第1章 止まった交差点
4月の能力測定で、久世透の人生は予定どおり、何ひとつ変わらなかった。
測定器の透明な板へ手を置く。目を閉じる。教師に言われたとおり、自分の奥底にあるものを押し出すように念じる。
そうして表示された結果は、たった1行だった。
――固有能力、該当なし。
落胆するほど期待していたわけではない。
炎を生み出す者。離れた物を動かす者。傷の治りを早める者。測定を終えた体育館のあちこちで歓声が上がるなか、透は教員から返された生徒手帳を受け取り、決められた出口から外へ出た。
魔素量は平均よりわずかに多い。けれど、能力者と認められる基準には届かない。
それは、透という人間によく似合う結果に思えた。
ひどく悪いわけではない。ただ、振り返ってもらえるほど良くもない。
そして6月になった。
「じゃあ、今日の小テスト、後ろから集めて」
6限目の終了を告げる鐘が鳴り、教室の空気が一斉にほどけた。
椅子を引く音。鞄のファスナーを閉める音。部活動へ急ぐ生徒たちの声。開け放された窓から、グラウンドにいる能力者クラスの号令が聞こえてくる。
透は答案用紙を前の席へ渡し、赤点ではないことだけを確かめてから教科書を鞄にしまった。七十二点。褒められもしなければ、呼び出されもしない点数だった。
窓の外で、橙色の火球が弧を描いた。
訓練用の標的へ命中し、乾いた破裂音とともに散る。教室の何人かが窓際へ寄っていったが、透は席を立たなかった。
能力者クラスの訓練は、通常クラスの生徒にとって、羨望と反感のどちらにもなり得る。自分には関係のないものだと決めてしまえば、そのどちらにもならずに済んだ。
「久世くん」
不意に名前を呼ばれ、透は顔を上げた。
相沢美月が、斜め前の通路に立っていた。柔らかい色の髪を耳へかけ、片手に1枚の答案用紙を持っている。
「これ、久世くんのだよね。混ざってた」
差し出された紙には、見慣れた自分の名前があった。
「あ……ありがとう」
「うん。七十二点、悪くないじゃん」
「相沢さんは?」
「聞かないで」
美月は眉を下げ、それからすぐに笑った。背後から友人に呼ばれると、「じゃあね」と軽く手を振って離れていく。
教室のどこにいても、彼女の周りには人がいた。
美月も透と同じく、固有能力を持たない。それでも彼女は、能力の代わりに何か別の光を与えられているように見えた。能力者クラスの生徒とも、通常クラスの生徒とも同じように話す。誰かが失敗すれば一緒に笑い、笑われた本人が傷つきそうなら、いつの間にか笑いの矛先を自分へ変えている。
透とは、同じ教室にいるだけの間柄だった。
名前を覚えられていたことが、少し意外なくらいには。
透が学校を出たのは、それから20分ほど後だった。
初夏の空はまだ明るく、傾き始めた陽が歩道の白いガードレールを眩しく照らしている。日中の熱を残したアスファルトから、乾いた匂いが立ちのぼっていた。
駅へ向かう大通りには、同じ制服がいくつも流れている。
少し前を、美月が2人の友人と歩いていた。
笑い声が風に乗って、ときどき透のところまで届く。盗み聞きをするつもりはなかったので、透は歩調を緩めた。かといって追い越せば、さっき言葉を交わした手前、無視するのも不自然だ。そういう小さなことを気にしてしまう自分が面倒だった。
大通りの交差点で信号が青になった。
美月は友人たちに何か言い、ひとりで横断歩道へ踏み出した。2人は曲がり角の向こうへ行くらしく、歩道に残って手を振っている。
透も数歩遅れて横断歩道に入った。
最初に聞こえたのは、クラクションだった。
短く途切れた音ではない。押しつぶされた獣の声のような、長く濁った音だった。
顔を上げる。
右手の車道から、大型トラックが交差点へ突っ込んでくる。
赤信号を無視して。
運転席の男は、俯いていた。クラクションに驚いて跳ね起きたのか、その両目が見開かれる。だが、トラックは止まらない。車体が前へ沈み、タイヤの下から黒い煙が上がった。
美月は横断歩道の中央にいた。
彼女も気づいた。
振り向いた顔から、さっきまでの笑みが消える。
逃げなければならない。誰が見てもわかるのに、人の身体は恐怖だけで動けなくなることがある。美月の足は白線の上に縫いつけられたように止まっていた。
「相沢!」
透は駆けた。
間に合わない。
そう理解するまでに、1秒もかからなかった。
トラックと美月の距離は、もう10メートルもない。透がどれだけ速く走っても、手を伸ばすより先に、巨大な車体が彼女をのみ込む。
嫌だ、と思った。
知らないふりをするには、彼女は近すぎた。
ついさっき、自分の名前を呼んだ声が、耳に残りすぎていた。
危ない。
危ない、止まれ――。
世界から、音が消えた。
透は1歩を踏み出した姿勢のまま、息を呑んだ。
走っていたはずのトラックが、止まっている。
