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時と魔法と  作者: 牡丹
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第8章 ひび割れた日常

 デートの翌朝、久世透は教室へ入る前に3度、相沢美月の呼び方を確認した。


 学校では、相沢さん。


 2人きりなら、美月さん。


 難しい決まりではない。


 それなのに、教室の戸を開けるだけで妙に緊張した。


「おはよう、久世くん」


 美月はいつもの友人たちと話していた。


「おはよう、相沢さん」


 無事に言えた。


 透が席へ向かおうとすると、高瀬颯太が通路を塞いだ。


「何」


「いや。今の挨拶、昨日までと同じなのに、何か違うなと思って」


「気のせいだろ」


「久世、お前、日曜日に何してた?」


「家にいた」


 答えが早すぎた。


 高瀬が目を細める。


「じゃあ、その鞄の中についてる青いのは何だ」


 透は反射的に鞄を閉じた。


 内側へ隠したつもりのクラゲのストラップが、ファスナーの隙間から見えていた。


「前から持ってた」


「お前がクラゲを?」


「悪いか」


「悪くないけど、意外すぎる」


 高瀬が鞄を覗こうとし、透は身体で隠した。


 教室の向こうで、美月が笑いを堪えていた。


 水族館で過ごした時間は、学校の外へ置いてきたはずだった。


 けれど、クラゲのストラップも、美月と目が合った瞬間の笑いも、完全には隠せない。


 透はそれを、少しだけ嬉しいと思った。


 異変に気づいたのは、放課後だった。


 靴箱を開けると、上履きの上に折り畳まれた紙があった。


 罫線のない白い紙。


 広げると、黒いペンで1行だけ書かれている。


『相沢から離れろ』


 筆跡を隠すためか、定規で引いたような角張った文字だった。


 名前はない。


 透は周囲を見た。


 昇降口には部活動へ向かう生徒が何人もいる。誰もこちらを見ていないように見えた。


 紙を捨てようとして、手を止める。


 神代の言葉を思い出した。


 失敗も、醜い感情も隠さない。


 能力の記録ではない。


 それでも、1人で処理していいことではない気がした。


 透は紙を写真に撮り、原本を鞄へ入れた。


 美月には、まだ知らせなかった。


 駅前で鷹宮に見られたことを黙っていた負い目が、胸の中へ残った。


 翌朝、透の机が動かなくなった。


「掃除のとき、こんなところに置いたっけ」


 高瀬が机の端を持つ。


「窓側へ寄せたいんだけど。手伝って」


 2人で持ち上げようとした。


 机は床へ固定されたように動かない。


「何これ。中に鉄でも入ってる?」


 高瀬が机の中を確認する。教科書と筆箱しかない。


 透には、覚えのある重さだった。


 鷹宮の『重圧』。


 能力者クラスの生徒たちが廊下を通り過ぎる。


 その中に、鷹宮怜司がいた。


 教室の中へ目を向けることもなく、友人と話しながら歩いていく。


 姿が見えなくなった瞬間、机が軽くなった。


「うわっ」


 力を込めていた高瀬が、机ごと後ろへよろめく。


 透が支え、倒れるのを防いだ。


「急に軽くなったぞ」


「床に引っかかってたんじゃない」


「そんな感触じゃなかったけどな」


 高瀬は首を傾げた。


 透は廊下を見る。


 鷹宮の姿はもうなかった。


 その日の昼頃から、教室の空気が変わり始めた。


 透が席を立つと、近くの会話が途切れる。


 廊下ですれ違った生徒が、振り返ってこちらを見る。


 高瀬に尋ねても、最初は知らないと言った。


 5限目が終わったあと、ようやく観念したように声を落とす。


「変な噂が流れてる」


「どんな」


「相沢が事故に遭いかけたのを利用して、お前が付きまとってるって」


 透は言葉を失った。


