第4章 1秒の輪郭
自分の秘密に名前がついた翌朝も、久世透の席は1年4組の後ろから二番目にあった。
能力者クラスへの転籍通知はない。
教室へ入っても誰かが振り返ることはなく、高瀬颯太は前の席で大きな欠伸をしていた。黒板の隅には日直の名前があり、窓際では昨日と同じ生徒たちが昨日の続きのように笑っている。
変わっていない。
神代宗一郎から世界を壊し得る力だと告げられたあとでは、その変わらなさが奇跡のように思えた。
「久世、お前また寝不足?」
高瀬が振り返り、透の顔を覗き込む。
「そんな顔してる」
「どんな顔」
「深夜まで試験勉強して、範囲を間違えた顔」
「経験あるの?」
「先月やった」
高瀬は胸を張った。
くだらないやり取りに、透は少しだけ笑った。
笑えることにも驚いた。
教室の前方で、榊原真帆が朝の連絡を始める。透と目が合ったのは一瞬だけだった。昨日、枯れかけた花が蕾へ戻るのを目撃した教師の顔ではない。いつもどおり、提出期限を守らない生徒へ淡々と釘を刺す担任の顔だった。
「それと久世。今日の放課後、学長室の資料整理を手伝ってもらうことになったから、忘れないように」
「はい」
教室がわずかにざわついた。
「何したの、お前」
高瀬が声を潜める。
「何もしてない」
「何もしてないやつが学長室に呼ばれるか?」
「資料整理だって言ってただろ」
「学長直々に雑用を任される普通の1年生。怪しい」
「榊原先生が人手を探してただけだよ」
昨夜、神代と榊原から教えられたとおりに答えた。
高瀬はまだ疑わしそうだったが、朝の小テストが配られると、透の秘密より自分の点数を心配し始めた。
透は胸を撫で下ろす。
たった1つ嘘をつくだけで、日常は昨日と同じ顔を保ってくれる。
それが安堵であると同時に、思っていたより苦しかった。
2限目が終わった休み時間、美月が透の席へ来た。
以前なら、それだけで周囲の視線が集まっただろう。けれど、交差点の事故以来、美月が透と言葉を交わすことは、教室の中で少しずつ珍しくなくなっていた。
「昨日、先生に相談したの?」
声を落として尋ねられる。
「うん」
「どうだった?」
どこまで話していいのか迷った。
能力の名。数100年前の保持者。国家に知られれば自由を失う可能性。そして、秘密を知る美月まで危険に巻き込まれること。
何も話せなかった。
「信じてもらえた」
透は、嘘にならない部分だけを選んだ。
「詳しい人も見つかった。しばらく、その人に教えてもらう」
「それが、資料整理?」
美月は学長室という言葉を聞き逃していなかったらしい。
「……表向きは」
「そっか」
それ以上、彼女は聞かなかった。
「怖いことじゃない?」
代わりに、そう尋ねた。
「少しは」
「少しだけ?」
「かなり」
正直に言うと、美月は困ったように笑った。
「じゃあ、ちゃんと怖がったほうがいいよ」
「普通、励ますところじゃないの」
「大丈夫って言って、本当は大丈夫じゃなかったら困るから」
美月らしい答えだと、透は思った。
「でも、1人じゃなくなったならよかった」
予鈴が鳴り、美月は自分の席へ戻っていく。
話せる時まで待つとも、秘密を守るとも、彼女はあらためて言わなかった。
言う必要がないと思っているのだ。
透は、その信頼を裏切りたくないと思った。
放課後、透は鞄を持って教室を出た。
高瀬から「機密文書を見つけたら写真を撮れ」と頼まれたが、笑って断った。廊下の角では榊原が待っていた。
「体調は?」
「大丈夫です」
「頭痛や吐き気は」
「ありません」
「無理だと思ったら、すぐに学長へ言うこと。隠して頑張るのが一番危険だから」
榊原はそれだけ伝えると、ほかの生徒に見られないよう先に職員室へ戻った。
学長室で待っていた神代は、昨日と違い上着を脱いでいた。白いシャツの袖を肘までまくり、机の上には授業で使うような道具箱がある。
「来たね」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。世界を止める生徒を教えるのは初めてだ」
