第5章 正しさの重さ
2つの時計に追われる生活が、2週間続いた。
昼間は、1年4組の壁時計。
朝の予鈴まであと3分。昼休みが終わるまであと7分。6限目の終了まで、あと42分。
放課後は、旧・第二演習室のストップウォッチ。
局所停止、3.8秒。
休憩、5分。
局所停止、6.2秒。
休憩、10分。
最初の数日は、1度成功するたびに鼻血が出た。
1週間が過ぎる頃には、1台のメトロノームだけなら5秒ほど止められるようになった。10日目には、隣り合う2台のうち片方だけを止めても頭痛が起きなくなった。
2週間目の終わりには、単純な非生物を10秒前後、周囲から切り離せるようになっていた。
教室では何も変わらなかった。
高瀬颯太は小テストのたびに一夜漬けを誓い、相沢美月は透が放課後に残る日だけ、朝のうちに「今日も?」と聞いた。
透が頷くと、美月も頷いた。
それ以上は尋ねない。
その短いやり取りが、いつの間にか2人だけの合図になっていた。
変わったことがあるとすれば、透自身だった。
窓から落ちる雨粒を見れば、どれか1つだけを止めるなら、と考える。
廊下を走る生徒を見れば、靴だけを止めたらどうなるのかと想像し、すぐにその考えを振り払う。
机や椅子へ触れるたび、そこに重なった時間を意識する。
昨日ついた傷。
1年前の艶。
木だった頃まで戻せるのか。
世界は以前と同じ速さで動いているのに、あらゆる物が過去と未来を隠し持っているように見え始めていた。
「今日は、止めない」
金曜日の放課後、神代宗一郎はそう言った。
旧・第二演習室の長机には、白い皿が2枚置かれている。片方には切ったばかりのリンゴが3切れ。もう片方には、表面が茶色くなったリンゴが3切れ並んでいた。
「ついに食べ物が出た」
「腹が減っているのかね」
「6限目が体育だったので」
「訓練用だ。成功しても食べないように」
神代は釘を刺した。
「時間を操作した物を食べたら、どうなるんですか」
「わからない」
「わからない物を生徒に触らせるんですか」
「だから食べるなと言っている」
相変わらず、反論しにくい。
神代は黒板へ3つの言葉を書いた。
対象。方向。終点。
「停止範囲の選択は、最低限の水準に達した。今日から時間加速と退行へ進む」
「2週間前に、もう花を戻しました」
「あれは制御ではない。戻したというより、止め方がわからず、慌てて手を離しただけだ」
否定できなかった。
「まずは加速だ。このリンゴを、30分後の状態まで進める」
神代が、切ったばかりの1切れを皿の中央へ置いた。
「30分後って、正確にわかるんですか」
「わからないから、隣に見本を置いてある。色と水分の失われ方を覚えなさい。終点を時間の数字だけで決める必要はない。状態で決めてもよい」
透は見本のリンゴを手に取った。
表面の色。指に触れる湿り気。縁のわずかなしなび方。
次に、新しいリンゴへ触れる。
対象は、この1切れ。
方向は、未来。
終点は、見本と同じ状態。
目を閉じると、指先に奇妙な感覚があった。
物へ触れているというより、薄い紙が無数に重なった束へ触れている感覚。
一番上にあるのが現在だ。
その下には過去があり、まだ形になっていない未来は、指の向こうへ伸びている。
進め。
リンゴの表面から、白さが失われた。
薄い黄土色が滲み、少しずつ濃くなる。水分が浮かび、乾き、果肉の縁が柔らかく沈んでいく。
「終点を見なさい」
神代の声がする。
見本と同じ色。
そこで止める。
透は指を離した。
皿の上には、見本とほとんど見分けのつかないリンゴがあった。
「32分前後」
神代が2つを見比べる。
「10分な精度だ」
「できた……」
花を戻したときのような激しい疲労はなかった。額の奥へ軽い圧迫感があるだけだ。
