第3章 測れない力
「能力のことです」
言葉が教室へ落ちたあと、榊原真帆はしばらく動かなかった。
教卓の上には、透が持ってきたボールペンの残骸がある。灰色に褪せた樹脂。赤茶色に錆びたばね。乾燥し、ところどころが砕けたインク芯。
窓の外では運動部の掛け声が続いていた。いつもなら何とも思わない音が、今は薄い壁1枚を隔てた別世界のものに聞こえる。
「座ろうか」
榊原は教卓の前にある椅子を示した。
それから廊下を確認し、教室の前後の扉を閉める。窓も閉め、カーテンを半分だけ引いた。夕方の光が遮られ、教室の中が急に狭くなる。
透が席につくと、榊原は向かいの椅子へ座った。
「最初から聞かせて。なるべく、見たことと考えたことを分けて話してほしい」
「信じてくれるんですか」
「まだ何も聞いていないから、信じるとも信じないとも言えない」
厳しい言い方だったが、突き放す響きはなかった。
「でも、久世が冗談でこんな相談をする生徒じゃないことは知ってる」
その一言に押されるように、透は話し始めた。
相沢美月へ迫ったトラック。
音が消え、人も車も止まった交差点。
停止した世界で、自分と美月だけが動けたこと。
握っていたペンが目の前で朽ちたこと。欠けていた皿が新品のように戻ったこと。そして今日、顔へ飛んできたボールが空中で停止したこと。
榊原は途中で口を挟まなかった。
聞き終えると、机の上のペンへ視線を落とす。
「このペンは、いつ買ったもの?」
「去年です」
「保管してあった古い物を、勘違いして持ってきた可能性は?」
「ないです。ずっと使ってました。前の日まで普通に」
「皿のほうは、お母さんか誰かが同じ物と取り替えたとか」
「俺が持っている間に変わりました」
「変わる瞬間を見た?」
「はい」
榊原は小さく息を吐いた。
疑われている。当然だと透は思った。
自分でさえ、3度目までは偶然だと思おうとしていたのだ。
「能力の後期発現自体は、珍しいけれど前例がある」
榊原は慎重に言葉を選んだ。
「ただし、発現前でも固有波形は測定に出る。少なくとも、世界を止めるほどの能力が『該当なし』になるとは考えにくい。それに、事故の直後は強い恐怖で時間の感じ方が変わることがある。実際より長く感じたり、記憶が飛んだりね」
「相沢さんも同じものを見ています」
思わず、声が強くなった。
榊原の眉がわずかに動く。
「相沢も?」
「止まっている間、動けました。俺が手を引いて、道路の反対側まで一緒に走ったんです」
「2人で、その話はした?」
「次の日に。相沢さんは誰にも言わないって」
榊原は腕を組み、しばらく考えた。
「嘘だと言っているんじゃない」
静かな声だった。
「ただ、能力だと決める前に、ほかの可能性を消す必要がある。教師が生徒を正式な再測定にかければ、その記録は学校だけでは止まらない。能力者登録局まで送られるから」
透の喉が鳴った。
「登録されたら、どうなりますか」
「能力の種類とランクによる。生活がほとんど変わらない人もいるし、専門クラスへの転籍を求められる人もいる。高位能力なら、保護官がつく」
「保護」
「少なくとも、制度上はそう呼ぶ」
答え方に、わずかな棘があった。
榊原は窓際へ目を向けた。
教室の隅に、小さな鉢植えがある。春に園芸委員が置いたキンセンカだった。黄色い花は盛りを過ぎ、花弁の先が茶色く縮れている。
榊原は鉢を持ち上げ、2人の間にある机へ置いた。
「この花に、何かできる?」
「わかりません」
「壊してもいい。もともと、そろそろ花を摘む時期だったから」
「人に見られたら」
「だから扉を閉めた」
透は膝の上で両手を握った。
「自分でやろうとすると、何も起きないんです。時計も、消しゴムも試しました。でも、全然」
「発現直後なら、制御できないほうが普通よ」
「俺は、能力者なんですか」
問いかけた声は、自分が思っていたより幼かった。
榊原はすぐに答えなかった。
「それを今から確かめる。でも、無理に証明しなくていい。何も起きなければ、日を改める」
透は鉢植えへ手を伸ばした。
指先で葉に触れる。
少しざらついた、ただの葉だった。
元に戻れ、と念じる。
変化はない。
目を閉じ、欠けた皿が白さを取り戻した瞬間を思い出す。だが、そのとき胸の中にあった感覚をつかめない。
「やっぱり、できません」
安堵しかけた。
