第7章 止めたくない日曜日
子猫を救った翌日の放課後、神代宗一郎は操作記録帳を3度読み返した。
日時。水曜日、午後5時18分頃。
場所。駅北側の路地。
対象。交通事故によって瀕死となった野良の子猫。
方向。時間退行。
終点。負傷による時間の乱れが生じる直前。
結果。外傷消失。呼吸、心拍ともに安定。動物病院での検査では、軽い栄養不足と脱水以外の異常なし。
使用理由。救命。
最後の2文字だけが、ほかの項目より濃く書かれていた。
「相沢君が最初から最後まで見ていたのだね」
「はい」
「能力についても、すべて話した」
「はい」
「国家へ報告していないことも」
「話しました」
神代は操作記録帳を閉じた。
旧・第二演習室の長机には、訓練器具が何も出されていない。今日は最初から、訓練を始めるつもりがないようだった。
「禁止したはずだ」
「わかっています」
「なぜ使った」
「許可を待っていたら、死んでいたからです」
「失敗すれば、君が殺していた」
「それも、わかっています」
透は膝の上で両手を握った。
「でも、何もしないで死なせたら、助けられたかもしれないって一生考えると思いました」
神代は黙っている。
言い訳をすればするほど、自分の判断が正しかったと主張しているように聞こえそうだった。
透は言葉を継がなかった。
やがて神代が尋ねる。
「対象は、どう定めた」
「子猫の身体全部です。傷だけにすると、ほかの部分と時間がずれる気がしました」
「終点は」
「傷つく前の姿は見ていません。でも、触れたら時間の流れが切れている場所がわかりました。その直前まで戻しました」
「呼吸が安定したあと、さらに戻そうとは思わなかったか」
「思いませんでした。傷が消えたところで止めました」
「獣医師にも診せた」
「相沢さんと一緒に連れていきました」
神代は椅子へ深く座り、目を閉じた。
怒っているのだろう。
透はそう思った。
「困ったものだ」
神代が呟く。
「すみません」
「謝られて困っているのではない。君の判断が、手順を除けば妥当だったことに困っている」
「怒らないんですか」
「昨日と同じ質問だな」
神代は目を開いた。
「規則は、守るためにある。だが、命を見捨てる言い訳にするためではない。緊急性があり、対象を限定し、終点を定め、第三者の診察まで受けた。無断使用を除けば、今の君にできる最善に近い」
「じゃあ、生き物にも使っていいんですか」
「訓練目的では、引き続き禁止する」
神代は即答した。
「今回は成功しただけだ。猫と人間の時間が同じ構造だとも限らない。成功を許可と取り違えないこと」
「はい」
「ただし、同じように一刻を争う場面に遭遇した場合、何もするなとは言わない」
神代は操作記録帳を透へ返す。
「対象、方向、終点を決める。終了後、必ず記録する。私へ報告する。そして医師や獣医師など、能力を知らない第三者に結果を確認してもらう。当面はこの4点を暫定規則とする」
「わかりました」
「相沢君には、いずれ私からも話をする。彼女が背負う危険を、君だけの説明で終わらせるわけにはいかない」
透は頷いた。
少し迷ってから、もう1つの許可を求める。
「学長」
「何かね」
「日曜日の訓練なんですけど」
「午前中だけにする予定だ」
「休みにできませんか」
神代の片眉が上がる。
「理由を聞こう」
「相沢さんと出かける約束をしました」
「秘密について話すためか」
「それもありますけど」
透は言葉を濁した。
神代は数秒、透の顔を見た。
「デートか」
「どうしてわかるんですか」
「これでも君の4倍近く生きている」
「年齢の問題ですか」
「経験の問題だ。もっとも、最近の高校生の作法までは知らないが」
神代は机の上のストップウォッチを道具箱へしまった。
「日曜日の訓練は中止する」
「いいんですか」
「代わりに課題を出す」
神代は指を1本立てた。
「能力を1度も使わず、普通の高校生として1日を過ごしなさい」
「それが課題ですか」