「次は退行。同じ1切れを、切られた直後へ戻す」
「元の丸いリンゴには戻さないんですか」
「今の君が触れている対象は、切り分けられた一片だ。どこまでを1つの対象として認識できるかによって結果は変わる。最初から複雑なことをする必要はない」
透は茶色くなったリンゴへ、もう1度触れた。
今度は、指先の下に重なる薄い層を手前へめくるように意識する。
未来ではなく、既に通り過ぎた場所へ。
戻れ。
茶色い表面が薄くなった。
失われた水分が果肉へ戻り、しなびていた縁が張りを取り戻していく。
白くなった瞬間、透は手を離した。
神代が新しいリンゴと並べる。
「成功だ」
「これなら、何でも新品にできますね」
「新品だったことのある物なら、だ」
神代はリンゴへ視線を落とした。
「君の力は、壊れた物を理想の形へ直す力ではない。その物が実際に持っていた過去へ戻す力だ。存在しなかった状態は作れない」
「過去がなければ、戻れない」
「そうだ。覚えておきなさい」
命を無から生み出せないという話と、同じだった。
透は白さを取り戻したリンゴを見る。
元へ戻ったように見えても、失敗した32分が消えたわけではない。
自分だけが、それを覚えている。
「もう1度、加速を」
訓練は続いた。
2切れ目は、終点を越えた。
茶色を通り過ぎ、果肉が崩れ、甘酸っぱい匂いが腐敗臭へ変わる。透が慌てて手を離したときには、表面に白い黴が浮いていた。
3切れ目は、怖くなって途中で止めた。
4切れ目で、再び見本と同じ状態へ進めることができた。
神代は成功よりも、失敗したリンゴを長く見せた。
「時間は君の命令に従う。命令が正しいかどうかは判断しない」
黴の浮いた果肉が、照明の下で黒ずんでいる。
「直そうとして戻しすぎれば、別の形で壊す。悪人を止めようとして身体の一部だけを止めれば、その者が動いた瞬間に何が起きるかわからない」
透は、廊下を走る生徒の靴を止める想像をしたことを思い出した。
「能力に善悪はない、と言いたいんですか」
「違う」
神代は即座に否定した。
「力を使う者には善悪がある。だから難しいのだ」
「正しい相手に使えば、いいんじゃないですか」
「誰が正しい相手を決める」
「それは……」
「君だ」
神代は透を見た。
「最後には必ず、君が決める。国でも、教師でも、能力そのものでもない。その責任から逃げないために、境界を持ちなさい」
「境界?」
「何があっても使わない相手。使わない方法。超えてはならない終点。力が必要になる前に決めておく。怒りの中で初めて考えれば、答えは必ず怒りに都合のよいものになる」
演習室の隅で、メトロノームが時を刻んでいた。
透は頷いた。
生き物の時間は動かさない。
誰かを傷つけるために使わない。
そんなことは、言われるまでもないと思った。
訓練が終わったのは、午後6時を少し過ぎた頃だった。
神代は失敗したリンゴを金属製の容器へ入れ、蓋を閉じた。
「今日はここまで。手洗い場で指先をよく洗ってから帰りなさい」
「明日は土曜日ですけど」
「午前9時」
「平日の放課後だけじゃなかったんですか」
「君が32分という妙な成功を見せたので、予定を増やした」
「成功した罰みたいになってません?」
「強くなりたいのだろう」
「暴走しないようになりたいんです」
「同じことだ。制御できない力を、強いとは呼ばない」
神代に言い返せず、透は演習室を出た。
管理棟の手洗い場で、石鹸を2度使った。
指からリンゴの匂いが消えても、腐っていく果肉の感触は残っていた。
昇降口へ向かう途中、旧校舎へ続く渡り廊下から物音が聞こえた。
紙の束が床へ落ちる音。
続いて、誰かの短い呻き声。
透は足を止めた。
