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時と魔法と  作者: 牡丹
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17/22

第17章 見えないものを残す

 9月最初の朝、夏休みの終わった校舎へ生徒たちの声が戻ってきた。


 昇降口には、日焼けした運動部員と、終わらなかった課題を見せ合う生徒が集まっている。


 透は人の流れに混じり、1年4組の靴箱へ向かった。


「久世」


 後ろから高瀬に肩を叩かれる。


「おはよう」


「もっと聞くことがあるだろ」


「何を?」


 高瀬は鞄から1枚の紙を取り出した。


 夏休み中に受けた数学の追試結果だった。


 右上に、赤い文字で61点と書かれている。


「受かったんだ」


「反応が薄い。奇跡だぞ」


「合格は60点から?」


「そう」


「危なかったな」


「1点は、越えた者にだけ許される余裕です」


 高瀬は紙を胸へ当て、誇らしげに言った。


「相沢と藤崎にも見せる」


「連絡グループに送ればいいだろ」


「直接見せたほうが感動する」


「たぶん笑われるよ」


「久世は友達を信じる心が足りない」


 2人で階段を上がる。


 透は、踊り場の窓へ一度だけ目を向けた。


 校門の外に、不自然に停まっている車はない。


 灰色のスーツも見えなかった。


 見えないから、いないとは限らない。


 それでも、新学期最初の朝まで警戒だけに渡したくなかった。


 教室へ入ると、美月と彩花は窓際で話していた。


 彩花の首に、今日はカメラがない。


 学校へ持ってきていないのではなく、鍵のかかる写真部の保管庫へ先に置いてきたらしい。


「見てください」


 高瀬が追試結果を机へ広げる。


「61点」


 彩花が読む。


「合格です」


「もっと驚いていい」


「採点ミス?」


「藤崎、最初にそれを疑うのは失礼だろ」


 美月が答案の端を見る。


「最後の問題、途中式が違うって書かれてるよ」


「答えは合ってる」


「偶然?」


「数学に偶然はありません」


「採点した先生の優しさはありそう」


 美月が笑う。


 高瀬は答案を取り返した。


「やっぱり、画像で送るだけにすればよかった」


 夏休み前と同じやり取りだった。


 違うこともある。


 美月は、教室では透を名字で呼ぶ。


 彩花と高瀬だけが、その呼び方の外側にある関係を知っている。


 4人の間には、共有する秘密と、共有しない秘密がそれぞれあった。


 どちらも無理に1つへまとめないまま、同じ教室へ戻ってきた。


 始業の鐘が鳴る。


 榊原が出席簿を持って教室へ入った。


 朝の挨拶と出席確認を終えたあと、黒板の前へ立つ。


「連絡事項の前に、1学期に教室内で広がった噂について話します」


 教室の空気が変わった。


 透は、自分の机へ視線を落とす。


 事故を口実に、美月へ付きまとっている。


 交際を強要している。


 教室のあちこちで囁かれた言葉だった。


「学校の調査で、久世君が相沢さんへ交際を強要した事実はないと確認しました」


 榊原は、誰かを責めるような声では言わなかった。


「噂は事実ではありません。また、意図的に広められたことも確認しています」


 何人かの生徒が、透と美月を見る。


 美月は顔を伏せなかった。


「関係した生徒への指導は、学校が手続きに沿って行います。皆さんには、確認していない情報を繰り返さないことを求めます」


 榊原は一度、教室全体を見渡した。


「聞いた側にも、広げるか止めるかを選ぶ責任があります」


 短い説明だった。


 鷹宮の名前は出なかった。


 処分の内容も、謝罪のことも話されない。


 それは隠すためではなく、必要以上に別の生徒の情報を広げないためだった。


 透は、あの日の会議室を思い出す。


 罰が終わることと、許されることは別だった。


 事実を訂正することと、誰かを教室の新しい標的にすることも別だった。


 教室の後ろから、小さな声がした。


「久世、悪かった」


 噂を一度、透へ直接尋ねた男子生徒だった。


「確認しないで、ほかのやつにも話した」


 透は急に向けられた謝罪へ、すぐ返事ができなかった。


「うん」


 ようやく、それだけ言う。


 許したのかと聞かれれば、わからない。


 でも、今は聞いたと伝えることはできた。


 榊原は話を終え、黒板へ大きく文字を書いた。


『文化祭』


 固くなっていた空気が、少し動く。


「10月第2土曜日に、本校の文化祭を行います」


 教室のあちこちから声が上がった。