「君は、この1か月で何度時間を止めた」
「記録帳を見ないと」
「既に、能力を使うことが日常へ入り始めているということだ」
神代は透の両手へ視線を落とす。
「力を使わなければ解決できないことと、使わずに済むことを見分けなさい。普通に過ごすことも、君には必要な訓練だ」
「わかりました」
「それから、相沢君を夕方までに帰すこと」
「保護者みたいなことまで言うんですね」
「学生を守るのが学長の仕事だと言ったはずだ」
金曜日の夜、美月から写真が届いた。
スマートフォンの画面いっぱいに、白と茶色の子猫が映っている。新しい青い首輪をつけ、毛布の上からカメラを見上げていた。
『家族会議、全会一致で可決しました』
続けて、もう1枚。
子猫が美月の腕へ前脚をかけ、髪へ噛みつこうとしている。
『今日から相沢家の一員です』
透は写真を拡大した。
あの路地で途切れかけていた呼吸が、画面の向こうから聞こえる気がする。
『名前は?』
送ると、すぐに返事が来た。
『コハク。目が琥珀色だから』
『いい名前だと思う』
『本人も気に入ってます』
『猫に聞いたの?』
『今、返事した』
その直後、短い動画が送られてきた。
美月が「コハク」と呼ぶたび、子猫が餌の皿へ顔を突っ込んでいる。名前ではなく餌へ反応しているようにしか見えなかった。
透は1人で笑った。
それから、美月とのメッセージ画面を何度も開いた。
日曜日の待ち合わせは11時。
行き先は教えてもらっていない。
服装をどうすればいいのか聞きかけて、やめた。聞けば、自分がデートを意識しすぎていると伝わりそうだった。
既に十分、意識している。
前日の夜、透は普段着を3組並べ、結局いつもとほとんど変わらない服を選んだ。
日曜日、透が駅前へ着いたのは10時38分だった。
早すぎた。
待ち合わせ場所の時計を見上げる。秒針は当然のように動いている。
止めない。
今日の課題だ。
それ以前に、待ち合わせをするために時間を止めてどうするのだと思う。
10時55分、美月が改札から出てきた。
制服ではない彼女を見るのは初めてだった。
淡い水色のブラウスに、白いスカート。肩へかけた小さな鞄には、猫の形をした飾りが揺れている。
教室で何度も見ている顔なのに、別の人のように見えた。
透が何も言えずにいると、美月が自分の服を見下ろす。
「変?」
「違う。似合ってる」
考える前に答えていた。
美月が目を丸くし、それから笑う。
「ありがとう。久世くんも、ちゃんと休日の人に見える」
「褒められてる?」
「制服以外も持ってたんだね、っていう驚き」
「それは褒めてないだろ」
軽口を返せたことで、肩の力が少し抜けた。
「ところで、どこへ行くの?」
「水族館」
美月は2枚の前売り券を見せた。
「この前のお礼。今日は私が案内します」
「チケット代、払うよ」
「駄目。人と猫、2つの命を助けた料金としては安いくらい」
「命に料金をつけないでよ」
「じゃあ、私が一緒に行きたいから買った。これならいい?」
その言い方をされると、断れなかった。
駅から電車で20分。
水族館は海沿いの大きな公園の中にあった。
休日の入口には家族連れが並び、能力者優先の案内口には銀色の標章をつけた人々が集まっている。
通常入場の列は、それより長かった。
美月が能力者用の入口を見て、小さく息を吐く。
「水族館まで分けなくていいのにね」
「混雑したとき、能力事故を防ぐためらしいよ」
「理由をつければ、何でも分けていいわけじゃないでしょ」
美月は列の前へ向き直った。
いつも明るい彼女が、能力による区分へこんな表情を向けることを、透は初めて知った。
館内へ入ると、夏の光が遠ざかった。
青い照明。頭上を流れる水の影。壁一面の水槽を、小さな魚の群れが銀色に光りながら横切っていく。
「きれい」
美月が呟く。
その横顔へ水面の光が揺れていた。
透は水槽より先に、そちらを見てしまった。
「魚、見てる?」
「見てる」