これで榊原が、疲れているだけだと言ってくれたら。事故の衝撃が見せた錯覚で、ペンも皿もたまたまだと決めてくれたら。
昨日までの日常へ戻れるかもしれない。
その一方で、美月と2人だけで歩いた静かな交差点が脳裏に浮かんだ。
あれをなかったことにすれば、美月まで嘘をついたことになる。
彼女は、自分が困らないように黙ると言ってくれた。
それなのに、自分だけが怖くなって逃げるのか。
せめて、真実を知りたい。
透は枯れかけた花へ触れた。
昨日より前へ。
弱る前へ。
この花が、まだ何も失っていなかったところまで――。
指先の奥で、何かがほどけた。
風のない教室で、キンセンカが揺れた。
茶色く縮れていた花弁が、ゆっくりと持ち上がる。乾いた色が端から消え、鮮やかな黄色が戻っていく。垂れていた茎は真っすぐになり、斑点の浮いていた葉が瑞々しい緑へ染まった。
榊原が椅子を引く音がした。
変化は止まらない。
開ききっていた花弁が内側へ重なり、花が少しずつ小さくなる。満開の姿を通り過ぎ、固く閉じた蕾へ戻ろうとしていた。
「久世、もういい」
榊原の声が遠い。
「手を離して」
透は指を離した。
変化が止まった。
鉢植えには、数日前へ戻ったような若い蕾が1つ、夕方の光に向かって立っていた。
土の表面には水が浮いている。朝に与えられ、昼の暑さで失われたはずの水分まで戻っていた。
透の視界が揺れた。
机へ手をつく。長距離を走った後のように心臓が速く、身体の奥が空洞になったような感覚がある。
「大丈夫?」
榊原が肩を支えた。
「少し、疲れただけです」
答えながら、透は蕾を見た。
「これでも、錯覚ですか」
榊原は答えなかった。
その顔からは、疑いが消えていた。
代わりに浮かんでいたのは、透が期待した驚きでも安堵でもない。
恐れだった。
「ここで待っていて」
榊原は教室の戸締まりを確かめると、隣の準備室へ入った。戻ってきた手には、白い箱型の器具がある。
「簡易魔素計。手を置いて」
透が上部の感応板へ手を載せると、器具の表示灯が順番に点いた。細い針が上がり、中央より少し手前で止まる。
入学時に見た位置と、ほとんど同じだった。
「もう1度、花へ触れてみて。無理に発動させなくていい」
透が蕾へ指を置く。
針はわずかに震えただけだった。
「おかしい」
榊原が呟く。
「今の現象なら、少なくとも能力者域まで跳ね上がるはず。物質変換の反応も出ていない」
「じゃあ、これは能力じゃないんですか」
「わからない。でも、私の知っている能力の出方じゃない」
榊原は簡易魔素計の電源を切った。
正式な測定器へかける、とは言わなかった。
代わりに、机の上の電話を取る。
「榊原です。学長はいらっしゃいますか」
声を低くし、透から少し離れる。
「1年生の再判定について、直接ご相談したいことがあります。……はい。記録を通す前にです」
受話器の向こうから返事があった。
榊原の背筋が伸びる。
「承知しました。本人を連れて伺います」
電話を切ると、彼女はペンの残骸を紙で包み直した。
「学長に会う。今見たことは、私にも判断できない」
「国家に報告するんですか」
「まだしない」
榊原は透をまっすぐ見た。
「だから、学長へ相談するの」
放課後の校舎は静かだった。
2人は管理棟へ続く渡り廊下を歩いた。通常クラスの教室がある棟とは違い、壁には歴代の学長と著名な卒業生の写真が並んでいる。国家魔法師の正装をまとった者もいた。
突き当たりの重い扉に、「学長室」と書かれた真鍮の札が掛かっていた。
榊原が2度ノックする。
「入りなさい」
低い声が返った。
部屋の奥で、神代宗一郎は書類を読んでいた。
白髪の混じった髪を短く整え、細い銀縁の眼鏡をかけている。年齢は六十を越えているはずだが、立ち上がった姿には隙がなかった。
「久世透君だね。1年4組」
「はい」
名乗る前に名前を呼ばれ、透は小さく頭を下げた。
「緊張しなくていい。もっとも、この部屋でそう言われて緊張しない生徒は少ないが」
神代は向かいのソファを示した。
榊原が扉を閉めると、神代は机の引き出しから黒い金属片を取り出した。古い硬貨ほどの大きさで、表面に細かな文字が刻まれている。
それを机へ置き、指先で1度叩く。
低い振動が部屋の壁を走った。
「これで、会話も魔素反応も外へは漏れない。榊原先生、聞いたことと見たことを」
