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時と魔法と  作者: 牡丹
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7/14

第7章 止めたくない日曜日

 子猫を救った翌日の放課後、神代宗一郎は操作記録帳を3度読み返した。


 日時。水曜日、午後5時18分頃。


 場所。駅北側の路地。


 対象。交通事故によって瀕死となった野良の子猫。


 方向。時間退行。


 終点。負傷による時間の乱れが生じる直前。


 結果。外傷消失。呼吸、心拍ともに安定。動物病院での検査では、軽い栄養不足と脱水以外の異常なし。


 使用理由。救命。


 最後の2文字だけが、ほかの項目より濃く書かれていた。


「相沢君が最初から最後まで見ていたのだね」


「はい」


「能力についても、すべて話した」


「はい」


「国家へ報告していないことも」


「話しました」


 神代は操作記録帳を閉じた。


 旧・第二演習室の長机には、訓練器具が何も出されていない。今日は最初から、訓練を始めるつもりがないようだった。


「禁止したはずだ」


「わかっています」


「なぜ使った」


「許可を待っていたら、死んでいたからです」


「失敗すれば、君が殺していた」


「それも、わかっています」


 透は膝の上で両手を握った。


「でも、何もしないで死なせたら、助けられたかもしれないって一生考えると思いました」


 神代は黙っている。


 言い訳をすればするほど、自分の判断が正しかったと主張しているように聞こえそうだった。


 透は言葉を継がなかった。


 やがて神代が尋ねる。


「対象は、どう定めた」


「子猫の身体全部です。傷だけにすると、ほかの部分と時間がずれる気がしました」


「終点は」


「傷つく前の姿は見ていません。でも、触れたら時間の流れが切れている場所がわかりました。その直前まで戻しました」


「呼吸が安定したあと、さらに戻そうとは思わなかったか」


「思いませんでした。傷が消えたところで止めました」


「獣医師にも診せた」


「相沢さんと一緒に連れていきました」


 神代は椅子へ深く座り、目を閉じた。


 怒っているのだろう。


 透はそう思った。


「困ったものだ」


 神代が呟く。


「すみません」


「謝られて困っているのではない。君の判断が、手順を除けば妥当だったことに困っている」


「怒らないんですか」


「昨日と同じ質問だな」


 神代は目を開いた。


「規則は、守るためにある。だが、命を見捨てる言い訳にするためではない。緊急性があり、対象を限定し、終点を定め、第三者の診察まで受けた。無断使用を除けば、今の君にできる最善に近い」


「じゃあ、生き物にも使っていいんですか」


「訓練目的では、引き続き禁止する」


 神代は即答した。


「今回は成功しただけだ。猫と人間の時間が同じ構造だとも限らない。成功を許可と取り違えないこと」


「はい」


「ただし、同じように一刻を争う場面に遭遇した場合、何もするなとは言わない」


 神代は操作記録帳を透へ返す。


「対象、方向、終点を決める。終了後、必ず記録する。私へ報告する。そして医師や獣医師など、能力を知らない第三者に結果を確認してもらう。当面はこの4点を暫定規則とする」


