第11章 止めたもの、進んだもの
終業式の日、体育館には朝から熱がこもっていた。
天井近くの窓は開いているが、風はほとんど入ってこない。
全校生徒が並ぶ中、壇上の神代宗一郎が夏休みの注意事項を話している。
「能力者、非能力者を問わず、校外では学校の規則だけで皆さんを守ることはできません」
静かな声が、体育館の奥まで届く。
「自分の力を過信しないこと。危険を感じたら、1人で解決しようとせず、周囲の大人へ助けを求めること」
透には、自分へ向けられた言葉のように聞こえた。
けれど、神代の視線は特定の誰かへ止まらない。
能力者クラスも通常クラスも、同じ生徒として見渡している。
列の離れた場所に、鷹宮怜司がいた。
復帰後1か月の能力使用制限を示す細い腕章が、制服の袖についている。
透と視線が合うことはなかった。
灰色のスーツの男が学校へ来てから、鷹宮は以前より口数が減ったらしい。
高瀬から聞いただけで、透は本人と言葉を交わしていない。
接触禁止がなくても、今は何を話せばいいのかわからなかった。
式が終わり、教室へ戻ると通知表が配られた。
「終わった」
前の席で、高瀬颯太が机へ突っ伏す。
「夏休みはこれからだろ」
「俺の自由な夏休みは終わった。数学の補習に殺された」
高瀬の通知表には、数学の欄だけ赤い印がついていた。
「補習、3日だけじゃないか」
「夏休みの3日は、普段の1週間に相当する」
「どういう計算だよ」
「数学が苦手な俺に聞くな」
透は自分の通知表を見る。
目立って良くも悪くもない数字が並んでいる。
以前なら、何も感じなかっただろう。
普通という結果に、今は少し安心している。
「久世は夏休み、何するんだ?」
「特に決めてない」
「相沢と出かけないの?」
透は通知表を閉じた。
「どうして俺に聞く」
「教室で自分から誘ったって宣言した人がいるから」
斜め前の席で、美月が振り返る。
「高瀬くん、聞こえてるよ」
「聞こえるように言った」
「補習、あと3日くらい増やしてもらう?」
「相沢にそんな権限ないだろ」
「榊原先生に相談してみる」
「すみませんでした」
高瀬が素早く頭を下げる。
透は笑いを堪えた。
鷹宮の件が起きる前と、同じ教室の空気だった。
完全に元へ戻ったわけではない。
それでも、失ったものばかりではなかった。
帰りのホームルームで、榊原は夏休みの課題を確認したあと、教卓へ両手をついた。
「最近、学校周辺で身元の確認できない人物が目撃されています」
教室が少しざわつく。
「知らない相手から学校関係者を名乗られても、その場で個人情報を渡さないこと。困った場合は、学校か警察へ連絡してください」
透と美月だけが、注意の本当の理由を知っている。
「夏休みだからといって、危険まで休みになるわけではありません。気をつけて過ごしてください」
ホームルームが終わる。
高瀬は補習の予定表を恨めしそうに見ながら帰っていった。
透と美月は、人の多い正門を使って駅へ向かった。
外部の観測者がどこにいるのかはわからない。
灰色の服を着た人を見るたびに身構えていては、街を歩くこともできない。
神代からは、周囲を警戒することと、怯えて日常を捨てることを混同しないよう言われていた。
「明日、コハクの検診なんだけど」
駅へ続く道で、美月が言った。
「一緒に来ない?」
「俺が行っていいの?」
「コハクを助けた人なんだから、経過を見る権利があります」
「病院の人には説明できないけど」
「拾ったとき一緒にいた友達、で大丈夫」
美月は少し間を置く。
「それに、できるだけ1人で出歩かないようにって言われたし」
「それは俺も同じだ」
「じゃあ、利害が一致しました」
「待ち合わせは?」
「午前10時。駅の東口」
水族館のときより、1時間早い。
「寝坊しないでね」
「しないよ」
「この前、待ち合わせの30分前に来てた人が言っても説得力ないな」
「寝坊とは逆だろ」
美月が楽しそうに笑った。
夏休み最初の予定が決まる。
誰かに観測されているかもしれない。
それでも、その予定まで相手へ渡したくはなかった。
翌朝、透が駅の東口へ着いたのは午前9時45分だった。
水族館のときより、15分だけ遅い。
