第2章 こぼれる時間
翌朝になっても、世界は止まらなかった。
目覚まし時計は6時半に鳴った。蛇口から落ちた水は排水口へ吸い込まれ、トースターから飛び出したパンは皿の上へ落ちた。駅へ向かう人々はそれぞれの速さで歩き、電車は時刻表どおりにホームへ滑り込んできた。
久世透だけが、その何もかもを疑っていた。
車窓の外を流れる景色を見ながら、昨日の出来事を何度も思い返す。
空中に浮かんだレシート。微動だにしないトラック。停止した世界で、自分の呼びかけに答えた相沢美月。
夢ではない。
そう言い切れるだけの感触が、まだ右手に残っている。
けれど、現実だと認めれば、別の問いに答えなくてはならなくなる。
あれを起こしたのは、誰なのか。
透は電車の吊り革を握り、目を閉じた。
――止まれ。
車輪の音は変わらない。
――止まれ。
向かいに座った会社員が新聞をめくり、隣の学生がスマートフォンの画面を指で払う。
何も起きなかった。
胸の奥に、安堵と失望が同時に沈んでいく。
学校の正門をくぐると、美月が待っていた。
正確には、門柱のそばで友人と話していた彼女が、透を見つけた途端に会話を切り上げ、こちらへ歩いてきた。
「久世くん。おはよう」
「……おはよう」
昨日までなら、教室以外で交わすはずのなかった挨拶だった。
美月は友人たちを振り返る。先に行って、と手で合図すると、透を人通りの少ない植え込みの脇へ促した。
朝の光の下で見る彼女は、いつもと変わらないように見えた。けれど、鞄の持ち手を握る指だけが強くこわばっている。
「昨日のこと、覚えてる?」
聞かれるとわかっていた。
それでも透は、すぐに答えられなかった。
「相沢さんは、どこまで覚えてる?」
「全部」
美月は迷わなかった。
「車が目の前まで来て、もう駄目だと思った。それから音が消えた。車も煙も、道路にいた人も止まってた。でも、私と久世くんだけは動けた」
彼女の言葉が、透の記憶と1つずつ重なる。
「久世くんが手を引いてくれて、歩道まで走った。そこまで行ったら、急に全部が動き始めた」
「……俺も、同じだよ」
口にした瞬間、逃げ道がなくなった気がした。
美月は小さく息を吐いた。自分の記憶が壊れていなかったと知って安心したようにも、もっと恐ろしくなったようにも見えた。
「あれ、久世くんの能力なの?」
「わからない」
「でも、昨日、止まれって言ったよね」
「思っただけだ。俺の測定結果は知ってるだろ。固有能力なし。魔素量だって普通だった」
「測定が間違ってた、とか」
「学校の測定で、そんなことあるのかな」
それきり、2人とも黙った。
昇降口へ吸い込まれていく生徒たちの声が、遠く聞こえる。能力者クラスの制服には、襟元に銀色の標章がある。朝日を受けたそれが、何度も透の視界を横切った。
もし能力だとわかれば、自分もあちら側へ移されるのだろうか。
能力者として登録され、再測定を受け、能力に見合ったランクを与えられる。
昨日の現象には、いったいどんな名前と数字がつくのだろう。
「誰かに話した?」
透が尋ねると、美月は首を横へ振った。
「昨日一緒にいた2人には、事故で混乱してたみたいって言った。家族にも言ってない」
「どうして」
「だって、久世くんもわかってないんでしょ」
あっさりとした答えだった。
「私が先に言いふらすことじゃないと思う。それに……助けてもらったのに、困らせたくないし」
美月はそう言ってから、少しだけ視線を逸らした。
「だから、昨日のことは誰にも言わない。久世くんが話していいって言うまでは」
「ありがとう」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
「ううん。お礼を言うのは私のほうだから」
予鈴が鳴った。
美月は「行こう」と言い、先に昇降口へ向かった。数歩進んだところで振り返る。