「わかりました」


「相沢君には、いずれ私からも話をする。彼女が背負う危険を、君だけの説明で終わらせるわけにはいかない」


 透は頷いた。


 少し迷ってから、もう1つの許可を求める。


「学長」


「何かね」


「日曜日の訓練なんですけど」


「午前中だけにする予定だ」


「休みにできませんか」


 神代の片眉が上がる。


「理由を聞こう」


「相沢さんと出かける約束をしました」


「秘密について話すためか」


「それもありますけど」


 透は言葉を濁した。


 神代は数秒、透の顔を見た。


「デートか」


「どうしてわかるんですか」


「これでも君の4倍近く生きている」


「年齢の問題ですか」


「経験の問題だ。もっとも、最近の高校生の作法までは知らないが」


 神代は机の上のストップウォッチを道具箱へしまった。


「日曜日の訓練は中止する」


「いいんですか」


「代わりに課題を出す」


 神代は指を1本立てた。


「能力を1度も使わず、普通の高校生として1日を過ごしなさい」


「それが課題ですか」


「君は、この1か月で何度時間を止めた」


「記録帳を見ないと」


「既に、能力を使うことが日常へ入り始めているということだ」


 神代は透の両手へ視線を落とす。


「力を使わなければ解決できないことと、使わずに済むことを見分けなさい。普通に過ごすことも、君には必要な訓練だ」


「わかりました」


「それから、相沢君を夕方までに帰すこと」


「保護者みたいなことまで言うんですね」


「学生を守るのが学長の仕事だと言ったはずだ」


 金曜日の夜、美月から写真が届いた。


 スマートフォンの画面いっぱいに、白と茶色の子猫が映っている。新しい青い首輪をつけ、毛布の上からカメラを見上げていた。


『家族会議、全会一致で可決しました』


 続けて、もう1枚。


 子猫が美月の腕へ前脚をかけ、髪へ噛みつこうとしている。


『今日から相沢家の一員です』


 透は写真を拡大した。


 あの路地で途切れかけていた呼吸が、画面の向こうから聞こえる気がする。


『名前は?』


 送ると、すぐに返事が来た。


『コハク。目が琥珀色だから』


『いい名前だと思う』


『本人も気に入ってます』


『猫に聞いたの?』


『今、返事した』


 その直後、短い動画が送られてきた。


 美月が「コハク」と呼ぶたび、子猫が餌の皿へ顔を突っ込んでいる。名前ではなく餌へ反応しているようにしか見えなかった。


 透は1人で笑った。


 それから、美月とのメッセージ画面を何度も開いた。


 日曜日の待ち合わせは11時。


 行き先は教えてもらっていない。


 服装をどうすればいいのか聞きかけて、やめた。聞けば、自分がデートを意識しすぎていると伝わりそうだった。


 既に十分、意識している。


 前日の夜、透は普段着を3組並べ、結局いつもとほとんど変わらない服を選んだ。


 日曜日、透が駅前へ着いたのは10時38分だった。


 早すぎた。


 待ち合わせ場所の時計を見上げる。秒針は当然のように動いている。


 止めない。


 今日の課題だ。


 それ以前に、待ち合わせをするために時間を止めてどうするのだと思う。


 10時55分、美月が改札から出てきた。


 制服ではない彼女を見るのは初めてだった。


 淡い水色のブラウスに、白いスカート。肩へかけた小さな鞄には、猫の形をした飾りが揺れている。


 教室で何度も見ている顔なのに、別の人のように見えた。


 透が何も言えずにいると、美月が自分の服を見下ろす。


「変?」


「違う。似合ってる」


 考える前に答えていた。


 美月が目を丸くし、それから笑う。


「ありがとう。久世くんも、ちゃんと休日の人に見える」


「褒められてる?」


「制服以外も持ってたんだね、っていう驚き」


「それは褒めてないだろ」


 軽口を返せたことで、肩の力が少し抜けた。


「ところで、どこへ行くの?」


「水族館」


 美月は2枚の前売り券を見せた。


「この前のお礼。今日は私が案内します」


「チケット代、払うよ」


