第18章 消えた音の戻し方
9月半ばの放課後、雲の切れ間から光が差していた。
それでも、雨は降っている。
西日の届く渡り廊下を、細い雨粒が斜めに横切っていた。
濡れた手すりが金色に光り、校庭の水たまりには明るい空と黒い雲が同時に映っている。
「降るなら降る。晴れるなら晴れる。どっちかにしてほしい」
高瀬は軒下へ身体を寄せ、録音機を制服の胸元で守っていた。
「これはこれで、撮りがいがあります」
彩花は透明な雨よけをカメラへ被せ、廊下の奥へレンズを向けている。
「録りがいもあるよ。雨の音に、運動部の声が混ざってる」
透が言うと、高瀬は録音機の表示を確かめた。
赤いランプが点灯している。
手すりを叩く雨粒。
庇から落ちる雫。
遠くでボールを呼ぶ声。
校舎のどこかから響く吹奏楽部の音階。
同じ場所にいても、目で見る景色と耳へ届く景色は少し違う。
「今の、いいかも」
美月は彩花の横で、記録用の用紙へ時刻を書き込んだ。
「15時42分。西側渡り廊下。天気雨。運動部と吹奏楽部の練習音あり」
「その言い方だと、気象観測の記録みたいだな」
「あとで何を録ったか分からなくなるよりいいでしょ」
「相沢は正しい。久世、録音班として見習え」
「高瀬も何も書いてないだろ」
「俺は機械を持つという重大な役目がある」
美月が差し出した鉛筆の先を、高瀬は見なかったことにした。
そのとき、校内放送の予鈴が鳴った。
澄んだ電子音が、雨の膜を通り抜けてくる。
直後、吹奏楽部の音が途切れた。
運動部の声も一瞬だけ遠のく。
雨と予鈴だけが、渡り廊下へ残った。
やがて、雲の向こうからまた金管楽器の音が伸びてくる。
透は息を止めていた。
何かを止めたわけではない。
自然に重なり、自然に離れていく音を、逃さないように聞いていただけだった。
高瀬が、録音機の停止ボタンを押す。
「これは当たりだろ」
「うん」
美月が答える。
「写真も撮れました」
彩花が背面画面を3人へ見せた。
陽光を受けた雨粒が、渡り廊下の手前で細い糸のように輝いている。
奥には、傘を持たずに走る生徒が小さく写っていた。
顔は判別できない。
けれど、その背中だけで、突然の雨に追われていることが分かる。
「この写真に、今の音を合わせたいです」
「決まりだな」
高瀬が録音機を掲げる。
「今日一番の成果」
4人は雨が弱まるのを待って、次の録音場所へ移動した。
濡れた上履きが床を擦る音を録るため、旧校舎へ続く廊下で録音機をもう一度起動する。
数歩進んだところで、赤いランプが不規則に点滅した。
「あれ?」
高瀬が立ち止まる。
録音機の小さな画面に、短い表示が出た。
『書き込みに失敗しました』
続いて、別の文字へ切り替わる。
『記録媒体を認識できません』
「待って」
美月が言った。
「何も押さないで」
「押してない」
高瀬は両手を見せるように、録音機を持ち上げた。
「勝手に出た」
透たちは、その場で動きを止めた。
雨のあとの廊下で、4人分の上履きから水が落ちる。
「電源を切ったほうがいいですか?」
彩花が尋ねる。
「たぶん。でも、今は触らないほうがいい」
透は録音機の表示を見た。
認識できません、という文字だけが残っている。
十数分前に録った天気雨も、その中にあるはずだった。
「俺、落としてないからな」
高瀬の声から、普段の大げさな調子が消えていた。
「分かってる」
透はすぐに答えた。
「ずっと見てた。何もしてない」
「でも、俺が持ってるときに壊れた」
「持っていた人と、壊した人は同じじゃないよ」
美月も言う。
高瀬は口を閉じ、もう一度画面を見た。
透の右手は、録音機から30センチも離れていなかった。
触れて、少し前へ戻せばいい。
そう考えるまでに、ほとんど時間はかからなかった。
けれど、手を伸ばすことはしなかった。
壊れた携帯電話を前にしたとき、神代から教えられたことがある。
外側だけが直るとは限らない。
中に残された記録も、その時点の状態へ戻る。
今の録音機を故障前へ戻せば、天気雨の音が残るのか。