「今年も保護者と事前登録した一般来場者を受け入れます。皆さんには、今日からクラス企画を決めてもらいます」


 高瀬が机へ突っ伏した。


「夏休みが終わった日に、もう次の行事」


「楽しそうじゃん」


 前の席の生徒が言う。


「準備がなければ楽しい」


「それは参加してないだけだよ」


 榊原が文化祭の企画規則を配る。


 食品を扱う場合は、事前の衛生講習と品目審査が必要。


 校内設備を傷つける演出は禁止。


 能力を使用する企画は、能力者クラスの担当教員による安全審査を受けなければならない。


 通常クラスの企画では、演出目的の能力使用は認められない。


「能力者クラスは、今年も派手なんだろうな」


 誰かが言った。


「去年は、炎で空に絵を描いたらしいよ」


「風を使った迷路もあったって」


「通常クラスで何をやっても、見に来ないんじゃない?」


 教室の熱が、少し下がる。


 文化祭は同じ学校の行事でも、能力の差が最も目に見える日だった。


 能力者クラスは、普段の訓練成果を派手な演出に変えられる。


 通常クラスに同じことはできない。


「飲食なら、能力は関係ない」


 高瀬が顔を上げた。


「焼きそば」


「去年、3クラスがやったそうです」


 彩花が企画資料を見る。


「じゃあ、たこ焼き」


「調理設備が足りません」


「喫茶店」


「高瀬は食べたいだけでしょ」


 美月に言われ、高瀬は否定しなかった。


 話し合いの進行役になったクラス委員が、黒板へ案を書いていく。


 飲食店。


 迷路。


 お化け屋敷。


 縁日。


 どれも、ほかのクラスと重なっていた。


「藤崎さん、何かない?」


 写真部だと知っている生徒が尋ねる。


 彩花は少し考えた。


「写真なら、展示に使えるものがあります」


「夏休みに撮ってたやつ?」


「校舎の写真です。誰もいない渡り廊下とか、窓の影とか」


「地味じゃない?」


 悪意のない声だった。


 彩花も怒らなかった。


「写真だけなら、地味だと思います」


「自分で言うんだ」


「展示にするなら、もう1つ何かほしいです」


 透は、夏休みの地下第二演習室を思い出した。


 金属板を叩く音。


 約1秒遅れて、透明な筒から届いた音。


 形は見えなくても、始まった場所と進む方向があった。


「音は?」


 透の口から、言葉が出た。


 教室の視線が集まる。


 自分から企画案を出すことなど、ほとんどなかった。


「どんな音?」


 クラス委員が尋ねる。


「校舎の音。鐘とか、黒板に字を書く音とか、部活動の声とか」


「写真に音をつけるの?」


「うん。誰も写ってない写真でも、その場所にいた人の音があれば、違って見えるかもしれない」


 彩花が透を見る。


「面白いかも」


 美月も頷いた。


「写真の場所で録音するのはどう? 朝と放課後でも、同じ場所の音が違うと思う」


「時間帯で分ける?」


「うん。誰もいないように見える写真の中に、いつもの学校が聞こえる展示」


 高瀬が腕を組む。


「食べ物は?」


「いったん離れよう」


「重要な部分だぞ」


「休憩用の椅子は置けるよ」


 美月が言う。


「食べられない休憩所?」


「静かに写真と音を楽しむ場所」


「お腹は満たされない」


「心は満たされるかもしれない」


「相沢、その言い方は少し怪しい店みたいだ」


 教室に笑いが起きた。


 案の名前は、『いつもの放課後』になった。


 教室の壁へ写真を投影し、その場所で録音した音を流す。


 時間帯ごとに光と音を変え、朝から放課後までの校舎を1つの教室で再現する。


 入口では、写真部が作る小さな案内カードを配る。


 能力を使った派手な演出はない。


 普段なら通り過ぎるものを、立ち止まって見てもらう企画だった。


 投票の結果、飲食企画をわずかな差で上回った。


「焼きそばが」


 高瀬が机へ沈む。


「そもそも候補に残ってなかったよ」


 透が言う。


 役割分担が始まる。


 彩花は撮影班。


 透と高瀬は録音班。


 美月は展示構成と来場者案内。


 ほかの生徒たちは、内装、照明、機材、案内カードの制作へ分かれた。


 自分の名前が録音班へ書かれる。


 透は、不思議な気持ちで黒板を見た。


 時間を止める力ではない。


 誰にも隠す必要のない役割だった。


 放課後、透、美月、高瀬、彩花の4人は、最初の素材を集めるため校内を歩いた。


 不審者対策のため、撮影と録音は学校へ届け出た経路だけで行う。


 人の顔や会話を無断で記録しない。


 公開前には榊原と文化祭担当教員が内容を確認する。


 彩花はカメラを持ち、高瀬は学校から借りた小型の録音機を持っている。


「どうして俺が録音機なの」


 高瀬が尋ねる。