「駄目。人と猫、2つの命を助けた料金としては安いくらい」


「命に料金をつけないでよ」


「じゃあ、私が一緒に行きたいから買った。これならいい?」


 その言い方をされると、断れなかった。


 駅から電車で20分。


 水族館は海沿いの大きな公園の中にあった。


 休日の入口には家族連れが並び、能力者優先の案内口には銀色の標章をつけた人々が集まっている。


 通常入場の列は、それより長かった。


 美月が能力者用の入口を見て、小さく息を吐く。


「水族館まで分けなくていいのにね」


「混雑したとき、能力事故を防ぐためらしいよ」


「理由をつければ、何でも分けていいわけじゃないでしょ」


 美月は列の前へ向き直った。


 いつも明るい彼女が、能力による区分へこんな表情を向けることを、透は初めて知った。


 館内へ入ると、夏の光が遠ざかった。


 青い照明。頭上を流れる水の影。壁一面の水槽を、小さな魚の群れが銀色に光りながら横切っていく。


「きれい」


 美月が呟く。


 その横顔へ水面の光が揺れていた。


 透は水槽より先に、そちらを見てしまった。


「魚、見てる?」


「見てる」


「今、私のほう見てたよ」


「光が反射してたから」


「言い訳が下手」


 美月は楽しそうに歩き出した。


 大水槽の前では、巨大なエイが2人の頭上を滑るように通った。


 ペンギンの展示では、美月がガラス越しに何度も手を振った。ペンギンが偶然同じ方向を向くたびに、「今、通じた」と主張した。


 透が否定すると、コハクにも通じたのだから動物に好かれる才能がある、と反論された。


「能力測定には出なかったけどね」


「それを言ったら、俺も出なかった」


「じゃあ、私も測れない能力者かもしれない」


「国に隠さないと」


 そこまで言って、2人とも黙った。


 国家に隠すという言葉は、本来なら笑い話にできない。


 けれど、美月が先に小さく笑った。


「秘密の仲間だね」


 重いはずの言葉が、彼女の声を通ると少しだけ軽くなった。


 クラゲの展示室は、館内でも特に暗かった。


 円形の水槽の中を、半透明のクラゲがゆっくり昇り、沈んでいる。青や紫の光が一定の間隔で変わり、傘の輪郭を浮かび上がらせた。


 時計は見当たらない。


「ここ、時間がわからなくなるね」


 美月が言った。


「久世くんには、全部わかるの?」


「何でもわかるわけじゃないよ。時間へ触れられるだけ」


「この水槽だけ止めることもできる?」


「たぶん。でも今日は使わない」


「学長先生に言われた?」


「能力を1度も使わずに、普通の高校生として過ごせって」


「じゃあ私、訓練に協力してるんだ」


「デートじゃなかったの?」


 言ってから、透は自分で驚いた。


 美月も一瞬だけ目を丸くする。


「両方でいいんじゃない?」


 彼女は笑った。


 クラゲが2人の間を漂う。


 止めれば、この姿をいつまでも見ていられるのかもしれない。


 けれど、動いているから美しいのだと透は思った。


 形を変え、光を受ける場所を変え、同じ場所へ二度と戻らない。


 時間を止めないという選択にも、意味がある。


 昼食は、水槽の見える館内のカフェで取った。


 美月はコハクの写真を何枚も見せてくれた。


 餌の皿へ前脚ごと入っている写真。ソファの背もたれで眠る写真。美月の父親の新聞を破り、家族会議の決定が早くも揺らいでいるという動画。


「すっかり元気だね」


「元気すぎる。昨日なんて夜中の3時に顔を踏まれた」


「時間を戻せば、もう1回踏まれるところだ」


「それは戻さなくていい」


 美月は笑い、スマートフォンを伏せた。


「私ね、動物看護師になりたいんだ」


 突然の言葉に、透は顔を上げた。


「前から?」


「中学生の頃から。能力がないなら、普通に就職できればいいって言われることもあるけど、普通って誰が決めるのかなって」


 美月はストローの先で氷を揺らした。


「治癒能力があれば、傷を治せる。水を操れれば、災害現場で助けられる。でも、能力がない人にもできることはあるでしょ。怪我をした動物のそばにいて、怖くないように支えるとか」