それとも、録音する前まで消えてしまうのか。
終点を誤れば、守りたい記録を自分で消すことになる。
「榊原先生に連絡しよう」
透は言った。
「機材の故障として、先に報告する」
高瀬が透を見る。
「直せそうなのか?」
その問いに、透はすぐ答えなかった。
彩花は何も聞かず、美月だけが透の右手を見ていた。
「学校の機材だから、勝手には触れないよ」
透は、言える範囲で答えた。
「直せるかどうかも、今は分からない」
「そうだな」
高瀬は小さく息を吐いた。
「先生を呼ぼう」
榊原は連絡を受けると、放送部の顧問と一緒に旧校舎へ来た。
録音機の型番と表示を確認し、電源を切る手順を顧問へ尋ねる。
その間も、誰が持っていたかより先に、何が起きたかを聞いた。
「録音を開始した直後に表示が出たのね」
「はい」
高瀬が答える。
「落下も、水濡れもありません。ケースから出したのは録るときだけです」
「分かりました」
榊原は録音機へ触れず、顧問へ目を向けた。
「以前にも不調はありましたか?」
「認識に時間がかかることはありました。記録カードは何年か使っているものです」
「では、現時点で生徒の扱いに原因があったとは判断しません」
高瀬の肩から、わずかに力が抜けた。
録音機は顧問が保管袋へ入れ、情報管理室へ運ぶことになった。
榊原は4人を教室へ戻したあと、透だけに小さく告げた。
「今日は、いつもの場所へ来てください」
「はい」
「それまでは、記録カードに触れないで」
「触っていません」
「よく止まりましたね」
榊原の言葉は、それだけだった。
褒められたというより、確認されたように透には聞こえた。
けれど、その確認は、少しだけ胸に残った。
以前の透なら、人に知られる前に直したいと思ったかもしれない。
秘密を守ることと、独断で隠すことを、同じものだと思っていたかもしれない。
今は違う。
使える力があるからこそ、使う前に残さなければならないものがある。
放課後の地下訓練室には、神代と榊原が待っていた。
中央の机には、透明な保管容器が置かれている。
中にあるのは、指先ほどの黒い記録カードだった。
録音機本体からはすでに取り外されている。
ただし、取り外し作業の手順も時刻も、すべて記録されたと榊原が説明した。
「情報管理室で、読み取りだけを試しました」
神代が言う。
「媒体そのものは反応しています。しかし、どこに何が保存されているかを示す管理情報が壊れている。例えるなら、本のページは残っていても、目次とページ番号が読めなくなった状態です」
「音は残っているんですか?」
「断片は残っています。通常の復旧作業で拾える可能性もある。ただし、完全に戻る保証はない」
神代は机の端に置かれた別の保存装置を示した。
「現在の壊れた状態は、読み取れる範囲をそのまま複製しました。君が何もしなくても、専門業者へ復旧を依頼できるようにしてあります」
「先に残したんですね」
「失敗する可能性のある実験で、唯一の手がかりを使い潰すわけにはいかない」
透は保管容器を見つめた。
「僕の力で戻せると思いますか?」
「理屈の上では、可能性がある」
神代は慎重に答えた。
「君は以前、食器や万年筆を、実際に存在した過去の状態へ戻した。記録カードも物体であり、内部の記録は物理的な状態として保持されている。ならば、媒体全体を故障前へ戻したとき、内部の記録もその時点へ従う可能性がある」
「カード全体を戻すんですか?」
「そうです。特定の音声だけを狙ってはいけない」
神代は記録用の板へ、3つの項目を書いた。
対象。
方向。
終点。
「対象は、記録カード全体。方向は、退行。終点は、天気雨の録音を完了したあとで、次の録音を始める前です」
榊原が、4人の記録用紙の複写を机へ置いた。
美月が書いた時刻が並んでいる。
天気雨の録音終了は、15時44分12秒。
次の録音開始は、15時51分38秒。
書き込み失敗の表示は、その4秒後だった。
「7分ほどの幅があります」
榊原が言った。
「天気雨の音を残し、失敗した書き込みを起こさないための終点です」