「久世は音を考える人。高瀬は持つ人」


 彩花が答える。


「役割の差が大きい」


「追試合格者の安定した手が必要です」


「なるほど」


「納得するんだ」


 美月が笑う。


 最初に向かったのは、誰も使っていない特別教室だった。


 午後の日差しが、机の上へ斜めに落ちている。


 彩花は扉の前で立ち止まり、3人へ確認する。


「室内の写真を撮ります。写りたくない人は、廊下で待ってください」


「誰も写さないんじゃなかった?」


 高瀬が言う。


「反射することがあるから。窓とか、機材とか」


「俺は大丈夫」


「私も」


 美月が答える。


 透も頷いた。


「大丈夫」


「では、撮ります」


 彩花がカメラを構える。


 机の列。


 開いた窓。


 風に動くカーテン。


 黒板の端へ残った白い線。


 夏休みに見せてもらった写真と似ている。


 けれど、4人で同じ場所に立っているだけで、違う場面に見えた。


 録音機の準備ができる。


「最初は何を録る?」


 高瀬が尋ねる。


「黒板」


 透は、教卓に置かれた白いチョークを手に取った。


 録音開始の表示を確認する。


 黒板へ、ゆっくり1本の線を引いた。


 乾いた摩擦音が、静かな教室へ響く。


 時間停止の訓練で聞いた金属音とは違う。


 この音を止める必要はない。


 始まって、続いて、自然に消えるところまで記録する。


「もう1回」


 高瀬が言う。


「今の、途中で少し引っかかった」


「それが普通じゃない?」


「展示なら、きれいな音のほうがいいだろ」


 彩花がカメラを下ろす。


「引っかかった音も残そう」


「失敗じゃないの?」


「いつもの黒板は、そんなにきれいな音ばかりじゃないから」


 透はチョークの先を見る。


 少し欠けている。


「じゃあ、両方録ろう」


 2回目は、美月が黒板へ文化祭の日付を書いた。


 透より速く、迷いのない音だった。


「美月さん、字がきれいだね」


 透が言う。


 教室が静かになった。


 録音機の赤い表示だけが動いている。


 美月の手が止まる。


 高瀬と彩花が、同時に透を見る。


「学校」


 美月が小さな声で言った。


 透は、自分が名前で呼んだことに気づく。


「ごめん」


「録音されてる」


 高瀬が録音機を持ち上げる。


「消して」


 美月がすぐに言う。


「交際発表の音声資料として」


「高瀬」


「消します」


 高瀬は再生もせず、その記録だけを削除した。


 彩花が肩を震わせて笑っている。


「久世、気が緩んだね」


「誰もいない教室だったから」


「録音機はいたよ」


「人じゃないだろ」


「人より正確に覚えてます」


 美月の頬は赤い。


「次は、廊下の音にしよう」


 話題を変えるように扉へ向かう。


 高瀬は新しい録音を開始した。


「相沢さん、廊下へ移動します」


 わざと名字を強調する。


「追試の点数、みんなに言うよ」


「すでに見せました」


 廊下では、運動部の掛け声を遠くから録った。


 階段を下りる靴音。


 図書室でページをめくる音。


 美術室で筆を洗う水音。


 閉まりかけた窓を、風が小さく揺らす音。


 同じ校舎の中でも、場所ごとに時間の進み方が違うように感じられた。


 透は能力を使っていない。


 それでも、音を聞こうと意識するだけで、普段は通り過ぎていた瞬間が形を持った。


 最後に、4人は夕方の渡り廊下へ向かった。


 彩花が夏休みに撮影した、窓枠の影が長く伸びる場所だった。


 今日は窓の外から、吹奏楽部の音が聞こえる。


 録音機を手すりの近くへ置く。


 演奏が一度止まり、遠くで誰かが数を数えた。


 再び、同じ小節が始まる。


「練習してる音もいいね」


 美月が言う。


「完成した曲だけじゃなくて」


「間違えて、戻って、もう1回やるところ」


 透が答える。


「文化祭までに、私たちの展示も何回戻るかな」


「高瀬の焼きそば案まで戻らなければ大丈夫」


「まだ諦めてない」


 高瀬が言った。


 彩花は3人へカメラを向ける前に、声をかけた。


「制作記録用に、4人の写真を撮ってもいい?」


「公開する?」


 美月が尋ねる。


「しない。クラスの制作記録だけ。場所がわかる情報も外へは出さない」


「私はいいよ」


「俺も」


 高瀬が透を見る。


「久世は?」


 以前なら、写らないほうを選んだかもしれない。


 誰が画像を見るのか。


 どこへ保存されるのか。


 何のために撮るのか。


 彩花は先に説明し、選ばせてくれた。


「俺も大丈夫」


「じゃあ、三脚を使う」