美月はすでに待っていた。
足元には、白い布をかけた動物用のキャリーケースがある。
「おはよう、透くん」
「おはよう、美月さん。早いね」
「透くんにだけは言われたくない」
ケースの網越しに、琥珀色の目がこちらを見る。
「コハク、おはよう」
透が指を近づけると、小さな鼻が網へ寄ってきた。
あの日、血と雨水に濡れていた身体は、柔らかな白と茶色の毛に覆われている。
「持とうか」
「大丈夫だよ」
「今日は一緒に行く役だから」
「何、その役」
「今決めた」
透はキャリーケースを持ち上げた。
見た目より重い。
「大きくなった?」
「食欲がすごいの。病院で太りすぎって言われたらどうしよう」
ケースの中から、小さく抗議する声が聞こえた。
「今の、わかったのかな」
「コハクの前で体重の話は禁止だね」
動物病院までは、駅から歩いて15分ほどだった。
前回は雨上がりの薄暗い道を必死に走った。
今日は夏の光が眩しく、街路樹から蝉の声が降っている。
同じ道なのに、別の場所のようだった。
受付を済ませると、2人は待合室の端へ並んで座った。
ケースの中で、コハクが落ち着かずに向きを変えている。
「怖いのかな」
「前に来たときのこと、覚えてるのかも」
「あのときは、コハクより私のほうが震えてた」
美月がケースへ手を添える。
「もう大丈夫だよ」
コハクへ向けた言葉なのか、自分へ向けた言葉なのか、透にはわからなかった。
名前を呼ばれ、診察室へ入る。
獣医師はコハクの身体を丁寧に確かめた。
体温。心音。関節の動き。瞳孔の反応。
コハクは途中から診察台の上で逃げようとし、美月の腕へしがみついた。
「元気ですね」
獣医師が笑う。
「体重も順調に増えています。栄養状態は改善していますし、前回心配していた脱水もありません」
「太りすぎじゃないですか」
「子猫の時期ですから、今はしっかり食べて大丈夫です」
美月が露骨に安心した顔をする。
「交通外傷の影響も見当たりません。念のため、次は予防接種の時期に来てください」
「ありがとうございます」
診察室を出ると、美月はキャリーケースを覗き込んだ。
「よかったね、コハク。太りすぎじゃないって」
コハクは顔を背けた。
「まだ怒ってる」
「帰ったら少しだけおやつあげるから」
「それで太るんじゃない?」
「透くんは黙ってて」
病院を出る頃には、午前11時を過ぎていた。
玄関前の屋根が、真上からの日差しを遮っている。
敷地の脇では、配送業者が医療用品の箱を台車へ積んでいた。
透と美月が歩道へ向かおうとしたとき、小さな金属音が聞こえた。
坂になった搬入口で、台車の車輪止めが外れている。
箱を積んだ台車が、ゆっくりと動き出した。
配送員は荷台の中にいて、気づいていない。
坂で速度が増す。
進行方向には、母親と手をつないだ幼い男の子がいた。
男の子は地面へ落とした玩具を拾おうとして、手を離す。
母親の視線は、受付でもらった書類へ向いていた。
「危ない!」
美月の声が響く。
男の子が顔を上げた。
透の目に、台車の軌道が線となって見えた。
坂の上から、男の子へ届く1本の線。
周囲には、病院の自動扉が動いている。
診察室では、いくつもの医療機器が命を支えている。
母親が子どもへ手を伸ばしている。
全てを止めてはいけない。
止めるのは、台車だけ。
対象。
方向。
終点。
透は、時間へ命令を送った。
台車が止まる。
傾斜の途中で、箱も車輪も完全に静止した。
蝉は鳴き続けている。
自動扉が開く。
母親の手が動く。
男の子の服をつかみ、身体を抱き寄せた。
透は駆け寄り、2人を台車の軌道から離す。
「こっちへ!」
母親が子どもを抱いたまま、透のほうへ倒れ込む。
安全な位置へ移ったのを確認する。
停止を解除した。
台車が再び坂を下る。
物音に気づいた配送員が荷台から飛び降り、横から取っ手をつかんだ。
靴底が地面を滑る。
台車は歩道へ出る直前で止まった。
「すみません! 怪我はありませんか!」
配送員が青ざめた顔で駆けてくる。
母親は子どもを抱き締め、何度も頷いた。
「大丈夫です。この子も、大丈夫です」
男の子は驚いて泣き始めたが、傷はない。