「でも、本当に何かあったら、1人で抱え込まないでね」
透が返事をする前に、彼女はまた歩き出した。
教室へ入ると、昨日と同じ席が並び、昨日と同じ顔が騒いでいた。
違って見えるのは自分だけなのだと、透は思った。
1限目は現代文だった。
担任の榊原真帆が、黒板へ文章を書きながら説明を続けている。透はノートへ文字を写していたが、内容はほとんど頭に入らなかった。
窓際に座る美月の横顔が目に入る。
彼女も昨夜、眠れなかったのだろうか。
また時間が止まったら。
今度は動き出さなかったら。
そもそも、止めたのが自分なら、どうして戻し方がわからないのか。
考えるほど、指先へ力がこもった。
ぱきり、と小さな音がした。
透は手元を見た。
握っていた黒いボールペンの軸に、白いひびが走っている。
力を入れすぎたのだと思った。指を緩めた瞬間、もう1度、ぱきりと鳴る。
ひびが枝分かれした。
艶のあった樹脂が目の前で色褪せ、長いあいだ日光と雨にさらされたプラスチックのように灰色へ変わっていく。金属製の留め具には赤茶色の錆が浮かんだ。
透が手を離すより先に、ペンは崩れた。
細かな破片と錆びたばねが、ノートの上へこぼれる。乾ききったインク芯が机を転がり、床へ落ちた。
「うわ、何それ」
前の席から、高瀬颯太が振り向いた。
榊原の説明が一瞬止まる。周囲の何人かも透を見た。
「すみません。ペンが壊れました」
「授業が終わってから片づけなさい。替えはある?」
「はい」
答えながら、透は両手で破片を隠した。
授業が再開すると、高瀬が声を潜める。
「壊れたってレベルじゃなくない? 遺跡から掘ってきたのかよ」
「昨日、道で踏んだのかも」
「踏んだペンでノート取ってたの?」
「俺も今、変だと思った」
高瀬は訝しげな顔をしたが、榊原に名前を呼ばれると前を向いた。
透は別のシャープペンシルを取り出した。
指先が震えている。
今度は、できるだけ力を入れずに持った。
昼休み、崩れたペンを紙で包み、捨てずに鞄へ入れた。
去年買ったばかりのペンだった。昨日までは、傷こそあっても普通に使えていた。それが数10年も放置されたような姿へ変わった。
時間が止まる。
物が老いる。
2つの現象の間に、関係がないと思うほうが難しかった。
その夜、透は夕食後の食器を洗っていた。
水切り籠へ置こうとした小皿の縁に、欠けを見つける。白地に青い花が描かれた古い皿だった。長く使われたせいで模様は薄れ、表面には細かな傷がいくつも走っている。
子どもの頃から家にあった皿だ。
欠けた部分を親指でなぞりながら、透は昼間のペンを思い出した。
あれが時間を進めた結果なら。
逆も、あるのだろうか。
例えば、この皿が欠ける前へ戻れば――。
指先が、かすかに熱を持った。
水滴が皿の表面で震えた。
透は目を見開く。
欠けた縁から白いものが伸びている。陶器が粘土のように盛り上がったのではない。ただ、欠けているという事実だけが薄くなり、初めからそこにあった輪郭が戻ってくる。
細かな傷が消えた。
褪せていた青い花が、濡れたばかりの絵具のように鮮やかさを取り戻す。
数秒後、透の手にあったのは、使い込まれた古い皿ではなかった。
店頭の箱から今しがた取り出したような、白く滑らかな皿だった。
透は蛇口を止めた。
胸が激しく鳴っている。
皿を裏返す。見慣れた製造印がある。同じ皿だ。別のものに取り替わったわけではない。
「透、洗い物終わった?」
居間から声が飛んできた。
「今、終わる」
咄嗟に皿を水切り籠の奥へ入れた。
自室へ戻ると、机の上へ崩れたペンと腕時計を並べた。
まず、錆びたばねへ触れる。
元に戻れ、と念じた。
何も起きない。
時計を握り、止まれと念じる。秒針は平然と動き続ける。
次に、机の端にあった消しゴムへ触れ、古くなれと考えた。やはり変化はなかった。
