兄と姉
ナタリアとナルサスが辺境伯領で暮らすようになり、ボクの生活はとても穏やかなものになった。ナルサスの逆鱗に触れないよう神経を張り詰める事もなく、命の危険を感じる事もない。平和って素晴らしい。
だから、ちょっと気が緩んでいたのかもしれない。
この日、ボクはニーナへの贈り物を携えて、辺境伯領の館へとやって来た。ボクが暮らす王都から辺境伯領へは馬でも10日は掛かるのだが、転移装置のお陰で気軽に行き来出来るようになったのだ。
「あっ、クロちゃん!」
無人に見えた館の廊下で突然ナタリアの声がして、ボクはギクリとした。思わず立ち止まって辺りを見回すと、ナタリアが窓の外から手を振っている。
え、ここ2階なんだけど?
近づくと、窓のすぐそばまで張り出した木の枝の上に、ナタリアが危なっかしく腰掛けていた。左腕に蓋付きの籐の編み籠を通し、右手だけで体を支えている。
「何してんの」
「見れば分かるでしょ、さくらんぼを収穫してるのよ」
それは辺境伯家のお嬢様がすることでは無い。こんな危ないこと、ナルサスがよく許したな。留守なのか?だったら一言注意しておかないと。
だがボクが苦言を呈する前に、ナタリアは更に信じられない事を仕出かした。
「ニコラス、丁度良い所に来たわ。これ受け取って」
さくらんぼが入った籠をボクに投げて寄越すと、ナタリアは枝の上から廊下へと飛び移ったのだ。
「あ、おいこの馬鹿!」
慌てて受け止めようとしたボクを薙ぎ倒し、ナタリアは無事着地した。ボクは無事ではない。
「ごめんなさい、大丈夫?」
ナタリアが駆け寄ったのは、ボクではなくボクが抱えていた縫いぐるみだった。倒れたボクの手から縫いぐるみを奪い取り、埃を払い撫で回して、壊れていないか確かめている。
ナタリアのボクへの扱いは、けっこう酷い。もっともそれは、ボクの自業自得なんだけど。
昔のボクは、かなり生意気なクソガキで、初対面のナタリアに決闘を申し込んだのだ。理由はよく覚えていないが、虫の居所でも悪かったのだろう。負けた方が勝った方の手下になるんだと一方的に宣言し、先手必勝とばかりに同い年の女の子に殴り掛かった。
結果は惨敗。ボクは見事な返り討ちにあい、コテンパンにのされてナタリアの手下になった。
手下としてナタリアに連れ回されるうち、ボクは辺境伯領の実態を知った。居るのは脳筋、体力馬鹿といった、考えるより先に体が動く連中ばかり。言葉より拳で語り合うのが普通。軍略は出来るが策略は苦手。社交界とか関わりたくないし、関わる気もない。それが辺境伯家門の総意。
ナタリアは、そんな辺境伯家の性質を色濃く受け継いでいる。ナルサスの世話のために王都の侯爵家で預かっていた時は、余所のお家だからと大人しくしていたが、本質は変わっていなかったのだ。そりゃあ窮屈な監禁生活から逃げ出したくもなるか。
「ニコラスは平気?」
ついでのように差し伸べられた手を断って、ボクは自力で体を起こした。さくらんぼが入っているという籠を渡し、ナタリアから縫いぐるみを受け取る。
「はい、クロちゃんは無事よ!」
「そのクロちゃんって何?」
「ああ、前に貴方が捕まえてきてくれたウサギ。よく似てるから」
それはそうだろう。このチョーカーを着けたウサギの縫いぐるみは、ナタリアが転移装置で送り出したウサギがモデルだ。厳密にはナルサスが王弟宅に送ったウサギを、王弟の末娘が可愛がっているらしい。娘を溺愛している王弟がチョーカーウサギのグッズを作りまくった事から、王都で今大人気なのだ。
そんな話と共に、同じように転移装置から現れたチョーカーウサギ達が『幸せを運ぶウサギ』として大切にされていると伝えると、ナタリアは満開の花のように笑った。
「そう、あの子達は幸せに暮らしてるのね。良かったわ!」
『幸せを運ぶウサギ』はナルサスが用意したウサギ達だが、そこは秘密だ。ナタリアが送り出した叫びウサギも、ナルサスが回収してきてボクが飼っているので、まあまあ幸せに暮らせていると思う。
「この子はニーナへ?」
「うん」
「私も同じ縫いぐるみが欲しいんだけど、今度買ってきてくれる?」
「それはナルサスに頼んでくれ。ボクはもうナタリアの婚約者じゃないんだから」
「あら、贈ってくれなんて言ってないわ。お使いを頼まれて欲しいだけよ」
「だとしてもボクには頼むなよ。ボクはこれでも忙しいんだ」
「何よ、ケチねぇ」
そういう問題じゃない。頼みごととかおねだりとかは、ナルサス以外の男にするなと言ってるんだ。でないとナルサスの機嫌が急降下して、辺境伯領が冷害に襲われるぞ。
ナタリアに男心のなんたるかを説いてやろうかと思ったが、きっと理解出来ないだろうと断念した。ナタリアにとってはナルサスはまだまだ子どもで、恋愛対象外なのだ。
「縫いぐるみなら僕が買ってきてあげるよ」
「……居たのか」
知らぬ間にナルサスに背後を取られていた。ボクは夏なのに冷水を浴びせられたように、急激な体温低下に襲われた。ナルサスの笑顔が怖い。怖過ぎる。
「ナタリア、僕チェリーパイが食べたいな〜」
「分かったわ、頼んでくる!」
ナルサスの可愛らしい願いを聞き、引き留める間もなく行ってしまったナタリア。残されたボクは、そっとナルサスの顔色を窺い、目が合ってしまい、何とか愛想笑いを浮かべたのだった。