冗談なのか判断できず、透は頭を下げたまま固まった。
「今のは笑ってもよいところだよ」
「すみません」
「謝るところでもない」
神代は小さく笑い、部屋の奥にある書棚へ向かった。
本を1冊抜くと、棚の内側で何かが鳴った。書棚全体が音もなく横へ滑り、下へ続く狭い階段が現れる。
「そんな場所が……」
「能力者教育が今ほど制度化される前、この学校では危険な訓練を校内で行っていた。その頃の演習室だ」
神代が壁の照明をつける。
「今の設備網からは切り離されている。ここでどれだけ力を使っても、中央の観測装置へ自動送信されることはない」
階段の先には、重い鉄扉があった。
神代が古い鍵を差し込み、2度回す。
扉の向こうは、学校の地下とは思えないほど広かった。
窓のない正方形の部屋。床と壁は灰色の石材で覆われ、ところどころに焦げ跡や刃物で削ったような傷が残っている。天井には白い照明が並び、中央には長机が1つ置かれていた。
「旧・第二演習室。壁には魔素、音、衝撃を遮る処理が施してある。今は私と榊原先生しか使わない」
「第一もあるんですか」
「あった。40年前に半分吹き飛んだ」
透は返す言葉を失った。
「安心しなさい。君に壁を吹き飛ばす訓練はさせない」
「時間を進めたら、崩れるかもしれません」
「なるほど。その可能性はあったな」
神代は真顔で壁を見た。
透は、やはり冗談なのか判断できなかった。
長机の上には、3台の振り子式メトロノームが置かれていた。その隣に、掌へ収まる透明なガラス球と、白い布、古いストップウォッチがある。
「始める前に、3つ覚えてもらう」
神代は黒板へ向かい、白いチョークで言葉を書いた。
対象。
方向。
終点。
「君の力は、命令が曖昧でも働く。むしろ、曖昧だからこそ広がる。交差点で君は『止まれ』とだけ願った。何を止めるか決めなかった結果、世界が命令の対象になった」
「世界全部が、本当に止まってたんですか」
「確認する方法はない。地球の反対側にいた者にとって、止まった時間は存在しなかったのだからね」
神代は「対象」の下へ線を引いた。
「だが、少なくとも君が認識していた範囲より広く止まった可能性はある。だから最初に、何へ命令するのかを決める」
次に、「方向」を指す。
「止めるのか、進めるのか、戻すのか」
最後に、「終点」。
「いつまで止めるのか。どの時点まで進め、どこまで戻すのか。終点を持たない時間操作は、対象が壊れても続く」
ペンの残骸が脳裏に浮かんだ。
透は両手を握った。
「今日やるのは、停止だけですか」
「そうだ。時間の加速と退行は、停止より取り返しがつかない。生き物への干渉は、私が許可するまで禁止する」
「わかりました」
「まずは、自分の意思で発動してみなさい」
神代が中央のメトロノームを動かした。
振り子が一定の速さで左右へ揺れ、乾いた音が演習室に響く。
「この1台だけを止める。ほかの何も止めず、1往復分だけ」
透はメトロノームの前へ立った。
対象は、中央の1台。
方向は、停止。
終点は、1往復分。
心の中で繰り返す。
止まれ。
振り子は動き続ける。
もう1度。
止まれ。
何も起きない。
5分後も、10分後も同じだった。
透の額に汗が滲む。能力を使った疲れではない。何も起こせない焦りで、呼吸だけが浅くなっていく。
「焦る必要はない」
神代は壁際の椅子へ座っていた。
「でも、昨日は花を戻せました」
「昨日は、自分の記憶が嘘ではないと証明したかった。強い目的があった。今の君は、私に言われたから止めようとしているだけだ」
「目的がなければ、使えないんですか」
「今は、ということだ。君は能力へ命令を届ける道を、感情の中にしか持っていない」
神代は机の前へ来ると、3台のメトロノームをすべて動かした。
速度を少しずつ変えてある。3つの音が重なり、すぐにずれ、また近づいていく。
「音を聞きなさい。1つだけを追う」
透は目を閉じた。
右。中央。左。
3つの音を分けようとするほど、1つの騒音へ溶けてしまう。
中央だけ。