透は時刻を見た。
「その間なら、どこでもいいんですか?」
「理論上は」
神代は頷いた。
「ただし、内部の状態を目で確認することはできない。君が認識できる終点は、記録を停止して保存処理が終わった瞬間になるでしょう」
「そこへ戻したら、次に録ろうとした足音は?」
「存在しなかった状態へ戻ります」
「壊れたあとに調べた記録も?」
「カード内部に新しく残されたものがあるなら、それも消えます」
透は視線を上げた。
「欲しいものだけは、残せない」
「今の君には、残せないと考えるべきです」
神代は曖昧にしなかった。
「時間退行は修復ではない。現在の一部を都合よく維持したまま、過去の一部だけを取り出す力でもない。少なくとも、私たちが確認している範囲ではね」
透は、壊れた携帯電話を直さなかった日のことを思い出した。
外側の傷だけでなく、中にある写真も、連絡先も、記録も戻る。
あのときは危険を避けるため、何もしなかった。
今日は、失われるものと残るものを確かめたうえで、戻すかどうかを選べる。
「通常の復旧に任せることもできますか?」
「できます」
「僕がやらなくても?」
「学校の展示用音源です。君が秘密の能力を使ってまで救う義務はありません」
神代はそう言い切った。
透は少し考えた。
天気雨の音は、もう一度同じようには録れない。
けれど、珍しい音を取り戻したいという理由だけなら、能力を使わなくてもいい。
透が確かめたいのは、別のことだった。
「これは、訓練になりますか?」
「なるでしょう」
「もし、これから誰かの大事な記録が消えたとき、何が戻って、何が消えるのかを知っていたほうがいいですか?」
「その問いに対する答えは、知っていたほうがいい、です」
「なら、やります」
透は神代を見る。
「音を取り戻すためだけじゃなくて、僕の力で記録を扱うと何が起こるのか、知るために」
神代はすぐには許可しなかった。
心拍、体温、直前の能力使用、睡眠時間。
いつもの確認を1つずつ行う。
透の記録帳にも、今日の目的と中止条件を書かせた。
『対象の全体を認識できない場合は中止』
『終点を特定できない場合は中止』
『頭痛、吐き気、視野異常のいずれかが生じた場合は解除』
『試行は1回のみ』
最後の行を書き終えたとき、訓練室の扉が開いた。
美月が榊原と一緒に入ってくる。
「相沢さんにも、見届けてもらいます」
神代が言った。
「音源の共同制作者としてではありません。君の異常に最も早く気づける観察者としてです」
「分かりました」
美月は透の隣へ来ると、机の上の時刻表を見た。
「やるんだね」
「うん」
「高瀬君と彩花には?」
「学校で復旧を試す、とだけ伝えました」
榊原が答えた。
「結果が出るまでは待ってもらいます」
透は椅子へ座り、右手を机の上へ置いた。
神代が保管容器を開く。
黒い記録カードは、外から見る限り何も壊れていなかった。
割れてもいない。
焦げてもいない。
表面の印字も、そのまま残っている。
目に見えない場所だけが壊れている。
透は親指と人差し指で、カードの端を挟んだ。
冷たく、薄い。
「対象は?」
神代が尋ねる。
「この記録カード全体」
「方向は?」
「時間退行」
「終点は?」
「15時44分12秒よりあと。天気雨の録音が保存され、次の録音が始まる前」
「時刻だけを追わないでください」
「はい」
「記録が保存された状態を終点にする。数字は、その状態を探すための印です」
透は目を閉じた。
カードを1つの物体として意識する。
表面と裏面。
金属の端子。
薄い殻の内側にある、目では見えない構造。
すべてを理解する必要はない。
皿を作る土の粒を1つずつ知らなくても、皿全体を戻せた。
音の記録を、1つずつ読み取る必要もない。
この小さな物体が、たしかに持っていた状態へ戻す。
意識の奥で、時間の流れが細く分かれた。
今。
読み取りを試された状態。
録音機から取り外された状態。
書き込みに失敗した状態。
廊下の足音を記録しようとした状態。
その前。
