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時と魔法と  作者: 牡丹
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第6章 傷のなかった昨日

 土曜日の午前9時、透は訓練を始める前に言った。


「学長、話があります」


 神代宗一郎は3台のメトロノームを机へ並べる手を止めた。


 旧・第二演習室には、2人しかいない。


「体調のことかね」


「違います」


 透は昨夜から何度も考えた言葉を探した。


 もっと軽く言うこともできた。


 少し壊しただけです。


 相手にも非がありました。


 人間には使っていません。


 どれも嘘ではない。けれど、最初にそれを口にすれば、真実から遠ざかる気がした。


「昨日、能力を使いました。訓練以外で」


 神代は何も言わない。


「2年の能力者クラスの生徒が、高瀬を能力で押さえつけていました。俺が止めに入ったら、俺にも使ってきて」


「君は、その生徒を止めたのか」


「止めようとしました。でも、生き物には使うなって言われたのを思い出して、やめました」


「それから?」


「そいつの万年筆を拾って返すとき、少しだけ時間を進めました。中が劣化して、インクが漏れるところまで」


 演習室の空気が重くなった気がした。


 鷹宮の『重圧』とは違う。


 自分が、神代の返事を恐れているだけだった。


「怪我人は」


「いません」


「能力を見られたか」


「たぶん、誰にも。相沢さんは何か気づいたかもしれません」


「終点は決めたか」


「漏れるところまで。壊れきる前に止めました」


 神代は椅子を引き、透へ座るよう促した。


「なぜ使った」


「高瀬を助けるためです」


 答えた瞬間、それが違うとわかった。


 高瀬はもう解放されていた。


 万年筆を拾ったとき、危険は終わっていた。


「……違います」


 透は言い直した。


「腹が立ったからです。やり返したかった」


「後悔しているかね」


 答えに詰まった。


 神代が求めている正解はわかる。


 はい、と言えばいい。


 しかし、鷹宮の白い制服へインクが広がったときに感じた小さな満足は、今も残っている。


「少しは。でも……すっきりもしました」


 神代は目を閉じ、長く息を吐いた。


「よく話した」


 叱責を覚悟していた透は、顔を上げた。


「怒らないんですか」


「怒ってほしいのかね」


「そのほうが、正しい気がします」


「では、怒るのは後にしよう。今は君が嘘をつかなかったことのほうが重要だ」


 神代は道具箱を開き、1冊の薄いノートを取り出した。


 濃紺の表紙。罫線も学校名もない。


「これは?」


「操作記録帳だ。今日から、訓練を含めて能力を使ったら、必ず記録する」


 神代が最初のページを開く。


「日時、場所、対象、方向、終点、結果、体調。そして使用理由」


「理由まで?」


「理由が一番大切だ」


 神代はノートを透の前へ置いた。


「君の力が国家に知られていないことには、利点がある。だが同時に、誰からも監視されないという危険がある。通常の能力者なら、違反使用の記録が残る。教師や保護官が止める。君には、その外側で何でもできてしまう」


 透は濃紺の表紙へ触れた。


「だから、自分で自分を監視しろと」


「半分はそうだ。もう半分は、私に監視させなさい」


 神代は透の目を見た。


「秘密を守ることと、罪を隠すことは違う。この部屋の中でだけは、失敗も、醜い感情も隠さないと約束してほしい」


 透はノートを開いた。


 最初の行へ、昨日の日付を書く。


 場所――旧校舎渡り廊下。


 対象――鷹宮怜司の万年筆。


 方向――加速。


 終点――内部部品が劣化し、インクが漏れ始めるまで。


 結果――制服と手を汚した。怪我人なし。


 使用理由の欄で、ペンが止まる。


「報復」


 二文字を書いた。


 紙の上へ残すと、胸の中にあったときより重く見えた。


「処分はありますか」


「今日の訓練後、演習室の床掃除を追加する」


「それだけですか」


「万年筆の弁償を申し出れば、能力使用まで説明することになる。被害をなかったことに戻せば、また鷹宮君へ接触しなければならない。現時点で、処分のために秘密を危険へ晒すつもりはない」