中央の振り子だけを、意識の中で囲む。
止まれ。
音は続いた。
「もう1度」
何度試したかわからなくなった頃、神代がメトロノームを止めた。
「今日はここまでにしよう」
「まだできます」
「能力訓練で一番危険なのは、失敗を取り戻そうとすることだ。焦りは命令から終点を奪う」
神代は机の上の道具を片づけ始めた。
透明なガラス球を手に取る。
「それは何に使うんですか」
「本来は、停止した対象へ触れられるかを確認するものだ」
神代の指から、ガラス球が滑った。
透には、故意なのか偶然なのかわからなかった。
球の真下には、硬い石の床がある。
割れる。
そう思った瞬間、音が消えた。
ガラス球が、床から十センチほどの空中に止まっている。
白い照明は光を保ったまま死に、3台のメトロノームも振り子を傾けた姿勢で固まっていた。
神代は立ったまま動かない。
「また、全部……」
透の声だけが、静寂の中へ落ちる。
失敗だ。
ガラス球だけを止めるべきだった。それなのに、演習室のすべてを止めてしまった。
あるいは、この部屋の外も。
学校も、街も、世界も。
焦りが胸を締めつける。
時間を動かそうとしたとき、神代の言葉が浮かんだ。
対象を選ぶ。
今、止めなくていいものは何だ。
自分。
そして、神代。
透は止まった学長を見た。
「神代学長は、動いていい」
命令を言葉にする。
神代の右手が、わずかに揺れた。
透は息を呑む。
「学長だけ、動け」
神代が瞬きをした。
次の瞬間、大きく息を吸い、周囲を見回す。空中のガラス球と、完全に静止したメトロノームを確認し、最後に透を見た。
「聞こえるかね」
「はい」
初めて、停止した時間の中で美月以外の声を聞いた。
「成功だ、久世君」
「全部止めました。失敗です」
「最初の課題には失敗した。だが、止めたあとで私だけを選び直した」
神代は空中のガラス球へ近づいた。
「能力が暴発したあとでも、選択を変えられる。これは重要な発見だ」
指先で球に触れようとし、寸前で止める。
「落下の途中にある物へ不用意に触れないこと。再開時に運動がどう引き継がれるか、まだわからない」
「交差点では、俺が相沢さんに触れました」
「彼女は停止対象から外れていた。止まっている物と、動ける者では条件が違うかもしれない」
神代は球の真下へ、机にあった白い布を何重にも畳んで置いた。
「終点を決める。私が3つ数えたら、全体を動かす」
「はい」
「1、2、3」
透は命じた。
動け。
世界に音が戻った。
ガラス球が布の上へ落ち、柔らかな音を立てる。メトロノームの振り子が続きを刻み始め、天井の照明が微かに唸った。
透の膝から力が抜けた。
神代が腕をつかみ、床へ倒れるのを支える。
「座りなさい」
「大丈夫です」
「榊原先生にも言われただろう。隠して頑張るのが一番危険だ」
壁際の椅子へ座ると、頭の奥に鈍い痛みが広がった。鼻の下へ温かいものが流れる。
手の甲で拭うと、赤い線がついた。
「魔素切れですか」
「違うだろう。昨日と同じく、測定上の魔素はほとんど減っていないはずだ」
神代が清潔な布を渡す。
「今の負荷は、世界を止めたことより、その中から私だけを切り分けたことによるものと考えられる。広く命令するのは単純だ。正確に例外を作るほうが難しい」
「普通は、逆じゃないんですか」
「君の能力に、普通という言葉は使わないほうがいい」
透は鼻を押さえたまま、空中にあったガラス球を見る。
「学長、最初から落とすつもりでしたか」
「さて」
「割れたら困る物を、床の上で片づけませんよね」
「観察力は七十二点以上だな」
「やっぱり、わざとじゃないですか」
神代は答えず、3台のメトロノームを机へ戻した。
「まだ立てるかね」
「はい」
「なら、最後に1度だけ試そう」
「今日はここまでじゃなかったんですか」
「予定を変更した。君は今、能力へ通じる道を1度、自分の意思で通った。身体が覚えているうちに、短い成功を作って終えたい」
3台の振り子が再び動き始めた。
右。中央。左。