「今、私のほう見てたよ」
「光が反射してたから」
「言い訳が下手」
美月は楽しそうに歩き出した。
大水槽の前では、巨大なエイが2人の頭上を滑るように通った。
ペンギンの展示では、美月がガラス越しに何度も手を振った。ペンギンが偶然同じ方向を向くたびに、「今、通じた」と主張した。
透が否定すると、コハクにも通じたのだから動物に好かれる才能がある、と反論された。
「能力測定には出なかったけどね」
「それを言ったら、俺も出なかった」
「じゃあ、私も測れない能力者かもしれない」
「国に隠さないと」
そこまで言って、2人とも黙った。
国家に隠すという言葉は、本来なら笑い話にできない。
けれど、美月が先に小さく笑った。
「秘密の仲間だね」
重いはずの言葉が、彼女の声を通ると少しだけ軽くなった。
クラゲの展示室は、館内でも特に暗かった。
円形の水槽の中を、半透明のクラゲがゆっくり昇り、沈んでいる。青や紫の光が一定の間隔で変わり、傘の輪郭を浮かび上がらせた。
時計は見当たらない。
「ここ、時間がわからなくなるね」
美月が言った。
「久世くんには、全部わかるの?」
「何でもわかるわけじゃないよ。時間へ触れられるだけ」
「この水槽だけ止めることもできる?」
「たぶん。でも今日は使わない」
「学長先生に言われた?」
「能力を1度も使わずに、普通の高校生として過ごせって」
「じゃあ私、訓練に協力してるんだ」
「デートじゃなかったの?」
言ってから、透は自分で驚いた。
美月も一瞬だけ目を丸くする。
「両方でいいんじゃない?」
彼女は笑った。
クラゲが2人の間を漂う。
止めれば、この姿をいつまでも見ていられるのかもしれない。
けれど、動いているから美しいのだと透は思った。
形を変え、光を受ける場所を変え、同じ場所へ二度と戻らない。
時間を止めないという選択にも、意味がある。
昼食は、水槽の見える館内のカフェで取った。
美月はコハクの写真を何枚も見せてくれた。
餌の皿へ前脚ごと入っている写真。ソファの背もたれで眠る写真。美月の父親の新聞を破り、家族会議の決定が早くも揺らいでいるという動画。
「すっかり元気だね」
「元気すぎる。昨日なんて夜中の3時に顔を踏まれた」
「時間を戻せば、もう1回踏まれるところだ」
「それは戻さなくていい」
美月は笑い、スマートフォンを伏せた。
「私ね、動物看護師になりたいんだ」
突然の言葉に、透は顔を上げた。
「前から?」
「中学生の頃から。能力がないなら、普通に就職できればいいって言われることもあるけど、普通って誰が決めるのかなって」
美月はストローの先で氷を揺らした。
「治癒能力があれば、傷を治せる。水を操れれば、災害現場で助けられる。でも、能力がない人にもできることはあるでしょ。怪我をした動物のそばにいて、怖くないように支えるとか」
「相沢さんに向いてると思う」
「どうして?」
「あの子猫を見つけたとき、最初に走ったから。骨が折れてるかもしれないって言ったら、無理に抱かなかった。俺より冷静だった」
「泣いてたけどね」
「泣きながらでも、必要なことはしてた」
美月は少し照れたように視線を落とした。
「久世くんは、将来やりたいことある?」
「なかった」
「過去形?」
「能力がわかる前は、卒業して、入れそうな学校か会社を選ぶんだと思ってた。今は、それができるかもわからない」
「国に見つかるかもしれないから?」
透は頷いた。
「でも、やりたいことが1つできた」
「何?」
「普通に卒業したい」
夢と呼ぶには小さすぎる言葉だった。
それでも、今の透には簡単ではない。
「自分で卒業したい。どこへ行くかも、何になるかも、そのあとで自分で決めたい」
美月は笑わなかった。
「いい夢だと思う」
「地味じゃない?」
「久世くんらしい」
「それ、褒めてる?」
「今日は褒めてる」
カフェを出たあと、2人は館内をもう1周した。