榊原が説明した。
透の証言。ペンの状態。鉢植えの変化。そして、通常域から動かなかった簡易魔素計。
神代は1度も口を挟まなかった。
話が終わると、テーブルの上へ置かれたペンの残骸を1本ずつ確かめる。次に透へ目を向けた。
「交差点で、君は何をした」
「止まれ、と思いました」
「トラックへ向けて?」
「最初は、そうだったと思います。でも、車だけじゃなくて、周りの人も全部止まりました」
「相沢美月君を除いて」
「はい」
「彼女を動かそうと意識したかね」
「していません。ただ、助けないと、って」
神代の指が、机の上で止まった。
「ペンが朽ちたときは?」
「事故のことを考えて、怖くなっていました」
「皿は」
「欠ける前に戻ればいいと思いました」
「花は、弱る前へ戻そうとした」
「はい」
神代は眼鏡を外した。
目頭を押さえ、長い息を吐く。
「学長?」
榊原が呼びかける。
「能力には、まだ見つかっていない新種があるんですか」
透の問いに、神代は首を横へ振った。
「ない」
断定だった。
「少なくとも、人類が記録を始めて以降、完全に新しい能力が生まれた例は1つもない。未知に見える能力にも、必ず過去の同系統記録がある。遺伝するとは限らない。同じ時代に複数現れるとも限らない。それでも、能力そのものは既に世界のどこかに記されている」
神代は立ち上がり、背後の書棚へ向かった。
鍵のかかった下段を開き、黒い革表紙の薄い冊子を取り出す。表紙にも背にも題名はなかった。
「私が国家魔法局にいた頃、閲覧を許された記録の写しだ。外へ持ち出したことが知られれば、今でも処罰の対象になる」
榊原の顔が強張った。
神代は冊子を開かず、両手で押さえた。
「数100年前、世界でただ1人、時間へ直接触れた者がいた」
部屋の古時計が、秒を刻んでいる。
「炎を生む者は、魔素を熱へ変える。物を動かす者は、魔素を力へ変える。だが、その者は何も生み出さなかった。魔素を燃料として消費するのではなく、時間へ命令を届けるための鍵として使った」
「だから、測定器に出ない……?」
榊原が言った。
「測定器が見ているのは、主に変換量と固有波形だ。扉を開けるだけの鍵を、大火を起こす燃料と同じ方法で量ることはできない」
神代の視線が透へ戻る。
「記録上の名は、『時の番人』」
その言葉を聞いた瞬間、部屋の時計の音が大きくなった気がした。
「時間を止め、進め、戻す。世界全体にも、1人の人間にも、その指1本にさえ干渉できる。触れたものの時間を進めて朽ちさせ、過去へ戻して傷を消す。動ける者と動けない者を選ぶこともできたという」
透は自分の手を見た。
ペンを数10年先へ送り、皿と花を過去へ戻した手。
「人間にも、できるんですか」
「理論上は」
神代の答えは重かった。
「老いた者を若返らせることも、若者を一瞬で老いさせることもできる。本人が自らの時間を戻し続ければ、老衰さえ避けられる」
「そんなの……」
榊原が言葉を失う。
「死んだ人も、生き返らせられるんですか」
透は聞いた。
聞かずにはいられなかった。
もし昨日、美月を助けるのが間に合わなかったとしても、元へ戻せたのか。
「命そのものを、無から生み出すことはできない」
神代は慎重に答えた。
「だが、心臓が止まった直後で、肉体と生命の連続性が残っているなら、死亡前の状態へ肉体を戻すことで蘇生に近い結果を得られる可能性がある。どこまでが『直後』なのかは、記録にも明確に残っていない」
救える力だ。
同時に、簡単に奪える力でもある。
透の指先が冷たくなる。
「この能力のランクは」
榊原が尋ねた。
「クラウンクラスだ」
神代は冊子を閉じたまま答えた。
「国家の存立だけではない。世界の秩序を崩し得る能力として、最上位の秘匿指定を受けている」
透は息をするのを忘れた。
能力者クラスへ移るかもしれない。
少し前まで、それだけを恐れていた。
今は、あまりにも遠い不安に思えた。
「正式に報告したら、俺はどうなりますか」
神代はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、透には10分だった。
「過去の保持者は、各国が彼を奪い合う戦争を防ぐという名目で、1つの場所へ隔離された」
やがて神代が言った。