「お兄ちゃんが助けてくれた」
母親が透へ頭を下げる。
「本当に、ありがとうございます」
「俺は、少し動かしただけです」
嘘ではない。
ただ、その少しを作るために、台車の時間を止めた。
配送員が台車の車輪を調べる。
「車輪止めが、かかりきってなかったみたいです。申し訳ありません」
周囲にいた人たちは、透が子どもを助けたことに気を取られている。
坂の途中で台車が不自然に止まったことを、誰も口にしなかった。
時間にすれば、3秒にも満たなかった。
人の目には、車輪が一瞬引っかかったようにしか見えなかったのかもしれない。
美月がキャリーケースを抱え、透のそばへ来る。
「透くん」
「うん」
それだけで通じた。
透は新しいスマートフォンを取り出した。
連絡先の上から2番目にある神代の名前を選ぶ。
『どうした』
「能力を使いました」
最初の言葉で報告する。
『今、どこにいる』
「駅の近くの動物病院です。荷物を積んだ台車が子どもにぶつかりそうになって、台車だけを止めました」
『怪我人は』
「いません。台車も配送員が止めました」
『停止した範囲と時間は』
「台車と積まれていた箱だけです。3秒より短かったと思います。周りの人も、病院の機械も動いていました」
『頭痛や出血は』
透は自分の身体を確かめる。
こめかみに、ごく軽い重さがあるだけだ。
「少し疲れました。でも、大丈夫です」
『相沢君はそばにいるか』
「います」
美月が端末へ顔を寄せる。
「私も見てました。透くんも、助けた子も怪我はありません」
『わかった。まず現場を離れ、人の多い場所へ移動しなさい。不審な人物や車がいないか確認を。ただし、探し回ってはいけない』
「はい」
『帰宅後、操作記録帳へ書くこと。次の訓練で詳しく確認する』
「わかりました」
通話を終える。
透は周囲を見る。
病院の駐車場。歩道。向かいのコンビニエンスストア。
灰色のスーツの男はいない。
怪しい車も、透には見分けられなかった。
「行こう」
美月が言った。
「駅へ戻る?」
「その前に、少しだけ寄りたいところがある」
美月が透を連れていったのは、駅の裏手にある小さな公園だった。
休日でも人は少ないが、道路から園内全体が見える。
家族連れがベンチに座り、噴水の周りでは子どもたちが遊んでいる。
神代から言われた、人目のある場所という条件には合っていた。
木陰のベンチへ座る。
美月はキャリーケースを2人の間へ置いた。
コハクは騒ぎに疲れたのか、中で丸くなっている。
「さっき、怖かった」
美月が言った。
「台車のこと?」
「それも。でも、透くんが迷わず力を使ったことも」
「使わないほうがよかった?」
「違うよ」
美月は首を振る。
「使ってくれてよかった。あの子を助けられたから」
キャリーケースの中で、コハクが小さく身じろぎする。
「ただ、透くんが誰かを助けるたびに、秘密を知る人が近づくかもしれないって思った」
「俺も考えた」
「それでも使うんだよね」
透はすぐには答えなかった。
能力を隠すために、目の前の子どもを見捨てる。
そんな選択をすれば、普通の生活を守れても、自分が普通でいたかった理由を失う。
「見捨てられないと思う」
「うん。知ってる」
「怖い?」
「怖い」
美月は正直に答えた。
「でも、それも含めて話したかった」
「何を?」
美月は膝の上で両手を組んだ。
教室で噂を否定した日の言葉を、透は思い出す。
嫌だったら、デートに誘っていない。
ただ、順番がある。
その順番を話すのは、今度。
「前に、順番があるって言ったでしょ」
「覚えてる」
「忘れててくれたほうが、少し楽だったんだけど」
美月が困ったように笑う。
「私の考えてた順番はね。まず、自分の気持ちを伝える。それから相手の気持ちを聞く。最後に、2人でどうするか決める」
蝉の声が急に大きく感じられた。
透の心臓が、台車を見たときより速くなる。
美月は逃げるように視線を逸らさなかった。
「私は、透くんが好き」
言葉は小さかった。
けれど、止まることなく透へ届いた。
「事故から助けてもらったからだけじゃない。コハクを救ってくれたからだけでもない」
美月は続ける。