雨と、予鈴と、遠い金管楽器を収め、書き込みを終えた状態。
そこだった。
透は、それより先へ戻さないように意識を止める。
右手の指先が、わずかに熱を持った。
訓練室の時計は止まっていない。
美月の呼吸も、空調の音も続いている。
黒いカードだけが、透の指の間で過去へ落ちていく。
見た目は変わらない。
それでも透には、何かが大きく組み替わる感覚があった。
無数の細かな状態を1つずつ選ぶのではない。
物体全体が持つ時刻を、1つ前の目盛りへ合わせていく。
額の奥が重くなる。
終点を越えそうになり、透は指へ力を込めた。
戻しすぎれば、天気雨の音も消える。
欲しい音を思い浮かべてはいけない。
音そのものではなく、保存を終えた媒体の状態だけを見る。
雨。
予鈴。
金管楽器。
それらが収められた直後の、黒いカード。
「今」
透は声に出し、力を切った。
指先の熱が消える。
訓練室には、空調の低い音だけが残った。
「手を離してください」
神代の指示で、透はカードを机へ置いた。
軽い頭痛が、こめかみの内側に残っている。
美月が透の顔を覗き込む。
「気持ち悪くない?」
「大丈夫。頭が少し重いだけ」
「程度は?」
榊原が尋ねる。
「10段階で3くらいです」
「視界は?」
「変わりません」
神代はカードを絶縁性のピンセットで持ち上げ、机の反対側にある読み取り機へ差し込んだ。
外部の通信から切り離された、検査専用の機器だった。
画面に、小さな記号が現れる。
誰も話さない。
数秒後、記号の下へ複数のファイル名が並んだ。
15時31分。
15時36分。
15時42分。
最後に記録された完全な音声は、15時42分から始まっている。
書き込みに失敗した15時51分の音声は、一覧に存在しなかった。
「管理情報を認識しました」
神代が言う。
「保存されている音声も、正常に読み出せます」
美月が息を吐いた。
榊原は時刻と結果を記録用紙へ書き込む。
神代が15時42分のファイルを選び、再生した。
最初に、雨が聞こえた。
細い粒が手すりを叩き、庇から雫が落ちる。
遠くに運動部の声が重なっている。
やがて予鈴が鳴り、人の声と楽器が一度だけ遠のいた。
雨だけが残る。
その向こうから、金管楽器の長い音が戻ってきた。
透は、渡り廊下で息を止めた瞬間を思い出した。
同じ音だった。
似た音ではない。
たしかに、あの場所で存在していた時間の記録だった。
「戻りました」
美月が言う。
「うん」
「でも、足音のほうは戻ってない」
「戻らない状態を選んだから」
透は、画面にない時刻を見た。
録れなかった足音は、もうどこにもない。
カードをもっと先へ戻せば、天気雨まで消える。
現在へ進めても、失敗した書き込みの先に正常な音声が生まれるわけではない。
取り戻したものと、手放したものは、同じ選択から生まれていた。
「成功です。ただし、できなかったことも記録します」
神代は画面を閉じずに言った。
「君は、消えた音声ファイルを選んで復元したのではない。記録カード全体を、音声が読めた過去の状態へ戻した」
「はい」
「終点よりあとに生じた情報は、正常なものも異常なものも残せない。今回は失敗した4秒分だけでしたが、もしその後に別の大切な記録が加わっていれば、それも失われたはずです」
「一部だけを戻すのは、禁止ですか?」
「禁止というより、未確認です」
神代は透の記録帳へ視線を落とした。
「記録媒体の一部を対象として正確に切り分けられるか、切り分けた結果を現在の管理情報と矛盾なく接続できるか、何も分かっていない。実用を考える段階ではありません」
「じゃあ、今はカード全部だけ」
「そう考えてください」
透は記録帳へ書く。
『記録カード全体の時間を戻した』
『故障前に保存済みだった音声は復元』
『終点よりあとの録音は存在しない』
最後の1行を書こうとして、手を止めた。
「学長先生」
「何でしょう」
「外にある記録も、戻せますか?」
「外、とは?」
「鷹宮先輩の掲示板です。相手に消された画面とか、接続の記録とか」