「助けたって嘘をついて、恩を着せてるとか。断ったら事故のことを言いふらすって脅したとか」


「誰が言ってるんだ」


「わからない。能力者クラスの知り合いから聞いたってやつがいて、そこから」


 高瀬は机へ肘をついた。


「俺は信じてないぞ。お前にそんな度胸ないし」


「否定の仕方が失礼だな」


「でも、相沢と出かけたのは本当?」


 透が答える前に、教室の前方で美月が立ち上がった。


「その話、誰から聞いたの?」


 普段より大きな声だった。


 教室の会話が止まる。


 美月の友人が「どうしたの」と尋ねたが、彼女は噂をしていた男子生徒へまっすぐ歩いていった。


「久世くんに付きまとわれてるって話。誰が言ったの?」


「俺が言ったんじゃない。能力者クラスのやつが」


「じゃあ、違うって伝えて」


 美月は教室全体を見回した。


「久世くんに脅されたことなんて1度もない。事故のことを利用されたこともない。日曜日に出かけたのは本当だけど、誘ったのは私だから」


 数秒の沈黙。


 高瀬が透の肩をつかんだ。


「お前、水族館に行ったな」


「今はそこじゃない」


「クラゲ、そういうことか」


 教室のあちこちから、驚きと好奇心の混じった声が上がる。


 透は顔が熱くなるのを感じた。


 美月も、自分の発言が何を意味するか遅れて気づいたらしい。頬を赤くしながらも、視線は逸らさなかった。


「とにかく、変な噂を広めないで。久世くんにも、私にも迷惑だから」


 それだけ言い、自分の席へ戻った。


 噂は、その日のうちに形を変えた。


 透が美月を脅したという話は消えた。


 代わりに、2人が付き合っているらしいという話が広がった。


 放課後、誰もいない階段の踊り場で、美月が両手で顔を覆った。


「ごめん。否定するところまでは考えてたんだけど、そのあとのこと考えてなかった」


「助かったよ」


「でも、付き合ってるってことになってる」


「嫌?」


 透は聞いてから、息を止めた。


 美月が手の隙間からこちらを見る。


「嫌だったら、デートに誘ってない」


 答えは小さかった。


 透の心臓が速くなる。


「ただ、順番があるでしょ」


「順番?」


「それは今度」


 美月は話を打ち切るように手を下ろした。


「それより、何か隠してない?」


「何も」


「透くん」


 学校では名字で呼ぶという決まりを、美月は意図的に破った。


 透は観念し、靴箱へ入っていた紙の写真を見せた。


 駅前で鷹宮を見たことも話した。


「どうして昨日のうちに言わなかったの」


「せっかくのデートのあとに、嫌な話をしたくなかった」


「私は今日まで何も知らずに学校へ来たよ」


「ごめん」


「守ろうとして隠すの、これで最後にして」


 交差点でも、子猫のときも、美月は透の決断を信じてくれた。


 けれど、信じることと、何も知らせないことは違う。


「約束する」


「前にも似たような約束した気がする」


「今度は記録帳に書く」


「そこまでしなくていい」


 美月は少しだけ笑った。


 2人は脅迫文の原本を持ち、榊原真帆へ相談した。


 榊原は紙を封筒へ入れ、机の鍵がかかる引き出しへしまった。


「筆跡も指紋も期待できない。これだけで相手を決めつけることはできない」


「机のことは、鷹宮先輩が廊下を通ったときに起きました」


「能力の残留反応は時間とともに消える。明日から、異常を感じたらすぐに私を呼んで」


 榊原は透と美月を交互に見る。


「それから、絶対に2人だけで解決しようとしないこと」


 金曜日の朝、2枚目の紙が靴箱へ入っていた。


『放課後、旧理科準備室。話がある。1人で来い』


 今度は、写真を撮ってすぐ美月と榊原へ見せた。


「行かないで」


 美月は即座に言った。


「行かなければ、次は別の方法を使うと思う」


「だからって、1人で行く必要ない」


「相手が何を知ってるのか確認したい。能力のことを疑われてるなら、知らないままのほうが危ない」