 神代の声が厳しくなる。


「ただし、2度目は違う。私に話せない使い方は、最初からしないことだ」


「はい」


「それから、鷹宮君本人へ使わなかった判断は正しい。怒りながら生物の時間へ触れていれば、彼の制服ではなく、人生を汚していたかもしれない」


 透は昨日、鷹宮の顔を何10年も先へ進める想像をしたことを思い出した。


 胃の底が冷えた。


 神代は3台のメトロノームを動かした。


「では始めよう。今日は加速ではなく、停止範囲の復習だ」


「罰じゃないんですか」


「基礎に戻るのは罰ではない。力を持つ者が何度でも帰る場所だ」


 その日から、濃紺のノートが透の鞄へ加わった。


 訓練で釘の錆を進めれば書いた。


 割れたガラス板を10分前へ戻せば書いた。


 飛んできた消しゴムを反射的に1秒止めた日も、誰にも見られなかったと付け加えて記録した。


 鷹宮の万年筆について書かれた最初のページは消えない。


 消そうと思えば、紙の時間を戻して白紙にできる。


 透は1度もそうしなかった。


 さらに3週間が過ぎた。


 6月の雨が少しずつ弱まり、カレンダーは7月へ変わった。


 透は単純な物なら、止める、進める、戻すを大きく外さず行えるようになっていた。


 それでも、神代は生き物への干渉を許可しなかった。


「物には、1つの時間しかないように見える」


 ある日の訓練で、神代は言った。


「だが生き物には、心臓の時間、呼吸の時間、血液の時間、細胞の時間が重なっている。傷だけを戻したつもりで、心臓を生まれた時まで戻せば死ぬ。若返らせたつもりで記憶まで戻せば、それは同じ人間と言えるのか」