榊原のペンが止まった。
美月も、透を見る。
「端末を戻したら、消されたものが出てくるかもしれない」
透は続けた。
「今日と同じなら」
神代は、すぐに否定しなかった。
「可能性はあります」
「だったら――」
「ただし、条件が違う」
神代の声は静かだった。
「今日の音声は、このカードへ保存されたことが確認されている。掲示板の表示内容が、鷹宮君の端末にどこまで保存されていたかは分かりません。外部の機器から一時的に送られ、画面へ表示されただけなら、戻すべき過去の状態が端末内に存在しない可能性がある」
「表示されていても、残っているとは限らない」
「そうです。それに、端末全体を接続前へ戻せば、彼がその後に学校へ提出した記録や、ほかの正常な情報まで失う恐れがある」
透は口を閉じた。
「もう1つあります」
神代が続ける。
「外部勢力が監視している可能性のある端末へ、君の能力を使うことになる。変化を検知されれば、こちらが知られたくない手段を相手へ教える結果にもなります」
「証拠を取り戻すために、僕のことを証拠にされる」
「その危険があります」
神代は、透から問いを取り上げるようには答えなかった。
「だから現時点では、鷹宮君の端末への使用を許可しません。必要な情報が必ず端末内にあったと確認でき、失われる範囲を特定し、危険より利益が上回る場合に、改めて検討します」
「分かりました」
透は記録帳へ、新しい行を書き足した。
『保存されたことのない情報は、戻せない』
書いてから、少し考える。
『少なくとも、戻せると仮定しない』
言い切るには、まだ分からないことが多すぎた。
神代はその書き直しを見て、頷いた。
「能力の限界を知ることは、諦めることではありません」
「はい」
「何ができないかを記録すれば、できることを危険なく使える」
透は、復元された音声の一覧を見る。
今日まで、記録帳は能力を使った証拠を残すためのものだと思っていた。
けれど、記録は力を縛るだけではない。
どこまで戻してよいかを決める目印にもなる。
美月が時刻を書いていなければ、天気雨の録音が終わった瞬間を、ここまで絞れなかった。
「相沢さんの記録が役に立ちました」
榊原が言った。
「え?」
「録音の開始と終了を秒単位で残していたことです。終点を決める根拠になりました」
美月は少し照れたように、透を見た。
「気象観測みたいって言われたけど」
「言ったのは高瀬だよ」
「透も笑ってた」
「少しだけ」
「じゃあ、少しだけ反省してください」
「反省します」
透が答えると、美月はようやく笑った。
翌日の放課後、4人は1年4組の教室へ集まった。
榊原が、復旧済みの音声を入れた新しい記録媒体を持ってくる。
故障したカードは、原因調査と保管のため学校が預かったままだった。
「学校の設備で、読み取れる状態まで復旧できました」
榊原は、説明する範囲を先に決めていた。
「元のカードは劣化が進んでいました。高瀬君の扱いが原因ではありません」
「本当に?」
高瀬が聞き返す。
「現時点の調査では、そう判断しています」
「よかった……」
高瀬は机へ両手をつき、大きく息を吐いた。
「昨日から、弁償するとしたら何か月昼飯を抜くか計算してた」
「学校の機材を壊したら、必ず生徒が全額弁償するわけではありません」
「先に聞けばよかった」
「先に聞いてください」
榊原が真顔で返し、彩花が笑った。
美月は新しいカードを教室の再生機へ入れた。
天気雨の音が、昨日とは違う場所に流れ始める。
窓の外は、今日は乾いていた。
それでも目を閉じると、細い雨粒が手すりを叩く光景が浮かぶ。
「残ってた」
高瀬が、小さな声で言った。
「全部じゃないけどね」
透は答えた。
「最後に録ろうとした足音はなかった」
「あれは、ほとんど録れてなかったからいい」
「でも、同じものは戻らないよ」
高瀬は透を見たあと、自分の上履きを床へ擦りつけた。
きゅ、と乾いた音がする。
「同じじゃなくていいだろ」
「え?」