異なる音が、灰色の部屋へ広がる。
「全面停止はしない。中央だけだ」
透は椅子に座ったまま、中央の振り子を見た。
対象。
中央のメトロノーム。
方向。
停止。
終点。
神代が指を2度鳴らすまで。
止まれ。
3つの振り子は動いている。
もう1度、中央だけを意識で囲む。
世界へ叫ぶのではない。
目の前の1つへ、声を届ける。
止まれ。
1つの音が消えた。
中央の振り子が、右へ傾いたまま止まっている。
左右のメトロノームは動き続けていた。
神代も動いている。
天井の照明は瞬き、鼻から落ちかけた血の雫が手元の布へ染み込んだ。
世界は止まっていない。
止まっているのは、中央の1台だけだった。
神代が指を1度鳴らす。
まだだ。
2度目。
動け。
中央の振り子が、何もなかったように続きを刻み始めた。
「2.1秒」
神代が古いストップウォッチを見た。
「君が初めて、自分で選んで止めた時間だ」
透は答えようとしたが、声が出なかった。
疲労で身体は重く、頭痛も消えていない。
それでも、3つの音を聞き分けることができた。
右。中央。左。
すべて動いている。
今度は、自分が動かしたのだ。
「今日は終わりだ」
神代が3台を止めた。
「明日からも同じ時刻に来なさい。当面は毎日、長くても1時間。停止範囲を確実に選べるようになってから、加速と退行へ進む」
「生き物は」
「最後だ」
神代の声音が厳しくなる。
「物を壊せば、代わりを用意できる。時間を戻して直せる可能性もある。だが、人の時間を1度でも大きく壊せば、元へ戻せる保証はない」
透は頷いた。
演習室を出る前に、振り返る。
3台のメトロノームは、ただの道具として机の上に並んでいた。
けれど中央の1台だけが、自分の知らない2秒を抱えている。
階段を上がり、学長室へ戻った頃には、窓の外は暗くなり始めていた。
「今日はまっすぐ帰りなさい。夕食を取り、水分を多めに。頭痛が強くなるようなら、時間を問わず榊原先生へ連絡すること」
神代から小さな連絡先カードを渡される。
「学長は」
「何かね」
「止まっていた間、怖くなかったんですか」
神代は少し考えた。
「怖かったよ」
あまりに素直な返事だった。
「だが、君も怖がっていた。それなら、教師のほうが先に平気な顔をするしかないだろう」
透はカードを鞄へしまった。
管理棟を出ると、校舎にはほとんど人が残っていなかった。
昇降口で靴を履き替え、外へ出る。門へ向かう途中、校庭の時計が目に入った。
秒針が動いている。
昨日まで、その動きを見るたびに恐怖を覚えた。
今も怖い。
けれど、ほんの2秒だけなら、自分で止め、自分で戻すことができた。
校門の外に、美月がいた。
街灯の下でスマートフォンを見ていた彼女が、透に気づいて顔を上げる。
「どうしてここに」
「図書室にいたの。今、帰るところ」
答えが少し早かった。
透は時計を見る。図書室の閉室時刻から、もう20分近く経っている。
「待ってた?」
「10分くらい」
「20分」
「細かいなあ」
美月は笑った。
「初日だったんでしょ。無事かどうかだけ見ようと思って」
「無事だよ」
「鼻、赤いけど」
透は反射的に鼻元を押さえた。
「ちょっと、頑張りすぎた」
「その詳しい人、ちゃんと止めてくれる人?」
「うん。止めてくれた」
最後には。
美月は透の顔をしばらく見ていたが、それ以上は聞かなかった。
「じゃあ、帰ろう」
「方向、逆じゃない?」
「駅までは同じ」
2人は並んで歩き始めた。
能力のことは何も話せない。
それでも、美月の歩調が少し遅いことには気づいた。疲れた透に合わせているのだろう。
「いつか」
透は前を向いたまま言った。
「ちゃんと話すから」
「うん」
美月は、それだけ答えた。
いつまでにとも、必ずとも求めなかった。
並んだ2人の影が、街灯の下で長く伸びる。
透は歩きながら、あの2.1秒を思い返した。
世界を丸ごと奪うような静寂ではない。
動き続ける時間の中に、自分で選び、自分で終わらせた小さな停止。
初めて見つけた、1秒の輪郭だった。