 榊原はしばらく考えた。


「行くなら条件がある」


 放課後、透は旧理科準備室の前に立った。


 スマートフォンは榊原と通話中になっている。榊原側の音声は消し、透の胸ポケットから室内の会話だけを拾う。


 美月と榊原は、同じ階の角を曲がった先で待っている。


 10分以内に透から終了のメッセージがなければ、2人で入る手はずだった。


 透は扉を開けた。


 薄暗い部屋の奥で、鷹宮怜司が待っていた。


「本当に1人で来るとは思わなかったよ」


「1人で来いと書いたのは、先輩でしょう」


「あの紙を僕が書いた証拠は?」


「ありません」


「なら、ここにいるのも偶然かもしれない」


 鷹宮は笑い、古い実験台の上へ1枚の書類を置いた。


「これを見せたかった」


 万年筆の修理診断書だった。


 購入日、製造番号、検査結果。


 内部の樹脂部品と密閉材に、8年以上の経年劣化が認められる。


 金属軸には、使用期間に相当する損耗がない。


 通常の保管状況では説明不能。


「購入したのは3か月前だ」


 鷹宮が言った。


「落とす直前まで、問題なく使えていた。拾って僕へ返したのは、君だ」


「俺は何もしていません」


「そういう能力なんだろう。触れた物を劣化させる」


 透は表情を変えないよう努めた。


 鷹宮は『時の番人』を知らない。


 万年筆へ起きた結果から、別の能力を想像しているだけだ。


「俺の測定結果は、固有能力なしです」


「測定後に発現する者はいる。珍しいだけで、存在しないわけじゃない」


「だったら、学校へ相談すればいいでしょう」


「その前に、君から聞きたかった」


 鷹宮が実験台から離れる。


「学長室の資料整理。相沢さんを事故から救ったという話。万年筆の異常劣化。そして、能力もない君が急に僕へ逆らい始めた」


 透との距離を縮める。


「何を隠している?」


「何も」


「相沢さんには話したのか」


「彼女は関係ありません」


「関係あるさ」


 鷹宮の声から笑みが消えた。


「君のような人間と一緒にいる理由が、ほかにない」


 肩へ重さがのしかかった。


 透の膝が床へ落ちる。


 旧校舎で受けたときより強い。


 床へついた手首が軋み、肺から空気が押し出される。


「能力を見せろ」


「……持って、ません」


「なら、正式な再測定を受けても困らないな」


 鷹宮は透を見下ろす。


「僕から学校へ申請する。後期発現の疑いがある生徒を放置すれば、学校側の責任問題になる。中央の測定局から検査官が来るだろう」


 国家の登録網。


 神代が避けてきたものが、急に目の前へ迫った。


 透の耳から、周囲の音が薄くなる。


 止められる。


 鷹宮の時間だけを止め、この部屋を出ることもできる。


 手を伸ばせば、万年筆より長い時間を彼へ与えることもできる。


 透は床の一点を見つめた。


 使わない。


 ここで使えば、鷹宮の疑いを証明する。


 何より、怒りながら人の時間へ触れないと決めた。


 消えかけた音が戻る。


「どうして、相沢さんにこだわるんですか」


 息を絞り出して尋ねた。


「彼女は、能力の価値を理解していない」


「だから、自分を選ばせたい?」


「少なくとも、君より相応しい」


「それを決めるのは、相沢さんです」


 重さが増した。


 胸ポケットのスマートフォンが、布越しに床へ押しつけられる。


 小さな電子音が鳴った。


 鷹宮の視線が、透の胸元へ落ちる。


「誰かとつながっているな」


 まずい。


 透が手を伸ばすより先に、スマートフォンへ重力が集中した。


 硬い破裂音。


 画面へ蜘蛛の巣状の亀裂が走り、筐体が中央から曲がる。


 通話が切れた。


「これで証拠はない」


 鷹宮が冷たく言った。


「小細工は、力のない人間がすることだ」


 準備室の扉が開いた。


