教えてくれていました」
すると男は鼻を鳴らして俯いた。あの時と同じように口元だけがにやりと笑う。
「君は私を何だと思っているんだね」
ピエロは涙をこらえながら思わず懇願していた。
「お願いです。どうか僕のこの腕を元通りにしてください。そうでないと、僕は・・・」
すると男の向こうからノックの音がした。その途端に今度は男が消え、再び看護婦たちが何事もなかったかのように元の場所に現れた。ピエロは幻でも見たのかと思ったが、ドアが開いて青年が入ってくるのと同時に男の声がした。
私は魔法使いでも手品師でもピエロでもない。
ピエロがはっとして顔を上げると、そこには見舞いの花束と果物をもった青年が申し訳なさそうに立っていた。
そして彼はうまくピエロと目を合わせることもできずに、手に持ったままの見舞いの品を見つめながら言った。
「すまなかった」
その途端にピエロはどうしようもない感情に襲われた。目の前のこの男を必死になって守りたいような、殺意さえわくような、怒りも悲しみも同情も混ざり合った何とも言えない感情を、とっさにピエロは一緒くたに憎しみだとくくってしまった。しかし、観客やライトの落ちる音でかき消された彼の叫び声を、ほんの少しだけ早く、ピエロは聞いていた。ピエロが振り返る前に向けた眼だけに、はち切れてうねるワイヤーのすぐそばで、こちらに手を伸ばす青年の姿が映った。もう少しで怒鳴り散らしそうだったところを、ピエロはすんでのところで止め、青年と同じように俯いた。青年は唇をかみしめた。ピエロは軽くため息をつき、少しだけほほを緩めて顔を上げた。
「もういいんだ。わざわざ見舞いに来てくれてありがとう。持ってきてくれたそのリンゴでも食べよう」
青年は小刻みに何度もうなずき、バスケットから赤いリンゴを出して二つに割った。ピエロはその様子を見て、泣きそうになるのを必死にこらえて割れたリンゴをもらった。皮は酸っぱく、実は甘かった。青年はリンゴを食べると、いつの間にか出て行った看護婦が再び様子を見に来るのと同時に病室から去った。青年はもう、何も言わなかった。その後ピエロは少しだけ穏やかな気持ちになってその日を過ごし、眠りについた。
そして翌朝、おもむろに付けたラジオのニュースで、青年の死を知った。自ら川へ身を投げたのだった。彼の名前が耳に届いたとき、ピエロの心臓に黒々とした氷水が流れ込んだ。それは脈打つたびにピエロの体をめぐり、満たしていくのだった。青年が死んだ。自分のせいだというのか。いや、それ以外に何があるというのか。あの灰色の路地でドラム缶に座り、自分の事を待っていた彼が、今、死んでしまった。この世からいなくなってしまったのだ。ピエロの頬を熱い涙が音もなく伝った。それは止めようもないもので、再び、流れていることにはしばらく気が付かない類だった。青年を失い、ピエロは、路頭に迷った。




