兄と影
ナルサスから逃れるため、ボクは悪あがきをしてみた。
「あー、ボクもニーナの所に……」
「兄さん、久し振りに会った弟から、そう急いで逃げなくても良いんじゃない?何か逃げなきゃいけないことでもしたのかな?」
天使の微笑みに悪魔の眼光。ナルサスはわざとらしい笑みを張り付けて、ボクを見上げた。首の角度がおかしなことになっているが、そこは重要ではない。
「さっきは凄ーく楽しそうだったね、兄さん。ナタリアは僕にはおねだりしてくれないのに」
「お前が年下だから、気を遣ってるんだろ」
「ナタリアに心配されてたよね、兄さん」
「ナタリアが心配してたのは縫いぐるみだったよな?」
「ナタリアに押し倒されて嬉しそうだったね、兄さん」
「いやあれは押し倒されたんじゃなくて薙ぎ倒されただけで」
久々に漂う死の匂いに、ボクは必死になって弁明した。つい最近までこれが日常だったのに、喉元過ぎればとはよく言ったものだ。
「僕、最近王家の影と仲良くなったんだ。良い実験動物がいないか探してるんだって」
「ここで何故その話題?てか王家の影って仲良くなれるもんなのか?」
「うん。恥ずかしがり屋さんでさ、よく物陰から僕のこと見てたんだ。思い切って声掛けたら、直ぐ仲良くなれたよ」
内気な子に木陰からこっそり覗き見られてたみたいな言い方してるけどな、それはお前を監視してたんだよ!仕事だよ、分かってて声掛けたんだよな!?仲良く、に不穏な気配しか感じないんだけど!
「で、僕に協力してくれることになったから、紹介しとくね」
「暗部所属のアンです。はじめまして?」
うおっ、知らぬ間にまた背後を取られてた。はじめましてが疑問形なのは何でだ。
「一方的にニコラス様を知っていますので、初対面の気がしなくて」
「そうですか。暗部では読心術も教えてるんですかね」
「いえ、ニコラス様が顔に出やすいだけです。ナルサス様のお心は、全く読めませんでした」
「僕の心はナタリアに全て捧げてるからね。じゃ、顔合わせも済んだし僕は行くね。ナタリアが待ってるだろうし」
ナルサスの姿が見えなくなると、夏の暑さが戻ってきた。背中が汗だくだ。チョーカーウサギの縫いぐるみを抱え直し、ボクは、さて如何したものかと考える。
暗部の人と二人きりにされても。これ解散で良いのか?
ボクが困っているのを察したのだろう、アンさんが助け船を出してくれた。
「出来ましたらニーナ様にもご紹介ください。私はナルサス様の不在時には、ナタリア様を護衛いたしますので」
「それ、国王陛下からの御指示ですか?」
「いえ、ナルサス様の御指示です」
「……良いんですか、それで?」
「正直に申しまして、ナルサス様が本気で隠蔽されたことは私共では察知出来ません」
アンさんがボクの腕の中のウサギを一瞥する。ああ、叫びウサギの件は事前に察知出来なかったんだな。ボクも当日の朝知らされたからな。
「ですので、無駄な事に手間や時間を費やすよりも、ナルサス様に協力する見返りに、ご自身の情報を頂くことになりました。私共の上司や国王陛下もそれで良いと」
ナルサスは着々と国の中枢部を掌握しているようだ。我が弟ながら末恐ろしく、若干顔が引き攣る。
「ナルサス様は間違い無く、人間なのでしょうか」
「ええ、弟は間違い無く人間ですよ。残念ながら」
天使でも悪魔でもない事は、とっくの昔に確認されている。ナルサスは身体的にはただの人間だ。これが天使や悪魔ならば、まだ諦めがつくものを。
魔力が桁違いに多いだけなら、ナルサスは国に飼い殺しにされていただろう。頭脳が優秀過ぎるだけなら、神童と持て囃されて国に取り込まれただろう。だが両方備えているナルサスは、自分の価値と危険性を小出しにしながら周囲を操っている。そんな綱渡りの人生が、平穏無事で済むとは思えない。
天使や悪魔なら、他の人間に害される心配も無いんだが。
「ところで、アンさんの同僚の方にも、出来ればご挨拶したいのですが」
「不要です。こちらには私一人で配属されましたので」
「えっ?交代要員が居ないのですか?」
「……実は、あと二人男性が居たのですが、ナルサス様が氷漬けに」
「……弟が大変申し訳ありません」
「いえ、直後に解凍して頂いたので、身体に別状はありません。ただ、絶対に男は駄目だとナルサス様が強く希望されまして。暗部は女性が少ないので、私一人での配属となったのです。それもあって、ナルサス様が在宅時には私が休憩し、ナルサス様が不在時には私がナタリア様の護衛につくという協力体制に落ち着きました」
ナタリアはより安全になったが、監視の目は厳しくなったということか。ナルサスが側に居なくとも影が見張っているのでは、秘密裏に動くのも不可能だろう。これでナタリアはナルサスから逃げるのを諦めるだろうか。諦めないだろうなぁ。
ナタリアは、一旦こうと決めたらとても頑固だ。諦めが悪く、意固地だと言ってもいい。
ボクはきっと、また巻き込まれるのだろう。そしてきっと、アンさんも巻き込まれる。
「お疲れ様です」
ボクは心から、これから苦労するであろうアンさんを労った。