「過去の保持者は、できたんですよね」


「記録では。だが、彼が何を失敗したかは残されていない」


 その言葉が、透の中に残っていた。


 だから7月最初の水曜日、濡れた路地で美月が泣いていても、最初は力を使おうとは思わなかった。


 その日は、神代が校外会議へ出ていたため訓練が休みだった。


 6限目が終わる頃まで降っていた雨は、校門を出る頃には細い霧へ変わっていた。


「今日、資料整理ないんだ」


 美月が傘を閉じながら言った。


「担当の人がいないから」


「じゃあ、駅まで一緒に帰れる?」


「うん」


 2人で帰ることが、以前ほど不自然ではなくなっていた。


 高瀬は部活動の見学へ行き、教室の友人たちもそれぞれ別の方向へ散っている。美月は歩道の水たまりを避け、透はその歩調に合わせた。


 学校から駅へ向かう道を半分ほど進んだとき、小さな声がした。


 鳥の鳴き声にも聞こえた。


 美月が足を止める。


「今、猫の声しなかった?」


 もう1度、か細い声がした。


 大通りから外れた路地。雨水の流れる側溝のそばに、段ボール箱が倒れている。


 美月は迷わず駆け出した。


「相沢さん、待って」


 透もあとを追う。


 箱の陰に、小さな子猫がいた。


 白と茶色のまだら模様。濡れた毛が身体へ張りつき、手のひら2つ分ほどしかない。


 横腹の毛が赤く染まっていた。


 そばの路面には細いタイヤ痕が残り、割れた自転車の反射板が落ちている。車輪へ巻き込まれたのか、跳ねられたのかはわからない。


「そんな……」


 美月が膝をついた。


 子猫は逃げようと前脚を動かしたが、身体がついてこない。口を開き、声にならない息を吐く。


「触らないほうがいい。骨が折れてるかもしれない」


「でも、このままじゃ」


 美月は鞄からハンカチを出し、子猫の身体を囲うように敷いた。濡れた地面から持ち上げようとはせず、震える指でスマートフォンを操作する。


「近くの動物病院……駅の反対側。電話する」


 呼び出し音の間にも、子猫の呼吸は弱くなる。


「はい、猫が怪我をしてて、血が……場所は――」


 美月が路地の住所を伝える。


 電話の相手から何かを聞き、顔色を失った。


「20分……はい。連れていくなら、動かさないほうが……」


 通話を終える。


「往診はできないって。タオルか板に乗せて連れてきてって。でも、駅の向こうまで15分はかかる」


 子猫の胸が、小さく上下する。


 1度。


 長い間があって、もう1度。


 透は屈み込んだ。


 生き物には使うな。


 神代の禁止が浮かぶ。


 傷だけを戻したつもりで、心臓を壊すかもしれない。


 力を使えば救えるとは限らない。


 むしろ、残っているわずかな命まで自分が奪う可能性がある。


「どうしよう」


 美月の頬に水滴が流れた。


 雨なのか、涙なのかわからなかった。


「久世くん、この子、死んじゃう」


 助けを求められた。


 彼女は透の能力を知らない。


 それでも、交差点のときと同じ目で透を見ていた。


 透なら何かできると、根拠もなく信じる目だった。


 子猫の胸が、今度はなかなか上がらなかった。


「相沢さん」


 透は鞄を下ろした。


「そのまま支えてて。絶対に動かさないで」


「何をするの」


「助けられるかもしれない」


 神代へは、あとで必ず話す。


 操作記録帳にも書く。


 失敗したら、その失敗も隠さない。


 けれど、許可を待っている時間はない。


 透は子猫の頭と脇腹へ、そっと手を添えた。


 温かい。


 まだ、生きている。


 目を閉じる。


 リンゴへ触れたときのような、薄い層を探す。


 見つからない。


 代わりに触れたのは、無数の細い流れだった。


 弱い心臓の鼓動。


 途切れかけた呼吸。


 血が身体を巡る速さ。


 筋肉の震え。濡れた毛から奪われていく体温。


 1つの命の中で、いくつもの時間が別々の速度で進んでいる。


 どれを戻せばいい。


 迷った瞬間、子猫の身体が小さく痙攣した。


 美月が息を呑む。


「久世くん」


 全部だ。


 傷だけではなく、この子猫を1つの命として捉える。


 対象――腕の中にいる子猫。


 方向――過去。


 終点――傷つく前。


 だが、透はこの子猫が傷つく前の姿を知らない。


 どこまで戻せばいいのか、目では選べない。


 重なる流れの奥を探す。


 そこに、断裂があった。


 滑らかに続いていた時間が、鋭い刃物で切られたように乱れている場所。


 骨と肉が衝撃を受け、呼吸が崩れ、血が流れ始めた境目。


 ここだ。


 この境目の、直前まで。


 戻れ。


 指先から熱が消えた。


