一人旅と赤ちゃん返り
「だったら私、一人旅をしてみたいんだけど」
私の答えを聞いたナルサスの目に、ブワッと涙が浮かんだ。え、如何したの?泣くような事なんて一言も言ってないと思うのに。珍しく真剣な表情のナルサスが、今一番やりたい事は何かと聞いてきたので正直に答えただけなのに。
「ええと、ナルサス?」
「ナタリアは一人が良いの?僕が一緒にいたら邪魔?」
ナルサスの白皙の頬を、ツーッと涙が伝い落ちる。如何してそう極端に走るのか。ほぼ毎日ナルサスがべったり、文字通り私にくっついているので、たまには一人きりでのんびりしたいだけなのに。
戸惑う私からナルサスを剥がし、ニコラスが弟に言い聞かせる。
「ナルサス、言ったよな?ナタリアの願いがお前の希望と違っても、叶えてやれって」
「でも」
「でもじゃない。約束したよな?良い夫は、妻の我儘を叶えてやるもんだぞ?」
待って、これ私が我儘言ってる事になるの?私は聞かれた事に答えただけだ、納得がいかない。
私がむうっと頬を膨らませていると、ナルサスが気づいて顔を曇らせる。どうも私が我を通そうとしているように見えたらしい。ナルサスは困った子どもに手を焼く大人のように、如何にもご機嫌取りだと分かる微笑みを作った。
「ナタリア、旅行なら僕と二人で行こうよ。新婚旅行、楽しかったよね?」
「ええ、まぁ」
「ナタリア、ナルサスを甘やかすな。その調子で一生ナルサスの言いなりになるのか?」
「兄さんは黙ってて」
「お前こそ黙ってろ」
私そっちのけで兄弟喧嘩が始まる。基本ニコラスもナルサスに甘いというか、言いなりになってる事が多いのに、真っ向から対立するのは珍しい。何なのかな、これ?
最終的にニコラスから、自己中夫は見捨てられるぞと脅されて、ナルサスが泣く泣く引き下がった。そしてニコラスによって即座に私の旅行日程が組まれた。私としては、一人旅に行ってみたいなー、くらいの軽い気持ちで言ってみただけだったのに。あっさりと決定してしまった。
とはいえ、これでも次期辺境伯夫人の私が、完全に一人で旅行する訳にはいかないので、侍女兼護衛役としてアンがついて来ることになった。行き先は魔王領との境目にある都市。魔族と人族とは争ってはいないが、あまり交流もない。行き先の都市は、世界で唯一魔族と人族が共存している場所だという。
ニコラスは、私が最近魔王領に関する書籍を読んでるのを知ってて、旅行先を設定したのかな。相変わらず私の行動はあちこちに筒抜けだ。
私が魔王領関連の本を読んでいるのは、魔法や魔術に秀でた魔族ならば、ナルサスの強大な魔力を抑える方法を知っているのではと思ったからだ。人間に伝わる方法はとっくに王宮の魔導士達が試したはずだ。それらに効果が無かったから、ナルサスは気分が荒れると天候不順を引き起こすのだ。このままでは学校にも行けない。
そう、ナルサスを学校に行かせるためには、魔力をどうにかしなければ。ナルサスはもうすぐ8歳になる。初等部に入学出来る年齢になるのだ。
学力は既に高等部レベルを凌駕しているが、学校は学問のためだけに通う場所ではない。ナルサスには同年代のお友達が必要なのだ。ナルサスの友達作りのために、私はナルサスを学校に通わせたい。そしてナルサスの私への執着を、お友達に振り分けてもらいたい。せめて盗聴盗撮が当然の執着レベルから、少しでも外れてくれればそれで良い。
そのために、突然降って湧いた魔王領近くへの旅行を、私は活用する事にした。魔族と人族が共に暮らしている場所なら、魔族ばかりの魔王領より聞き込みや調べ物もスムーズだろう。ナルサスを学校に入れるために、頑張ろう。
「ナタリア、楽しそうだね。そんなに僕と離れるのが嬉しいの?」
荷物を旅行カバンに詰めていると、恨めしそうにナルサスが絡んでくる。私が一人旅に出ると決まってから、ナルサスは私から片時も離れない。更に、私が詰めた荷物をタンスに戻すという地味な嫌がらせまでしてくる。
「ナルサスだって、一人でお出掛けする事があるじゃないの」
「僕は用事があって仕方なく出掛けてるんだ。出来るならずーっとナタリアから離れたくない」
「でも、そうはいかないでしょ?ナルサス、いい機会だからちょっとだけ親離れ──姉、いえ妻離れ?しましょうね」
「やーだー!」
駄々っ子がいる。これが既婚者とは誰も思うまい。赤ちゃん返りのようなこの状態は、ここ数日特に顕著で、夜も私にしがみついてぐずぐず泣いている。お陰で身体に負担は掛からないが、精神にはくる。
こうまでグズるナルサスを見ていると、旅行に連れて行っても良いかなとの考えが浮かんでくるのだが、その点はニコラスに何度も釘を刺された。いい加減母親ポジションを返上しろと言われたのだ。結婚したのだから、ナルサスの母親でなく妻になれと。
ニコラスは今回、ナルサス相手にも一歩も引かなかった。私にも厳しい。ニコラスのくせに。
そんないつもと違う日々が過ぎ、出発当日となった。私はニコラスに羽交い締めにされたナルサスに涙目で見送られ、アンと共に出立したのだった。