静止している、という言葉では足りなかった。急ブレーキで前のめりになった車体も、路面を噛んで歪んだタイヤも、その形のまま固まっていた。タイヤから立ち上った煙は、薄い布を空中へ掛けたように動かない。
歩道では、誰もが奇妙な格好で止まっていた。
口を開けた学生。自転車の片足をペダルから離した会社員。車道の上には、風に飛ばされたレシートが白い鳥のように浮かんでいる。
信号機の光さえ、死んだ色に見えた。
透の鼓動だけが、胸の奥でひどく大きい。
「なに……これ」
かすれた声がした。
美月だった。
彼女だけが動いていた。
見開かれた目が、トラックから周囲へ、周囲から自分の両手へ移る。呼吸は浅く、肩が小刻みに上下している。
「相沢さん」
「久世、くん?」
返事がある。
その当たり前のことに、透はかえって混乱した。
「わからない。俺にも、何が起きてるのか……」
トラックの先端は、美月から腕1本分ほどの場所にあった。
止まっている。
けれど、いつ動き出すのかわからない。
「とにかく、こっちへ」
透は美月の手首をつかんだ。
温かかった。凍りついた世界の中で、その体温だけが確かだった。
美月の足がようやく動く。2人はトラックの鼻先を回り込み、横断歩道を走った。靴底が路面を叩いているはずなのに、音は遠い部屋で鳴っているように頼りない。
透は途中で1度だけ振り返った。
トラックは動かない。
運転手の顔には恐怖が貼りつき、その目だけが永遠にこちらへ届かない。
永遠。
そんな言葉が頭をよぎり、背中が冷えた。
もし、このままだったら。
もし、自分たちだけが、この止まった世界に残されたのだとしたら。
「久世くん」
握った手首から、美月の震えが伝わる。
「大丈夫」
何の根拠もなかった。
それでも透はそう言って、彼女を歩道の内側まで引いた。ガードレールを越え、建物の壁際まで離れる。ここなら、たとえトラックが動き出しても届かない。
助かった。
そう思った瞬間だった。
世界が、咆哮した。
タイヤの悲鳴。エンジン音。クラクション。いくつもの叫び声。
押し寄せた音の塊に、透は美月をかばうように身を縮めた。トラックが2人のいた横断歩道を突き抜け、交差点の向こうで大きく蛇行する。ガードレールを擦り、火花を散らしながら、ようやく停車した。
生温い風が遅れて頬を打った。
「美月!」
道路の向こうから、友人たちが駆けてくる。
「大丈夫? 怪我は?」
「今、轢かれたと思った……どうやってこっちに?」
美月は何も答えず、透を見た。
透の手は、まだ彼女の手首をつかんでいた。
慌てて離す。
「久世くんが、助けてくれた」
美月の声は震えていたが、はっきりしていた。
友人の1人が透を見る。感謝より先に、理解できないという色が浮かんだ。
「助けたって……だって久世くん、後ろにいたよね?」
「私も、そう見えた。2人とも急にこっちにいて……」
「止まったの」
美月が言った。
「全部、止まった。車も、人も。それで久世くんが――」
友人たちは顔を見合わせた。
1人が、困ったように美月の肩へ触れる。
「怖かったから、そう感じたんじゃない? 事故のときって、時間が遅く見えるっていうし」
「でも、本当に」
「久世くんも通常クラスでしょ。能力測定、何も出なかったよね?」
問いかけられ、透は頷くことしかできなかった。
何も出なかった。
そのはずだ。
美月の目から確信が少しずつ失われていく。自分の記憶と、世界の常識との間で揺れていた。
透にも、彼女を信じさせる言葉はなかった。
「……たぶん、相沢さんが自分で避けたんだと思う」
口にすると、ひどく薄っぺらい言葉だった。
「俺は、近くにいただけで」
「でも」
美月は何かを言いかけた。
遠くから救急車のサイレンが近づいてくる。交差点には人が集まり始めていた。運転手を怒鳴る声。警察へ電話をする声。何が起きたのかを、それぞれ勝手に説明し合う声。
世界はもう、何事もなかったように動いている。
透は「怪我がなくてよかった」とだけ言い、その場を離れた。
逃げたのだと、自分でもわかっていた。
角を2つ曲がり、交差点が見えなくなってから足を止める。喉がからからに乾いていた。全力で走った距離はわずかなのに、身体の芯が重い。
電柱へ手をつき、呼吸を整える。
腕時計の秒針が、ひと目盛りずつ進んでいた。
それを見つめながら、透は心の中で命じた。
止まれ。
秒針は止まらない。
もう1度、強く念じる。
止まれ。
やはり、何も起きなかった。
安堵すべきなのか、失望すべきなのかさえわからない。
ただ、彼の右手には、美月の手首をつかんだ感触が残っていた。
空中で動きを失った煙。浮かんだままの紙片。恐怖を貼りつけた運転手の顔。
あれが錯覚であるはずはなかった。
能力測定の白い画面が、脳裏によみがえる。
――固有能力、該当なし。
6月の西日が、秒針の進む硝子を鈍く光らせている。
透は初めて、その判定を疑った。