美月が巨大水槽の前で写真を撮ろうと言い、2人で並んだ。透はカメラへどんな顔を向ければいいのかわからず、最初の写真では証明写真のような表情になった。
「固い。もう1枚」
「これでいいだろ」
「よくない。せっかくの初デートなのに」
初デート。
はっきり言われると、顔が熱くなる。
「笑って」
「急に言われても」
「じゃあ、コハクが今朝、カーテンを登って降りられなくなった話する?」
「それ、さっき動画で見た」
「お父さんの頭に落ちたところは見せてない」
想像した瞬間、透は吹き出した。
美月がシャッターを押す。
撮れた写真には、笑いを堪えきれない透と、満足そうな美月が並んでいた。
「これは誰にも送らない。私だけ持ってる」
「消してもいいよ」
「嫌。久世くんが笑える証拠だから」
美月は写真を大切そうに保存した。
水族館を出ると、午後の光が眩しかった。
海から吹く風に、潮の匂いが混じっている。
公園の売店で、美月がカプセル玩具を1回だけ回した。中から出たのは、青いクラゲの小さなストラップだった。
「これ、あげる」
「相沢さんが当てたのに?」
「今日の記念。止めなかったクラゲ」
透は受け取り、鞄の内側へつけた。
外側につければ高瀬に質問される。そう説明すると、美月は少し残念そうにしたが、秘密の場所みたいでいいか、と納得した。
帰りの電車は混んでいた。
2人はドアのそばに並び、揺れるたびに肩が触れた。
以前なら、そのたびに距離を取っていたかもしれない。
今日は、どちらも動かなかった。
駅へ戻ったのは、午後5時前だった。
神代との約束どおり、夕方までには帰れそうだった。
改札前で、美月が足を止める。
「今日はありがとう」
「それは俺が言うほうだろ。誘ってくれたし、チケットも」
「じゃあ、お互いありがとう」
「うん」
「次はどこ行く?」
透は顔を上げた。
「次もあるの?」
「ないと思ってた?」
「今日のお礼で終わりかと」
「お礼は水族館の入場料まで。後半は普通に楽しかったから、次は久世くんが考えて」
終わりだと思っていた1日の先に、次の約束が置かれた。
止めなくても、時間は失われるだけではない。
進んだ先にしかないものもある。
「考えておく」
「楽しみにしてる」
美月は数歩進み、また戻ってきた。
「あと、1つ」
「何?」
「学校じゃないときまで、相沢さんって呼ぶの、ちょっと遠くない?」
透の心臓が、時間停止の直前より強く鳴った。
「じゃあ、何て呼べば」
「名前」
「美月……さん」
途中で敬称を足すと、美月が笑った。
「今日はそれで合格」
「今日は?」
「そのうち慣れるかもしれないから」
美月は透の顔を覗き込む。
「私も、透くんって呼んでいい?」
「うん」
「じゃあ、また明日ね。透くん」
「また明日、美月さん」
美月が改札の向こうへ消えるまで、透はその場に立っていた。
能力は使っていない。
それでも、数秒間だけ身体の動かし方を忘れていた。
帰ろうとして振り返ったとき、人混みの向こうに見覚えのある顔があった。
鷹宮怜司。
休日らしい黒いシャツ姿で、駅前の歩道に立っている。隣には、以前一緒にいた能力者クラスの生徒がいた。
鷹宮は透ではなく、美月が消えた改札を見ていた。
やがて視線を透へ移す。
目が合った。
鷹宮の口元に、薄い笑みが浮かぶ。
万年筆のインクが漏れたときとは違う、静かで冷たい笑みだった。
声をかけてくることはない。
鷹宮は連れとともに人混みへ消えた。
透は美月へ知らせようか迷い、スマートフォンを取り出した。
画面には、別れたばかりの彼女からメッセージが届いている。
『今日は楽しかった。また行こうね、透くん』
透は鷹宮のことを書かなかった。
『俺も楽しかった。また明日、美月さん』
そう返した。
空には、夏の長い夕暮れが残っている。
能力を1度も使わなかった1日は、どの停止時間より短く感じた。
けれど、透は止めたいとは思わなかった。
時間が進めば、また明日が来る。
そして、その先には次の約束が待っている。