「その力の使い方が、能力者クラスの模範ですか。鷹宮怜司」


 榊原真帆が立っていた。


 その後ろに、美月がいる。


 鷹宮の顔から余裕が消えた。


「榊原先生。これは生徒同士の話です」


「話をするために『重圧』が必要だとは知りませんでした」


「久世が能力を隠しています。学校の管理義務に関わることです」


「能力を解除しなさい」


 榊原の声は低く、反論を許さなかった。


 透の身体から重さが消える。


 急に肺が広がり、咳き込んだ。


 美月が駆け寄り、肩を支える。


「大丈夫?」


「うん」


「今の大丈夫は信用しない」


 子猫を救った日と同じ言葉だった。


 鷹宮が診断書を手に取る。


「その男へ、正式な再測定を要求します」


「申請は生徒が脅迫に使うものではありません。必要性は学校が判断します」


「学長へ直接話します」


「どうぞ。ただし、禁止区域での能力使用、下級生への威圧、器物損壊についても同時に報告します」


 鷹宮は榊原を睨んだ。


 それから、透へ視線を移す。


「君の秘密は、必ず見つける」


「鷹宮」


 榊原が制止する。


「今日は帰ります」


 鷹宮は診断書を持ち、準備室を出ていった。


 足音が遠ざかるまで、誰も話さなかった。


 透は床へ落ちたスマートフォンを拾う。


 画面は砕け、電源も入らない。


 触れれば、壊れる前へ戻せる。


 けれど、端末の時間を戻せば、中に残っている記録も通話前へ戻る可能性がある。


「直さないの?」


 美月が小声で尋ねる。


「今は。このままのほうが証拠になる」


 透は壊れた端末をハンカチで包んだ。


 普通の方法で残せるものを、自分の力で消す必要はない。


 学長室で報告を聞いた神代は、机の上の破損端末を長く見つめた。


「通話が切れるまでの会話は、すべて聞きました」


 榊原が言う。


「脅迫文の原本もあります。机への能力使用は立証できませんが、今日の件だけで指導対象にはできます」


「鷹宮君の万年筆の診断書は」


「本人が持ち帰りました」


 神代は透へ目を向けた。


「能力を使わなかったのだね」


「はい」


「使えば逃げられた」


「疑いを証明することになります。それに、怒ってましたから」


「境界を守ったということか」


 透は頷いた。


 神代は短く息を吐いた。


「よく耐えた」


 その言葉で、張りつめていたものが少し緩んだ。


 美月は納得していない顔をしている。


「でも、このままじゃ鷹宮先輩が再測定を申請します」


「生徒個人の申請だけで、国家の検査官が来ることはない。学校側の承認が必要だ」


「学長先生が止められるんですか」


「今は」


 神代の返事には、条件がついていた。


「だが、彼が保護者や能力者クラスの担当教員を動かせば、無視し続けることは難しい。万年筆の異常劣化という物証もある」


 透は包んだスマートフォンを見た。


 鷹宮もまた、証拠を持っている。


「私が鷹宮君と話す」


 神代が言った。


「同時に、君の再測定を求められても情報が中央へ流れない対策を進める」


「そんなことができるんですか」


「できるようにする。それが防波堤の仕事だ」


 神代は壊れた端末を榊原へ預けた。


「これは現状のまま保管を。修復も、電源の再投入もまだしない」


「わかりました」


 透のポケットで、何も入っていない空間が重く感じられた。


 普通の学校生活を守るために、能力を隠した。


 隠しているからこそ、鷹宮の嫌がらせへ正面から反撃できない。


 教室。放課後。美月との時間。


 守りたい日常の一つ一つへ、見えない亀裂が走り始めている。


 時間を戻せば直せる傷とは違う。


 その亀裂を前に、透は初めて、自分の力ではない方法で戦わなくてはならなかった。


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