「国は彼を守ったのではない。世界から守るという名目で、世界そのものを彼から奪った。会う相手も、暮らす場所も、力を使う時も、すべて決められた」
「その人は、どうなったんですか」
「数年後、突然消えた」
「消えた?」
「監視記録には、空になった部屋だけが残った。逃げたのか、自らの時間を戻しすぎたのか、あるいは誰にも届かない時間へ移ったのか。今もわかっていない」
神代の手が、革表紙の冊子を強く押さえた。
「彼が自由を失い、深く絶望していたことだけは記録に残っている」
榊原が立ち上がった。
「では、報告できません」
「榊原先生」
「この子は誰も傷つけていません。人を助けるために発現したんです。それで一生を拘束されるなんて」
「後期発現を知りながら報告しないことは、規則違反だ」
神代の声は静かだった。
「場合によっては、教師資格を失う」
「それでもです」
榊原は1歩も引かなかった。
神代は彼女を見つめ、やがてわずかに口元を緩めた。
「君ならそう言うと思ったから、ここへ来るよう指示した」
「……試したんですか」
「確認した、と言ってほしいな」
神代は冊子を棚へ戻し、鍵をかけた。
「私は国家魔法局の特務魔法師だった。高位能力者を確保し、保護施設へ移送する任務にも関わった」
透は神代の横顔を見た。
「保護されるのが、犯罪者とは限らない。むしろ多くは、力を持って生まれただけの子どもだった。私は命令に従い、彼らを家族から引き離した」
後悔を語る声ではなかった。
後悔という言葉では足りないほど長い年月、その事実を背負ってきた声だった。
「同じことを繰り返すために、私はこの学校の学長になったのではない」
神代は透の前へ戻った。
「久世君。君の情報は、まだ正式な測定網に入っていない。榊原先生が手続きを止めてくれたからだ。君が望むなら、測定結果は『固有能力なし』のままにする」
「隠せるんですか」
「永遠に隠せるとは約束できない。力が大きくなれば、遠隔観測に捉えられる可能性もある。人前で使えば、必ず噂になる」
神代はそこで言葉を切った。
「だから、制御を学ぶ」
「制御……」
「通常クラスで今までどおり暮らし、放課後だけ私のところへ来なさい。能力を出す方法より先に、出さない方法を教える。私が直接見る」
「学長がですか」
「これでも昔は、国で一番危険な仕事を任されていた。暴走する能力への対処には慣れている」
榊原が少しだけ息をついた。
しかし透の不安は消えなかった。
「もし、国に見つかったら」
「そのときは、私が防波堤になる」
神代は迷わず言った。
「君が自分の人生を選べるところまで、時間を稼ぐ」
自分の人生。
そんな当たり前の言葉が、今はひどく遠く、貴重なものに聞こえた。
「秘密を知っているのは、ここにいる3人と相沢君だけだね」
「はい」
「彼女へ口止めを強いるつもりはない。ただし、秘密を知っているというだけで、彼女も危険に巻き込まれる可能性がある。頃合いを見て、私か榊原先生から事情を説明する」
透の胸に、別の重さが加わった。
美月は助けられたから秘密を守ると言った。
その約束が、今度は彼女を危険に近づけるのかもしれない。
「俺は、どうすればいいですか」
「今夜は家へ帰り、よく眠ること。誰にも能力を試さないこと。特に生き物には触れたまま強く念じないこと」
神代の目が、透の両手へ向いた。
「明日の放課後、もう1度ここへ来なさい。訓練場所へ案内する」
「わかりました」
透は答えた。
まだ、何も理解できてはいない。
自分に与えられた力の大きさも、過去の保持者が味わった絶望も、神代をどこまで信じてよいのかも。
それでも、1人で怯えていた昨日までとは違った。
立ち上がり、榊原とともに扉へ向かう。
「久世君」
背後から呼び止められた。
振り返ると、神代は古時計のそばに立っていた。
「君の力が最初にしたことは、人を救うことだった」
時計の振り子が、規則正しく左右へ動いている。
「これから何を知っても、その事実だけは忘れないことだ」
透は自分の右手を見た。
恐ろしいものが宿った手ではない。
少なくとも1度は、誰かを死から遠ざけた手だった。
「はい」
今度は、はっきりと答えた。
学長室を出る直前、古時計が6時を告げた。
6つの鐘の音を聞きながら、透は初めて、自分の能力の名を心の中で呼んだ。
――時の番人。
その名は、救いよりも、まだ警告に近かった。