 世界の色が薄くなる。


 子猫の濡れた毛が、見えない風を受けたように揺れた。


 脇腹から流れていた血が、細い筋となって傷口へ戻っていく。裂けていた皮膚が寄り、赤い線が細くなり、毛の下へ消えた。


 浅かった呼吸が、1度止まった。


「え……」


 美月の声が震える。


 透は手を離さない。


 まだだ。


 身体の奥に残る乱れが、少しずつほどけていく。ずれていた時間が重なり、心臓の鼓動と呼吸が同じ流れへ戻る。


 終点。


 傷つく直前。


 透は命令を止めた。


 子猫の胸が大きく膨らんだ。


「にゃあ」


 さっきよりもずっと強い声だった。


 子猫が身を起こす。


 美月の手の中で前脚を突っ張り、濡れた身体を震わせる。飛び散った水滴が、透の頬へ当たった。


 横腹に傷はなかった。


 血で濡れていた毛も、根元から元の白さを取り戻している。


 子猫は美月の指へ鼻を近づけ、小さく鳴いた。


「治ってる……」


 美月は呟いた。


 透の視界が暗くなった。


 膝から力が抜け、濡れた地面へ手をつく。


「久世くん!」


「大丈夫」


「大丈夫じゃない。顔、真っ白だよ」


「初めてだったから、ちょっと疲れただけ」


「初めてって……」


 美月は子猫を抱えたまま、透を見た。


 驚き。恐れ。理解できないものを目の前にした戸惑い。


 そして、確信。


「あなた、能力者なの?」


 交差点の翌朝と、同じ問いだった。


 あのとき、透は「わからない」と答えた。


 今はもう、知らないふりをすることはできない。


「うん」


 透は答えた。


「俺の能力だ」


 路地へ、雨樋から落ちる水の音が響いた。


 美月は子猫へ視線を落とす。傷の消えた脇腹を確かめ、再び透を見る。


「時間を、戻したの?」


「傷つく前まで」


「じゃあ、あの交差点も」


「あのときは、時間を止めた」


 透は立ち上がろうとしたが、まだ足に力が入らなかった。


「ここだと人が来る。動物病院へ行こう。傷がなくても、ちゃんと診てもらったほうがいい」


 美月は頷いた。


 自分の薄手のカーディガンを脱ぎ、子猫を包む。透の腕を肩へ回し、身体を支えた。


「歩ける?」


「1人でも大丈夫」


「今の久世くんの『大丈夫』は信用しない」


 2人はゆっくりと駅の反対側へ向かった。


 動物病院の待合室は、消毒液と動物の匂いがした。


 受付で事情を聞かれ、美月は「路地で弱っていた」とだけ答えた。血のついたハンカチは、鞄の奥へ隠した。


 診察を終えた獣医師は、不思議そうに首を傾げた。


「痩せていて、少し脱水しています。でも、骨折も内臓の損傷も見当たりません。外傷もないですね」


「本当に?」


「ええ。温かくして、水と消化のよい餌を少しずつ与えてください。飼い主が見つかるまでは、うちで預かることもできますが」


 美月はキャリーケースの中にいる子猫を見た。


「今夜は、私が連れて帰ります。家族に相談します」


 病院を出る頃には、空が薄暗くなっていた。


 雨は完全に上がり、雲の切れ間が西の空だけ淡く光っている。


 2人は病院脇の屋根があるベンチへ座った。


 美月の足元では、病院から借りたキャリーケースの中で子猫が丸くなっている。


「話して」


 美月が言った。


「今度は、全部」


 透は濡れた自分の手を見る。


 話せる時まで待つと、美月は言ってくれた。


 その時が来たのだと思った。


「能力の名前は、『時の番人』」


 時間を止められること。


 対象を選び、停止の中で動ける者も選べること。


 触れた物の時間を進め、あるいは実在した過去まで戻せること。


 通常の能力と違い、魔素を物質へ変えないため、測定で見落とされたこと。


 数100年前に1人だけ、同じ能力を持つ者がいたこと。


 国家によって自由を奪われ、やがて消えたこと。


 学長と榊原が、透を同じ目に遭わせないため秘密を守り、放課後に訓練していること。


 話し終えるまで、美月は1度も口を挟まなかった。


「クラウンクラスなんだ」


「そう言われた」


「国に知られたら、本当に連れていかれるの?」


「可能性が高いって。どこで暮らすかも、誰と会うかも、自分で決められなくなるかもしれない」


 美月はキャリーケースの取っ手を握った。


「だから話せなかったんだね」


「相沢さんまで危険になる」


「私は最初から見ちゃってたよ」


「でも、詳しく知れば」


「知らなくても、久世くんが困ってるのはわかった」


 責める声ではなかった。


「交差点で、私だけが動けたのも、久世くんが選んだの?」


「意識してはいなかった。ただ、助けたいと思った。学長は、それで無意識に相沢さんを停止から外したんだろうって」