関わらないほうがいい。
訓練の疲れが残っている。神代からも、まっすぐ帰るよう言われている。
それでも、聞き覚えのある声だった。
渡り廊下を曲がる。
高瀬が床へ片膝をついていた。
周囲には、運ぶ途中だったらしいプリントが散らばっている。その前に、銀色の標章をつけた男子生徒が3人立っていた。
2年生の能力者クラス。
中央にいる男を、透も知っていた。
鷹宮怜司。
能力者クラスの実技試験で上位に名を連ね、全校集会では模範生徒として紹介されたこともある。整った顔立ちと、教師の前で見せる礼儀正しさから、学年を越えて名前が知られていた。
今、その顔には笑みがなかった。
「だから、謝り方が違うと言っている」
鷹宮が高瀬を見下ろしている。
「すみませんでした、って言っただろ」
高瀬は立ち上がろうとした。
その身体が、見えない手で押されたように再び沈む。
床板が小さく軋んだ。
固有能力『重圧』。
指定した範囲へ、通常の何倍もの重力負荷をかける能力だと聞いたことがある。
「能力者クラスの制服を汚して申し訳ありませんでした、だ」
鷹宮の革靴には、薄く埃がついているだけだった。
「プリント運んでて、見えなかったんだよ。わざとじゃない」
「言い訳までつけろとは言っていない」
鷹宮の指がわずかに下がる。
高瀬の両手が床についた。苦しげに息を吐く。
「何してるんですか」
透は声を出していた。
3人が振り返る。
高瀬も顔を上げた。
「久世、来るな」
普段の軽さがない声だった。
「そのプリント、榊原先生に頼まれたものです。遅くなったら、先生が探しに来ます」
鷹宮の視線が、透の襟元で止まる。
銀の標章がないことを確かめたのだ。
「通常クラスか」
「そうです」
「なら、能力者の指導に口を出さないでもらえるかな」
「これは指導じゃないでしょう」
鷹宮の隣にいた生徒が笑った。
「聞いたか。能力なしが鷹宮に説教してる」
透の肩へ、急に重さがのしかかった。
鞄へ教科書を何10冊も詰め込まれたような重さではない。
身体そのものが、床へ引かれている。
膝が曲がった。
「礼儀は、身の丈に合わせたほうがいい」
鷹宮の声は穏やかだった。
透は歯を食いしばる。
止められる。
鷹宮の身体を止めれば、能力も止まるかもしれない。
指だけ。
声だけ。
あるいは、あの余裕のある顔だけを、何10年も先へ――。
周囲の音が遠ざかった。
時間停止の前触れだった。
透は床へ手をつく。
生き物へ使うな。
神代の声を思い出す。
悪人を止めようとして身体の一部だけを止めれば、その者が動いた瞬間に何が起きるかわからない。
鷹宮は嫌な人間だ。
だからといって、壊していい人間ではない。
透は命令を飲み込んだ。
薄くなりかけた音が戻る。
肩へかかる重みは消えない。
「そこまでにしてください」
別の声がした。
渡り廊下の入口に、美月が立っていた。
図書委員の腕章をつけ、返却用の本を数冊抱えている。
「相沢、関係ない。行け」
高瀬が言った。
「関係あるよ。同じクラスの人が2人も床に押さえつけられてるんだから」
美月は鷹宮を見た。
「能力の校内使用は、訓練区域以外では禁止ですよね。今から職員室へ行きます」
「大げさだな。少し話をしていただけだよ」
鷹宮は、美月に対しては笑顔を見せた。
「話をするのに、能力が必要なんですか」
笑顔がわずかに固まる。
鷹宮が指を下ろした。
透の肩から重みが消える。高瀬も大きく息を吐き、その場へ座り込んだ。
「誤解させたなら謝るよ」
鷹宮は制服の袖を整えた。
「高瀬君がぶつかったまま行こうとしたから、呼び止めただけだ」
「最初に謝ったって言ってました」
「君は見ていなかっただろう」
「今のは見ました」
2人の視線がぶつかる。