「相沢さんに向いてると思う」


「どうして?」


「あの子猫を見つけたとき、最初に走ったから。骨が折れてるかもしれないって言ったら、無理に抱かなかった。俺より冷静だった」


「泣いてたけどね」


「泣きながらでも、必要なことはしてた」


 美月は少し照れたように視線を落とした。


「久世くんは、将来やりたいことある?」


「なかった」


「過去形?」


「能力がわかる前は、卒業して、入れそうな学校か会社を選ぶんだと思ってた。今は、それができるかもわからない」


「国に見つかるかもしれないから?」


 透は頷いた。


「でも、やりたいことが1つできた」


「何?」


「普通に卒業したい」


 夢と呼ぶには小さすぎる言葉だった。


 それでも、今の透には簡単ではない。


「自分で卒業したい。どこへ行くかも、何になるかも、そのあとで自分で決めたい」


 美月は笑わなかった。


「いい夢だと思う」


「地味じゃない?」


「久世くんらしい」


「それ、褒めてる?」


「今日は褒めてる」


 カフェを出たあと、2人は館内をもう1周した。


 美月が巨大水槽の前で写真を撮ろうと言い、2人で並んだ。透はカメラへどんな顔を向ければいいのかわからず、最初の写真では証明写真のような表情になった。


「固い。もう1枚」


「これでいいだろ」


「よくない。せっかくの初デートなのに」


 初デート。


 はっきり言われると、顔が熱くなる。


「笑って」


「急に言われても」


「じゃあ、コハクが今朝、カーテンを登って降りられなくなった話する?」


「それ、さっき動画で見た」


「お父さんの頭に落ちたところは見せてない」


 想像した瞬間、透は吹き出した。


 美月がシャッターを押す。


 撮れた写真には、笑いを堪えきれない透と、満足そうな美月が並んでいた。


「これは誰にも送らない。私だけ持ってる」


「消してもいいよ」


「嫌。久世くんが笑える証拠だから」


 美月は写真を大切そうに保存した。


 水族館を出ると、午後の光が眩しかった。


 海から吹く風に、潮の匂いが混じっている。


 公園の売店で、美月がカプセル玩具を1回だけ回した。中から出たのは、青いクラゲの小さなストラップだった。


「これ、あげる」


「相沢さんが当てたのに?」


「今日の記念。止めなかったクラゲ」


 透は受け取り、鞄の内側へつけた。


 外側につければ高瀬に質問される。そう説明すると、美月は少し残念そうにしたが、秘密の場所みたいでいいか、と納得した。


 帰りの電車は混んでいた。


 2人はドアのそばに並び、揺れるたびに肩が触れた。


 以前なら、そのたびに距離を取っていたかもしれない。


 今日は、どちらも動かなかった。


 駅へ戻ったのは、午後5時前だった。


 神代との約束どおり、夕方までには帰れそうだった。


 改札前で、美月が足を止める。


「今日はありがとう」


「それは俺が言うほうだろ。誘ってくれたし、チケットも」


「じゃあ、お互いありがとう」


「うん」


「次はどこ行く?」


 透は顔を上げた。


「次もあるの?」


「ないと思ってた?」


「今日のお礼で終わりかと」


「お礼は水族館の入場料まで。後半は普通に楽しかったから、次は久世くんが考えて」


 終わりだと思っていた1日の先に、次の約束が置かれた。


 止めなくても、時間は失われるだけではない。


 進んだ先にしかないものもある。


「考えておく」


「楽しみにしてる」


 美月は数歩進み、また戻ってきた。


「あと、1つ」


「何?」


「学校じゃないときまで、相沢さんって呼ぶの、ちょっと遠くない?」


 透の心臓が、時間停止の直前より強く鳴った。


「じゃあ、何て呼べば」


「名前」


「美月……さん」


 途中で敬称を足すと、美月が笑った。


「今日はそれで合格」


「今日は?」


「そのうち慣れるかもしれないから」


 美月は透の顔を覗き込む。


「私も、透くんって呼んでいい?」


「うん」


「じゃあ、また明日ね。透くん」


「また明日、美月さん」


 美月が改札の向こうへ消えるまで、透はその場に立っていた。


 能力は使っていない。


 それでも、数秒間だけ身体の動かし方を忘れていた。


 帰ろうとして振り返ったとき、人混みの向こうに見覚えのある顔があった。


 鷹宮怜司。


 休日らしい黒いシャツ姿で、駅前の歩道に立っている。隣には、以前一緒にいた能力者クラスの生徒がいた。


 鷹宮は透ではなく、美月が消えた改札を見ていた。


 やがて視線を透へ移す。


 目が合った。


 鷹宮の口元に、薄い笑みが浮かぶ。


 万年筆のインクが漏れたときとは違う、静かで冷たい笑みだった。


 声をかけてくることはない。


 鷹宮は連れとともに人混みへ消えた。


 透は美月へ知らせようか迷い、スマートフォンを取り出した。


 画面には、別れたばかりの彼女からメッセージが届いている。


『今日は楽しかった。また行こうね、透くん』


 透は鷹宮のことを書かなかった。


『俺も楽しかった。また明日、美月さん』


 そう返した。


 空には、夏の長い夕暮れが残っている。


 能力を1度も使わなかった1日は、どの停止時間より短く感じた。


 けれど、透は止めたいとは思わなかった。


 時間が進めば、また明日が来る。


 そして、その先には次の約束が待っている。


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