 彩花はカメラを固定し、3人の隣へ走った。


 高瀬が追試結果の紙を掲げる。


「何で持ってきてるの」


 美月が笑う。


「2学期最初の功績だから」


 撮影音が鳴った。


 夏祭りの集合写真とは違い、背景に知らない人物はいない。


 撮影したことも、保存する場所も、4人が知っている。


 残されることを、自分たちで選んだ写真だった。


 同じ日の夕方、神代は学長室で文化祭の実施要項を開いていた。


 向かいには榊原が座り、透と美月も説明のため呼ばれている。


「一般来場者を受け入れるんですね」


 透が尋ねる。


「その予定だ」


「灰色の男が入ってくるかもしれません」


「可能性はある」


「中止にしたほうが」


「文化祭そのものを?」


「一般公開だけでも」


 透は、今日決まった展示を思い出す。


 クラスの生徒が、少しずつ企画へ乗り気になっていた。


 それを自分の秘密で狭めることになる。


「俺がいなければ、いつもどおりできますか」


「透くん」


 美月が止める。


「可能性だけで、君を文化祭から外すことはしない」


 神代が言った。


「一般公開も、学校全体で決めた教育活動だ。危険があるなら対策を取る。最初から全てを諦めるのは、最後の手段になる」


「でも、俺のせいで」


「責任の場所を間違えないことだ」


 夏祭りの写真を確認した夜にも、神代から言われた言葉だった。


「違法に観測している者の責任を、君が先に引き受ける必要はない」


 榊原が、警備計画の案を机へ置いた。


「一般来場者は事前登録制です。当日は身分証と登録情報を照合します」


 入口を正門と東門の2か所へ限定する。


 校内へ入る来場者には、色分けした入場証を渡す。


 教職員と警備担当者を増員する。


 立入禁止区域への扉は、通常より1段階高い認証へ変更する。


 灰色のスーツの男については、夏祭り写真から得た身体的特徴を入口担当者へ共有する。


 透の氏名や能力は知らせない。


「来場者へ、生徒の個人名を載せた企画表は配りません」


 榊原が続ける。


「クラス企画には、必ず複数の生徒と担当教員がいます。久世君と相沢さんだけが移動する時間も作りません」


「みんなを、おとりにすることになりませんか」


「君の周囲へ無理に配置するのではありません。文化祭を行ううえで必要な安全手順を、全校へ適用します」


 神代が答える。


「君だけのためだとわかる形にすれば、それ自体が情報になる」


 透は警備計画を見る。


 自分を隠すためだけの壁ではない。


 全員が文化祭を続けるための仕組みだった。


「クラスで、音と写真の展示をすることになりました」


 透が言う。


「君から案を出したのか」


「はい」


「それなら、最後まで参加しなさい」


 神代はわずかに笑った。


「能力を使わずに始めたことも、君の訓練の1つだ」


「訓練なんですか」


「普通の生活を手放さないための、重要な訓練だ」


 美月が頷く。


「私も、展示構成を担当します」


「2人とも、企画の準備予定は榊原先生へ共有すること。不審な人物を見つけても追わない。緊急時以外、校内で能力を使わない」


「はい」


 透は答えた。


 中止しないと決めたから、危険が消えるわけではない。


 参加すると決めたから、恐怖がなくなるわけでもない。


 それでも、誰かに奪われる前から自分で手放すことはしない。


 神代も、榊原も、美月も、その選択を支えるためにいる。


 夜、灰色のスーツの男の端末へ、学校の文化祭案内が表示された。


 開催日は、10月第2土曜日。


 事前登録した一般来場者を受け入れる。


 公開されているのは、日時、学校の所在地、登録方法だけだった。


 生徒名も、クラスごとの詳細な配置も載っていない。


 男は上位者へ報告する。


『候補者在籍校、文化祭の一般公開を予定』


『来場者登録による校内観測を申請する』


 返答は短かった。


『却下』


『校内侵入、候補者および保護系統への接触禁止を維持する』


 続いて、別の指示が表示される。


『外周から来場者動線、警備配置、候補者の行動範囲を観測せよ』


『事故、混乱、能力発動の誘発を禁ずる』


 男は申請を閉じる。


 学校の中へは入らない。


 来場者へ紛れない。


 ただ、誰が校門で止められるのか。


 神代がどこへ警備を置くのか。


 透が、誰と同じ教室にいるのか。


 文化祭を守ろうとする動きから、また秘密の輪郭を測る。


 1年4組では、見えない音を残す展示の準備が始まった。


 その学校の外では、見えない観測者が文化祭までの日数を数え始めていた。



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