「昨日は濡れた足音。今日は乾いた足音。明日はまた違う。展示の題名は『いつもの放課後』なんだから、1回しかない音だけ集めなくてもいい」
彩花が頷く。
「残せなかったものがあるなら、次に気づいたものを撮ればいいです」
「それに、失敗した記録まで展示へ出す必要はないけど、失敗したことは制作ノートに残せるよ」
美月は昨日の記録用紙を取り出した。
「15時51分。濡れた上履きの音。記録失敗、って」
「失敗まで見せるのか?」
「見せ方は考える。でも、何でもきれいに残ったことにしなくてもいいと思う」
透は3人の言葉を聞きながら、再生機から流れる雨へ耳を澄ませた。
力で取り戻した音を、特別な奇跡として見せることはできない。
けれど、特別にしなくてもいいのかもしれない。
誰かが時刻を書き、誰かが機械を持ち、誰かが写真を撮り、壊れたあとに誰かへ報告した。
その全部があったから、音はここにある。
透の力だけが、取り戻したわけではなかった。
「藤崎さんの写真、出してみよう」
透が言った。
彩花は印刷した試作品を机へ並べた。
陽光の中を雨が横切る写真。
濡れた手すり。
水たまりに映る雲。
最後に、雨がやんだあとの空の写真がある。
「この順番で音をつなぐのはどう?」
美月が写真を並べ替える。
「最初は運動部の声。次に雨が強くなって、予鈴が鳴る。それから楽器の音が戻る」
「最後は?」
高瀬が聞く。
「今日、もう一度録りに行こう」
美月は窓の外を指した。
「雨がやんだあとの、何も起きてない渡り廊下」
「何も起きてない音って、何だよ」
「行けば分かるかも」
4人は、もう一度録音機を持って教室を出た。
今度は、新しい記録カードが入っている。
渡り廊下に雨はない。
手すりには、乾ききらない雫が少し残っていた。
運動部の声が聞こえる。
誰かが階段を駆け下りる。
遠くで窓が閉まる。
昨日とは違う。
けれど、昨日と同じように、どれも始まり、やがて消えていく。
高瀬が録音ボタンを押す前に、美月は時刻を読み上げた。
「15時47分03秒」
透は記録用紙へ、その数字を書き込んだ。
「今度は久世が書くのか」
「気象観測みたいな記録が必要だから」
「俺の発言を根に持ってる?」
「少しだけ」
「相沢、久世が性格悪くなってる」
「前からだよ」
「美月まで?」
透が名前を呼ぶと、高瀬が録音機を確認する。
「まだ録ってない。安心しろ」
「確認しなくていいよ」
「大事だろ。消すのは大変なんだから」
高瀬は何も知らずに言った。
透と美月は、一瞬だけ顔を見合わせる。
「そうだね」
透は答えた。
「消すのも、戻すのも、思ってるより大変だよ」
高瀬が録音ボタンを押す。
赤いランプが点灯した。
誰も話さない。
昨日、消えた音を取り戻した。
今日、同じ場所で違う音を残している。
透はもう、失われたものを何でも過去から拾い直せるとは思わなかった。
過去へ戻すたび、そこから先の現在を手放すことになる。
だから、戻す前に記録する。
誰かと確かめる。
何を守り、何を失うかを、自分だけで決めない。
静かな渡り廊下へ、放課後の音が重なっていく。
その夜、灰色のスーツの男は、閉鎖された通信経路の処理記録を確認していた。
鷹宮の端末へ3分間だけ開いた経路は、接続先の中継記録から削除されている。
使い捨ての識別情報も破棄された。
端末側に残り得る一時情報は、遠隔処理によって読み出せない状態へ変更されている。
『対象端末との接続痕跡、消去完了』
男は上位者へ報告した。
『復元可能性は?』
『通常手段では、復元不能』
数秒後、承認を示す表示が出た。
彼らにとって、消した記録は戻らない。
過去は、追跡を断つために切り捨てられるものだった。
同じ頃、学校の地下では、故障前へ戻った小さな記録カードが、封印された保管庫へ収められていた。
消えたはずの音を内側に残したまま。
まだ誰も、その力が何を証拠として拾い直せるのかを知らない。
ただ透の記録帳には、新しい1行が増えていた。
『消えたように見えることと、存在しなかったことは、同じではない』