皿に起きたことが、また偶然だったとは思えない。
しかし、再現できないものを能力と呼べるのだろうか。
透はノートを開き、3つの出来事を書いた。
一、トラック――止まった。
二、ペン――古くなった。
三、皿――新しくなった。
その下へ、「全部、触れていたか」と書きかけて手を止めた。
トラックには触れていない。
止めたのが車ではなく、世界そのものだったのだとすれば。
考えた途端、部屋の時計の音がひどく大きくなった。
かち、かち、かち。
1秒ごとに、見えない何かが削られていく音に聞こえた。
それから2日間、何も起きなかった。
何も起きないことが、透を安心させはしなかった。
授業中も、食事中も、物へ触れるたびに警戒した。机が朽ちるかもしれない。教科書が白紙へ戻るかもしれない。誰かに肩を叩かれれば、その人まで変わってしまうかもしれない。
美月は教室で何度か透を見たが、約束どおり何も言わなかった。
金曜日の5限目、通常クラス合同の体育があった。
男子はグラウンドでソフトボールをしていた。透は外野に立ち、試合へ参加しているふりをしながら、早く授業が終わることを願っていた。
「久世、そっち行った!」
高瀬の声がした。
振り向く。
打球が、透の顔へ向かっていた。
捕れる高さではない。誰かが投げ返したボールを打者がまともに引っ張り、鋭いライナーになったのだ。
白い球が視界いっぱいに迫る。
危ない。
世界が、沈黙した。
ボールは透の目の前で止まっていた。
縫い目まで数えられる距離だった。
グラウンドの土埃が空中に浮かび、走っていた高瀬は片足を上げたまま固まっている。遠くのコートで跳ねていたボールも、校舎の上を飛ぶ鳥も動かない。
昨日までの疑いが、逃げ場を失った。
まただ。
今度は、美月がいない。
止まった世界に立っているのは、自分1人だった。
透は息を吐き、横へ1歩動いた。
頭の横にあるボールへ手を伸ばしかけ、やめる。触れたら何が起きるかわからない。
もう1歩下がる。
これで当たらない。
そう判断した瞬間、音が戻った。
ボールが透の頬の前を通り過ぎ、後方のフェンスへ激突する。遅れて土埃が流れ、鳥が空を横切った。
「うおっ、危ねえ!」
高瀬が駆け寄ってくる。
「大丈夫か? お前、よく避けたな」
「……見えてたから」
「あれが? 反射神経だけ能力者クラスじゃん」
笑いながら背中を叩かれ、透は身体をこわばらせた。
高瀬には何も起きなかった。
けれど、それで安心することはできなかった。
事故のときは美月を救った。
今は自分を救った。
ペンを壊し、皿を直した。
自分の中に、何かがある。
しかもそれは、自分が望んだときには応えず、恐怖に駆られたときだけ勝手に世界へ手を伸ばす。
このまま黙っていれば、次は何が起きる。
誰かに触れたまま、ペンと同じことを起こしたら。
想像しただけで、指先から血の気が引いた。
放課後、透は生徒たちが帰るのを待った。
美月も高瀬も教室を出て、窓から差す光が夕方の色へ変わる。榊原は教卓で提出物を揃えていた。
透は鞄の中にある紙包みを確かめた。
数10年を一晩で越えたような、ボールペンの残骸。
「榊原先生」
呼びかけると、榊原は手を止めた。
「どうした、久世。進路相談にはまだ早いぞ」
冗談めかした口調だったが、透が笑わないのを見ると、その表情を改めた。
「何かあった?」
逃げるなら、今だった。
壊れたペンを捨て、皿のことを忘れ、危険なものには近づかずに生きていく。昨日までの自分なら、それを選んでいたかもしれない。
けれど、この力が次に誰へ触れるのか、自分にもわからない。
透は鞄から紙包みを取り出し、教卓の上へ置いた。
「相談があります」
紙を開く。
錆びたばねと、灰色に朽ちたペンの破片が現れた。
「能力のことです」
窓の外で、校庭の時計が午後5時を告げた。