やがて鷹宮は肩をすくめた。
「通常クラスは、仲間思いで結構なことだ」
透の横を通り過ぎる。
そのとき、鷹宮の胸ポケットから銀色の万年筆が落ちた。
床を転がり、透の手元で止まる。
「落としました」
透は拾い上げた。
金属製の重い軸。目立つ傷はなく、持ち主の制服より高価そうに見える。
鷹宮が手を差し出す。
「ありがとう」
透は万年筆を握った。
指先の奥に、薄い層が重なる。
現在。
その向こうにある未来。
金属の軸は長く形を保つ。
けれど、内部のゴムは硬くなり、継ぎ目は痩せ、インクを閉じ込める力を失っていく。
10年後まで進める必要はない。
漏れるところまで、少しだけ。
神代の言葉が浮かんだ。
時間は、命令が正しいかどうかを判断しない。
透は、指先の層を1枚だけ向こうへ送った。
こめかみに小さな痛みが走る。
「どうした?」
鷹宮が尋ねる。
「いえ」
透は万年筆を返した。
「どうぞ」
「ずいぶん丁寧だね」
鷹宮は受け取り、胸ポケットへ戻した。
美月が高瀬のそばへしゃがみ込む。
「立てる?」
「足、痺れた。重力って正座よりひどいな」
いつもの調子を取り戻そうとしているが、声が少し震えていた。
透も散らばったプリントを集め始める。
「久世くんは大丈夫?」
「俺は、少しだけだったから」
美月が透の肩についた埃を手で払った。
その様子を、立ち去ろうとしていた鷹宮が振り返って見ていた。
「相沢さん」
鷹宮が呼ぶ。
「能力もない連中へ、ずいぶん親切なんだな」
「能力がないことと、親切にすることに関係ありますか」
「いや。君らしいと思っただけだ」
鷹宮は笑い、今度こそ背を向けた。
数歩進んだところで、隣の生徒が声を上げた。
「鷹宮、ポケット」
白い制服の胸元に、黒い染みが広がっていた。
最初は小さな点だったものが、布地へ吸われ、歪な花のように大きくなる。鷹宮が慌てて万年筆を抜くと、継ぎ目からインクが流れ、指まで黒く染まった。
「何だ、これ」
軸をひねった瞬間、硬くなっていた内部部品が砕けた。黒い雫が床と革靴へ飛び散る。
隣の2人が、笑いを堪えるように顔を背けた。
「笑うな」
鷹宮の声が廊下へ響く。
高瀬が透の隣で、小さく吹き出した。
「高そうなのに。罰当たったな」
「……そうだな」
透は返した。
美月だけが、鷹宮ではなく透を見ていた。
何かに気づいたのかもしれない。
けれど、彼女は何も言わなかった。
3人でプリントを拾い終え、職員室へ運んだ。
高瀬は何度も礼を言った。美月は鷹宮のことを榊原へ報告すべきだと主張したが、高瀬は騒ぎを大きくしたくないと言った。
能力者クラスの上位生徒と揉めれば、通常クラス側の証言がどこまで通るかわからない。
そんな諦めが、冗談ばかり言う友人の声に混じっていた。
校門を出る頃には、空は紫色に暮れていた。
透は2人と別れ、1人で駅へ向かった。
指先には、万年筆の冷たい感触が残っている。
鷹宮本人へ能力を使わなかった。
高瀬を傷つけるために使われていた力を、止めようともしなかった。
ただ、物を少し古くしただけだ。
誰も怪我をしていない。
そう言い訳を並べるほど、自分が報復したのだという事実が鮮明になる。
神代に報告すれば、叱られるだろうか。
境界を破ったと言われるだろうか。
透は連絡先カードの入った鞄へ手を伸ばしかけ、やめた。
明日の訓練で話せばいい。
そう思った。
けれど、本当はわかっていた。
話すつもりなら、今ここで連絡できる。
鷹宮の白い制服へ黒い染みが広がったとき、胸の奥が少しだけ軽くなった。
それはきっと、正しい使い方ではなかった。
それでも透は、後悔だけをしているわけではなかった。
その小さな満足が、肩に残る『重圧』よりも、ずっと重かった。