「怖くても誰かを見捨てられないところも、自分が間違えたときに隠さず話そうとするところも、一緒にいると安心するのに、たまにすごく心配させるところも」
「最後のは、好きなところ?」
「そこは直してほしいところ」
透は少し笑った。
緊張で固まっていた息が、ようやく吐き出せる。
「透くんは、どう思ってる?」
時間を止めれば、答えを考える時間はいくらでも作れる。
けれど、必要なかった。
「俺も、美月さんが好き」
美月の目がわずかに見開かれる。
「交差点で一緒に動いてくれたときから、たぶん特別だった。でも、好きだってわかったのは、水族館で話したときだと思う」
「じゃあ、私より先?」
「それはわからない」
「大事なところなのに」
「時間を戻して確認する?」
「そういうことに能力を使わないで」
「使わないよ」
2人で笑う。
美月は1度、深く息を吸った。
「じゃあ、最後」
透も姿勢を正す。
「私と、付き合ってください」
「はい」
答えが短すぎた気がした。
「俺でよければ」
「そこは、透くんがいいから聞いてるの」
「じゃあ、俺も。付き合ってください」
「はい」
同じ返事をして、美月が笑う。
何かが劇的に変わったわけではない。
噴水の音も、蝉の声も、キャリーケースの中で眠るコハクの呼吸も続いている。
それでも、2人の間にあった名前のつかない時間が、ゆっくりと次へ進んだ。
「学校では、どうする?」
透が尋ねる。
「今までどおり名字で呼ぶ。わざわざ発表もしない」
「噂では、もう付き合ってることになってるけど」
「噂と自分たちで決めるのは違うよ」
「高瀬には、すぐ気づかれそう」
「クラゲより早いかもね」
美月がベンチの上へ手を置く。
透の手との距離は、指2本分ほどだった。
美月の小指が、透の指先へ触れる。
「これは、してもいい?」
「聞くんだ」
「順番を大事にしてるので」
「俺も、していい?」
「どうぞ」
透は美月の手を握った。
触れたものの過去や未来へ意識を向けない。
温度と、わずかな緊張だけを感じる。
能力ではなく、自分の手で触れている。
コハクがケースの中から鳴いた。
「起きた」
「空気を読んだのかも」
「逆じゃない?」
手をつないだまま、2人でケースを覗き込む。
コハクの琥珀色の目が、呆れたようにこちらを見ていた。
公園の向かいにある建物の屋上で、灰色のスーツの男が望遠レンズを下ろした。
動物病院で起きた事故は、男が仕組んだものではない。
台車の車輪止めが不完全だったことも、配送員が離れたことも、偶然だった。
男は、観測のために周囲へ危険を作ることを禁じられている。
ただ、偶然生じた危険を見逃す理由もなかった。
端末の映像を巻き戻す。
坂を下る台車。
動き続ける母親と子ども。
台車だけが、2.4秒間、傾斜の途中で完全に静止している。
ブレーキも障害物もない。
久世透は台車へ触れていない。
男は胸ポケットから、古びた懐中時計を取り出した。
銀色の蓋には、数字の代わりに3重の同心円が刻まれている。
時計には、時刻を示す長針も短針もなかった。
あるのは、中央から伸びる細い黒針だけだ。
周囲で異なる時間の流れが生じたとき、その差を刻むための針。
現在の技術では製造方法さえわからない、古式の遺物だった。
黒針は、目盛りを1つ越えた位置で止まっている。
男は映像の記録と、懐中時計の反応を報告へ添えた。
『対象から約42メートルの位置で局所的時間差を検出。対象は物品へ接触せず、推定2.4秒間の完全停止を実行。魔素変換反応なし』
返答が届く。
『候補評価を第2段階へ移行する』
続いて、もう1行が表示された。
『接触および確保は禁止。観測を継続し、発動条件を特定せよ』
男は公園のベンチへ目を向けた。
透と美月は、手をつないで話している。
男に会話は聞こえない。
それでも、2人の距離が昨日までとは変わったことはわかった。
『関連人物との接触時、対象の情動変化が大きい。保護行動との関連を観測する』
追加の報告を送る。
その文章が、透の知らない場所へ保存される。
透は進めたい時間を、自分で選んだ。
同じ瞬間、彼を囲む見えない針も、静かに次の目盛りへ進んでいた。




