彼の旅立ち
ピエロと青年が作り上げた、かの有名なサーカス団の名を知らない者はいなかった。けれどそれは数年前の話だ。人々の記憶は風化され、その名も芸当も、存在すらも思い出す者はいなくなった。
ピエロは今夜も泣いていた。
夜も更けたというのに、灯りの一つ点いていない部屋は何があるのか、部屋があるのかさえ分からないほどだった。軋む廊下で足を止め、さび付いた扉の、それもそのちょうどその前で耳をひそめなければ、ピエロのすすり泣く声は誰にも聞こえない。もっとも、そのすすり泣きを耳にしても、扉を開ける者などはこの世に誰一人としていなかった。ピエロは孤独なのだ。埃まみれのベッドにはノミやダニがわき、毎晩の涙がシーツに汚らしくシミをつけていた。床には手つかずのリンゴや、わずかな食べ物がぽつりぽつりと転がり、倒れたコップから流れ出た水は、うける光もなく静かに床に染み込んでいった。ピエロはそれらになりたいと何度思ったことか。同時に、どうしてもそれができないことを恨めしく思っていた。そして左腕のない肩をさすりながら、過去における自らの過ちを悔やみ、嘆いた。青年とピエロが、もしずっと前に小さな喧嘩を何回かしていたら。もし今まで数日間だけでもお互いに思い違いをしていたら。そしてそれらをともに整理し、理解し合えていたら。失ったのは、左腕ひとつで済んでいたのかもしれない。
「望まぬ場所に望むものはある」
ピエロは、あの男の言った本当の意味を理解した。なのに自分は男の言葉を鵜呑みにし、数年後、青年を失ったのだ。青年はピエロが自分を恨んでいると、憎んでいると思っていた。実際そうかもしれなかった。けれどもそれは、一生のうちで一番深く、色あせないものであっても、一生脈打ち続けるものではなかった。青年は知らなかった。けれどもそれは、ピエロ自身も同じだった。青年はサーカスの名誉を失い、親友の未来を崩し、その絶望と失望から自らの命を絶った。ピエロは思った。きっと、彼の飛び込んだ真冬のあの川の水はさぞかし冷たく、暗かったことだろう。目を閉じて、それを悼んでいたというのに。皮肉にも、窓から欲しくもない金色の朝日が今日も差し込む。
ピエロはのろのろと体を起こした。今日は彼が死んでからちょうど二年目だ。彼に墓はない。ピエロは上着も着ずに秋風の吹く街へ出た。そして青年が飛び込んだという小川に花を飾った。一瞬、目を閉じて力なく飛び込んできた青年が見えて、ピエロは怯えた。最後にふと瞼をあげた彼と、目が合った気がしたのだ。逃げるようにして立ち上がると、ピエロは再び街に戻ってきた。そして、のろのろと賑やかな通りを進んだ。途中、道端に落ちていた新聞にオーナーの急死をうすっぺらに、仰々しく追悼する記事があったが、ピエロは気がつかなかった。その記事は実際、ピエロの目には止まっていた。しかし、鏡に自分が映るのが当たり前のようで、彼は気がつけなかったのだ。ピエロの足は勝手に動き、やがて、その賑やかさもいつの間にかなくなっていた。懐かしい匂い、懐かしい風景。ピエロは灰色の路地に来ていた。そして、あのドラム缶の前にしゃがんだ。目をつむってあの頃に思いを馳せていると、ピエロがずっと聞いていなかった音色が蘇ってきた。しかし、それは脳裏ではなくピエロの鼓膜に響くのだった。その瞬間、あの前輪だけが大きな自転車が、ピエロの後ろを一瞬で軽快に横切った。けれどピエロは振り向かなかった。それから小さく息を吐くと、残った右手で真っ赤な薔薇を出し、錆びた青いドラム缶に添えた。そして、ゆっくりと立ち上がり、歩き出した。背後から子どもたちの歓声と陽気な音楽が、微かに聞こえた。
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