 美月は、少しだけ笑った。


「そっか」


「何?」


「ちゃんと、久世くんが助けてくれたんだと思って」


「それは、前にも」


「前は、久世くん自身が認めてくれなかったから」


 透は言葉を失った。


 美月はキャリーケースの隙間から指を入れる。子猫がその指先へ鼻を寄せた。


「怖くないの」


 透は尋ねた。


「俺は、この子を治せた。でも、戻しすぎていたら、もっと小さくしてたかもしれない。生まれる前まで戻したら、消してたかもしれない」


「怖いよ」


 美月は正直に答えた。


「そんな力があるって知ったら、怖い。でも、力を持ってる久世くんまで怖いとは思わない」


「どうして」


「怖がってるから」


「俺が?」


「うん。自分が間違えるかもしれないって、ずっと怖がってる。何でもできると思ってる人より、私はそっちのほうを信じたい」


 鷹宮の顔が脳裏に浮かんだ。


 能力を持つことを、自分が上に立つ理由だと信じている男。


「そういえば」


 美月が横目で透を見る。


「鷹宮先輩の万年筆も?」


 透の肩が跳ねた。


「……どうして」


「久世くんが返した直後だったから。あのとき、指を気にしてたし」


「見てたんだ」


「偶然かなとも思ったけど、今日のを見たら」


 透は観念した。


「少しだけ、時間を進めた」


「やっぱり」


「学長には話した。記録もした」


「怒られた?」


「床掃除させられた」


 美月が吹き出した。


「それだけ?」


「次はないって言われた」


「そっか」


 笑いを収め、美月は少し考える。


「よくないことだとは思う」


「うん」


「でも、ちょっとだけすっきりしたのも本当」


「相沢さんまで、そんなこと言うんだ」


「私だって腹は立つよ」


 2人の間に、初めて秘密を共有したあとの静けさが降りた。


 重くはなかった。


 これまで透1人が持っていた荷物の端を、美月が少しだけ持ってくれたような静けさだった。


「誰にも言わない」


 美月が言った。


「能力の名前も、学長先生のことも、今日この子にしたことも」


「でも、相沢さんも危険になる」


「今さら知らなかったことにはできないよ」


「時間を戻せば、できるかもしれない」


 言ったあとで、透は自分の言葉にぞっとした。


 人の記憶へ触れる。


 美月の時間を、秘密を知る前まで戻す。


 神代が言っていた。記憶まで戻した人間を、同じ人間と呼べるのか。


「しないで」


 美月の声が、はっきりと響いた。


「私の時間は、私のものだから」


 透は頷いた。


「しない。絶対に」


 美月は透を見つめ、それから表情を緩めた。


「じゃあ、約束」


「約束する」


 キャリーケースの中から、小さな鳴き声がした。


 美月が蓋越しに子猫を撫でる。


「この子のこと、ありがとう」


「俺が勝手にやっただけだよ」


「私のときも、そう言うつもり?」


 透は返事ができなかった。


「あの日も、今日も助けてくれた。ちゃんとお礼をさせて」


「別に、何も」


「そう言うと思ったから、私が決める」


 美月はスマートフォンを取り出し、予定表を開いた。


「次の日曜日、空いてる?」


「訓練が入るかも」


「学長先生に聞いてみて。午後だけでもいいから」


「どこか行くの?」


「うん。久世くんと」


「2人で?」


「子猫を挟まないで話せるところへ」


 美月は冗談めかして言った。


「それって」


 口にしてから、透は続きを言えなくなった。


 美月が首を傾げる。


「デート?」


「それ、俺が聞こうとした」


「じゃあ、デートでいいよ」


 あまりに簡単に言われ、透の思考が止まった。


 能力を使っていないのに。


「嫌?」


「嫌じゃない」


 答えだけが先に出た。


「じゃあ決まり。日曜日、11時に駅前」


 美月は予定表へ入力する。


 透もスマートフォンを取り出したが、画面を開いたまま何をすればいいのかわからなかった。


「予定、入れないの?」


「入れる」


 7月の日曜日。


 午前11時。


 相沢さんと――。


 「外出」と入力しようとして、指を止める。


 隣から美月が画面を覗き込んでいた。


「デート」


 そう入力した。


 美月が満足そうに笑う。


 その笑顔を見ていると、クラウンクラスも、国家機密も、数100年前の悲劇も、ほんの少しだけ遠くなった。


 傷ついた子猫を、傷のなかった昨日へ戻した日。


 透の予定表には、初めて誰かと選んだ未来が書き込まれた。


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